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「株式会社小松製作所(コマツ)」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『竹内明太郎』/沿革・歴史など~

 

「株式会社小松製作所(コマツ)」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)

 

 

 

「株式会社小松製作所(コマツ)」の経営の基本「コマツウェイ」

 

 

コマツの経営の基本は、「品質と信頼性」を追求し、社会を含むステークホルダーからの信頼度の総和を最大化することです。

 

コマツウェイ

 

経営層を含むコマツグループのすべての社員が現場や職場で永続的に継承すべき価値観が「コマツウェイ」です。
コマツウェイは、当社の成長・発展の中で創業者の精神をベースに先人たちが築き上げてきた当社の強さ、強さを支える信念、基本的な心構え基本的な心構えと持つべき視点、それを実行に移す行動様式(スタイル)を明文化したものであり、当社ではコマツウェイを全社員に浸透させるよう、伝承・定着を図っています。
コマツウェイには「マネジメント/リーダーシップ編」、「“ものづくり”編」、「ブランドマネジメント編」から成るすべての社員向けにまとめた共通編に加え、関係各部門がそれぞれにまとめた部門編があります。

 

 

 

 

 

「株式会社小松製作所(コマツ)」のコマツウェイ「マネジメント/リーダーシップ編」

 

 

「マネジメント/リーダーシップ編」

 

 

1.経営トップ/リーダーの心構え

 

(1) 経営トップ/リーダーの現場密着

(2) パートナー間の連携

(3) 方針展開

(4) 人材育成

(5) ブランドマネジメントで意識改革

 

 

2.経営トップ/リーダーの行動指針

 

(1) 取締役会を活性化すること

(2) 全ステークホルダーとの コミュニケーションを率先垂範

(3) ビジネス社会のルールを遵守すること

(4) 決してリスクへの対応を先送りしないこと

(5) 常に後継者育成を考えること

 

 

 

 

 

「株式会社小松製作所(コマツ)」のコマツウェイ“ものづくり”編

 

 

“ものづくり”編

 

1.品質と信頼性の追求

2.顧客重視

3.源流管理

4.現場主義

5.方針展開

6.ビジネスパートナーとの連携

7.人材育成・活力

 

 

 

 

「株式会社小松製作所(コマツ)」のコマツウェイ「ブランドマネジメント編」

 

「ブランドマネジメント編」

 

1.顧客を理解する

2.顧客に総合力で向き合う

3.顧客と共に歩む

 

 

 

 

 

 

「株式会社小松製作所(コマツ)」の創業者・創立者『竹内明太郎』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~

 

 

 

竹内明太郎(コマツ創業者)

 

 

竹内明太郎。

小松製作所、唐津鉄工所の創立者であり、日産自動車の前身の快進社等を設立し、さらに早稲田大学理工学部、高知県工業高等学校(現・高知県立高知工業高等学校)などを創設し、工業立国に尽力した。ちなみに国産第1号車のダットサン(DAT)のTは竹内明太郎の頭文字である。

 

父の竹内綱は土佐藩の支藩、宿毛領の領主だった伊賀家の藩士で、明治維新後は板垣退助、後藤象二郎などと結んで自由党の結成に奔走し、自由民権運動で活躍。

板垣が岐阜で遊説中に刺され、「板垣死すとも、自由は死せず」の名文句を吐いたとき、真っ先に駆け寄り胸に刺さった短刀を引き抜いたことでも知られる。

 

明治23年の第1回衆議院議員選挙で高知1区から出馬して民選後初の国会議員となり、その後は鉱山経営に乗り出すなど経済界でも活躍する。

明太郎が成人してのち、父綱が竹内鉱業という鉱山会社を設立したことで、綱とともに本格的な経営者の道を歩みはじめる。

 

明太郎の活躍はこのときからはじまる。

経営を任された明太郎は最新の技術を積極的に導入し、茨城無煙炭鉱、佐賀県唐津の芳谷炭鉱、大夕張炭鉱、石川県小松の遊泉寺銅山など全国屈指の優良鉱山をもつ鉱山会社に成長させ、全盛期には三井や三菱と肩を並べるほどの勢いであった。

 

だが明太郎は、それぞれの地に、地下資源に頼らずとも生きていける地場産業、とくに機械工業を興すべきだと明太郎は考えた。

明治33年(1900年)に渡欧してパリ万博を見学したとき、欧州諸国の驚くべき工業力に圧倒され、大きな衝撃を受けた。

 

そう痛感した明太郎は帰国後、日本の工業化と人材育成にすべてのエネルギーを投入していく。

明太郎はさっそく、全国有数の銅山だった石川県小松の遊泉寺銅山に小松製作所を設立、油圧ショベルなどの建設機械や産業機械の世界トップメーカー「コマツ」の礎を築いていく。

 

明太郎は次いで、国産機械の品質向上を目指して、特殊鋼材の自家製造に踏み切る。

遊泉寺銅山内に、岩井輿助を所長とする「竹内鉱業小松電気製鋼所」を開設し、電気炉による鋼材生産に入った。

 

また、見込みのある社員を次々に海外留学させ先進技術を学ばせるとともに、私費で郷里高知に工科大学をつくる計画を進めた。

一方、早稲田大学を創立した大隈重信も同じころ、工業分野の人材育成のため理工学科の新設を目指していたが、資金面や人材面で難航し、実現が危ぶまれていた。

 

それを知った明太郎は、海外留学組を惜しげもなく早稲田の教授陣として差し出し、理工学科新設資金と長期にわたる運営資金すべてを明太郎は私費でまかなった。

明治41年6月、郷里高知に工業化の種を撒くべく私立高知工業学校(現県立高知工業高校)のための敷地2400坪余りを私費で購入する。

 

1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に立憲政友会(高知県郡部区)から出馬して当選し、2期務めた。

1928年3月25日、肺炎で死去。享年68。

 

成し遂げた事業の先駆性や、後世に与えた影響の大きさの割に、その実像が知られていないので、竹内明太郎は「無名の英雄」、「沈黙の巨星」などと呼ばれた。

小松製作所支配人を務めた森本嘉一氏はこう振り返っている。「名声や金銭に頓着せず、衣食住は正しく生きるための方便としか考えていなかった。自分を高しとするような人は、それが学者、実業家、技術者、政治家であれ、大嫌いだった」

 

 

 

竹内明太郎(コマツ創業者)の名言・考え方

 

良品に国境なし 工業こそ富国の基

 

真の国産化とは独創の製品を海外に輸出することにある

 

 

 

【参考】坂根正弘(コマツ9代目社長)

 

 

坂根正弘。

広島市生まれ、1945年原爆投下の2ヵ月前に島根県浜田市に疎開しその後は同市で育つ。

 

島根県立浜田高校を経て1963年、大阪市立大学工学部卒業。

ブルドーザーの設計技術者として小松製作所入社。

 

1989年取締役、1990年小松ドレッサーカンパニー(現コマツアメリカ)社長、1994年常務取締役 1997年専務取締役、1999年代表取締役副社長を経て2001年、同社代表取締役社長兼CEO就任、2007年同社代表取締役会長就任、2010年同社取締役会長就任、2013年同社取締役相談役就任。

 

2013年同社相談役特別顧問。

コマツ創立以来初の赤字800億円計上という厳しい時期の就任であったが、構造改革の断行により2003年3月期には約330億円の営業黒字というV字回復を達成。

 

欧米はもちろん、中国、東南アジア、インド、アフリカなどの新興国にグローバル展開を進め、2007年度は1700億円の経常利益を記録、2009年3月期には売上高2兆円、世界第2位の建設機械メーカーに導く。

日本経済新聞の企業評価ランキング「PRISM(多角的企業評価システム)」で、2001年231位だったコマツを2007年、2008年連続1位とした。

 

2008年デミング賞本賞受賞。

2009年には米ハーバードビジネスレビュー誌の「在任中に実績をあげた実行力のある最高経営責任者(CEO)」のトップ100に、日本人トップの17位に選出された。

2014年11月、旭日大綬章。

 

 

 

【参考】坂根正弘(コマツ9代目社長)の名言・考え方

 

 

 

大事なのは守るばかりではなく、攻めに転じることです。私がコマツに入社したころ、外資系企業の国内参入という事件が起きました。コマツはこれで終わりだと言われました。当時のコマツの社長、河合良成さんは「もう守りは一切しない、攻撃あるのみだ」と宣言しました。攻撃は最大の防御なりという彼の言葉を今でも覚えています。

 

 

日本と中国のように開発と生産の距離が離れてもやれるような商品があったとしたら、そういう商品について日本に勝ち目はないです。たしかに、米国のデルみたいに、開発と生産の密着度がなくてもやっていける商売はあります。でも、その商売には日本は長けていないんです。

 

 

 

日本が強いのは開発力と生産力の組み合わせです。開発と生産が一体になってコンスタントに改善を積み重ねることによって、製品の特長を作ってきた。

 

 

私の座右の銘のひとつに、「知行合一」という言葉があります。これは「知識は、行動や経験を通じて初めて身につく」という意味の中国・明代の王陽明の言葉です。自分の頭で考えたことを実行に移し、試行錯誤するなかで本質がみえてくるし、そうやって得られるものこそが本物の知識だと私は思っています。

 

 

私たちのやり方は、ハンター(狩人)よりファーマー(農業経営者)です。狩ったら終わりじゃなく、ファーマーはすぐに商売に結びつかないところにも地道に種をまいて育てるわけです。

 

 

現地法人に権限委譲するには、我々が大事にしている価値観を共有してもらわないといけません。過去には能力の高い人を落下傘で持ってきて失敗したこともあります。だから能力が少々高いことよりも、価値観を共有できているほうがいい。いまの現地のトップはほとんど15年から20年選手です。

 

 

「ダントツ経営」は一言でいうと顧客にとって「コマツでないと困る度合いを高めよう」という言葉に集約されます。まさしくダントツ商品を出し続けていれば、コマツでないと困る度合いが高まるという意味です。

 

 

 

よく「日本は技術で勝って、ビジネスで負ける」といわれますが、まさしくそのとおりです。日本企業では、トップがあれこれいわなくても、現場が積極的にいろいろ研究してくれるので、ときにピカッと光る技術が誕生します。それをビジネスにつなげるためには、「この技術を世界のデファクトスタンダードにするには、こういうビジネスモデルを構築する必要がある」とか、「足りない部分を補うために、いまのうちから企業買収を進めておこう」といった経営トップの戦略が必要になってきます。

 

 

 

日本流はすべてダメだと言っているように受け取られるかもしれませんが、決してそんなことはありません。アメリカには8年いましたが、外から日本を見たことで改めて、やっぱり日本はすごいなと感じ入る部分が多々あります。たとえばみんなで一緒に仕事をしていくときの連携や、ひとつのことをきめ細かく追求していく姿勢は本当に素晴らしい。いわば農耕民族的な強さですね。ただ、そうした強みが活きるのは、ものづくりをはじめとした現場です。

 

 

 

物事にはいろいろな見方がありますが、ビジネスにおいては、「長期最適」と「全体最適」を考えることで物事の本質に辿り着くことができます。逆にいえば、短期最適や部分最適で考えても、本質をつかむことはできません。

 

 

今までの日本は、モノ作りの現場力だけで勝負してきたのだろう。だから今度こそビジネスモデル作りで先行しなければいけない。ビジネスモデル作りをトップが引っ張り、労使の一体感を基盤にした現場力で新たなモデルをさらに強くしていくことが大事だ。

 

 

 

伝統市場の中だけでいくら物事を考えても成長機会はない。

 

 

 

 

 

 

「株式会社小松製作所(コマツ)」の沿革・歴史(年表・社歴など)

 

 

 

1917年1月竹内鉱業(株)(創立1894年)、小松鉄工所を開設し、自社用工作機械、鉱山用機械を生産

石川県能美郡国府村(現・小松市)で銅山を経営していた竹内鉱業が自家用機械生産のため、小松鉄工所を開設したのが始まりである。

また太平洋戦争中に日本海軍が米軍のブルドーザーを鹵獲、日本でも同じものを生産可能にする為、同社に送られて実用化の研究が始まったが、これが同社とブルドーザーの関わりの始まりである

 

1921年5月小松鉄工所を竹内鉱業(株)より分離独立し、「(株)小松製作所」を設立

当初は不況の煽りを受け細々と経営していたが、満州事変を境に業績が好転。

各種工作機械をはじめ、トラクターやブルドーザーの国産化にも成功した。

 

1935年10月高級鋳物、特殊鋼材の研究、製造開始

 

1938年5月粟津工場開設

 

1941年11月大型油圧成形プレスの生産開始

 

1943年1月国産ブルドーザーの原型「小松1型均土機」を製作

 

1947年12月「D50ブルドーザー」1号機完成

 

1948年2月ディーゼルエンジンの生産開始

 

1951年8月本社を小松から東京(千代田区丸の内)へ移転

 

1952年10月大阪工場開設

 

1952年10月モーターグレーダーの生産開始

1952年12月池貝自動車製造(株)、中越電化工業(株)を吸収合併し、それぞれ川崎工場、氷見工場として発足

 

1953年1月フォークリフト生産開始

 

1953年11月ダンプトラック、特殊車両の生産開始

 

1955年1月アルゼンチン向けモーターグレーダー輸出契約締結(初の建機輸出)

 

1955年8月アルゼンチン向け400t油圧万能プレス製作(初のプレス輸出)

 

1956年9月ショベルローダーの生産開始

 

1956年10月北京・上海日本商品見本市に出品、中国向け第一次建設機械輸出契約締結

 

1958年9月インド国防省とトラクター国産化に関する技術援助契約締結

 

1961年9月全社的品質管理(QC)導入

 

1961年11月米カミンズ社とディーゼルエンジンに関する技術提携契約締結

 

1962年12月小山工場開設

 

1963年6月米ビサイラス・エリー社と油圧ショベルに関する技術提携契約締結(1981年3月解消)

 

1964年インドに初の海外駐在員事務所を設立

 

1964年11月デミング賞実施賞を受賞

 

1964年12月米インターナショナルハーベスター社と合弁事業契約締結(1982年1月解消)

 

1965年ホイールローダーの生産開始

 

1966年3月現住所に本社新社屋(小松ビル)竣工

 

1967年1月ベルギーに「小松ヨーロッパ(株)」設立(初の海外現地法人)

 

1968年10月油圧ショベルの生産開始

 

1968年12月小山工場にエンジン総合工場完成

 

1968年12月コマツ製雪上車KD60が南極点到達

 

1970年2月「小松アメリカ(株)」設立

 

1971年1月「小松シンガポール(有)」設立

 

1972年12月小型プレス分野に進出

 

1973年4月氷見鋳鋼工場竣工

 

1974年9月メキシコに「ディナ小松(株)」設立

 

1975年4月コマツブラジル(有)で初の海外現地生産機「D50A」完成

 

1977年10月小口径管推進工法アイアンモールを発売

 

1979年2月オーストラリアに「小松オーストラリア(株)」設立

 

1980年7月超大型コンビネーションプレスライン開発

 

1981年11月日本品質管理賞受賞

 

1982年12月インドネシアに「小松インドネシア(株)」設立

 

1984年3月レーザー加工機を発売

 

1985年2月米国に「小松アメリカマニュファクチャリング(株)」設立

 

1985年8月米国に「小松アメリカインダストリーズ(株)」設立

 

1985年12月英国に「英国小松(株)」設立

 

1986年8月ドイツに「小松インダストリーズヨーロッパ(有)」設立

 

1988年9月米国に「小松ドレッサーカンパニー」設立

 

1989年7月ドイツのハノマーグ社に資本参加

 

1989年9月ファインプラズマ加工機を発売

 

1989年12月ベルギーに欧州事業を統括する「欧州小松(株)」を設立

 

1991年4月コマツ女子柔道部創部

 

1991年10月オーストラリアに「エヌエスコマツ(株)」設立(2000年6月「コマツオーストラリア(株)」に社名変更)

 

1991年11月イタリアのファイ社に資本参加

 

1993年10月日米に「コマツカミンズエンジン(株)」と「カミンズコマツエンジンカンパニー」を設立

 

1994年6月「コマツ産機(株)」、「コマツ工機(株)」を設立

 

1995年4月次世代ステッパー光源の「エキシマレーザ」の事業化を開始

 

1995年5月中国に「小松常林建機公司」設立(2000年11月「小松(常州)建機公司」に社名変更)

 

1995年8月中国に「小松山推建機公司」設立

 

1995年9月イタリアに「ファイコマツインダストリーズ(株)」設立(2000年6月「コマツユーティリティヨーロッパ(株)」に社名変更)

 

1995年11月タイに「バンコックコマツ(株)」設立

 

1996年1月ドイツに「デマーグコマツ(有)」設立 (現「 コマツドイツ(有)」)

 

1996年1月米国のモジュラーマイニングシステムズ社に資本参加

 

1996年5月中国に「小松(上海)有限公司」設立

 

1997年2月南アフリカ共和国に鉱山機械・建設機械の販売会社「コマツ南部アフリカ(株)」を設立

 

1997年10月鋳造部門を独立し「コマツキャステックス(株)」を設立

 

1998年KOMTRAX(機械稼働管理システム)開発

 

1998年1月カミンズ社とディーゼルエンジン共同開発合弁会社「(株)アイ・ピー・エー」を設立

 

1998年2月インドに「 エルアンドティーコマツ(株)」設立

 

1999年1月アラブ首長国連邦に中近東地域の建機販売統括会社「コマツ中近東(株)」を設立

 

1999年5月チリに「コマツカミンズチリ(有)」設立

 

1999年9月世界最大のメカニカルドライブ式ホイールローダー「WA1200」を新発売

 

2000年11月米国の建設・鉱山機械部品メーカー、ヘンズレー・インダストリーズ社を買収

 

2001年1月中国における建設機械の地域統括会社「小松(中国)投資公司」を設立

 

2001年7月KOMTRAX(機械稼働管理システム)標準搭載開始

 

2004年1月スウェーデンのパルテック・フォレスト社を買収し、林業機械の製造販売会社「コマツフォレストAB」を設立

 

2004年8月アテネ五輪でコマツ女子柔道部の谷本歩実選手(63kg級)が優勝

 

2006年8月コマツウェイを制定

 

2006年10月コマツ電子金属の株式51%を(株)SUMCOに譲渡

 

2007年1月茨城工場、金沢工場、コマツインディア(有)生産開始

 

2007年4月小松フォークリフトとコマツゼノアを合併、「コマツユーティリティ(株)」を設立

 

2008年「日本地雷処理を支援する会」と提携し、カンボジアとアンゴラで対人地雷処理と復興支援活動を開始

 

2008年1月無人ダンプトラック運行システム(AHS)を世界で初めて市場導入

 

2008年3月(株)日平トヤマを連結子会社化(10月「コマツNTC(株)」に社名変更)

 

2008年6月ハイブリッド油圧ショベルを世界で初めて市場導入

 

2008年8月北京五輪で谷本歩実選手が優勝(2連覇)

 

2009年4月建設機械の国内販売・サービス事業を再編し「コマツ建機販売(株)」を設立

 

2011年4月コマツユーティリティ(株)を吸収合併

 

2011年4月コマツNTC(株)とコマツ工機(株)が合併。コマツエンジニアリング(株)を吸収合併

 

2011年5月当社発祥の地、石川県小松市に「こまつの杜」が誕生

 

2011年5月ギガフォトンを完全子会社化

 

2012年8月ロンドン五輪で杉本美香選手が銀メダル獲得

 

2013年6月世界初自動ブレード制御機能搭載中型ICTブルドーザーを市場導入

 

2013年10月小松山推建機公司がデミング賞を受賞

 

2014年10月世界初インテリジェントマシンコントロールを実現したICT油圧ショベルを市場導入

 

2015年2月建設現場ICTソリューション「スマートコンストラクション」を開始

 

2017年4月米国の大手鉱山機械メーカーであるジョイ・グローバル社を買収、「コマツマイニング(株)」に社名変更

 

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