ミッション
優れた医薬品の創出を通じて人々の健康と医療の未来に貢献する
ビジョン2025
タケダは、世界中のあらゆる人々のニーズに貢献しています。
タケダイズムを通じ、社会やタケダの医薬品を必要とする方々からの信頼を得ています。
機動性とイノベーション、さらに高い品質に支えられ、強固なパイプラインのもと成長し続けるベスト・イン・クラスの製薬企業として認められています。
バリュー
誠実・・・常に患者さんを中心に考えます
公正・・・社会との信頼関係を築きます
正直・・・レピュテーションを向上させます
不屈・・・1,2,3を実現させたうえで、事業を発展させます
ビジョンを実現するためのステップは、タケダの戦略の中に示されています。
タケダは、「バリュー」「世界中の人々・仲間」「研究開発への挑戦」「事業の持続的成長」にフォーカスし、ビジョン2025の実現に取り組みます。
バリュー
タケダイズム(誠実:公正・正直・不屈)とPatient:患者さん中心、Trust:社会との信頼関係構築、Reputation:レピュテーションの向上、Business:事業の発展、の順に重視する考え方は、常に高い水準を追求する、正しい行動に取り組む、という私たちの働き方に深く根付いています。
世界中の人々・仲間
タケダは、患者さんやタケダの医薬品を必要とする方々を中心に考える組織をつくりあげ、各国・地域の組織が、タケダの医薬品を必要とする方々のニーズに最良な方法でお応えできる体制を整えます。
従業員は、多様性と機動性に富んだ組織で成長の機会を得ることができます。
タケダのリーダーは、戦略的にものごとを考え、革新的な方法で患者さんに貢献し、社会との信頼関係を築き、タケダのレピュテーションを高め、事業を発展させます。人々が協力し、組織が成長する環境を整え、フォーカスを絞って優先順位に従って取り組むことで、卓越した成果をもたらします。それにより、現在および将来の組織の能力を向上させます。
研究開発への挑戦
タケダは、フォーカスした領域において世界レベルの研究開発イノベーションを推進し、最先端の科学を駆使して患者さんの人生を豊かにする医薬品を創出します。タケダは、オンコロジー(がん)、消化器系疾患領域、ニューロサイエンス(神経精神疾患)に注力し、イノベーションの最先端で研究開発に取り組みます。また、デング熱ワクチン、ノロウイルスワクチンといった開発後期段階にあるワクチン候補、スペシャリティ循環器系疾患領域における早期段階のパイプラインも有しています。さらに、社内外での研究活動を通じ、業界で最良の研究開発パートナーと評価されるよう、取り組みます。
事業の持続的成長
タケダは、消化器系疾患領域とオンコロジーにおけるグローバルなポートフォリオや新興国におけるビジネスを通じて、持続的な事業の成長を実現します。また、利益の高い成長を果たすために財務管理をしっかりと行うとともに、タケダの医薬品を可能な限り多くの患者さんにお届けできるよう取り組みます。
創業者・武田長兵衛は寛延3年(1750年)に大和国廣瀬郡薬井村(現奈良県北葛城郡河合町薬井)にて竹田徳兵衛の次男として生まれた。
幼名は長三郎。宝暦5年(1755年)6歳の時に大坂博労町の綿商で叔父・河内屋武兵衛の養子になった。
14歳の時、養父の河内屋武兵衛が亡くなくなると、道修町の薬種商を営んでいた近江屋喜助のもとに丁稚奉公に出た。
当時、大坂の道修町薬種取引の中心地だった。
勤勉さを買われ24歳で別居を許され通い番頭となり名を長兵衛と改名する。
主家の一族・近江屋平兵衛が亡くなり、実子が幼少だったので28歳でその代判に選ぱれた。
代判とは、当主が婦人・幼少・老衰・病弱などのため、代わって事業の経営や金銭出納の任務にあたる責任者である。
主家である近江屋が不正唐物事件に連座して株(営業権)を取り上げられてしまうが、長年誠実に勤続した長兵衛に報いるために主人は奔走して、仲間株を手に入れてくれた。
しばらく代判を続けた後、天明元年(1781年)6月12日、32歳のとき道修町2丁目の堺筋角で薬種中買商として独立を果たす。
これが今日における武田薬品工業の創立記念日とされている。
初代長兵衛は35歳で結婚し、開業12年目に薬種中買仲間の役員に就き、店舗も道修町の難波橋筋西入る南側に移して拡張をはかった。
さらに別家、分家を順次出して、一門の繁栄の基礎を築いた。
初代長兵衛は文化2年(1805)10月に17歳の次男熊三郎に株名義を譲り渡して長四郎と改名、約10年間、後見役を務め、文政4年(1821)7月10日に72歳で亡くなった。
長兵衛が第一線を退いた文化2年(1805)の棚卸残銀は、開業当時の55倍の110貫目に達した。
栄枯盛衰が激しかった江戸期の道修町で、「一代にしてよく産をなした」と評される。
タケダは昔、近江屋といったので近江商人の出身だと思われがちであるが、これは初代・長兵衛が丁稚奉公した主家が近江日野の出身で屋号を近江屋と言い、養子のかたちで店舗を開いたからで、武田長兵衛自身は大和国の河合出身である。
尚、武田長兵衛という名は、武田薬品工業の創業家、武田家の当主が代々(6代目まで)、襲名してきた名前である。
二代目長兵衛は、薬種仲買のかたわら大名貸しなどの金融業や貸家業など事業の多角化をはかり、財をなした。
三代目長兵衛は、人間道と商道との真実を追求した「仕法書」や、「不正の唐物は扱わない」「隠女、遊女通いは決してしてはならぬ」など12カ条の「一統申合之事」を決めた。
さらに「禁酒之事」「芝居行不相成事」「衣服倹約之事」など「十ヶ年倹約之事」とする59に及ぶ緊縮項目を定め、幕末を控えた家業の安泰をはかった。
四代目長兵衛は幼名を亀蔵といい、弘化元年(1844年)、三代の代判をつとめていた近江屋長三郎の三男として道修町に生まれた。
10歳のとき、京都二条の薬種商松屋喜兵衛方へ丁稚奉公にあがった。
本家では三代長兵衛が跡継ぎなく病死し、亀蔵を後継者に選び四代目長兵衛を襲名させた。
四代目長兵衛の時はちょうど幕末の混乱期で、従来の経営を維持していくことは相当に困難だったが、それにもかかわらず得意先をふやしている。
明治以降はしだいに洋薬を取り扱うようになり、和漢薬と洋薬の二本建てからついに洋薬一本に切りかえた。
明治4年(1871年)5月の「戸籍法」公布により、近江屋長兵衛は武田姓を名乗ることとなった。
そのころには、横浜の近江屋嘉兵衛(友田嘉兵衛)から洋薬を大坂に引き取り、取引高の大きくなる。
長兵衛は困難な時期に家業をよく保ち、堅実を旨とし、積極的に洋薬の輸入に着目して、今日の基盤を確立した。
五代目長兵衛は、明治3年(1870年)四代目の長男として生まれ、幼名は重太郎といった。
13歳のころから店員とともに薬品の荷揃えや荷造りなどの仕事にたずさわり、かたわら漢字や英語を学んだ。
漢学を泊園書院の藤澤南岳に、英語を沢井甃平の成章塾に学んだ。
和漢薬種商から洋薬商への発展に早くから努力し、明治28年(1895年)には大阪市北区の内林製薬所を武田専属工場として経営し、その念願であった医薬品の国産自給への第一歩をふみだした。
明治37年(1904年)12月、五代目を相続したころは、ちょうど日露戦争の最中で、家業は次第に発展したが、明治40年(1907年)には武田薬品試験部を創設して、優秀な医薬品を提供することに努めた。
さらに大正3年(1914年)武田研究部と、大正4年(1915年)武田製薬所を創設して、日本薬局の製造や新薬の創製研究に全力をつくし、武田の基礎を築き、大正14年(1925年)には株式会社武田長兵衛商店を創立して、大きな発展を続けた。
そして昭和18年(1943年)、武田薬品工業と改称している。
昭和34年(1959年)8月4日、90歳で逝去した。
武田は、創業以来、聖徳太子の十七条憲法に基調をなし、「事業は人なり、しかも人の和なり」 を掲げており、1940年(昭和15年)、社是「規」(のり)を明文化、「公(おほやけ)に向ひ国に奉ずるを第一義とすること」等、明記した。
また、五代目は、武田家の家訓として、「運・根・鈍」の言葉を大事にした。
六代目長兵衛は五代目の長男で、幼名は武田鋭太郎。
1943年(昭和18年)に武田長兵衛商店が武田薬品工業に改称するのとともに社長に就任し、六代目長兵衛を襲名した。
在任中は経営の多角化・近代化を推進し、1954年(昭和29年)発売のビタミンB1主薬製剤「アリナミン」などでの成功によって武田薬品工業を業界トップに押し上げた。
1974年(昭和49年)、創業以来初めて武田家以外の者(従弟の小西新兵衛)に社長職を譲り、自身は会長に就任した。
1940年1月5日、神戸市の住吉村で生まれた。
父、武田鋭太郎(後に六代目武田長兵衛)、母、繁子(十代目國分勘兵衛の娘)の三男で、長男、彰郎(34年生)、二男、誠郎(35生)の三兄弟。
1944年甲南幼稚園に入園するが、母と2人で丹波大山に疎開。
戦後は、住吉別邸がアメリカ軍によって自宅の3分の2が接収され、同居生活を送る。
1955年に甲南高等学校に進学、山岳部に所属する。
1958年に甲南大学経済学部に入学する。
1962年に武田薬品工業に入社し、経理部事業計算課に配属される。
その後、米アボット・ラボラトリーズとの合弁会社、米TAPファーマシューティカル・プロダクツのエグゼクティブ・バイスプレジデントなどに就任。
1980年、6歳年上の長兄で、翌年の創業200周年を機に社長に昇格し、7代目長兵衛を襲名する予定であった副社長の彰郎が、ジョギング中に倒れ46歳で急逝したため、当時の社長の小西新兵衛に後継者として指名される。
1993年社長に就任。
1993年に國男は社長に就任したが、長兵衛の名は襲名しなかった。
2003年6月に会長に就任した。
2009年6月に会長を退任。
相談役や顧問などの役職には就かなかった。
「運・根・鈍」
「事業は人なり、しかも人の和なり」
一 公にひ国に奉ずるを第一義とすること
一 相和らぎ力を協せ互いにさからはざること
一 深く研鑽につとめその業に倦まざること
一 質実を尚び虚飾を慎むこと
一 礼節を守り謙譲を持すること
智仁勇のバランスは、リーダーの最大の資格である
事業は社会のニーズにそって進めなければならないが、自分のペースというものを崩してはならない。急ぐからといって無理をしたり、いい格好を見せようと背伸びしたりするのは竹馬に乗って走るようなものだ
常に堂々たる戦略展開が商売の道である
経営には常道というものがある。奇想天外の方法はない。企業は、いつもある程度の余裕をもち、堅めの経営をすることが大切だ。
智に走るな!智は〝はかりごと〟を意味する。智にのみ走ることは整合性にもとる。
ものごとというものは徹底的にやらんとあかん。また失敗を恐れては何もできん。熟慮したうえ決断する。よし。やってみなはれ!
1781年、32歳の初代近江屋長兵衞は、幕府免許のもと、日本の薬種取引の中心地であった大阪・道修町で和漢薬の商売を始めた。
薬を問屋から買い付け、小分けして地方の薬商や医師に販売する小さな薬種仲買商店であった。
これが、現在の武田薬品の始まりとなる。
1852年、三代目長兵衛は道修町中橋筋東南角の旧屋敷を取りこわし、居宅と土蔵を新築した。
この建物は昭和2年の本店ビル建築開始までの約75年間存続した。
1871年、四代目長兵衞(この頃、戸籍法制定により近江屋から武田に改姓)は、同業者に先んじて洋薬に着目、親近の同業者らと共同で横浜に洋薬の仕入れ組合をつくり、外国商館との取引を始めた。
当時輸入した洋薬には、抗マラリア薬のキニーネ、抗コレラ薬として使われた石炭酸などがあった。当初18種あった洋薬の輸入品目は、その後10年間で146品目に増えている。
1895年頃からイギリス、アメリカ、ドイツ、スペインなどの商社からの直輸入を開始、1907年からはドイツ・バイエル社製品の一手販売権を得た。このようにして、古風な和漢商であった当店は次第に洋薬の扱いを増やし、洋薬中心の事業に切り替えていった。
1895年、大阪に自社の専属工場として内林製薬所を設立、製薬メーカーとなる。
同工場の生産品目には、蒼鉛製剤類、塩酸キニーネなどがあった。
1898年、ウロコ印の商標登録を開始。
1907年、日本で始めてサッカリンの製造に成功。
1914年、第一次大戦中はドイツからの輸入が途絶えたため、この頃、「カルモチン」(鎮静薬)、「ノボロフォルム」(鎮痛剤)、「ロヂノン」(ブドウ糖注射液)などの自社製品を相次いで発売した。
また、海外との取引にも大きな変化が見られ、米国、ロシア、中国へも医薬品などを輸出するようになる。
1915年、製薬事業の開始後まもなく試験部を設立、1915年には、新薬開発や医薬品の研究を行う研究部を設立しました。
この時期に形成された研究開発体制が基礎となり、タケダを成長へと導きました。
1925年、株式会社武田長兵衞商店(資本金530万円、社長五代目武田長兵衞)を設立。
これにより、当社は個人商店から、研究開発・製造・販売を一体化した近代的な会社組織となる。
1943年に社名を現在の武田薬品工業株式会社に変更
1933年、京都薬用植物園開設
1944年、発酵研究所設立
1946年、終戦前日に猛爆を受け廃虚と化していた山口県の光海軍工廠をGHQの許可のもと工場に転用。
これは戦後における国有地の民間使用第一号となった。
同工場は、大阪に次ぐ第二の主力工場となり、当時社会の要請であったワクチン製剤などの製造を行った。
1943年、武田薬品工業株式会社と社名変更
1949年、東京・大阪証券取引所に株式を上場
1993年 米国にタケダ・アメリカ株式会社を設立
1997年 米国に武田アメリカ研究開発センター株式会社を設立
2004年 米国に武田グローバル研究開発センター Inc.を設立
2005年 米国のシリックス株式会社を買収
2006年 英国に武田ファーマシューティカルズ・ヨーロッパ Limitedを設立
2008年 米国のバイオ医薬品会社である米国アムジェン社の100%子会社であるアムジェン株式会社、米国のミレニアム・ファーマシューティカルズ Inc.を買収。シンガポールに武田クリニカル・リサーチ・シンガポール株式会社を設立
2011年 スイスのナイコメッド A/S買収
2015年 トルコの大手製薬会社ノイテックの子会社であるトップラム カリテを買収
2016年 イスラエルのテバ製薬株式会社の株式を取得
2017年 米国の製薬会社アリアドを買収
2018年 ベルギーのバイオ製薬会社タイジェニックスへのTOBを実施
2019年 アイルランドの製薬大手シャイアーを買収