【東京都東大和市】「南街」(なんがい)の地名由来~東京北多摩の歴史散歩~
東大和市「南街」(なんがい)の地名由来。
昭和13年(1938)、畑だったところに軍需工場が出現。
北部の農村地帯とはまるで異なる地域だったことから「南の工場街」と言われたそうです。
やがて「南街」という通称が生まれました。
昭和55年(1980)、通称の「南街」が正式に行政地名となったそうです。
東大和市「南街」の地名由来
東大和市駅から青梅街道沿い方面への商店街が広がっている地域「南街」(なんがい)。
非常に珍しい地名ですね。
この地域は、そもそも日立航空機工場で働く従業員の為の社宅や学校、商店などを開発した地域だったそうです。
日立航空機工場は、昭和13年(1938)、一面の畑だった、この地に建設されます。
北部の農村地帯(大和村方面)とはまるで異なる地域だったことから「南の工場街」と言われたそうです。
やがて「南街」(みなみまち・なんがい)という通称が生まれました。
昭和55年(1980)、通称の「南街」(なんがい)が正式に行政地名となったそうです。
「南街」と東大和市の発展
1938年(昭和13年)、太平洋戦争を目前に控え、大きな工場とその関係者の住宅街が、近代的な区画整理のもと、ひとつの街としての機能をもった南街(なんがい)が建設されます。
そこで戦闘機のエンジンなどを作っていた日立航空機工場は米軍による大規模爆撃の対象となり、1945年(昭和20年)に、数回にわたる大空襲で壊滅的な被害を受け、多くの犠牲者を出しました。
戦後、1954年(昭和29年)に町制施行により大和町となったころの人口は1万3千人前後でしたが、昭和30年代から40年代にかけて都営住宅や大規模団地が次々に建設され、人口は急増します。
1965年(昭和40年)に3万人、東大和市となった1970年(昭和45年)には4万5千人を突破し、現在では8万人を超えるベッドタウンに成長しました。
東大和市の指定文化財(市史跡)指定「旧日立航空機立川工場変電所」
日立航空機工場の変電所が東大和市の指定文化財(市史跡)に指定されています。
場所はイトーヨーカドー東大和店横にある都立東大和南公園内に建物があります。
この変電所は、航空機のエンジンを生産する軍需工場へ送電する変電施設として1938年(昭和13年)に東京瓦斯電気工業株式会社変電所として作られたものです。
1945年(昭和20年)2月17日、F6Fヘルキャット戦闘機、4月19日、P-51ムスタング戦闘機らによる機銃掃射、4月24日にはB-29 101機の編隊による空襲により被災。
隣接する工場は大破しましたが、この変電所は大きな被害は免れ、今にその姿を残しています。