モノづくり大国日本。
製造業、メーカーが強いのは日本の大きな特徴だと言われています。
繊細な日本人は手が器用だから、など様々言われています。
中でも自動車産業は日本の根幹。
現在、日本の自動車は年間約53兆円市場。
機械工業全体に占める自動車製造業の割合は約40%。
就業人口は約529万人と言われています。
(出所:一般社団法人日本自動車工業会HPより)
今回はこの日本の誇るべき自動車産業に大きく貢献できたベンチャー企業についてお伝えします!
Contents
日本の経済を支える自動車産業。
なぜ、自動車産業がこれだけ強固な基盤を作ったのでしょうか。
私は個人的には「HONDA」というメーカーがあったことが背景にあると思っています。
「HONDA」は戦後、中小企業から立ち上がったまさにベンチャーの中のベンチャー。
TOYOTAの下請けだったこともあります。
しかし「HONDA」が生み出す創造性、新しい価値、そして目を見張る成長性。
当時から大手だった「TOYOTA」や「NISSAN」は危機感を抱きます。
F1でも世界トップに立った中小企業の「HONDA」。
「TOYOTA」や「NISSAN」は「HONDA」に負けまい!とお互い切磋琢磨し、最強の自動車王国日本を創り上げた、そう思っています。
つまり「HONDA」を創り上げた人物こそが、今の自動車産業発展の源泉といっても過言ではない、そう思っています。
「HONDA」の創業者、それは本田宗一郎という方です。
ご存知の方も多いかと思います。
本田宗一郎という人物についてその軌跡を辿ってみましょう。
1906年、本田宗一郎氏は静岡県磐田郡に生まれ。
小さな頃からやんちゃ坊主だったようです。
小学校を卒業した1922年、15歳の本田宗一郎は、東京・本郷湯島の自動車修理工場アート商会の丁稚小僧になりました。
小僧時代は、食事と寝床、わずかな小遣いだけで、給料はありません。
来る日も来る日も主人の赤ん坊の子守りと掃除だけ。
こんな日が半年ほど続きました。
アート商会の主人は榊原侑三という方。
ある日、榊原さんから「小僧、きょうは忙しくてしょうがないから、こっちへ来て手伝え」と初仕事をいただきます。
宗一郎は夢ではないかと自分の耳を疑うほど、うれしかったそうです。
大雪の降った寒い日でしたが、寒さも忘れ、無我夢中で手伝いました。
これが宗一郎、初めて自動車修理をしたときで、そのときの感激は一生忘れることができないと仰っています。
宗一郎は、自動車修理工場の丁稚奉公を約6年間続けました。
その後、主人榊原さんから自動車修理の腕前が認められ、静岡に帰って、支店を出させてもらうまでに成長します。
この時、宗一郎は22歳。
支店とはいっても、宗一郎と小僧一人のたった二人でしたが、腕前が評判を呼び、25歳の時には50人以上の工員を雇うまでに成長します。
しかし、28歳のとき、自動車修理工場を閉鎖します。
理由は自分の店で働く工員達がどんどん独立していき、自分の店の商売敵となっていったからです。
宗一郎はこれを嫌い、また別な仕事をすることを決断しました。
従来から創造性のある仕事をしたい、という想いがあり、ピストンリング製造の会社を立ち上げることにしました。
溜めていた資金をつぎ込み、工場を建て、社員を雇い、事業を開始します。
しかし、いきなりメーカーへの転身はうまくいきません。
毎日、夜中の二時三時まで研究開発を続けますが、なかなか成果が上がりません。
当時50人ほど抱えていた社員の経費負担も重く、資金は底をつきます。
妻の物まで質屋に運ぶハメに。
絶体絶命のピンチ。
この時、宗一郎のとった行動。
それが、敢えての勉強。
浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)機械科の聴講生となり、金属工学の研究を始めます。
苦しい中での学問。
仕事のために通っていたため、試験は受けず、叱責を受けることもあったそうです。
勉強の甲斐もあって、ようやくピストンリング試作品が完成します。
ピストンリング製作にとりかかってからすでに9か月、50人ほどの工員をかかえ、無収入の9か月間でした。
しかし、試作品が完成してからも苦労の連続が続きます。
一難去ってまた一難。
商品としての販売、そして量産化も大きな壁でした。
当時、すでに大手企業だったトヨタへの販売を試みます。
ピストンリングを3万本製作、その中から選りすぐりの50本を納品します。
しかし、50本の中で検査合格したのは、なんと3本。
メーカーとして、酷いスタートでした。
その後、製造工程を見直し、開発もさらに改善を続け、2年かかってトヨタの部品として正式に合格できるようになりました。
この取引本格化もあり、トヨタから約40%の資本を受け入れ、事業も拡大します。
自動車以外の事業にも進出。
海軍の船舶部品、中島飛行機の部品にも進出します。
宗一郎は工夫、価値創造を忘れませんでした。
当時は戦時中。
資材統制もあり、セメントが入手できませんでした。
しかし、宗一郎は自家製セメントを独自開発します。
さらに、プロペラを製造するときの削り機は、当時手動。
プロペラ1本1週間もかかっていました。
宗一郎は自動削り機を生み出します。
結果、30分に2本作れるにまで改善、イノベーションに結び付け、その技術は軍から表彰まで受けています。
その後、終戦を迎えます。
受注量も激減したこともあり、会社を閉鎖。
宗一郎はすでに39歳を過ぎていました。
まさかのニートです。
電気製塩技術を使って海水から塩を作り販売するなどで食いつなぎます。
織物機械をつくることにもチャレンジしました。
しかし、あまり実績には結び付きません。
次なる仕事を考え続ける中、友人が持っていた機械からあるアイディアが浮かびます。
それが旧陸軍の六号無線機発電用エンジン。
今度はモーターバイクを作ろう!
この瞬間、宗一郎は自分の人生を決断したそうです。
自転車に、軍が使用していた通信機の小型エンジンをつけて走らせます。
このモーターバイクの製造販売の立ち上げを決意。
資金は父親が保有していた、なけなしの山林を売り払って捻出します。
このモーターバイクは、当時、戦後のモノ不足もあって、主に闇市を中心に爆発的に売れたそうです。
しかし、自転車に取り付けたモーターバイクはスピードが出ません。
どうしても強力なフレームを持った強い馬力のオートバイを作りたいと考えます。
そこで研究所全員の知能を集めて、1949年に完成したのがドリーム号でした。
ここからHONDAの大躍進が始まります。
ドリーム号での販売を進める中、1954年、本田氏は世界最大のオードバイレース「マン島TTレース」への出場を宣言します。
欧米の一流トップメーカーがしのぎを削るなか、敗戦国日本、かつ、まだ中小企業にすぎないHondaが参戦することは無謀でした。
1959年、最初のチャレンジ。
4人のライダーを送り込みますが最高でも6位。
しかし、その2年後の1961年、125ccクラスと250ccクラスの両方で1~5位を独占するという快挙を成し遂げます。
世界中を驚かせました。
「マン島TTレース」でオートバイの歴史を塗り替えた「HONDA」は自動車産業に本格的に乗り出し、自動車レースの最高峰F1に進出します。
1965年、F1世界選手権で最終戦メキシコGPで初優勝。
オートバイで歴史を塗り替えた4年後、F1の世界でも歴史を塗り替えました。
宗一郎はオートバイ、自動車いずれにおいても、「世界一のエンジンを作った日本人」となりました。
本田宗一郎とF1ドライバー、アイルトン・セナは強い人間関係で結ばれていました。
当時、マクラーレン・ホンダでエースドライバーとなったアイルトンセナは名実ともに世界一でした。
1990年、マクラーレン・ホンダで二度目ワールド・チャンピオンに輝いたアイルトン・セナは、FIA表彰式の会場で宗一郎から「来年も世界一のエンジン作るよ」と声を掛けられ感涙にむせんだといいます。
1991年、マクラーレン・ホンダがウィリアムズ・ルノーの後塵を拝すレースが続く中、宗一郎逝去の報が入ります。
直後のハンガリーGP、セナは喪章を着けてレースに臨み、6戦ぶりの勝利を亡き宗一郎に捧げました。
この年、アイルトン・セナは3度目のワールドチャンピオンに輝きます。
本田宗一郎さんとアイルトンセナの友情は熱く、深いものでした。
(アイルトンセナは1994年にF1レース中の事故により34歳の若さでこの世を去ります)
本田宗一郎氏の幼少の頃のエピソードがあります。
大正時代、小学2年生だった宗一郎は航空ショーを見に行きます。
自宅から20キロ離れた場所でしたが、父親の自転車をそっと持ち出して見に行ったそうです。
宗一郎は、自分で作った飛行機を空に飛ばしたい、という夢が幼いころからあったそうです。
宗一郎が創り上げた「HONDA」は、2015年、正式に航空機産業へ参戦を発表しています。
また夢が叶った瞬間かもしれません。
宗一郎はそれまで様々な変遷を経てきました。
自動車修理から始まり、ピストンリング製造、織物機械、モーターバイク、オートバイ、自動車。
様々な困難にも屈することなく、夢に向かって歩んできました。
短気な中小企業のおやじ。
やんちゃな性格。
暴れん坊。
宗一郎にも様々な評価がありました。
でも、底抜けに明るかったそうです。
本田宗一郎氏の好きな言葉は「夢」。
その一人の「夢」は、今の日本の自動車産業にも大きな影響を与えています。
本田宗一郎氏の名言を贈ります。
会社はつぶれてもいい人の真似だけはするな!
需要があるからつくるのではない。我々が需要を創り出すのだ!
新しいことをやれば、必ず、しくじる。腹が立つ。だから、寝る時間、食う時間を削って、何度も何度もやる。
失敗が人間を成長させると私考えている。失敗のない人なんて本当に気の毒に思う。
人生は冒険、仕事も冒険、そして生きるのも冒険。
人類の歴史の中で本当に強い人間などいない。いるのは弱さに甘んじている人間と、強くなろうと努力している人間だけだ!
チャレンジして失敗を恐れるよりも、何もしないことを恐れろ!
本田宗一郎
【なぜ日本の食の安全基準だけが…
1985年日航機墜落事故!日本…
【日本会議と統一教会、そして勝…
【えっ!選挙に出るのに必要な供…