創造によって文化、産業に貢献する
夢
常に夢をもって前進しよう。
夢のないところに、創造と建設は生まれない。
勇気
常に勇気をもって実行しよう。
実行力は矛盾と対決し、それを克服するところから生まれる。
信頼
常に信頼を得るよう心掛けよう。
信頼は誠実と奉仕の精神から生まれる。
斎藤憲三。
斎藤憲三は、明治31年(1898年)に斎藤宇一郎とミネの三男として秋田県由利郡平沢村(現にかほ市)に生まれた。
父の宇一郎は秋田の農業の発展に尽力し、代議士にもなった。
憲三は地元の平沢小学校を卒業した後、本荘中学(現:秋田県立本荘高等学校)への進学を希望していたが、父の勧めにより大阪の私立学校である桃山中学(現:桃山学院高等学校)に入学した。
大正11年(1922年)早稲田大学商学部を卒業後、実父宇一郎から借金をし、まず炭焼き事業を始めた。
しかし、この事業は 1 年足らずで失敗した。
この失敗にもめげず、今度は寒さで材質が硬く、下駄材として珍重される秋田の桐材を売り込もうとした。
この事業は 1 回目は成功したが、何百本もの桐材を次々に買い集めることが難しく、この事業も失敗した。
その後、秋田米の販売、養豚、養鶏も手がけたが、長続きせず、全て失敗した。
こうして憲三は、2年足らずの間に手がけた事業にすべて失敗し、宇一郎から借金した資金は消えてしまった。
その後は農家の副業奨励のため炭焼きや養豚などの事業に取り組むが、いずれも失敗。
そこで憲三は、心機一転、1924 年に再び上京することとなった。
憲三は、故郷での事業に失敗したの後に上京し、1924年から社団法人産業組合中央金庫(現農林中央金庫)に就職した。
しかし、起業家精神に溢れていた憲三は、再び起業することとなった。
農村で事業を起こし、農家を救いたいという思いからであり、その手段としてのアンゴラ兎の飼育であった。
アンゴラ兎毛の事業化に取り組み、アンゴラ兎を武蔵野町吉祥寺に新築した自宅で飼い始めた。
この自宅では、500坪の土地に 200羽のアンゴラ兎を抱え、農村副業奨励を目指してアンゴラ兎興農社を創設した。
さらに1932年には衆議院議員の鷲沢与四二を社長に迎えて兎の飼育と兎毛生産を行う東京アンゴラ兎毛株式会社を設立する。
憲三は、アンゴラ兎の兎毛を販売するために起業したにもかかわらず、販売先が見つからなかった。
そこで彼は意を決し、アンゴラ兎毛を握りしめ、夜汽車に乗り、当時の紡績業界を牽引していた鐘淵紡績(現カネボウ)の津田信吾社長に、直接交渉に出かけた。
憲三は、津田社長とは面会の約束をしていなかったが、運良く3分だけ時間を設けてもらうことができた。
津田社長は、アンゴラ兎毛の販売を承諾し、増産資金も提供した。
津田は、理想に向かって我武者羅に進む純粋な憲三に惚れ込んだとされる。
成功するかに見えたアンゴラ兎事業であったが、コクシジウムという兎特有の伝染病が発生、さらに社長の鷲沢との対立もあり、1935年、斎藤は東京アンゴラ兎毛を退社する。
東京アンゴラ兎毛退社直後、斎藤はアンゴラ兎毛繊維の脱毛防止に関する技術指導として東京工業大学電気化学研究室の小泉勝永を紹介された。
既にアンゴラ兎とは縁が切れていた斎藤であったが、将来の事業のヒントを求め1935年7月9日、東工大に小泉を訪ねた。
話し合ううちに斎藤と小泉は意気投合し、斎藤が小泉に津田信吾を、小泉が齋藤に電気化学研究室教授の加藤与五郎を紹介することを約束する。
加藤に面会した齋藤は、「これからの日本は軽工業と重工業のどちらに重点を置くべきか」と質問した。
それに対する加藤の答えは「今の日本に工業など存在しない。西洋の模倣ではなく日本人の発明を事業化しなければ真の日本の工業とはいえない」というものであった。
この言葉に衝撃を受けた齋藤は、加藤の発明であるフェライトの工業化を目指す決意をする。
齋藤の申し出に対し加藤は、まだフェライトに市場価値が無いので特許は無償で譲渡する、ただし事業資金として10万円を用意することという条件を出した。
齋藤は津田信吾から10万円の資金援助を受け昭和10年(1935年)12月7日、東京電気化学工業株式会社(現TDK株式会社)を設立する。
1941年になると、わが国は太平洋戦争に突入し、船舶無線、車両無線、航空無線などの需要が増大し、フェライトコアが完全に1つのシェアを確立した。
齋藤は政治活動も始めた。
平沢町長を経て、昭和17年(1942年)、第21回衆議院議員総選挙で翼賛体制協議会の推薦候補として当選。以来通算5回当選。
1943 年には蒲田工場と平沢工場は海軍監督工場に指定された。
1943年から1944年にかけては、同社は昼夜兼行の忙しさとなった。
しかし、戦後は、軍需生産が打ち切られたため、受注が極度に減り、従業員の生活維持が困難になった。
そこで東京電気化学工業では、戦時中に始めた食糧確保のための諸事業を継続することとした。
同社では、製塩業での収益が最も多く、総売上の約 50%にも達していた。
また山林原野を開墾し、ジャガイモ、大豆、カボチャなどを栽培し、家畜も飼育した。
東京電気化学工業創立からのフェライト製造は、特許に守られ、競合が現れない強みがあった。
第二次世界大戦後、再建の契機は1947年のGHQからの「雑音の多い高Ⅰ式再生受信機の製造を中止し、スーパーヘテロダイン方式のラジオを生産せよ」という指令によってであった。
フェライトは、スーパー方式に必要不可欠であった。
そのため、注文が殺到し、生産が追いつかない状態となった。
これをきっかけに、高度経済成長に後押しされ、事業は成長していく。
政治では、翼賛政治会に所属するも、次第に反東條色を強め、昭和20年(1945年)3月には船田中・赤城宗徳・橋本欣五郎・三宅正一ら親岸信介派の議員とともに「護国同志会」結成に参加する。
戦後は昭和21年(1946年)に公職追放されるが、昭和26年(1951年)に解除。
昭和28年(1953年)の第26回衆議院議員総選挙で当選し、議員に返り咲く。
自由民主党では岸派→福田赳夫派に所属。
科学技術庁の発足に尽力し、その初代政務次官となった。
TDKとしては、昭和28年(1953年)10月オープンリールテープレコーダー用磁気録音テープ「シンクロテープ」で磁気録音テープ事業に参入。
昭和36年(1961年)10月東京証券取引所第一部上場。
昭和41年(1966年)9月同社初のコンパクトカセットテープ「シンクロカセットテープ」を発売。
昭和45年(1970年)齋藤憲三他界。享年72。
世の中にまだ存在しない価値を素材のレベルから創り上げる
1930
磁性材料フェライトの発明
1931
チャールズ・リンドバーグが北太平洋横断飛行に成功
1935
世界最初のフェライトコアの事業化を目的として、加藤博士・武井博士のフェライト特許を取得し、東京市芝区田村町に東京電気化学工業株式会社を設立
1937
蒲田工場完成
フェライトコアをオキサイドコアと命名し発売
1938
交流バイアス式磁気録音方式の発明
1939
海軍技術研究所、フェライトコアを 船舶無線用として正式採用決定
1940
ラジオのμ同調用に フェライトコアを大量受注
秋田県平澤町に平澤分工場新設
1945
蒲田工場焼失(4月)
フェライト生産再開(10月平澤工場)
1951
白黒テレビ偏向ヨーク用コア発売
平澤工場にて並形円筒セラミック コンデンサ生産開始
1953
磁気録音テープ「シンクロテープ」発売
DNAの二重らせん構造を発見
1954
世界初のトランジスタラジオ発売
1955
円板形 コンデンサ 「アルコン」 発売
1956
市川工場新設
ハードディスクドライブの開発
1960
TDKとして初のバリウムフェライト磁石発売
1961
株式を東京証券取引所第一部へ上場
1962
磁気ドラム用フェライトヘッド発売
1966
シンクロ カセットテープ発売
1968
台湾TDK(TDK Taiwan Corporation)設立
電波暗室発売
米国で音楽用カセットテープ「SD」発売
液晶ディスプレイの発表
1970
磁気ディスク用ガ ラスボンディング ヘッド発売
1971
積層セラミックチップコンデンサ発売
マイクロプロセッサの発表
1972
ウィンチェスターヘッドを開発
1973
磁気テープ用の高保磁力酸化鉄磁性材料「アビリン」を開発
1974
スイッチング方式電源発売
サマリウムコバルト磁石発売
1976
縦型リード部品用プリント基板自動挿入機
「アビサート」発売
家庭用ビデオレコーダ(VHS方式)発売
1977
薄型ラジオに積層セラミック チップコンデンサ採用
1978
VHS/ベータビデオテープ発売
1979
ヘッドホンステレオ発売
セルラー方式自動車電話サービス開始
1980
積層チップインダクタ発売
1982
ニューヨーク証券取引所に上場
コンパクトディスクプレーヤ発売
1983
社名をTDK株式会社(TDK Corporation)に変更
1986
香港の磁気ヘッド製造会社
SAE Magnetics (H.K.) Ltd.を買収
1987
薄膜磁気ヘッド発売
1988
MHD(積層混成集積回路部品)発売
巨大磁気抵抗効果(GMR)を発見
1990
千葉県市川市に テクニカルセンター 完成
1992
記録可能な有機色素膜使用光ディスク(CD-R)発売
1994
中国・アモイに現地法人設立
高密度記録AMRヘッド発売
2002
執行役員制導入
2005
PMR(垂直磁気記録素子)ヘッドの発売
秋田県にかほ市にTDK歴史館新設
ポリマーリチウム電池製造/販売会社 Amperex Technology Ltd.を買収
電源製品の開発/製造/販売会社ラムダパワーグループ (含むデンセイ・ラムダ)を買収
2007
TDKブランド記録メディア販売事業を 米国のImation Corp.に譲渡
2008
ドイツの電子デバイスメーカー EPCOS AGをTOBにより買収
2009
「フェライトの発明とその工業化」が、IEEEマイルストーンに認定
2011
環境基本計画「TDK環境活動2020」策定(2011年4月より開始)
2012
ジスプロシウム(Dy)フリー・マグネット開発
2014
記録メディア事業撤退
フェライトが「戦後日本のイノベーション100選」に選定
2016
Qualcomm社との業務提携ならびに合弁会社の設立(発表)
センサメーカーのMicronas Semiconductor Holding AGを買収
TDK歴史みらい館リニューアルオープン
2017
センサメーカーのInvenSense, Incを買収