【東京都東大和市】「東大和」の地名由来~東京北多摩の歴史散歩~

東大和市の地名の由来は、大正8年、それまで仲良くなかった芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、狭山、清水の6つの村が一緒になる際「大いに和して一つになる」という願いを込めて名づけられたと言われてます。

1970年に市制を施行する時に、神奈川県の大和市と区別するため「東大和」となったそうです。

 

 

「東大和」の地名由来

 

大正8年11月に、芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、狭山、清水の6つの村が一緒になり「大和村」になりました。

これはそれまで仲が良く無かった6つの村が「大いに和して一つになる」ということからつけられたそうです。

その後、1970年に市制を施行する時に、神奈川県の大和市と区別するため、東京の大和市という意味、あるいは大和市よりは東にあるなどという意味をこめて付けられました。

 

【経緯】

1889年4月、町村制施行に伴い、神奈川県北多摩郡清水村、狭山村、高木村、奈良橋村、蔵敷村、芋窪村が町村組合を結成し、高木村外五ヶ村組合が発足。1893年4月、神奈川県から東京府へ移管。

1919年11月、高木村外五ヶ村組合の各村が合併し大和村へ。

1943年7月、東京都制施行に伴い、東京府が東京都に。

1954年5月、大和村が町制施行により大和町へ。

1970年10月、大和町が市制施行。即日改称し東大和市へ。

 

 

 

東大和市の歴史

 

多摩湖の底の遺跡群の発掘査で、約2万年前の石器が発見されました。
そのころから狭山丘陵には人が住みついていたようです。

ただ縄文時代から弥生、古墳時代から奈良時代までの遺跡、発掘物は大変少なく、この時代はあまり人は住んでいなかったと想像されます。
平安時代になると多摩湖の周辺から、当時の住まいのあとなどが発見されています。

しかし鎌倉時代から江戸時代前までの資料史跡が乏しく、当時の暮らしぶりなど良くわかっていないのが現状です。
江戸時代になると青梅街道が整備され交通も盛んになり、御鷹場になるなど徳川幕府との関わりも見受けられます。

やがて芋窪や蔵敷などの村が形成されていきます。

明治時代になり廃藩置県で最初、神奈川県多摩郡の一部となりました。
後に多摩郡が東西南北の4つに分割され、明治26(1893)年に東京府に編入されました。

 

 

 

旧日立航空機株式会社変電所(都立東大和南公園内)

 

都立東大和南公園は昭和61(1986)年、市南西部の大和基地跡地に造られました。

野球場、8面のテニスコート、市民体育館、市民プールがあるほか、近くには桜が丘市民広場などがあり、スポーツが楽しめます。

約10ヘクタールの広さをもつ公園内には、水のせせらぎの場やおよそ150種類もの花樹類などがあります。

また、東側の歩道は、広く整備され、明るくゆったりした雰囲気をつくり出しています。

夏には市民プールがにぎわい、すぐ近くのイトーヨーカドー東大和店も人気のショッピングスポットです。

都立東大和南公園には戦争の爪痕が遺されている旧日立航空機株式会社変電所があります。

昭和13(1938)年、北多摩郡大和村(現在の東大和市)に軍用機のエンジンを製造する大きな軍需工場が建設されました。

 

東京瓦斯電気工業株式会社(翌年、合併により「日立航空機株式会社」となる)立川工場です。

工場は拡張を続けながら操業し、昭和19(1944)年には、従業員数13,000人を数えるほどの規模となります。

 

工場の北西部にある変電所は、高圧電線で送られてきた電気を減圧し、工場内へと送る重要な施設でした。

太平洋戦争末期になると、軍需工場が集中していた多摩地域は、数多くの空襲を受けることとなります。

この工場でも昭和20(1945)年の2月17日、4月19日、4月24日に受けた3回の攻撃で、工場の従業員や動員された学生、周辺の住民など100人を超える方が亡くなりました。

4月24日の空襲では、工場は8割方壊滅したといわれています。

 

変電所も窓枠や扉などは爆風で吹き飛び、壁面には機銃掃射や爆弾の破片による無数のクレーター状の穴ができました。

戦争が終わると、工場はスレートや編み物機の製造など平和産業に転換し、自動車会社との合併や社名変更などを行いながら、平成5(1993)年まで操業を続けました。

 

その間、変電所は主要設備機器の更新をしながら、工場へ電気を送り続けていました。

平成5(1993)年、変電所を含む工場の敷地は、都立公園として整備されることになり、変電施設としての役割を終えました。

 

しかし、地域住民や元従業員の方々の強い要望により、変電所の建物はそのままの場所で保存されることになりました。

東大和市は平成7(1995)年10月1日に文化財に指定し、後世に伝えることにしました。