三鷹市「牟礼」(むれ)の地名由…
【東京都三鷹市】「連雀」(れんじゃく)の地名由来と「明暦の大火(振袖火事)」~東京北多摩の歴史散歩~
三鷹市「連雀」地名由来。
「連雀」(連尺)は二枚の板を縄で組み、物を背負う用具で行商人が使用していました。
江戸神田職人達が住んでいた町が連雀町(現在の千代田区神田須田町・神田淡路町付近)と呼ばれていましたが、明暦の大火後、その被災者の替え地として開墾されたことに由来するそうです。
「三鷹」駅の南側のエリアに位置する「上連雀」と「下連雀」。
主に居住区として多くの方々が暮らしています。
有名な人では太宰治。
1939(昭和14)年9月から1948(昭和23)年6月まで約7年半暮らし、「走れメロス」「斜陽」や「人間失格」など、珠玉の名作を数多く世に送り出しました。
太宰治文学サロン(三鷹市下連雀3-16-14)では、直筆原稿の複製や初版本、初出雑誌など様々な貴重な資料を公開しています。
太宰治墓所のある「禅林寺」も下連雀にあります。
三鷹市「連雀」という地名。
もともと、この字は「連尺」から派生してきました。
「連尺」は二枚の板を縄で組み、物を背負いやすくした用具のことです。
行商人は商品をこれで背負い、各地に移動し売り歩いたそうです。
こうした行商人が千代田区神田の一角に多く住み、「連尺町」ができたのが始まりだと言われています。
のちに連雀町(千代田区神田須田町1)に改められました。
しかし、1657年(明暦3年)江戸に大火が起こりました。
これが、のちローマ大火(1664年〉、ロンドン大火(1666年)に匹敵する大震災の「(振袖火事)」と呼ばれるものでした。
江戸市街の6割が焼け、死者10万余人ともいわれる史上類を見ない大火だと言われています。
この明暦の大火による神田連雀町(現在の千代田区神田須田町・神田淡路町付近)の被災者の移住地(替え地)として、1658年(万治元年)に連雀新田として開墾された場所が、三鷹下連雀周辺でした。
1700年前後に新田開発の進捗とともに、連雀新田が連雀村と称され、「上連雀村」「下連雀村」と呼ばれるようになったと言われています。
死者10万余人ともいわれる「明暦の大火」。
その火事の火元となったのが、文京区本郷の本妙寺だと言われています。
しかし、この火事は「振袖火事」と呼ばれる、あるいわくつきの伝承があります。
それがこちらです。
江戸時代、明暦の頃、ある商人の娘に「おきく」という子がいました。
その娘が花見の時に見かけた際、ある若者に一目惚れをします。
彼女は彼が着ていた着物に似せて振袖を作りますが、間もなく恋の病に臥せったまま17歳の若さで亡くなってしまいます。
この「おきく」が愛用した振袖は棺桶にかけられ、文京区本郷の本妙寺で葬儀が行われました。
その後振袖は古着屋に売られ、別の若い娘の元に渡ります。
ところが翌年の同じ日、この娘も17歳で早死にし、振袖と共に同じ本妙寺で葬儀が行われました。
さらに、古着屋を経て、次に振袖を購入した別の娘も、翌年同じ様にして早死してしまいます。
結果的に、同じ振袖が3年続けて同じ月日に、同じ年齢の娘の葬儀の棺に掛けられて、同じ寺に来たことになってしまいました。
恐れた親たちが集まり、この着物を本妙寺で焼いて供養をしようということになりました。
ところが読経供養して燃やしていると、突如つむじ風が吹いて火のついた振袖は空高く舞い上がり、江戸中を焼き尽くしてしまったと云われています。
これが「明暦の大火」、別名「振袖火事」と呼ばれる、大災害となった発端だと言われています。
このお焚き上げをしようとした場所が出火元の一つ・本妙寺だったというので一定の信憑性があり、今に伝えられています。
ご存知「走れメロス」は三鷹と深い関りのある太宰治の名著です。
このストーリーに似たお話が「明暦の大火」には残されています。
1657年(明暦3年)2日間3回にわたって出火したこの「明暦の大火」は、江戸城本丸、大名屋敷160家、旗本屋敷770家、町屋敷400町が焼け、死者はおよそ10万人だったと伝わっています。
この大火の際、小伝馬町の牢屋奉行(看守)・石出吉深(よしふか)は、お咎め覚悟で囚人を一時牢屋から出すという勇気ある決断を下します。
大火から逃げおおせたら必ず戻ってくるように申し伝えたうえで、罪人たちを一時的に解き放つ「切り放ち」を独断で実行しました。
罪人たちは涙を流して吉深に感謝し、結果的には約束通り全員が戻ってきたそうです。
吉深は「罪人たちは大変に義理深い者たち」と思い「死罪も含めた罪一等を減ずるように」との老中への進言を受け幕府は減刑を実行したそうです。
三鷹市に縁の深い太宰治。
「走れメロス」は、このような日本文化を背景に生み出された名作なのかもしえれませんね。