私たちは、常に変化を先取りして新たな価値を創造し、広く社会に貢献するグローバルな企業グループを目指します。
<企業使命> 健全な事業活動を通じて豊かさと夢を実現する。
<経営姿勢> 人間尊重を基本とし、信用を重んじ確実を旨とする。
<企業文化> 活力に溢れ、革新を生み出す企業風土を醸成する。
営業の要旨
第一条 我住友の営業は信用を重んじ確実を旨とし以て其の鞏固隆盛を期すべし。
第二条 我住友の営業は時勢の変遷理財の得失を計り弛張興廃することあるべしと雖も苟も浮利に趨り軽進すべからず。
営業の要旨 口語訳
第一条 わが営業は、信用を重んじ確実を根本理念とし、これにより住友が盤石に、ますます栄えるようにしたい。
第二条 わが営業は、時代の移り変わり、財貨運用の損得を考えて、拡張したり縮小したり、起業したり廃業したりするのであるが、いやしくも目先の利益に走り、軽々しく進んではいけない。
第一条では、何よりも信用を重んじること、第二条では社会の変化に素早く的確に対応しながら利潤を追求し、常に事業の刷新を図るという進取の精神を示し、その上で、浮利を追うような軽率・粗略な行動を戒めています。
文殊院旨意書から受け継がれてきた「住友の事業精神」は、その普遍性をもって、今日でも住友グループ各社の理念として息づいています。
ほかにも、「住友の事業精神」を伝えるいくつかの言葉があります。
まず「自利利他公私一如(じりりたこうしいちにょ)」。
これは、「住友の事業は、住友自身を利するとともに、国家を利し、社会を利するほどの事業でなければならない」というもので、住友商事グループの目指すべき企業像に通じるものです。
次に、「企画の遠大性」。
創業時の住友の事業が長期的・継続的な取り組みを要する銅山経営を根幹にしていたことに由来するもので、将来を見据え、国家と社会全体の利益を俯瞰(ふかん)する長期的かつ大所高所の視点は、歴代の経営者に一貫して受け継がれてきました。
そして、「事業は人なり」。
住友の歴史を振り返ると、いつの時代でも人材の発掘・育成は経営の最重要事項と位置付けられています。
住友商事グループの根底には、いつの時代でも、目の前の変化に惑わされることなく、「信用・確実」「浮利を追わず」「公利公益」に重きを置きつつ、「進取の精神」をもって変化を先取りしていくという、400年にわたり脈々と受け継がれてきた「住友の事業精神」が流れています。
田路舜哉。
1893年、明治26年11月12日、兵庫県宍粟郡一宮町(現宍粟市)安積において出生。
父、本條竹五郎、母ユキの長男として生まれる。
後に、田路家に養子に入り、母方の田路姓を名乗る。
実弟の本條猛二は、山陽自動車運送の創業者。
1920年7月、東京帝国大学法学部卒業、同月、住友総本店(後に住友合資会社)入社
1923年10月、秋山光五郎長女美佐雄と結婚
1925年2月、住友合資会社別子鉱業所勤務
1931年10月、株式会社住友肥料製造所新居浜工場長代理者。
1932年10月、住友合資会社上海販売店支配人。
1938年1月、住友金属工業株式会社伸銅所業務部長。
1945年5月、同社取締役、11月、同社取締役辞任、12月、日本建設産業株式会社常務取締役
1946年11月、同社専務取締役
1947年3月、同社社長
1952年6月、日本建設産業株式会社を住友商事株式会社と改称、1956年11月、同社会長
1961年7月5日、脳血栓による脳軟化症のため芦屋市の自宅において逝去
住友は鉱工業の経営に専念してきたため、第三代住友総理事鈴木馬左也が宣言した大正9年1月の「商社設立禁止宣言」により、商社開設が禁句だった。
しかし、戦後商事活動に出ていく必要性が浮上、住友土地工務社長の竹腰健造が戦後の事業転換方策の1つとして、復興建設などに必要な土木建築用資材の販売を提案。
GHQの財閥解体命令で「住友」の商号が禁止されたため、社名も日本建設産業株式会社と改められ、商事活動の最初の第一歩を踏出した。
商事部門の統括責任者を検討する中、住友別子鉱山時代に「別子の三羽烏」のひとりとして勇名を馳せていた、当時住友金属工業の取締役・田路舜哉氏が候補第一号となった。
指名された田路舜哉が最初に活動を開始したのは、被爆した工場に埋没してしまった金属類の回収と、各工場その他の在庫物資の引き出しであった。
GHQは財閥解体に伴い、住友財閥にも商社があるはずであると考え、取り調べたところ、日本建設産業という会社に、住友本社の残党が多数転入して商事活動をしているというので、資料を取り寄せたが、取扱高があまりにも少ないので、これは問題にならぬと決定された。
日本建設産業の建築部門は、建設工事を主体とする事業ではなく、建築の設計監理を目的とする部門であったので本来の建築の設計監理業務に復元するため、商事会社から分離独立させることになり、25年7月1日、日建設計工務(株)(後に日建設計)を新設し、この新会社に建築部門を譲渡することになり、部員95名が事業とともに同社へ転出した。
27年5月に「財閥の商号商標使用禁止等の政令」が廃止され、早速、日本建設産業から住友商事(株)へと社名を改めた。
住友商事となって以来、各業界の一流会社と新しく取引が開け、また取引が拡大するほか、海外においても取引先の理解と信用を増し、商社活動を一層伸張することができるようになった。
また、職員の採用や資金調達の円滑化をはじめ、業務全般にわたって無形の好影響があった。
このころを境に海外へ大きく目を向け、24年インド政府の発電所用電線類とがいしの国際入札に住友電工と協力し落札。
その納入と以降の受注促進のため25年7月に初めてボンベイに駐在員を派遣し、事務所を開設した。
昭和26年にはカルカッタとサンフランシスコ、27年にカラチ、ハンブルクに、それぞれ駐在員事務所を開きニューヨークには米国法人ニッケン・ニューヨークを設立し、28年以降は、東南アジアの主要都市を中心に積極的に駐在員の派遣を行い、30年3月までの海外店舗は15店を超え、初期段階での海外事務所網の布石を終えた。
田路は住友商事創設の最初から、敗戦直後の名状し難い混乱の中、住友がとくに遠ざけていた商社活動の分野へ、全くの素人集団を引き連れて船出し、世間や住友系企業から異端児扱いされる中で、つねに拡大戦法をとってきた。
住友商事は、昭和26年に年間売上高で業界第16位にランクされ、3年後の29年に11位、さらに32年には念願のベストテン入りをはたし、8位となった。
総合的な商事会社として体裁を整えるため、あらゆる分野に積極果敢にうって出て、最も困難だった基礎作りが固められた。
この大躍進には時代の趨勢を見ながら経営の舵取りをしてきた田路の手腕が大きくモノをいった。
熱心な素人は玄人に優る。
前だれがけの商人になれ。
ワシは昔玉突きに凝ったことがあるが、こう突いたらああなると寝ても覚めても考える。碁に凝ったやつは、碁盤が夢に出てくるらしい。君は英語を勉強している。英語で寝言が言えるようになって来い。
石にかじりついてでも商事部門をつぶしてはならない。
将来のためになると思えば、多少のリスクをおかしてもやれ。
住友の歴史は、17世紀に住友政友(まさとも)[1585-1652]が京都に書林と薬舗を開いたことに始まります。
政友は商人の心得を説いた「文殊院旨意書(もんじゅいんしいがき)」を残し、その教えは今も「住友の事業精神」の基礎となっています。
「文殊院旨意書」の冒頭には、「商売は言うまでもなく、人として全てのことに心を込めて励むこと」と、一人一人が単なる金もうけに走ることなく、人間を磨き、立派な人格を醸成することを求めています。そして本文では、正直・慎重・確実な商売の心得が説かれています。
同じ頃、京都で銅吹き(銅精錬)と銅細工業(屋号:泉屋)を営んでいた政友の姉婿、蘇我理右衛門(そがりえもん) [1572-1636 ]は、粗銅(あらどう)から銀を分離する精錬技術「南蛮吹き」を苦心の末に開発しました。
理右衛門の長男で政友の娘婿として住友家に入った住友友以 (とももち) [1607-1662] は、大阪に進出し、同業者に「南蛮吹き」の技術を公開し、これにより住友・泉屋は「南蛮吹きの宗家」として尊敬され、同時に大阪はわが国の銅精錬業の中心となりました。
泉屋はその後、銅の採掘にも進出し、1691年に幕府の許可を得て別子(べっし)銅山を開坑。
283年間にわたり銅を生産し続け、住友の事業の根幹を支えました。
1945年(昭和20年)11月 新たに商事部門への進出を図り社名を日本建設産業株式会社と改称し、商事会社として発足する。
当時社長であった田路舜哉は、常日頃から「熱心な素人は玄人に優る」と素人集団の社員を激励するとともに、与信管理制度の厳格運用など堅実経営を実践。
1949年(昭和24年)8月 大阪・東京・名古屋の各証券取引所に株式を上場。
1950年、ボンベイ(現・ムンバイ)に初の駐在員を派遣、1952年にはニューヨークに米国法人を設立して、海外進出への布石を打った。
1952年、住友商事株式会社と改称。
1955年、福岡証券取引所に株式を上場。
1962年、大阪・東京の各営業部門を一体化して商品本部制を導入し、鉄鋼・非鉄金属・電機・機械・農水産・化成品・繊維・物資燃料・不動産の9本部を設置。
1967年、本部の枠を越えた中長期の取り組み推進を目的にプロジェクトチームを設置し、大型プロジェクト、資源開発、新産業分野への取り組みを促進。
1970年、竹橋に新住友商事ビル竣工、大阪本社および東京本社の2本社体制とした。
同年、相互貿易株式会社を合併。
1977年、「ビッグスリー&ベストワン」のスローガンを掲げ、経営分析資料に基づく総合評価でトップに、社会的評価で優位に立つことを目指す。
1970年代半ばには、海外拠点数は100を超える。
1978年、英文社名 SUMITOMO SHOJI KAISHA, LTD.をSUMITOMO CORPORATIONに改称。
1979年、営業部門制を導入。鉄鋼・機電・非鉄化燃・生活物資の4営業部門を設置し、分権化を促進。
また、創立60周年を記念し“OPEN EYES ON ALL”(全てに目を開こう)を新スローガンとし、海外活動の強化や新分野開拓といった施策などを推進。
1988年、「総合事業会社構想」を打ち出し、従来の商事活動に事業活動を加えた2本柱の収益構造の構築を目指す。
また、新スローガンとして「未来を今に 今を未来に」“Seeing Tomorrow, Innovating Today”を採用。
1989年度決算で、単独決算と同時に連結決算を発表。
1991年、総合事業会社構想実現に向け、中期事業計画「戦略95」を策定。
1994年、“Global Mind, Global Reach”のキーワードを掲げ、グローバル化に対応した新たな収益構造の構築を推進。
1996年に発覚した銅地金不正取引事件を教訓として、再発防止に向けた社内管理体制を整備。
1998年、「経営理念・行動指針」を新たに制定したほか、新たな経営指標「リスク・リターン」を導入。
1999年の「改革パッケージ」以降、2年ごとに中期経営計画(「Step Up Plan」「AA Plan」「AG Plan」「GG Plan」「FOCUS’10」「f(x)(エフクロス)」)を策定・実行し、事業選別・収益性向上による体質強化とともに、優良資産の積み増しによる収益基盤の強化などに取り組む。
2001年、本社を東京都中央区晴海に移転。
2003年、「住友商事コーポレートガバナンス原則」を制定。
2012年、中長期ビジョンとして「創立100周年(2019年度)に向けて目指す姿」を掲げ、“Be the Best, Be the One”を新たなスローガンとした。
2015年3月期、大型案件における減損損失計上により赤字決算となった。
2015年4月、中期経営計画「Be the Best, Be the One 2017」を策定し、経営改革と成長戦略の推進、財務健全性の確保に注力、成長軌道への回復を図ってきた。
2017年4月、当社の成長と社会課題の解決を両立すべく、「社会とともに持続的に成長するための6つのマテリアリティ(重要課題)」を特定。
2018年5月、新たな価値創造への飽くなき挑戦をテーマとする「中期経営計画2020」を発表し、同年9月、千代田区大手町に本社を移転した。