「大塚ホールディングス株式会社(大塚製薬)」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)
「大塚ホールディングス株式会社(大塚製薬)」の企業理念
Otsuka-people creating new products for better health worldwide
世界の人々の健康に貢献する革新的な製品を創造する
大塚グループは、“Otsuka-people creating new products for better health worldwide”という企業理念のもと、大塚の遺伝子である「実証と創造性」を受け継いで、「大塚だからできること」「大塚にしかできないこと」を日々実践しようと努め、革新的で創造性に富んだ医薬品や機能性飲料・機能性食品などの幅広い製品・サービスを通じて、世界の人々の暮らしをサポートしてまいります。
大塚グループは、健康に携わる企業にふさわしい文化と活力を育み、グローバルな視点から地域社会や自然環境との共生に配慮し、人々のより豊かで健康な暮らしに貢献したいと願っています。
大塚グループの理念を具現化した、「巨大なトマトの木」「曲がった巨大杉」「水に浮かぶ石」
“頑固な先入観を取り除き、創造的な人材を育成すること”
大塚グループでは、この言葉を実現し、自らがユニークな会社であり続けるために、1988年3月、グループ発祥の地、徳島に社員の研修施設として「能力開発研究所」を設立しました。
この施設の敷地内には3つのモニュメントが設置されています。
大塚グループの理念の根幹をなす「創造性」を具現化したものであり、訪れる社員やお客さまに先入観を打ち破り、発想を転換することの大切さを問いかけるとともに、創造性にあふれる会社であり続けよう、という大塚のメッセージを伝えています。
「巨大なトマトの木」
ホールの天井全体を覆うトマトの木は、通常あるはずの土を取り除き、水気耕栽培により根を解放した結果、植物が持つ潜在能力を最大限に引き出し、多い時で年間1万個以上の実を付けるようになりました。
既成概念に縛られないことで潜在能力を引き出す、このトマトの木にはそんなメッセージが込められています。
「曲がった巨大杉」
本来曲がらないはずの杉の大木が深くお辞儀をするように曲がり、その上にもう1本の杉の木が横たわるこのオブジェ。
一見不安定に見えますが、絶妙なバランスを保っており、1995年に発生した阪神・淡路大震災による震度 5の揺れにも耐えました。
見た目に与える印象と実際がまったく別のものであるということを私たちに語りかけています。
「水に浮かぶ石」
浮かぶはずのない大きな石が、豊かにたたえられた水面にいくつも浮かぶ水の石庭。なかには垂れ下がるように曲がった石もあります。
このモニュメントは見る人の心をとらえ、豊かにし、ものを考える力を与える庭として制作されました。
発想の転換や、常識にとらわれないことの大切さを私たちに教えてくれます。
「大塚ホールディングス株式会社(大塚製薬)」の創業者・創立者『大塚武三郎・大塚正士』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~
大塚武三郎(大塚製薬創業者)
大塚武三郎。
明治24年12月1日生まれ。
独学で製薬技術を研究し,1921年に29歳で徳島県鳴門市に大塚製薬工業部(現:大塚製薬工場)を創立。
戦前は、鳴門の塩業から出る苦汁(にがり)を使った製薬原料(炭酸マグネシウム)を作る化学原料メーカーとしてスタート。
戦時中は軍需工場に指定され、原料の多品目化に取り組む。
終戦後、原料だけでなく自社でも製品を作ろうと医療用の注射液の製造販売を始め、朝鮮特需に乗って規模拡大を果たすこととなった。
1947年に長男の大塚正士が社長を引き継ぎグループの総帥になる。
大塚月峰という雅号を持つ書の大家でもあった。
1970年9月30日、78歳で死去。
息子は大塚正士(長男)、大塚芳満(三男)、大塚公(四男)、大塚正富(五男)である。
大塚武三郎(大塚製薬創業者)の名言・考え方
社訓(おやじさんの書)
品質は工場の生命にして包装も亦(また)品質なり
買う身になりて造れ売れ
大塚正士(大塚製薬2代目社長)
大塚正士。
中学校を出た後、父親が興した当時は個人商店形態の大塚製薬工業部に勤め、1947年に代表者となる。
主力商品が注射液や蒸留水だけでは、特需が去った後、経営が厳しくなるのは誰の目にも明らか。
新規事業開発を進める。
1953(昭和28)年、オリジナル製品第1号として「オロナイン軟膏」を発売。
1954(昭和29)年、炭酸栄養ドリンク「オロナミンC」を発売。
いずれもテレビ広告などを活用し、爆発的ヒットとなる。
1963年(昭和38年)6月、大塚グループと、日本主要卸業者49社の出資により大鵬薬品工業株式会社を設立。同社ではチオビタ・ドリンクなどの商品を発売する。
1968年(昭和43年)、世界で初めてとなるレトルト食品のカレー「ボンカレー」を発売。
海外の雑誌に掲載されていた軍隊用の携帯食に目をつけて開発を提案した。
1970年(昭和45年)、アース製薬を買収。
1973年にアース製薬から発売された「ごきぶりホイホイ」の名付け親である。
1976年(昭和51年)、息子の大塚明彦氏が社長に就任。
1980年(昭和55年)にスポーツドリンクの先駆けとなるポカリスエットを発売。
1983年(昭和58年)には医療用の流飲食を参考にバランス栄養食の新たな市場開拓となるカロリーメイトを発売。
1974年に藍綬褒章、1986年に勲三等旭日中綬章を受賞。
2000年4月17日、83歳で死去。
大塚正士(大塚製薬2代目社長)の名言・考え方
世の中の役に立つ企業でなければ発展はない。
空いた席を見つけてみんなと机を並べて働くと部下たちのことがよくわかる。
人生も経営も正しい判断がすべてである。
大衆に貢献なき企業は滅びる。
最高の宣伝は現物の使用。たった1回の使用でも10回の宣伝より効果がある。
雪だるまを作るには、雪深い北海道に行くしかない。オレはカネだるまを作るのだから、東京に出て行く。
雪ダルマは小さいとき、なかなか大きくならないが、1メートルくらいになると急に雪がつき大きくなる。
金もない、人もいないなら初めはものまねでいい。(中小企業が)大企業をまねるのは恥ずかしいことではない。だが、ものまねはいつまでも通用しない。これからは独創的な商品を世に送り出していこう。
商売、経営は経営者が希望を失わなければそう簡単に破綻するものではない。私の事業歴には後退という記録はない。
経営に生命をかけるということは、事業の継続にあくなき執念をもつということである。商売、経営は、経営者が希望を失わなければそう簡単に破綻するものではない。努力すれば、必ず活路を見出せる。
商売、経営には百戦百勝はない。敗れ、苦境に陥るときもある。しかし、それに打ち克ってこそ、筋金入りの経営者が生まれる。私の事業歴には、後退という記録はない。結局は戦う以外に勝ち目はないというのが、私の基本的な経営姿勢なのである。
役員全員が賛成する商品は売れないことが多い。それは判断力の問題である。
断じて値上げになど、走ってはならない。現在の百円という値段さえ、大衆の利益という観点に立てば、まだ高いかもしれぬのだ。大衆の利益にならない商品は必ず滅びる。私はそう断言する。
私が苦境のどん底にあったとき、私を支えたのはまさにこの会社をつぶしてなるものかという執念であった。負けてたまるかという闘志であった。商売、経営は、経営者が希望を失わなければそう簡単に破綻するものではない。私の事業歴には後退という記録はない。
自分で良いと判断したら一歩前へ出ろ。自主性を持って各人が自由にやれ!
「大塚ホールディングス株式会社(大塚製薬)」の沿革・歴史(年表・社歴など)
1921年大塚武三郎、大塚製薬工業部を設立
1940年大塚製薬工業部を大塚製薬工場に改称
1950年大塚製薬工場より有機化学部門を分離し、大塚化学薬品株式会社(後の大塚化学株式会社)を設立
1961年大塚製薬工場の運輸倉庫部門を分離し、大塚倉庫株式会社を設立
1963年大鵬薬品工業株式会社を設立
1964年大塚製薬工場販売部門(除く四国4県)を分離し、大塚製薬株式会社を設立
1969年大塚製薬工場を法人化し、株式会社大塚製薬工場とする
1973年タイ大塚製薬株式会社を設立、アメリカ・パロアルトに事務所を設置
1974年スペインとイタリアに事務所を設置
1981年中国大塚製薬有限公司を設立
1984年大塚化学薬品株式会社を大塚化学株式会社に社名変更
1998年大塚国際美術館を開館
2008年7月8日大塚ホールディングス株式会社設立
2008年7月8日大塚製薬株式会社が大塚ホールディグスの完全子会社に
2008年10月1日大塚倉庫株式会社が大塚ホールディングスの完全子会社に
2008年10月31日株式会社大塚製薬工場が大塚ホールディングスの完全子会社に
2009年1月1日大鵬薬品工業株式会社が大塚ホールディングスの完全子会社に
2009年7月1日大塚化学株式会社が大塚ホールディングスの完全子会社に
2010年12月15日大塚ホールディングス株式会社東京証券取引所第一部に上場
2011年4月1日大塚メディカルデバイス株式会社が大塚ホールディングスの完全子会社に
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