【東京都国分寺市】東京経済大学と創立者「大倉喜八郎」~東京北多摩スポット・観光・イベント・公園・大学など~

 

 

 

 

東京経済大学とは?

 

 

東京経済大学は、東京都国分寺市に本部を置く私立大学です。

通称は「東経大」。

「国分寺キャンパス」はJR国分寺駅からもほど近くにある大学です。

1900年に創立された大倉商業学校を前身とし、1949年に大学に昇格して東京経済大学としてスタートしました。

 

その後、数々の学部、学科が開設され、2002年には経済学部 国際経済学科を開設。

現在の4学部6学科体制となりました。

インターンシップをすべての学部、学科の授業で取り入れているので、社会の実体験をすることができます。

全学部が使用している「国分寺キャンパス」、主に体育会系サークルの学生が使用するグラウンド施設、「武蔵村山キャンパス」の2つのキャンパスがあり、スクールバスでの行き来が可能。

 

2014年には図書館が新たに変わり、学生らが大倉喜八郎を顕彰できる設計となる建物が設立されました。

11万人近い卒業生がおり、経済界をはじめとして政治・会計・ジャーナリズム・芸能・スポーツなどのさまざまな分野に人材を輩出しています。

 

 

 

 

 

 

 

東京経済大学の歴史

 

 

東京経済大学の前身は、大倉財閥を作った大倉喜八郎によって1900年に現在の東京・虎ノ門に創立された大倉商業学校。

創立委員として大倉の友人である石黒忠悳(大倉商業学校と大倉高商で理事・督長を歴任)・渡邊洪基(大倉商業学校の督長を歴任)・渋沢栄一が参画し、1919年には旧制専門学校の大倉高等商業学校(大倉高商)を開校。

1946年には大倉経済専門学校(大倉経専)として現在の国分寺キャンパスに移転、その3年後に大学に昇格。

創立時の所在地は、大倉喜八郎の邸宅(現在はホテルオークラ、大倉集古館が建つ)の隣接地であった東京市赤坂区葵町(現・港区虎ノ門)でした。

しかし空襲による校舎焼失により、1946年1月20日に現在のキャンパスがある国分寺へ移転。

なおこの国分寺の土地は大倉財閥系列企業であった中央工業(新中央工業の前身)所有の土地であり、赤坂の校地との引き換えによって取得したものだそうです。

 

赤坂葵町の校地には現在、虎ノ門ツインビルディング(旧新日鉱ビルディング)が建設されており、ビル敷地内の緑地には創学の碑があります。

 

 

 

 

 

 

 

東京経済大学創立者「大倉喜八郎」とは?

 

 

大倉喜八郎。

天保8年(1837年)9月24日、越後国蒲原郡新発田町(現新潟県新発田市)の下町に父・千之助、母・千勢子の三男として生まれます。

幼名は鶴吉。23歳の時に尊敬していた祖父の通称・喜八郎から名を取り、喜八郎と改名。

大倉家は喜八郎の高祖父の代より新発田の聖籠山麓の別業村で農業を営むが、曽祖父・宇一郎(初代定七)の時、兄に田地を返し、商いで生計を立てます。

祖父・卯一郎(2代目定七)の時に、薬種・砂糖・錦・塩などで大きな利益を得、質店を営み始めます。

この頃より藩侯への拝謁を許されるようになります。


父・千之助(4代目定七)は天保の大飢饉で米倉を開き窮民に施すなどの経緯から藩主から検断役を命じられた家柄であったとされます。

喜八郎は家業を手伝う傍ら、8歳で四書五経を学び、12歳の時から丹羽伯弘の私塾積善堂で漢籍・習字などを学ぶ。

この時に陽明学の「知行合一」という行動主義的な規範の影響を受けたといわれます。

嘉永4年(1851年)、丹羽塾同学の白勢三之助の父の行動により、酒屋の営業差止めに追い込まれた事に大変憤慨し、江戸に出ることを決意。


同年中に江戸日本橋長谷川町(現日本橋堀留町)の狂歌の師・檜園梅明(ひのきえん・うめあき)を訪ね、檜垣(ひがき)の社中に入ります。

江戸到着後、狂歌仲間の和風亭国吉のもとで塩物商いの手伝いを経たのち、中川鰹節店で丁稚見習いとして奉公。

丁稚時代に安田善次郎と親交を持つようになります。

安政4年(1857年)には奉公中に貯めた100両を元手に独立し、乾物店大倉屋を開業。


横浜で黒船を見たことを契機に乾物店を慶応2年(1866年)に廃業し、同年10月に小泉屋鉄砲店に見習いに入ります。

約4ヶ月間、小泉屋のもとで鉄砲商いを見習い、慶応3年(1867年)に独立し、鉄砲店大倉屋を開業。

神田和泉橋通りに開業した大倉屋は「和泉橋通藤堂門前自身番向大倉屋」と名乗り、小泉屋鉄砲店が出入りする屋敷先とは一切の商売をしないと証文を出しました。

店頭には現物を置く資金がなかったため、注文を受けては横浜居留地に出向き百数十度に渡り外商から鉄砲などを購入。


不良銃を高値で売りつける鉄砲商が多かったため、良品を得意先へ早いかつ安い納品を心がけていた大倉屋は厚い信用を博しました。

そののち官軍御用達となり、明治元年(1868年)には新政府軍の兵器糧食の用達を命じられるまでになりました。

明治4年(1871年)7月以降は、鉄砲火薬免許商として、諸藩から不要武器の払い下げを受けます。

大倉は明治元年(1868年)に有栖川宮熾仁親王御用達となり、奥州征討軍の輜重にあたります。


これ以後、明治7年(1874年)の台湾出兵の征討都督府陸軍用達、明治10年(1877年)の西南戦争で征討軍御用達、明治27年(1894年)の日清戦争では陸軍御用達として活躍。日露戦争の際は軍用達となり、朝鮮龍巌浦に大倉組製材所を設立。

実業に関しては、明治4年(1871年)3月に新橋駅建設工事の一部を請け負います。

同じ頃、高島嘉右衛門らとともに横浜水道会社を設立し、建設工事に着工。

同年頃、貿易商社を横浜弁天通に開設し、海外貿易にも携わるようになります。

欧米の文物の輸入から服装の一変を予見し、洋服裁縫店を日本橋本町に開設。


明治5年(1872年)3月には銀座復興建設工事の一部を請け負い、同8年(1875年)に東京会議所の肝煎となります。

この時、東京府知事・楠本正隆の要請で渋沢栄一も肝煎となり、以後50年に及ぶ親交を持ちます。

明治9年(1876年)には大久保利通とロンドンで会見した折に要請・協議した、被服の製造所である内務省所管羅紗製造所(千住製絨所と改称)を設立(払い下げは遅れた)。

明治10年(1877年)の東京商法会議所(現、東京商工会議所)、横浜洋銀取引所(横浜株式取引所)を皮切りに、様々な方面で新規事業の設立に関与。


明治14年(1881年)に鹿鳴館建設工事に着工、藤田伝三郎らとともに発起人となった大阪紡績会社も設立。

明治15年(1882年)3月には日本初の電力会社・東京電燈を矢島作郎、蜂須賀茂韶とともに設立。

明治20年(1887年)には藤田らと共同して日本土木会社、内外用達会社を設立し、大倉組商会の事業を継承。

同年に帝国ホテルも設立。


この他に東京瓦斯、京都織物会社、日本製茶、東京水道会社などの株主や委員などにも名を連ねるなど、日本の近代化に尽力。

明治26年(1893年)に大倉土木組(現・大成建設)を設立し、日本土木会社の事業を継承、大倉組商会と内外用達会社を合併。

日本初の私鉄である東京馬車鉄道をはじめ、九州鉄道、山形鉄道、北陸鉄道、成田鉄道、日本国外では台湾鉄道、京釜鉄道、金城鉄道、京仁鉄道など日本国内外で数多くの鉄道企業への参加、出資などを行ないました。

大倉は教育機関の創設にも熱を入れ、明治32年(1899年)、韓国に善隣商業学校(韓国・現善隣インターネット高等学校)、明治40年(1907年)9月に大阪大倉商業学校(現・関西大倉中学校・高等学校)を創設。


明治33年(1900年)、還暦銀婚祝賀式の記念事業として私財50万円を投じて大倉商業学校(現・東京経済大学)を創設。

明治39年(1906年)に麦酒三社合同による大日本麦酒株式会社設立に関係し、翌40年(1907年)には日清豆粕製造(現・日清オイリオグループ)、日本皮革(現・ニッピ)、日本化学工業、帝国製麻(現・帝国繊維)、東海紙料(現・東海パルプ)を設立。

明治42年(1909年)日本ホテル協会会長。

明治44年(1911年)に商事・工業・土木部門を営む株式会社大倉組を設立するも17年に大倉工業株式会社、大倉土木組と分離し、大正7年(1918年)には大倉商事株式会社と改称し、大倉組のコンツェルン化を行いました。


昭和2年(1927年)に日清火災海上保険を買収し、大倉火災海上保険(現・あいおいニッセイ同和損害保険)とするなど晩年まで精力的に活動。

同年1月5日に隠居し、嗣子・喜七郎が家督を継承。

昭和3年(1928年)4月22日大腸癌のため死去、没年92歳。

墓所は護国寺。

政界からは首相・田中義一を始め若槻禮次郎、浜口雄幸、床次竹二郎、清浦奎吾、関屋貞三郎など、実業界からは三井高棟(三井財閥)、岩崎小弥太(三菱財閥)、安田善三郎(安田財閥)、馬越恭平、浅野総一郎(浅野財閥)ら、国外からは張作霖、陳宝琛、段祺瑞、蒋介石など葬儀に訪れました。

独自での企業起業創立だけでなく、親しくしていた「資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一の呼びかけに協力し、鹿鳴館、帝国ホテルなども創立し運営。二人が発起人となり東京商法会議所(現東京商工会議所)を設立しています。

 

 

 

 

 

 

 

大倉喜八郎の名言・考え方

 

 

進一歩という金言がある。だが、私は事を行なうに際して、つねに5歩も10歩も突き進んでから改めて考えるようにしてきた。私はこの生き方で、今まで後悔したことはなかった。

 

 

自分で働らいて儲けて、一寸儲ければ一寸だけ、一尺儲ければ一尺だけ、次第次第に大きくなるのがよいのです。

 

 

今日の経験を明日もちいない者は、大成功はのぞまれぬ。

 

 

世間から何といわれても自分の思うところは一歩も枉げない、知己は百年の後に一人得ればよい。

 

 

この大倉は事業をやるために生まれてきたのだ。失敗したとて元の大倉に戻るだけだ。

 

 

 

誰も引き受けないところに商機はある。人が捨てる時、我はこれを拾う。

 

 

昔から英雄豪傑とうたわれた人は、もちろん勇気や胆力のあることは分かりきった話であるが、みな奥床しい愛嬌を持っていたことは隠れもない事実である。 武将とか政治家でさえ愛嬌を持っているいる方が偉人といわれるのだから、実業家などはなおさら愛嬌が必要ではないか。実業界に立つ人のみでなく、いやしくも社交的動物として社会で人並み以上に活躍せんとするものは同じである。心の内から自然とわいてくるところの情愛がこもっておらねばダメである。人を使うにも、また使われるにしても、人情の至誠によりあくまでも博愛、慈善の心根がなくてはいけない。その博愛というものが、自然と人に対して愛嬌となり、人を喜ばせ、自分自身も何となく心うれしく感じられるものである。愛嬌たっぷりで、いつもニコニコしていればよいが、時と場合によって威厳もなければならないが、それは非常な場合で、百のうちわずかに一、二しかないものだ。

 

 

 

一、時は金なり
二、油断するな
三、無駄をするな
四、天物を*暴殄(ボウテン)するな
五、信用を重んずべし、信用なき人は首なき人と同様なりと知るべし
六、何事も魂を籠めて誠意を以て働け
七、遊ぶも働くも月日は流れる、奮闘に興味を持つべし
八、楽隠居の考えを止め、勇気を鼓し、家の為に、国の為努力するこそ人間の本分なり
九、他人が十時間働くなり、自分は十二時間働け、精神一到何事不成の心持を持てすれば、成功必ず疑なし

 

 

 

紛々たる世の毀誉褒貶を気にしていて何ができる。区々たる世評などに頓着せず、自ら信ずるところに邁進し、自ら好むところに直進し、思う存分の働きをなし、倒れてのちやむのがすなわち男子の本懐ではないか。

 

 

 

知恵比べ 努力比べの 今の世に 欲しきは人の 勇気なりけり。

 

 

 

 

 

 

 

大倉商業学校(東京経済大学)設立の趣旨

 

 

条約改正が実現し、内地雑居が近く行われる。

しかしわが国の商業者の知識は昔と変わらない。

このままで進むと対等条約と内地雑居の実施の結果、わが国の商業界は外国人に独占されることになろう。

自分が外国に支店を設けて有為の青年を派遣してきたのは外国人に対抗するためである。

そこで、自分の還暦と結婚満25年を記念して、商業学校を設けて多数の商業者を育成し、世のために尽くしたい。