「ヤマハ株式会社」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『山葉寅楠』/沿革・歴史など~

「ヤマハ株式会社」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『山葉寅楠』/沿革・歴史など~

 

「ヤマハ株式会社」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)

 

 

 

「ヤマハ株式会社」の企業理念

 

 

 

感動を・ともに・創る

私たちは、音・音楽を原点に培った技術と感性で、新たな感動と豊かな文化を世界の人々とともに創りつづけます

 

 

 

「ヤマハ株式会社」の顧客体験

 

 

愉しさ:夢中になれる

 

美しさ:心惹かれる

 

確信:自信を持てる

 

発見:可能性に気づく

 

 

※企業理念をお客様の視点から具体的に示したものであり、お客様がヤマハの製品・サービスを手にし、使用された時に、心と五感で感じていただくことができる体験を明示したものです。

 

 

 

 

 

「ヤマハ株式会社」のヤマハクオリティー

 

 

 

卓越:期待を超える

 

本質:核心を突く

 

革新:常識を打ち破る

 

 

 

※企業理念を具現化するために、私たちが製品・サービスに込めたこだわりや、モノづくりに対する基本的な考え方“品質指針”としてを示したものです。

 

 

 

 

 

 

「ヤマハ株式会社」のヤマハウェイ

 

 

志を抱く 【志】

お客様の満足と社会・文化への貢献を目指して、熱い想いを抱き、仕事に取り組みます。

 

 

誠実に取り組む 【誠実】

常に誇りと謙虚な姿勢を保ちながら、本物を志向し、高品質なものづくりとサービスの提供に取り組みます。

 

 

自らが動く 【自発】

自らが積極的に現場に赴き、見て、考え、議論し、行動することにより、個の力、チームとしての力を遺憾なく発揮します。

 

 

枠を超える 【挑戦】

一人ひとりがチャレンジ精神を持ち、自らに枠を設けず、勇気をもって新たなことに挑戦し続けます。

 

 

やり切る 【執着】

一度決めたこと、定めた目標は、不屈の精神と創意工夫を持って、最後まで粘り強くやり遂げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ヤマハ株式会社」の創業者・創立者『山葉寅楠』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~

 

 

 

山葉寅楠(ヤマハ創業者)

 

 

山葉寅楠。

 

嘉永4年(1851年)4月20日、紀州藩の下級武士だった山葉孝之助の三男として生まれる。

父親が藩の天文係をしていたことから、山葉家には天体観測や土地測量に関する書籍や器具などがたくさんあり、こうした環境のなかで寅楠は自ずと機械への関心を深めていきました。

 

また少年時代より武芸を好み、特に剣術が強かった寅楠は、16歳で郷里を出て大和(現奈良県)の小野派一刀流の師範の下で腕を磨いた。

寅楠は明治維新後17歳の時に武士を棄て、親元を離れ、大阪で時計商の徒弟になる。

 

そこで懐中時計に魅了され、自分でも作ってみたいと考えるようになり、製造技術を学ぶために長崎へ移住。

イギリス人の時計技師から製造技術を学び、ついでに医療器械の技術もマスターした。

 

しかし、大阪に戻って時計作りの事業計画を立てるも、資金不足のためにあえなく断念することに。

代わりに大和高田で時計商の店を開業するが、こちらもなかなか軌道に乗らない。

 

結局、大阪に戻って医療器械店に出入りし、医療器械の修理を請け負う仕事を続けていた。

33歳の時、そんなパッとしない人生に転機が訪れる。

 

たまに医療器械の修理のために地方出張もしていた寅楠は、静岡県の浜松病院を訪ねた際に、先の福島院長と出会い、この地に移り住むことを決意する。

当時の浜松は、人口わずか2万人弱の小さな町。

 

大都会の大阪と比べたら病院の数も少ない。

ということは医療器械修理の仕事もあまりない。

 

寅楠は福島院長の推薦を受けて、故障したオルガンの修理のため浜松尋常小学校を訪ねた。

そのオルガンは、1887年(明治20年)、同校に歌唱科が設けられたのを機に、郷土出身の貿易商社員がアメリカから輸入し寄付したもので、浜松ばかりか静岡県の名物に数えられていたほどでした。

 

米1斗(20kg)が1円の時代に45円もしたこのオルガンは、教室に鍵をかけて大切に保管され、参観許可証まで用意されていました。

それが突然鳴らなくなってしまったのです。

 

これまで時計製造や医療器械修理で培った器用な手つきで少し分解してみたところ、原因はすぐに解明できた。

バネが2本破損していたのだ。寅楠にとってバネの修理は決して難しい作業ではなかった。

 

当時、日本はオルガンを作る技術はなく、すべてアメリカ製のものを輸入していた。

その頃の物価で45円だったので、いまなら4500万円といったところだろうか。

 

国産オルガン制作を決意します。

全身全霊をかけて試作品を製作し、東京の音楽取調所(後の東京藝術大学音楽部)で出来を調べてもらうために、共に製作に取り組んだ河合喜三郎と天秤棒でオルガンを担いで250キロ離れた東京へ。

 

箱根の山を越えての挑戦でした。

試作品のオルガンを見せたところ、案の定、不合格。

 

一応オルガンの形にはなっているが、音が全然なっていないという評価だった。

寅楠も喜三郎も音楽の知識はない。

 

ある意味当然の結果だった。

そこでふたりは伊澤に熱心に頼み込み、音楽取調所の特別聴講生として調律や音楽理論について学ばせてもらえることになった。

 

朝5時から深夜まで寝る間も惜しんで働き、苦労を重ねながらも第2号のオルガンが完成。

自信と不安が入り混じる中、2人は再び伊沢学長の審査を仰ぎました。

 

「前回の欠点はことごとく取り除かれた。舶来に代わり得るオルガンだ」

この評価に寅楠と河合は言葉もなく涙を流しました。

 

1888年に日本最初の本格的オルガンの製造に成功した。

1889年に合資会社山葉風琴製造所を設立した。

 

やがて新工場を建設して設備を増強し、創業後わずか1年余りで、従業員は100人を超える規模にまで拡大していた。

1891年には山葉風琴製造所が出資引き揚げにより解散するが、河合喜三郎らと共同で「山葉楽器製造所」を設立した。

 

1897年10月12日に資本金10万円で日本楽器製造株式会社(現ヤマハ)に改組し初代社長となった。(YAMAHAの社名は山葉の姓からとられたものです)

1899年、アメリカへ5か月間の視察旅行に出た。キンボールやメイソン・アンド・ハムリン、スタインウェイ・アンド・サンズなどを視察し、1900年にアップライトピアノを製作。

 

1902年3月、緑綬褒章を受章。

浜松鉄道(後の遠州鉄道奥山線)の取締役も務め、1911年、浜松市会議員当選、浜松市会副議長に就任。

 

1916年8月8日、死去。享年66(満65歳没)。

 

尚、二輪車製造大手のヤマハ発動機は1955年(昭和30年)に日本楽器の二輪製造部門が独立して設立されたものです。

 

 

 

 

 

山葉寅楠(ヤマハ創業者)の名言・考え方

 

 

 

自分は品物を販売するに掛引をせぬ。生産費を控除して代価を定め決して暴利を貪らぬ、而して品質に対しては絶対的責任を負ぶるを信条として、社会の信用を博する覚悟である。

 

 

 

男は男に惚れられなければ事業に成功できない。

 

 

 

 

これくらいのオルガンなら、自分は3円でつくる自信がある。将来、オルガンは全国の小学校に設置される。そうなれば日本はつねに高額な外国製品を輸入しなくてはならない。オルガンの国産化は日本の国益につながるはずだ。

 

 

 

ピアノをつくるには人間をつくってから

 

 

 

 

 

 

 

「ヤマハ株式会社」の沿革・歴史(年表・社歴など)

 

 

 

1887 山葉寅楠が浜松尋常小学校でオルガンを修理、同年11月にオルガン製作に成功

 

 

1889 当社の前身である合資会社山葉風琴製造所を設立

 

1897 日本楽器製造株式会社を資本金10万円にて設立

 

1900 ピアノの製造を開始

 

1949 東京証券取引所に株式を上場

 

1954 オルガンの教室を開講(ヤマハ音楽教室の前身)

オーディオの製造を開始(HiFiプレーヤー)

オートバイの製造を開始

 

1955 オートバイ部門をヤマハ発動機株式会社として分離

 

1958 スポーツ用品の製造を開始(FRP製アーチェリー)
メキシコに最初の海外法人 ヤマハ・デ・メヒコを設立

 

1959 電子オルガン(エレクトーンR)の製造を開始

 

1960 アメリカに販売子会社 ヤマハ・インターナショナル・コーポレーション(現ヤマハ・コーポレーション・オブ・アメリカ)を設立

 

1962 レクリェーション事業を開始

 

1964 リビング用品の製造を開始(FRP製バスタブ)

 

1965 管楽器の製造を開始

 

1966 財団法人ヤマハ音楽振興会を発足(2011年、一般財団法人に移行)
西ドイツ(当時)に販売子会社 ヤマハ・ヨーロッパを設立

 

1968 日本初の株式時価発行を実施

 

1971 半導体の生産を開始

 

1980 ヤマハピアノテクニカルアカデミーを設立

 

1987 創業100周年を機に、社名を日本楽器製造株式会社からヤマハ株式会社に変更
ヤマハ英語教室を開始

 

1989 中国に電子楽器製造・販売子会社 天津ヤマハ電子楽器を設立

 

2002 中国に投資管理会社 ヤマハ楽器音響(中国)を設立
ドイツに欧州統括会社 ヤマハ・ミュージック・ホールディングス・ヨーロッパ(現ヤマハ・ミュージック・ヨーロッパ)を設立

 

2005 ドイツの音楽制作用ソフトウェア開発・販売会社 スタインバーグ社を買収

 

2007 音楽ソフト事業統括会社 株式会社ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングスを設立
リゾート事業4施設を三井不動産リゾート(株)に譲渡

 

2008 オーストリアのピアノメーカー ベーゼンドルファー社を買収
フランスの業務用スピーカー製造・販売会社 ネキソ社を買収

 

2010 ヤマハ銀座ビルをリニューアルオープン
リビング事業子会社 ヤマハリビングテック株式会社の株式を譲渡
ピアノ国内生産拠点を掛川工場へ統合

 

2012 管楽器国内生産拠点を豊岡工場へ統合
創業125周年

 

2013 国内の楽器・音響機器卸販売および教室事業を行う(株)ヤマハミュージックジャパンを設立

 

2014 米国の楽器・音響機器メーカー Line 6社を買収
米国の通信・音響機器メーカー Revolabs社を買収
国内における楽器・音響機器の生産事業を製造子会社に承継

 

2015 国内音楽教室の運営業務をヤマハ音楽振興会に一元化
ヤマハ鹿児島セミコンダクタ(株)をフェニテックコンダクター(株)に譲渡

 

2017 リゾート事業施設「つま恋」をホテルマネージメントインターナショナル(株)に譲渡

 

2018 米国のベースアンプ・エフェクター Ampegブランドの事業譲受
研究・開発拠点「イノベーションセンター」開発棟を竣工
企業ミュージアム「イノベーションロード」をオープン

 

 

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