三愛精神
「人を愛し 国を愛し 勤めを愛す」
世の中の役に立つ新しい価値を生み出し、生活の質の向上と持続可能な社会づくりに責任を果たす
信頼と魅力のグローバルカンパニー
CUSTOMER-CENTRIC
お客様の立場で考え、行動する
PASSION
何事も前向きに、情熱を持って取り組む
GEMBA
現場・現物・現実から学び改善する
INNOVATION
制約を設けず、柔軟に発想し、価値を生み出す
TEAMWORK
お互いを認め合い、すべての人と共創する
WINNING SPIRIT
失敗をおそれず、まずチャレンジし、成功を勝ち取る
ETHICS AND INTEGRITY
誠実に、正直に、責任を持って行動する
市村清。
佐賀県三養基郡北茂安村(現・みやき町)の農家市村豊吉の長男として生まれる。
父豊吉は市川虎之丞という佐賀藩士の子で武士の出だった。
豊吉は7歳のとき市村家の養子になった。
幼少期は貧しいながらも、武家出身のきびしい父と優しい母、そして溺愛してくれた祖父との暮らしでした。
成績は優秀でしたが、知恵がある悪ガキで厳しい父に墓地のどんぐりの木に縛り付けられたこともあったとか。
そんな市村清氏におじいさんが雌牛を1頭買ってきてくれました。
「お前が一生懸命育てれば、次々と子牛を産んで中学や大学に行く頃にはその子牛を売れば学校に行ける」
こずかいも使わずに貯めて、牛が食べるおからや飼料を買いました。
ところが2年も経ってりっぱな雌牛に成長したころのある日、執達吏(法の執行官)がやって来て、借金のカタにその雌牛を連れて行ってしまったのです。
幼いながらも必死に抵抗して、その執達吏に噛みついたりもしましたが、祖父に「しかたないのだから我慢せい」と止められ、夕暮れの道を牛が引かれて連れて行かれるのを見送るしかありませんでした。
祖父はその後2年で病死しています。
丹精込めて育てた牛を理不尽にも奪われた事や、看病の甲斐も無くあっけなく亡くなった市村清氏を可愛がってくれた祖父、幼いうちに無念さやはかなさを味わい失意の底を経験しました。
名門・佐賀中学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)に入学するも、経済的困窮により2年で中退を余儀なくされる。
佐賀に住んでいる叔母の家に預けられ、この叔母のお蔭で中学に通う事は出来たのですが、叔母は嫌々ながらも制服や靴を買ってくれたのですが肩身の狭い思いでした。
靴が足に合わなくても、ずっと我慢して履きました。
叔母はいつも迷惑そうで自分の子供とも明らかに差別をしました。
ついに夏休みに帰省したまま、佐賀の叔母のところには帰りませんでした。
学校も辞めてしまったのです。
そして父の野菜売りを手伝いましたが、道では小学校の同級生と出合います。
佐賀の中学に進学したはずなのに、おんぼろの恰好で野菜売りをすることが恥ずかしくてたまりませんでした。
この、子供の頃に体験した2つの強烈な辛い体験が後に市村清氏の人格形成に大きく影響していて、理不尽には絶対妥協しない心と、人の痛みが解り人を愛し育てることに繋がったようです。
その後共栄貯蓄銀行で事務の見習いをはじめ、本店の常務が東京での勤務を引き受けてくれるというので上京し、昼は銀行での勤務、夜は中央大学の夜間へ通う生活が始まりました。
共栄貯蓄銀行が合併して作った大東銀行を北京に設立するという話があり、結核の治療には乾燥した大陸の方が良いというので転勤を申し出てそれが叶います。
1922年、日中合弁の「大東銀行」に入社するため大学を中退、北京に渡る。
昭和2年の金融恐慌の波紋で大東銀行は閉鎖することになったのですが、同じように邦人系の潰れた銀行で、銀行のお金を内地に勝手に持ち帰ったという事件もあり市村清氏も同じような嫌疑が掛けられたのです。
その後、無実となり監房生活から解放された後には銀行も潰れていて何も残されていない生活からの再出発でした。
帰国した市村は富国徴兵保険(現・富国生命保険)のセールスマンとして再出発。
しかし、熊本はもっとも保険思想の遅れているところとされて、2ヶ月経っても1件の契約も取れませんでした。
一人目の契約者は9度目の訪問となった高等女学校の校長先生でした。
勇気をふりしぼって呼び鈴を鳴らすと「待っていましたよ」と言われたのです。
「今度来たら契約をしようと待っていたというのです」
その校長先生の話から、市村清氏の営業の仕事というものの奥の深さを学びました。
諦めてはいけない。客は最後の一押しを待っているかも知れないのです。
その後、第一号となった校長先生の紹介で次々と契約が決まり、ついには営業成績全国一となります。
それにより、佐賀県の監督を依頼され佐賀に向かう事となります。
富国生命の佐賀代理店の店主の吉村氏は醸造業者であり、日本初の女博士になった理研化学研究所の黒田ちか子さんの実弟で理研感光紙の九州総代理店もやってました。
市村清氏にとって佐賀は地元でしたから、契約件数も伸び、それを取りまとめては吉村氏と度々会ううちに、理研化学研究所の感光紙の外交をやってみないかと誘われます。
1929年、理化学研究所(理研)が開発した陽画感光紙の九州総代理店の権利を譲り受け、たちまち業績拡大に成功、朝鮮・満州の総代理店の権利も獲得。
1933年、理研所長大河内正敏より理化学興業(株)感光紙部長に招聘される。
1936年理研感光紙(株)専務取締役に就任。
同社は2年後に「理研光学工業」に改称され、これが後のリコーとなる。
1942年には理研産業団より独立する。
その後、朝鮮に理研特殊製鉄をつくり、奉天に満州化学工業を建て戦時産業の一環を担いました。
1945年終戦を迎えると、三愛商事(現・三愛)を設立、銀座4丁目角の土地を取得し食料品店を開業する。(後に婦人服専門店に転業)
1952年には三愛石油を設立、外資の攻勢をはねのけて、羽田空港の給油権獲得に成功する。
本拠の理研光学においても、1950年に二眼レフカメラ「リコーフレックスIII」を発表、従来のカメラの1/4ほどの価格低下を実現し、大衆カメラブームを巻き起こした。
この他、西銀座デパート、日本リース(リース会社の先駆け)など各社を次々と設立、1962年には経営不振に陥った名古屋の「高野精密工業」の社長となり再建に成功する(現在のリコーエレメックス)。
「経営の神様」としてマスコミの寵児となり、五島昇、盛田昭夫ら若手経営者や大宅壮一、邱永漢、今東光、升田幸三等の文化人が市村を取り巻いて教えを求め、世間はこれを「市村学校」と呼んだ。
その後、「電子リコピー」の成功により、現在のOA機器メーカーとしての隆盛の基礎を築く。
晩年、技術革新のための研究開発助成を目的とした財団法人の設立を発案し、亡くなる直前の1968年12月12日に財団法人(現・公益財団法人)新技術開発財団の設立認可が下りている。
同財団では市村の遺志を継ぎ、科学技術の分野で学術、産業の発展に貢献した個人・団体を表彰する市村賞を運営している。
1968年12月16日、急性肝萎縮症のため逝去。享年68。
仕事は諦めてはいけない。最後のひと押しが成否を決めるのだ。
勝負に挑むまでが、勝負である。一日一日、いや、一瞬一刻が勝負の連続であり、日々の小さな積み重ねが、毎日の心構えが、重大な取引やいざ勝負という場面にはっきりあらわれてくる。
従業員は使用人ではない。事業の協力者だ。世界のどこにも類例のない独特の協力者なのだ。
結局、儲けようなんて気持ちが強くてはダメだ。儲かるようにならなければダメだ。いくら一生懸命にやっても、たいしたことはできない。しかし、道に則ってやれば自然に儲かる。この儲かるのほうは無限である。
仕事はあきらめてはいけない。最後のひと押しが成否を決めるのだ。人生は紙一重だ。こちらが根負けしかかったとき、相手もこちらに根負けしかかっている。どんなことでも、志さえあれば、道は必ず開けるものである。
監房生活で私が得た貴重な体験は、人間は何もないところでも、工夫によっては何でもできるものだということ、もうひとつは、度を超えた苦痛を耐えていると、気が狂う前に人間には気絶という保身の道があるということであった。ふたつとも、負けるものかという不屈の精神を受け付けた体験である。
明治記念館を経営してみて、私が悟ったことがひとつある。それは、「儲ける」と「儲かる」の違いである。儲けるのはどんなに上手くても限度があるが、儲かるということは無限だ。そして道にのっとってやるのが、この「儲かる」ことなのである。明治神宮の名でやるのだから暴利はい絶対にいけない。飲食物も3割以上の利をみてはいかんと言いつけてある。それが大衆の心をとらえたのだ。
敗戦という厳しい現実の前にこそ、私たちは愛情を持って団結してゆかねばならないと思う。店の名を三愛としたのも、「人を愛し、国を愛し、勤めを愛する」という人道的なスローガンを示しているのです。ぜひ協力を願いたい。
人生というものは、たとえいかなる逆境・悲運に遭遇しても、希望さえ失わなければまったく消えてしまうものではない。
もし成功に秘訣があるとすれば、他人の立場を理解し、他人の立場から物事をみる能力を持つことである。
現在は損であっても、三年先か、あるいは五年先にピントを合わせて、小損大利をやれ。
利己ではなく、利他なのだ。自分が売ってくるのはたかが知れている。多くのお客さんがセールスマンになってくれなければ、どうして他人以上の売上ができようか。そうすれば、儲けようとしなくても、自然に儲かるようになる。
いまになって思い返すと、生きてゆくための障壁にぶつかって苦しんだひとつひとつの経験が、私の信念というか、処世の哲理と生活信条を形作ってきたようである。
言えない事は言えないと、はっきり言うべし。
さんざんいじめられ抜かれたあとだけに、敵愾心の好意に対しても報いなければ、私の男が立たぬ。私はそれこそ武者震いをして立ち上がり、妻も驚くような勢いで仕事に熱中した。
私の店の経営の基本方針は利益三分主義で、一は店員に、一は将来のための積立、残りの一を危険負担という風にしていた。
書いたものより口約束こそは守れ。うそをついてはいけない。
いかなる逆境、悲運にあっても希望だけは希望だけは失ってはならない。
人の行く裏に道あり、その道に徹すれば、必ず道は開ける。
奉仕こそが商道である。
できない理由を考える前に、できる方法を考えてくれ。
人の行く裏に道あり花の山。
諦めない人が道を開く。
1936年2月 理化学研究所で開発された「理研陽画感光紙」の製造及び販売の目的で理化学興業から独立して「理研感光紙株式会社」として設立。
資本金35万円(~1938年)。市村清専務取締役就任(~1946年1月11日)
1938年3月 商号を理研光学工業株式会社に変更し、光学機器の製造販売を開始。
1949年5月 東京及び大阪両証券取引所市場に株式を公開。
1954年4月 東京都大田区に大森光学工場を新設(現・大森事業所)。
1955年5月 小型卓上複写機の製造販売を開始。
1961年5月 大阪府池田市に感光紙工場を新設(現・池田事業所)。
1961年10月 東京及び大阪両証券取引所市場第一部に上場。
1962年6月 静岡県沼津市で製紙工場の操業を開始し、原紙から感光紙の一貫生産を実施(現・沼津事業所)。
1962年12月 米国に現地法人RICOH OF AMERICA INC.を設立(現・RICOH AMERICAS CORPORATION)。
1962年12月 米国に現地法人RICOH OF AMERICA INC.を設立(現・RICOH USA, INC.)。
1963年4月 商号を株式会社リコーに変更。
1967年7月 宮城県柴田郡に東北リコー株式会社を設立。
1971年5月 神奈川県厚木市に事業所を新設し、大森事業所より事務機製造の一部を移転(現・厚木事業所)。
1971年6月 オランダに現地法人RICOH NEDERLAND B.V.を設立(現・RICOH EUROPE HOLDINGS B.V.)。
1973年1月 米国に現地法人RICOH ELECTRONICS,INC.を設立。
1976年12月 リコークレジット株式会社を設立(現・リコーリース株式会社)。
1978年12月 香港に現地法人RICOH BUSINESS MACHINES,LTD.を設立(現・RICOH HONG KONG LTD.)。
1981年3月 大阪工場に電子部品を開発、製造する電子技術開発センターを新設(現・池田事業所)。
1982年5月 福井県坂井市に感光紙製造工場を新設(現・福井工場)。
1983年12月 英国に現地法人RICOH UK PRODUCTS LTD.を設立。
1985年10月 静岡県御殿場市に複写機器製造工場を新設し、厚木事業所より複写機器製造の一部を移転。
1986年4月 神奈川県横浜市に創立50周年を機に研究所を新設し、大森事業所より研究開発部門の一部を移転(現・中央研究所)。
1987年4月 仏国に現地法人RICOH INDUSTRIE FRANCE S.A.を設立(現・RICOH INDUSTRIE FRANCE S.A.S.)。
1989年4月 兵庫県加東市佐保に電子部品製造工場を新設(現・リコー電子デバイス株式会社 やしろ工場)。
1989年4月 兵庫県加東郡社町に電子部品製造工場を新設(現・やしろ工場)。
1991年1月 中国に現地法人RICOH ASIA INDUSTRY(SHENZHEN)LTD.を設立。
1995年3月 米国のOA機器販売会社SAVIN CORPORATIONを米国の現地法人RICOH AMERICAS CORPORATIONを通じて買収。
1995年3月 米国のOA機器販売会社SAVIN CORPORATIONを米国の現地法人RICOH CORPORATIONを通じて買収。
1995年9月 英国のOA機器販売会社GESTETNER HOLDINGS PLCを買収(現・RICOH EUROPE PLC)。
1996年1月 リコーリース株式会社の株式を東京証券取引所市場第二部に上場(2001年3月、同所市場第一部に指定)。
1996年12月 シンガポールに現地法人RICOH ASIA PACIFIC PTE LTD.を設立。
1997年3月 米国に現地法人RICOH SILICON VALLEY,INC.を設立(現・RICOH INNOVATIONS CORPORATION)。
1999年8月 香港のOA機器販売会社INCHCAPE NRG LTD.を香港の現地法人RICOH HONG KONG LTD.を通じて買収。
2001年1月 米国のOA機器販売会社LANIER WORLDWIDE,INC.を米国の現地法人RICOH AMERICAS CORPORATIONを通じて買収。
2001年1月 米国のOA機器販売会社LANIER WORLDWIDE,INC.を米国の現地法人RICOH CORPORATIONを通じて買収。
2002年10月 中国に現地法人RICOH CHINA CO.,LTD.を設立。
2003年4月 東北リコー株式会社を完全子会社化。
2004年10月 日立プリンティングソリューションズ株式会社を買収。
2005年8月 神奈川県海老名市にリコーテクノロジーセンターを開設し、開発部門を統合。
2005年11月 東京都中央区に本社事務所を移転。
2007年1月 Danka Business Systems PLCの欧州におけるOA機器の販売・サービス網をオランダの現地法人RICOH EUROPE B.V.(現・RICOH EUROPE HOLDINGS B.V.)を通じて譲り受け。
2007年6月 International Business Machines Corporation(IBM)との共同出資会社であるINFOPRINT SOLUTIONS COMPANY, LLCが営業開始。
2007年6月 International Business Machines Corporation(IBM)との共同出資会社であるINFOPRINT SOLUTIONS COMPANY, LLC(現・RICOH PRODUCTION PRINT SOLUTIONS, LLC)が営業開始。
2008年5月 タイに現地法人RICOH MANUFACTURING(THAILAND)Ltd.を設立。
2008年8月 リコーエレメックス株式会社を完全子会社化。
2008年10月 米国のOA機器販売会社IKON Office Solutions,Inc.(現・RICOH USA, INC.)を米国の現地法人RICOH AMERICAS CORPORATIONを通じて買収。
2008年10月 米国のOA機器販売会社IKON Office Solutions,Inc.を米国の現地法人RICOH AMERICAS CORPORATIONを通じて買収(現・RICOH USA, INC.)。
2010年7月 株式会社リコーの販売事業部門及び国内の販売会社7社を合併しリコージャパン株式会社を設立。
2010年8月 リコーテクノロジーセンター(神奈川県海老名市)敷地内に新棟が完成。
2011年10月 HOYA株式会社のPENTAXイメージング・システム事業を買収(現・リコーイメージング株式会社)。
2013年4月 リコーテクノロジーズ株式会社へ、国内製造子会社及び株式会社リコーの設計機能の一部を移管。
2013年4月 リコーインダストリー株式会社へ、国内製造子会社及び株式会社リコーの生産機能の一部を移管。
2014年7月 リコージャパン株式会社へ、国内販売関連会社を統合。
2014年10月 リコーインダストリアルソリューションズ株式会社へ、国内製造子会社及び株式会社リコーの光学機器及び電装ユニット外販事業を移管。
2014年10月 リコー電子デバイス株式会社へ、株式会社リコーの電子デバイス事業を移管。
2016年4月 リコー環境事業開発センター(静岡県御殿場市)を開設。