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「日産自動車株式会社」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『鮎川義介』/沿革・歴史など~

 

「日産自動車株式会社」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)

 

 

 

「日産自動車株式会社」のビジョン

 

 

人々の生活を豊かに

 

 

 

 

「日産自動車株式会社」のミッション

 

私たち日産は、独自性に溢れ、革新的なクルマやサービスを創造し、その目に見える優れた価値を、すべてのステークホルダーに提供します。それらはルノーとの提携のもとに行っていきます。

 

 

 

 

 

 

「日産自動車株式会社」の創業者・創立者『鮎川義介』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~

 

 

 

鮎川義介(日産創業者)

 

 

鮎川義介。

鮎川義介は、1880年(明治13年)11月、7人兄弟の2番目として山口県山口市に生まれる。

 

母方の祖母は、あの明治の元勲・井上馨(1836-1915)の姉。

井上馨は義介にとっては大叔父にあたる。

 

鮎川家は長州藩で中級以上の士族であった。

しかし明治維新後、一家は没落し困窮した。

 

世渡り下手な父・彌八は、山口県の下級官吏などを務めていたが、鮎川家はいわゆる“貧乏士族”の典型で、「あえぎあえぎの生活」だったという。

義介が12、3歳のとき、家族とともに洗礼を受けた(洗礼名はフランセスコ・ザペリヨ)。

 

義介少年は、熱心に日曜ミサに通い、そこで出会った人物から英語や漢籍を学んだ。

このとき師事したフランス人宣教師・ビリヨン神父(1843-1932)は、その後のかれに大きな影響を与える。

 

神父はあのナポレオンの側近という名門の出でありながら辺鄙な地での「低処高思」な生き方を貫いた。

ちなみにこの神父、あの“日本資本主義の父”渋沢栄一(1840-1931)にもフランス語を教えている。

 

義介は、小さい頃から涙もろく優しいところがある反面、腕白で相当きかん気の強い少年でもあったようだ。

「お前はきっと偉くなる」井上馨の姉である祖母のいつもの口癖だった。

 

当時エンジニア志願者はマイナーだった。

東京帝国大学工学部を卒業した義介は、井上馨が強くすすめる三井財閥入りを蹴った。

 

かれは「一職工」として芝浦製作所(現・東芝、田中久重が創業した田中製造所が前身)に入る。

そしてまずは、仕上げ工から始め、機械、鍛造、板金、組み立て、鋳物を、まさに身をもって学んでいった。

 

給金不足を補う必要から小さな工場の手伝いもやった。

また日曜日になれば、井上主催の「工場視察」にこっそり紛れ込んで70から80もの工場見学もした。

 

「日本で成功している企業はすべて西洋の模倣である。ならば日本で学んでいても仕方がない」。

日本での勉強に「限界」を感じた義介は、アメリカ渡航を決意するや、米貨客船ダコタ号の移民向け4等船室に乗り込んだ。

 

それは当節はやりの「西洋留学」などといった華やかものではなく、またしても北米の田舎町の鋳物工場で週給5ドルの「見習工」として雇われたことであった。

義介は、鋳物屋の親方の家に寝泊まりしながら鋳物技術を必死で身につけた。

 

反射炉から流れ出る溶鋼を運ぶような危険な作業もいとわなかった。

そこで労働者としてえた貴重な体験はやがて「信念化」していく。

 

それは日本人には世界に誇るべき手先の器用さや几帳面さ、勤勉さがあるというものだった。

帰国後、義介は井上馨に「鋳物工業の将来性」を強く訴えた。

 

そして、北九州市に「戸畑鋳物」(のちの日立金属)を設立する。

1910年(明治43年)、義介30歳。

 

日産コンツェルンの始まりであった。

当初はマレブル(黒芯可鍛鋳鉄)継手を製造。

 

継手の表面が瓢箪のように滑らかであってほしいという思いを込めて「瓢箪印」をトレードマークにし、ヒット製品となる。

1921年(大正10年)、当時としては珍しい電気炉による可鍛鋳鉄製造開始。

 

1922年(大正11年)、大阪に株式会社木津川製作所(桑名)を設立。

戸畑鋳物から継手営業・商標権、「瓢箪印」の商標を戸畑鋳物株式会社から譲渡し、継手を製造。

 

その後、先端的な国産初の電気製鋼に成功していた安来製鋼所を吸収合併した。

1924年(大正13年)には農業用・工業用・船舶用石油発動機製造販売開始。

 

アメリカで“新知識”をえてきた義介は、いち早く日本における「自動車産業の将来性」を予見していた。

1926年(大正15年)、株式会社木津川製作所・帝国鋳物株式会社(福岡県若松市(現・北九州市若松区))を吸収合併。

 

合併後東洋一のロール工場と言われる。

1928年(昭和3年)、義弟・久原房之助の経営する久原鉱業の社長に就任し、同社を日本産業(日産)と改称。

 

久原鉱業は、当時は、第一次世界大戦後の恐慌と久原の政界入りで経営破綻に瀕していた。

立憲政友会の田中義一(元陸軍大将)らの再建の懇請に鮎川は渋々応じた。

 

会社を持株会社に変更し、公開持株会社として傘下に、日産自動車・日本鉱業(同年12月、日本産業株式会社に社名変更)・日立製作所・日産化学・日本油脂・日本冷蔵・日本炭鉱・日産火災・日産生命など多数の企業を収め、日産コンツェルンを形成。

 

1929年(昭和4年) 戸畑鋳物東京製作所(深川)を新設し自動車用マレブル鋳鉄製造開始。

同年4月24日、日本産業の鉱業部門が分離独立、日本鉱業株式会社を設立。

 

1933年(昭和8年)、自動車工業株式会社(現在のいすゞ自動車)よりダットサンの製造権を無償で譲り受け、同年12月ダットサンの製造のために自動車製造株式会社を設立する。

1934年(昭和9年)、安来製鋼所を吸収合併。

 

1934年(昭和9年)、自動車製造株式会社を日産自動車製造株式会社と改称

同年『ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について』と題する論文を発表。

 

5万人のドイツ系ユダヤ人を満州に受け入れ、同時にユダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことにより、満州の開発を促進させると共に、同地をソビエト連邦(ソ連)に対する防壁とする構想を、ユダヤ専門家として知られる陸軍大佐・安江仙弘、海軍大佐・犬塚惟重、関東軍のいわゆる「大陸派」に立案した。

 

これにより、関東軍の後ろ盾を得る。

1935年(昭和10年)、戸畑鋳物を国産工業株式会社に社名変更。

 

1937年(昭和12年)、野口遵、森矗昶など当時の「財界新人三羽烏」の一人として、満州国の経済運営で巨大な満鉄が影響力を持つことを嫌った関東軍の求めに応じ日本産業を満州国に移し、満州重工業開発株式会社(満業)として初代総裁・相談役に就任。

 

同時に満州国顧問・貴族院勅撰議員・内閣顧問を兼務した。

当時の満州国の軍・官・財界の実力者弐キ参スケの1人とされた。

 

同年、国産工業、株式会社日立製作所との対等合併。

鮎川が満業立ち上げのため、 以前から関係のあった日立製作所の小平浪平に国産工業株式会社の経営を頼んだ。

 

1939年(昭和14年)頃には白洲次郎らと世界情勢を語り合い、ドイツと英仏間の戦争は、英仏の勝利との結論を得る。

関東軍との関係悪化から日産グループの満州撤退を検討。

 

1942年(昭和17年)頃に満業の総裁を辞任して副総裁の高碕達之助に交代。

1943年(昭和18年)11月17日に藤原銀次郎が東條内閣に入閣すると、五島慶太・鈴木貞一らと内閣顧問に就任。

 

太平洋戦争終結後、戦犯容疑を受け1945年(昭和20年)12月に逮捕され巣鴨拘置所に20か月拘置されたが、容疑が晴れる。

獄中にて日本の復興策を練る。

 

1952年(昭和27年)、日産グループ各社の出資を得て中小企業助成会を設立。

会長に就任。

 

以後、中小企業の振興に尽力。

1953年(昭和28年)、帝国石油社長、石油資源開発社長。

 

参議院議員に当選。

1956年(昭和31年)、日本中小企業政治連盟(中政連)を創立し、総裁に就任。

 

その後主として政治家としての晩年を送る。

また同年設立された全国中小企業団体中央会の会長にも就く。

 

この間、岸内閣経済最高顧問、東洋大学名誉総長。産業計画会議委員(議長・松永安左エ門)就任。

1959年(昭和34年)、全国区より参議院に再度当選したが、同時に当選した次男金次郎派運動員の選挙違反容疑が高まり、12月に責任をとり議員辞職。

 

1967年(昭和42年)2月13日、合併症となった急性肺炎のため駿河台杏雲堂病院にて死去。享年86。

 

 

 

 

 

鮎川義介(日産創業者)の名言・考え方

 

 

 

いくら事業を大きくやっても、人の世話が出来んようなことではつまらん。

 

 

 

適者生存の法則はどこまでも真理である。人類の長い歴史は、ケモノの時代の方が幾万倍長かったであろうから、境遇次第で動物の本性が首をもたげるのも自然の現象と考えなくてはならない。

 

 

 

役人を六年以上やった者は将来使いものにならぬ。

 

 

 

おれは絶対に金持ちになるまい。だが大きな仕事はしてやろう。願わくは人のよくおこないえないことで、しかも社会公益に役立つ方面をきりひらいていこう。

 

 

 

人間は反発心が大切である。

 

 

 

「至誠は天地を揺るがす」ということわざの通り、人間、至誠に終始すれば、絶体絶命の場合には、必ずや強力な支持者が背後に現れ起死回生の果報が授けられるものだ。どんな新事業でも創業から数年の間には、人生なら九死一生の境地ともいうべき危機に遭遇するもので、これは避けられない。かかる危局を打開していくには、ただ経営者の手腕や努力だけで乗り切れると思うのは間違いである。

 

 

 

最後の思想の結晶は人づくり。真の日本人をつくることだ。

 

 

 

古来、事業をなすには「天の時、地の利、人の和」と言い伝えられているがこれを貫くに至誠をもってしなくては事業の成功を期することはできない。

 

 

 

人間は頭から老化してゆく。私の長生きの秘訣はひとのできないようなむずかしい仕事に真正面からとり組んで頭を使うことである。

 

 

 

努力だけで過去の事業が成功してきたか、というとそうでない。やはりこれに運がプラスされている。しかし、努力のないところには絶対に幸運は来ない。

 

 

 

元来、生物だけが意識をもっているとおもうのは人間の錯覚で、神は万物にそれを与えている。それを善用できるのは、“愛のつながり”以外にはない。

 

 

 

 

 

 

「日産自動車株式会社」の沿革・歴史(年表・社歴など)

 

 

1910年 – 鮎川義介が福岡県遠賀郡戸畑町(現在の北九州市戸畑区)に「戸畑鋳物株式会社」設立。

 

1911年 – 橋本増治郎が東京市麻布区(現在の東京都港区麻布)に「快進社自働車工場」設立。

 

1919年 – 大阪府に「実用自動車製造株式会社」設立。

 

1926年 – 「実用自動車製造株式会社」と「快進社自働車工場」が合併し、「ダット自動車製造株式会社(本社:大阪)」設立。

 

1931年 – 戸畑鋳物株式会社(現在の日立金属)(社長:鮎川義介)がダット自動車製造を傘下に入れる(事実上の企業買収)。

 

1932年 – 吉崎良造により「ダットサン自動車商会」設立、ダットサンのブランドが誕生。

 

1933年 – ダット自動車製造と石川島自動車製作所が合併し自動車工業株式会社が横浜市神奈川区に設立される。

 

1933年 – 戸畑鋳物株式会社がダット大阪工場を70万円で購入。しかし、ダットサン(自動車)の製造権と設計技術者の後藤敬義、そして一群の人員は自動車工業株式会社に残る。

 

1933年 – 戸畑鋳物株式会社の鮎川義介の懇願により、製造に関する一切の権利を自動車工業株式会社より「ダットサンの製造権」を無償で譲り受ける。

12月26日に鮎川義介は自身が設立した持株会社である日本産業と、戸畑鋳物で出資し、ダットサンの製造のために日産の歴史の第一歩となる「自動車製造株式会社」を横浜市に設立する。同時に鮎川義介が代表取締役社長に就任した。

 

1934年 – 6月1日に日産自動車株式会社に商号変更。

1942年 – 11月9日、日産自動車販売株式会社を合併。

1943年 – 上海および京城の支店を廃止。

1944年 – 9月18日、東京都日本橋区通一丁目9番地(現在の中央区)に本店移転。日産重工業株式会社に商号変更。

1946年 – 1月14日、本店を再び横浜市神奈川区宝町2番地に移転。

1949年 – 8月1日に再び「日産自動車株式会社」に商号変更。

1952年 – イギリスのオースチン社との技術提携を元にしたオースチン・A40サマーセットのノックダウン生産を開始。

1953年 – 12月、民生デイゼル工業に資本参加。

1955年 – 6月、民生デイゼル工業との折半出資による販売会社・日産民生ジーゼル販売を設立。

1960年 – 12月、民生デイゼル工業を日産ディーゼル工業に、日産民生ジーゼル販売を日産ディーゼル販売に商号変更。

1966年 – スカイライン、グロリアを持つ「プリンス自動車工業株式会社」(富士重工業等と共に分割解体された旧中島飛行機の一部で、冨士精密工業の後身)と合併。

1967年 – 宮内庁に、初の国産御料車「プリンスロイヤル」を謹製・納入

1968年 – 東京都中央区銀座木挽町に本社事務所を移転。

1969年 – 「ダットサン・フェアレディ」の後継車、「日産・フェアレディZ」登場。

1970年 – マリーン事業(プレジャーボート)に進出。

1970年代 – 1990年代 – 第二次世界大戦後からシェアを積み上げ、一時はトヨタ自動車につぐ日本国内第2位のシェアを占めていたが、日本国内の日産車のシェアが年々低下の一途を辿り、経営陣と塩路一郎委員長率いる強固な労働組合との激しい抗争が長期に及び、1980年代後半には901活動による車両性能の向上と共に個性的なエクステリアデザインや商品戦略が各界から高く評価されて日産自動車全体のブランドイメージが向上するも、1990年代に入り、バブル景気の崩壊後は財務が悪化した上、デザインや商品戦略などの相次ぐ失敗で販売不振に陥り、経営危機が深刻化する。

1981年7月、国内向けの一部車種と日本国外向けの車種に設けられていた「DATSUN」ブランドを廃止して、順次「NISSAN」ブランドへ変更して統一する方針を発表。

1月、開発拠点をテクニカルセンター(神奈川県厚木市)に集約。

1985年 – 8月、社長が石原俊(事務系出身)から久米豊(技術系出身)になり、今までの官僚経営から技術中心の経営、後の901活動を推進する経営と変えていった。

1987年 – 6月19日、Y31型セドリック・グロリア発売。グランツーリスモ系初設定。大ヒットする。このことにより、後のインフィニティ・Q45の発売を決定する。パイクカー・Be-1限定発売。大ヒットする。

1988年 – 日本初の3ナンバー専用車・セドリックシーマ・グロリアシーマを発売。大ヒットとなり、シーマ現象なる言葉ができた。 新ブランドセダン・マキシマ・セフィーロを発売。

1989年 – スカイラインGT-Rが復活。フラッグシップセダン・インフィニティ・Q45日米同時発売。アメリカにて高級車専門の「インフィニティ」ブランドを展開。車種は、インフィニティQ45とインフィニティ・M30の2車種であった。

1994年 – 三星自動車(現、ルノーサムスン自動車)への技術支援を行う。

1999年 – 3月に、フランスのルノーと資本提携し、ルノー=日産アライアンスを結成しルノーの傘下になる。6月にルノー副社長のカルロス・ゴーン(現CEO)が最高執行責任者(COO)に就任し、経営再建計画である「日産リバイバルプラン」を発表した。

2000年 – フェアレディZ生産中止。Zの名前が2年近く消滅する。

2001年 – ゴーンが6月に社長兼最高経営責任者(CEO)となる。

2002年 – スズキより、軽自動車「MRワゴン」のOEM供給を受け、「モコ」として発売開始。軽自動車市場へ参入を果たし、ゴーンが「日産リバイバルプラン」の目標達成を宣言した。また、フェアレディZが2年ぶりに復活する。

2003年2月、セフィーロを廃止し、前年に廃止となったローレルとの統合後継車としてティアナを投入。
10月、日産ディーゼル工業と小型トラックの合弁会社「日産ライトトラック」を設立。

2004年 – 9月、サニーを廃止し、ティーダを発売。10月、セドリック・グロリアを廃止し、フーガを発売。12月、リバティを廃止し、ラフェスタを発売。

2005年4月より従来の販売会社別での取扱車種を撤廃、全販売会社(レッドステージ&ブルーステージ)ですべての車種の購入が可能となる。
経営再建中の三菱自動車工業との包括的な事業提携。それに伴い、事業提携の一環として三菱製軽自動車eKワゴンのOEMとしてオッティを投入。

4月にゴーンが親会社のルノーの取締役会長兼CEO (PDG) に就任、日産の会長兼CEOも兼任する。
9月に、ゴーンが進めてきた日産180を終了。その後日米市場で販売台数が急落する。

2006年6月に、グローバル生産累計台数1億台突破。
9月、日産ディーゼル工業の全ての株式をABボルボへ売却し、資本関係を消滅。

2007年 – 12月、スカイラインの名前を捨て新たな道を歩む、日産GT-Rを販売開始。

2008年 – 環境省の「エコファースト制度」に認定。

2009年 – 8月、本社所在地を東京・銀座から日産の故郷である横浜へと戻す(横浜みなとみらい21地区・日産グローバル本社/登記上の本店所在地は従来通り、横浜市神奈川区宝町)。

2010年10月1日 – 産業機械事業部が独立、日産フォークリフト株式会社(現:ロジスネクストユニキャリア株式会社)となる。
12月 – 量産型専用車種としては世界初となるEV、リーフを発表・発売開始。

2011年3月11日 – 東日本大震災の影響で、いわき工場と栃木工場の被災とサプライヤーの工場の被災により全工場の生産が一時ストップするが順次復旧を果たし、「今こそ、モノづくりの底力を。」のキャッチフレーズが起用される。
6月1日 – 日産自動車・三菱自動車工業の軽自動車事業に関わる合弁会社、株式会社NMKV設立(資本構成は双方50%ずつ)。

2012年4月1日 -「インフィニティ」ブランドの本社機能を香港に移転。
6月29日 – 三菱ふそうトラック・バスと日本市場向け小型トラックの相互OEM供給で基本合意。

 

2013年8月29日 – スズキと軽商用車のOEM供給で基本合意。

 

2016年4月20日 – OEM供給先の三菱自動車工業の燃費試験の不正問題を指摘。日産・デイズ、日産・デイズルークスの販売停止。
5月12日 – 三菱自動車工業の株式34%を取得し同社を事実上傘下に収める事を取締役会で決議。
10月20日 – 三菱自動車工業の株式34%を取得し同社を傘下に収めたことを発表した。またカルロス・ゴーンが三菱自動車の代表取締役会長を兼任することも発表した。

 

2017年1月27日 – 消費者庁が、三菱自動車工業と日産自動車に対して、不当景品類及び不当表示防止法(景品表示法)の優良誤認違反で、日産自動車に対して、三菱自動車の燃費不正発覚後の対応が遅いことを理由に、再発防止を求める措置命令の行政処分が下された。
2月23日 – 4月1日付でカルロス・ゴーンが社長兼CEOを退任、後任には副会長兼共同CEOの西川廣人が就任する人事を発表した。ゴーンは引き続き会長を務める。
2月27日 – ロンドンの公道上で自動運転車の走行試験を始めた。日産が欧州で自動運転車を走らせるのはこれが初めてとなる。横浜市と共同で超小型EVでカーシェアを開始。

 

2017年9月29日までに、同社の日本国内の全6工場で生産した21車種について、完成検査の一部を未認定の検査員が行っていたことが明らかになり、新車販売を一時停止する事態となった。
10月6日、新車の完成検査を無資格の従業員が行っていた問題を受け、乗用車など38車種、計約116万台のリコール(回収・無償修理)を国土交通省に届け出た。

 

2018年9月 – Googleとパートナーシップを結び、2021年から車両にカスタマイズしたAndroid オペレーティングシステムを搭載することを発表した。
新しいシステムではダッシュボードで車両診断に加えてGoogle マップやGoogle アシスタント、Google Playなどを利用でき、iOSデバイスとも互換性がある。
2018年11月、東京地方検察庁特別捜査部は、カルロス・ゴーン代表取締役会長とグレゴリー・ケリー代表取締役を金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)容疑で逮捕した。

 

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