「株式会社電通」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)
「株式会社電通」の企業理念
Good Innovation.
世の中の変化を的確に捉え、社会的価値の創造によりサステナブルな社会の実現を目指します。
「株式会社電通」のInnovationをつくり出す3要素
entrepreneurship+Ideas+Technology
企業家精神+アイデア+技術
技術革新だけを指す言葉ではない。
人へ、社会へ、新しい価値をもたらす幅広い変革を意味している。
「株式会社電通」のステートメント
「その手があったか」 と言われるアイデアがある。
「そこまでやるか」 と言われる技術がある。
「そんなことまで」 と言われる企業家精神がある。
私たちは3つの力でイノベーションをつくる。 人へ、社会へ、新たな変化をもたらすイノベーションをつくってゆく。
「株式会社電通」の創業者・創立者『光永星郎』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~
光永星郎(電通創業者)
光永星郎。
1866年(慶応2年)熊本県八代郡野津村(現・氷川町)出身。幼名は喜一。
宮原町の寺子屋に通い始め、野津小学校(のちの東光寺小学校)、小川町(現・宇城市)の漢学塾「菁莪堂」をひらく大槻英輿のもとで学んだ。
1880年(明治13年)、共立学舎に入ったが、中途で退学。
当時高揚していた藩閥打倒運動に共鳴したためと言われる。
陸軍士官学校の予備門育雄校に入り、軍人を志すが、病気のため右脚の自由を失った。
軍人になる道を閉ざされた光永は政治家を志し、自由党の政治家らと共に政府批判を展開したが、1887年(明治20年)に保安条例違反により、東京から3里以内に入ることを禁じられた。
このとき、尾崎行雄、星亨、中江兆民らが同様に追放処分を受けている。
のち、めさまし新聞や福岡日日新聞などに寄稿するようになり、日清戦争時には従軍記者として中国に向かう。
この時、通信手段の不備が原因でせっかく書いた記事の掲載が大幅に遅れた経験から、通信社の設立を構想するようになる。
同時に広告代理店を設立し、新聞社から得る通信料と新聞社に支払う広告料を相殺することを思い立つ。
光永の採ったこの方式は、近代的通信社の先駆であるフランスのアヴァスと同様の発想に基づいていた。
通信業を興すには莫大な先行投資を要することから、光永は広告代理店を先に設立した。
1901年(明治34年)7月1日、光永は電報通信社を創業。
2階建ての小さな借家からのスタートだった。
11月、同社を日本広告に併設した。
生まれたばかりの日本広告が大手業者に立ち向かうためには、特別な戦略・戦術が必要であった。
当時の広告取引は、新聞社の公表料金とは別の、第三者にはわからない割引料金による取引が常態化しており、非合理不透明との批判を受けていた。
そこで光永は3項目の基本戦略を掲げた。第1が「利率の低廉」、つまり手数料を他社より安くすること。
第2は「取引の公明」化、例えば臨時広告に対する業者の入札時に談合入札を拒否するなど、広告取引の透明化を図ること。
第3は「設備の完全」化で、意匠図案サービスの無料提供や調査情報サービスの提供によって広告主への支援サービスを充実させること。
それまでの広告代理業の常識を変えるこうした戦略により、日本広告の企業基盤はしだいに固められていった。
5年後の1906年(明治39年)12月27日「日本電報通信社」(現電通)を興し、「電報通信社」を買収し念願であった通信業をスタートさせた。
当時の通信社は、ほとんどが政党や政治家の機関的通信社であったが、光永が目指したのは、不偏不党で正確迅速なサービスを行う通信社であった。
こうした特色は信頼を高め、電報通信社の業績は急成長を遂げる。
1907年には、アメリカ合衆国で創業したばかりのUP(United Press Association、現在のUPI)と通信契約を締結した。
1931年(昭和6年)の満州事変後、国内の情報通信機関を一元化するため、電通と競合していた新聞聯合社との合併を図る動きが浮上した。
政府は日本の情報通信機関を一元化して国家的通信社を作る必要があるとして、当時電通とライバル関係にあった通信社、日本新聞聯合社と電通の統合方針を決定した。
光永は強硬に反発したが、かなわなかった。
1936年(昭和11年)、新聞聯合社の後身「同盟通信社」が誕生すると、電通は通信部を同盟に譲渡。
以後、電通は広告専門業者として再出発した。
1945年(昭和20年)、死去。享年78。
当時常務取締役だった吉田秀雄はその2年後の1947年、第4代社長に就任。
テレビの普及と共に、電通の快進撃が続いていった。
光永星郎(電通創業者)の名言・考え方
「健・根・信」
『健』は、一番尊いものは健康であり、才能も知恵も健康でなければ役に立たない。
『根』は、根気強く。言いかえれば努力・勤勉を長く続けなければならない。
『信』は、信義は人間関係のもとになるもので、約束は必ず守り、人から信用される人間になりなさい。
自分は人を訪問する際に、まず念ずることは不在でもよし、居留守でもよしということである。二度目、三度目もまた同じである。つまり、むだ足を覚悟で初めから要件をききとどめてもらおうなどと考えないのである。
われわれの事業は、いわば訪問事業ともいうべきもので、何が資本かといえば、足である。私が嘆称してやまないのは織田信長の桶狭間の朝駆け戦法である。それを応用してお得意を奇襲するならば、どんな相手でもこちらのものである。
訪問術にはいろいろな方法があるという人もいるが、一番いい手は、お世辞でも、土産物でもない。元気と根気だけである。何事でも人を動かすものは、健・根・信の外にない。私は同一人を百十四回訪問し、ついに面会に成功したことがあった。
「株式会社電通」の沿革・歴史(年表・社歴など)
1901年(明治34年)
光永星郎、日本広告株式会社を設立。4ヵ月後、電報通信社を併設。
1906年
電報通信社を改組し、株式会社日本電報通信社を設立。
1907年
日本電報通信社が日本広告株式会社を合併。通信・広告の併営となる。
1923年
社長制を導入。光永星郎専務が初代社長に就任。
1933年
本社新社屋(現・電通銀座ビル)完成。
1936年
「電聯合併」。通信部門を同盟通信社に移譲。広告専業となる。
1940年
光永眞三専務が第2代社長に就任。
1945年
上田碩三元常務が第3代社長に就任。
1947年
吉田秀雄常務が第4代社長に就任。
1955年
社名を株式会社電通(DENTSU ADVERTISING LIMITED)に変更。
1961年
米ヤング&ルビカム(Y&R)と提携調印。
1963年
吉田社長、死去。日比野恒次副社長が第5代社長に就任。
1967年
東京・築地に新本社社屋が完成。
1973年
中畑義愛副社長が第6代社長に就任。
1977年
田丸秀治専務が第7代社長に就任。
1978年
英文社名をDENTSU INCORPORATED(略称DENTSU INC.)に改称。
1985年
木暮剛平専務が第8代社長に就任。
1986年
新企業理念とスローガン「コミュニケーション・エクセレンス」を発表。
1993年
木暮社長が初代会長に、成田豊専務が第9代社長に就任
1996年
「日中広告教育交流プロジェクト」始まる。
2001年
創立100周年。東証第一部に上場。
2002年
ピュブリシス・グループに資本参加。
成田社長が第2代会長に、俣木盾夫副社長が第10代社長に就任。
経営ビジョン「価値創造パートナー」を発表。
東京・汐留に新社屋ビル完成。
2007年
俣木社長が第3代会長に、髙嶋達佳副社長が第11代社長に就任。
2009年
電通グループの新企業理念「Good Innovation.」を発表。
2010年
「電通デジタル・ホールディングス」を設立。
欧州・米州事業を管轄する「電通ネットワーク・ウエスト」を設置。
2011年
髙嶋社長が第4代会長に、石井直専務が第12代社長に就任。
2012年
「電通ネットワーク・ウエスト」を吸収統合した海外事業統括組織「電通ネットワーク」を設置。
2013年
英国の広告会社イージス・グループを買収。「電通イージス・ネットワーク社」を設立。
2014年
東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会が マーケティング専任代理店として電通を指名。
2017年
山本敏博常務が第13代社長に就任。
2020年
純粋持株会社制に移行し、山本敏博が株式会社電通グループの初代社長に就任。
株式会社電通の第14代社長に五十嵐博が就任。
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