津田梅子さんは、ご存知、津田塾大学創設者。

1900年設立当初は千代田区麹町にあったようですが、1931年に小平市に移転。

卒業生には映画字幕翻訳家戸田奈津子さんやDeNA創業者南場智子さんがいます(^^)

 

 

 

 

 

津田塾大学とは?

 

 

津田塾大学は、東京都小平市に本部を置く私立大学です。

最寄り駅は西武国分寺線鷹の台駅下車、徒歩約8分、またはJR武蔵野線新小平駅下車、徒歩約18分ほどの場所に位置します。

約9万平方メートルのキャンパスは武蔵野の面影を残し、玉川上水も近くを流れ、思索・散策に最適です。

1900年に設立した女子偀学塾を前身とし、現在も創立者津田梅子の「自ら学び、考え、行動せよ」という教育理念が受け継がれています。

 

英文学や国際関係学の分野で活躍する卒業生を多く輩出し、女性の社会進出に貢献した大学で、就職率は高く、総合職や専門職への就職も多いことでも有名です。

英語教育に力を入れており、「発音クリニック」という専門家から発音指導を受けることができる講座や、好きな本をレポートにまとめる「Extensive Reading I 」など総合的な英語スキルが身につく大学として有名です。

 

 

 

 

 

 

津田塾大学の歴史

 

 

1871年(明治4)12月、横浜を出港した欧米視察の「岩倉使節団」一行にいたのが、当時満6歳の津田梅子でした。

1900年(明治33年)、従来の「家」制度による家政学が中心だった官制の良妻賢母育成女子高等教育制度に疑問を抱いた津田梅子が、瓜生繁子や大山捨松とともに、日本では先駆的な学問重視の女子高等教育機関を私学、女子英学塾として現在の東京都千代田区に設立。

 

1905年(明治38年)、女子の学校では初めての英語科教員無試験検定取り扱い許可を受けます。

1969年(昭和44年)には、当時はまだ草分け期にあった国際関係論という分野を、日本の大学として初めて国際関係学科として創設。

 

 

学生の主体性を重んじて校歌、校章、校旗を敢えて持たないのも津田梅子以来の津田塾の伝統。

「自ら学び、考え、行動せよ」という建学の精神を、教師から学生へ、先輩から後輩へ伝えていく女子教育を行っており、校章、校旗は敢えて持たないのではなく、持つ必要性を感じることなく現在に至ったそうです。

 

1933年(昭和8年)に「津田英学塾」へ、1943年(昭和18年)に「津田塾専門学校」へ改称。

戦後の1948年(昭和23年)に「津田塾大学」となります。

 

 

 

 

 

津田塾大学創立者、津田梅子とは?

 

 

津田梅子。

梅子は、津田仙(旧幕臣・東京府士族)・初子夫妻の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)に生まれます。

 

 

父・仙は幕臣であったため、幕府崩壊とともに職を失ったが、明治2年(1869年)に築地のホテル館へ勤めはじめ、津田家は一家で向島へ移ります。

仙は西洋野菜の栽培なども手がけ、幼少時の梅子は手習いや踊などを学び、父の農園の手伝いもしていたそうです。

 

 

明治4年(1871年)、仙は明治政府の事業である北海道開拓使の嘱託となり、津田家は麻布へ移ります。

開拓使次官の黒田清隆は女子教育にも関心を持っていた人物で、仙は黒田が企画した女子留学生に梅子を応募させ、同年、岩倉使節団に随行して渡米。

5人のうち最年少の満6歳でした。

 

アメリカではジョージタウンで日本弁務館書記で画家のチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられます。

梅子はワシントン郊外のランマン夫妻のもとで現地の初等・中等教育を受け、アメリカの生活文化を直接体験。

 

 

この頃にはキリスト教への信仰も芽生え、ランマン夫妻には信仰を薦められていないが、明治6年(1873年)7月には特定の宗派に属さないフィラデルフィアの独立教会で洗礼を受けます。

明治11年(1878年)にはコレジエト校を卒業し、私立の女学校であるアーチャー・インスティチュートへ進学。

 

ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学びます。

明治14年(1881年)には開拓使から帰国命令が出るが、在学中であった山川捨松と梅子は延長を申請し、明治15年(1882年)7月に卒業。同年11月には日本へ帰国。

 

また、幼少からの長い留学生活で日本語能力はむしろ通訳が必要なほどになってしまい、日本的風習にも不慣れでした。

アメリカで多感な少女時代を送った梅子にとって、帰国後の生活はカルチャーショックの連続でした。

 

女性の置かれていた状況に驚き、日本女性の地位を高めなければという思いがつのります。

明治16年(1883年)には、外務卿・井上馨の邸で開かれた夜会に招待され、伊藤博文と再会し、華族子女を対象にした教育を行う私塾・桃夭女塾を開設していた下田歌子を紹介されます。

 

このころ父・仙との確執もあったことから、梅子は伊藤への英語指導や通訳のため雇われて伊藤家に滞在、歌子からは日本語を学び、「桃夭女塾」へ英語教師として通います。

明治18年(1885年)には伊藤に推薦され、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師として教えることとなります。

 

明治19年(1886年)には職制変更で嘱託となります。

梅子は華族女学校で3年余り教えているが、上流階級的気風には馴染めなかったと言われ、この頃には何度か薦められていた縁談も断っています。

 

やがて梅子は「二度と結婚の話はしないでください。話を聞くだけでもうんざりです」と手紙にしたためたほど、日本の結婚観に辟易して生涯未婚を誓います。

明治21年(1888年)には、留学時代の友人アリス・ベーコンが来日し、彼女に薦められて再度の留学を決意。

 

父の仙の知人で、日本の商業教育に携わっていたウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘・クララの仲介で留学希望を伝えて学費免除の承諾を得て、校長の西村茂樹から2年間の留学を許可されます。

明治22年(1889年)7月に再び渡米。

 

 

当時は進化論においてネオ・ラマルキズムが反響を呼んでおり、梅子はフィラデルフィア郊外のリベラル・アーツ・カレッジ、ブリンマー・カレッジで生物学を専攻。

3年間の課程を切り上げて終了させ、留学2年目には蛙の発生に関する論文を執筆。

 

使命であった教授法に関する研究は州立のオズウィゴー師範学校で行います。

梅子に留学を勧めたアリス・ベーコンは日本習俗に関心を持ち、日本女性に関する研究をしていた。ベーコンがアメリカへ帰国し、研究を出版(『日本の女性』)する際には手助けをしています。

 

これは梅子が日本の女性教育に関心を持つきっかけになったとも言われており、留学を一年延長すると、梅子は日本女性留学のための奨学金設立を発起し、公演や募金活動などを行います。

大学からはアメリカへ留まり学究を続けることを薦められるが、明治25年(1892年)8月に帰国。

再び華族女学校に勤めます。

梅子は教師生活を続けるが、自宅で女学生を預かるなど積極的援助を行い、明治27年(1894年)には明治女学院でも講師を務めます。

 

明治31年(1898年)5月、女子高等師範学校教授を兼任。

同年、アメリカでの万国婦人クラブ連合大会で日本女性の代表として挨拶を行い、ヘレン・ケラーを訪ね、招かれて立ち寄った英国ではナイチンゲールやヨーク大主教とも会見。

 

多くの刺激を受け、日本の女性のための高等教育に力を尽くす決意を固めます。

成瀬仁蔵の女子大学創設運動や、明治32年(1899年)に高等女学校令、私立学校令がそれぞれ公布されて法整備が整い、女子教育への機運が高まると、明治33年(1900年)に官職を辞します。

 

父の仙やアリス・ベーコン、大山、瓜生、桜井彦一郎らの協力者の助けを得て、同年7月に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)の設立願を東京府知事に提出。

 

 

認可を受けると東京麹町区に開校し、塾長となり、華族平民の別のない女子教育を志向して、一般女子の教育を始めます。

女子英学塾は、それまでの行儀作法の延長の女子教育と違い、進歩的で自由なレベルの高い授業が評判となります。

 

独自の教育方針を妨害されず貫き通すため、資金援助は極めて小規模にとどめられ、梅子やマラらの友人ははじめ無報酬で奉仕していたものの、学生や教師の増加、拡張のための土地・建物の購入費など経営は厳しかったと言われます。

明治36年(1903年)には専門学校令が公布され、塾の基盤が整うと申請して塾を社団法人化。

 

梅子は塾の創業期に健康を損ない、塾経営の基礎が整うと大正8年(1919年)1月に塾長を辞任します。

鎌倉の別荘で長期の闘病後、昭和4年(1929年)に脳出血のため64歳で死去。

 

 

 

 

 

 

津田塾大学出身者

 

 

田嶋陽子(元議員・評論家)

戸田奈津子(字幕翻訳家)

南場智子(DeNA創業者)

中根千枝(東京大学名誉教授)

鶴見和子(上智大学名誉教授)

神谷美恵子(精神医学、津田塾大学名誉教授)

山川菊栄(初代労働省婦人少年局長)

大庭みな子(小説家・日本ペンクラブ副会長)

神近市子(評論家)

福島敦子(キャスター・エッセイスト)

草野満代(キャスター・アナウンサー)

など、幅広い分野で数多く活躍している方々がたくさんいらっしゃいます。