【東京都三鷹市】「三鷹」の地名由来~東京北多摩の歴史散歩~

三鷹市、「三鷹」の地名の由来は有名ですね。

江戸時代、この地域周辺は徳川家の鷹狩の場所だったためだと言われています。

「三」の意味は、江戸時代に「世田谷領」と「府中領」、そして「野方領」にまたがっていたことに起因するそうです(^^)

 

「三鷹」の地名由来

 

三鷹の名は、かつて徳川将軍家および御三家が鷹狩を行った鷹場の村々が集まっていたことと、世田谷領・府中領・野方領にまたがっていたことに由来する(三領の鷹場)といわれています。

徳川家および徳川御三家の鷹狩の場所でした。

鷹狩とは、飼い馴らした鷹を飛ばして、野鳥や兎を捕まえる娯楽行事のことです。

今の三鷹近辺は江戸時代に「世田谷領」と「府中領」、そして「野方領」にまたがっていたことが起因します。

「三鷹」という名称ができたのは明治22(1889)年、上連雀、下連雀、井口新田、深大寺新田、大沢、野崎、新川、中仙川、北野、牟礼の10カ村の合併により三鷹村が成立しました。

 

 

三鷹市の歴史

 

三鷹市には井の頭池遺跡群をはじめ、野川・仙川の流れに沿って旧石器時代~中世の遺跡が数多く発見されており、古代から湧水に恵まれ、人々が生活していたと考えられています。

三鷹市は、律令制下では武蔵国多摩郡に属していました。

戦国時代に小田原北条氏の支配が及び、北条氏の家臣高橋康種など、三鷹市に土着した武将も少なくありませんでした。

井の頭池はかつて、涸れることのない豊かな湧水で知られ、江戸に入った徳川家康は、井の頭池から流れ出す神田川を改修して神田上水とし、江戸城内の飲料水として使用しました。

後に神田上水は江戸市中の神田や日本橋にも給水されたことから、江戸下町の人々に井の頭弁財天信仰が盛んになり、井の頭池は一日の行楽に好適の景勝地として名所にもなっていました。

三鷹市はその周辺地域とともに、幕府や尾張徳川家の鷹狩りが行われる御鷹場でした。

徳川家康や三代将軍・家光などもたびたび鷹狩りに訪れていました。

古くからある牟礼、大沢の村落は幕府の直轄領になり、街道や玉川上水の開発などに伴い、連雀・野崎・野川など古新田と呼ばれる村々が開かれ、八代将軍吉宗による幕府財政立て直しのための武蔵野新田開発で井口・深大寺・大沢・野崎などの新田が誕生しました。

明治・大正期を通じて、純農村地帯であった三鷹市は、大正12年(1923年)の関東大震災の後、復興が進められ、次第に住宅地となっていきました。

甲武鉄道(現在のJR中央線)が開通した明治22年(1889年)には、武蔵境駅、その後、吉祥寺駅や三鷹市駅が開設され、昭和8年(1933年)には帝都電鉄(現在の京王井の頭線)の井の頭公園駅と三鷹市台駅が開設されました。

三木露風・亀井勝一郎・山本有三・武者小路実篤・太宰治などの作家・詩人たちが三鷹市に移り住んだのはちょうどこの頃です。

昭和15年(1940年)に町制を施行し、戦後間もない昭和25年(1950年)に単独市制を施行した三鷹市は、都営・公団などの集合住宅の建設で人口の急増期を迎えました。

昭和31年(1956年)に全国2番目の公団住宅として建設された牟礼公団団地を皮切りに、新川公団住宅・三鷹市台公団住宅が誕生し、学校の新増設・上下水道建設・道路整備・社会教育会館や図書館の建設など、都市化に伴う様々な基盤整備が急ピッチで進められていきました。

三鷹市が公共下水道普及率100%を達成したのは昭和48年(1973年)のことで、全国初の下水道完備都市となりました。