■サンフランシスコ日系移民排斥が太平洋戦争の原因だ
アゴラ 2017.11.29 八幡 和郎
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われわれは、サンフランシスコが日系移民への差別発祥の地であり、それが、太平洋戦争の重要な原因のひとつだったことを思い出し指摘すべきである。
以下は、拙著『日本人の知らない日米関係の正体 本当は七勝三敗の日米交渉史』(SB新書)の関係部分を要約したものなので、是非、読んで理論武装して欲しい。
「日露戦争で日本が勝って調子に乗りすぎたのでアメリカが警戒し始めた」というようなことがよくいわれますが、単純すぎます。
それもひとつの要因ですが、大正になって、中国での辛亥革命とアジア諸民族の覚醒、第一次世界大戦、アメリカの国力充実と日本移民排斥、日本での政党内閣の確立と薩長閥の衰退などいろんな動きが複合的に影響し合って、日米蜜月というわけにはいかなくなったというのが正しいと思います。
まず、日本の国民感情がアメリカから離れたきっかけになったのは、日本人排斥問題でした。
その前史とも言えるのが、中国人排斥でした。
アメリカは幕末のころ、大陸横断鉄道を建設していましたが、それを支えたのは中国人労働者でした。
しかし、勤勉である一方で劣悪な生活条件を受け入れる中国人労働者は、白人労働者から強い反発を受けました。
そして、1882年に第21代チェスター・A・アーサー大統領(在職1881?85年)が中国人排斥法に署名し、中国人の移住が禁止されたのです。
日本人移民は独立国だったハワイでは明治初年から盛んでした。
そのハワイがアメリカに併合され移ってきたのと、中国人が排斥されたことで、カリフォルニアなどで日本人が増えました。
日本人は中国人ほどではありませんが、やはり、白人労働者から目の敵にされました。
排斥への具体的な動きは、日露戦争直後の1906年に、サンフランシスコ市が日本人学童を公立学校から追い出し、中国人などのための東洋人学校に移したことでした。
この措置をセオドア・ルーズベルト大統領は怒り、翌年に撤回させましたが、そのかわりハワイ経由での米本土移民は禁止されました。
日本としては、こうした制限はプライドを傷つけられるものでありましたが、朝鮮や台湾、満州などへの進出に伴う移住もあり、実害はそれほどなかったので、1908年に林董外務大臣とオブライエン駐日大使との間で「日米紳士協定」が締結され、日本側が移住を自主規制することになりました。
しかし、1913年カリフォルニア州では外国人土地法が成立して、日本人を狙い撃ちに土地所有が禁止され、さらに、会社やアメリカ生まれで米国籍をもつ二世を抜け道にしての保有も規制されていきました。
そして、さらに、1924年には日本で「排日移民法」といわれる法律ができ、南欧やユダヤ人も含む東欧からの移民が制限されるとともに、日本からの移民が全面的に禁止されてしまったのです。
政府の反対を押し切っての議会の暴走でした。
このように、日本人移民の制限は、地方自治体や議会の外交的配慮を欠いた暴走によるものでしたが、日米関係ではこうしたことはよくあることです。
また、その過程で、国務長官ヒューズと駐米大使埴原正直が相談して議会に提出した、「両国関係に対し重大なる結果を誘致」という言葉が議会から恫喝(覆面の威嚇)であるというプロパガンダを引き起こすという事件もありました。
こうした移民の制限が、日本人の対米感情を急速に悪化させたことは間違いなく、「カリフォルニア移民拒否は日本国民を憤慨させるに充分なものである(中略)かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がつた時にこれを抑へることは容易な業ではなかった」(『昭和天皇独白録』より発言を現代語訳)とのちに昭和天皇が語るほどのインパクトがあったのです。
つまり、日本にとって実害はあまりなかったのですが、対米感情を非常に悪化させ、政治家やジャーナリズムが親米であることを難しくした一連の事件でした。
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サンフランシスコ日系移民排斥が太平洋戦争の原因だ
アゴラ 2017.11.29 八幡 和郎
https://agora-web.jp/archives/2029753.html
■排日移民法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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排日移民法(はいにちいみんほう)は、1924年7月1日に施行されたアメリカ合衆国の法律の日本における通称である。
この法律では、各国からの移民の年間受け入れ上限数を、1890年の国勢調査時にアメリカに住んでいた各国出身者数を基準に、その2%以下にするもので、1890年以後に大規模な移民の始まった東ヨーロッパ出身者・南ヨーロッパ出身者・アジア出身者を厳しく制限することを目的としていた。
独立した法律があるわけではなく、既存の移民・帰化法に第13条C項(移民制限規定)を修正・追加するために制定された「移民法の一部改正法」のことを指す。
特にアジア出身者については全面的に移民を禁止する条項が設けられ、当時アジアからの移民の大半を占めていた日本人が排除されることになり、アメリカ政府に対し日系人移民への排斥を行わないよう求めていた日本政府に衝撃を与えた。
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排日移民法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E6%97%A5%E7%A7%BB%E6%B0%91%E6%B3%95
■日本人移民排斥運動
世界史の窓 <細谷千博『日本外交の軌跡』1993 NHKブックス>
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日露戦争後、アメリカにおける日本人移民に対する排斥機運が強まり、しばしば問題が起きた。
日本は第一次世界大戦後のパリ講和会議で国際連盟規約に人種差別撤廃条項を入れることを主張したが、入れられなかった。
1924年にはアメリカでの日本からの移民は全面的に禁止された。
アメリカは1899年に国務長官ヘイが門戸開放宣言を出し、それが中国大陸に対する国策の基本となっていた。
そして義和団事変での出兵を機に、中国、特に東北部(満州)への侵出を謀るようになった。
満州をめぐって日本とロシアが対立し日露戦争になると、T=ローズヴェルト大統領はそのいずれかが決定的な勝利を占めて、アメリカが追い出されてしまうことを恐れて、両国の仲介に乗り出した。
・日露戦争後の日米関係悪化
満州問題をめぐる対立 日露戦争で日本が南満州鉄道敷設権を獲得したことに対し、アメリカは門戸開放の遵守を迫って抗議した。
日本はこのようなアメリカの動きに対し、急速にロシアとの提携を強め、日露協約で北満州をロシア、南満州を日本がそれぞれ勢力圏として分け合うことに合意した。
アメリカは両国による満州分割に反発し、満州の鉄道をすべて国際管理に置くことなどを提案した。
海軍増強問題 1904年のパナマ運河開通、ハワイでの軍港の整備など、太平洋への海軍進出を図るアメリカにとって、日本の海軍力は大きな脅威であった。
両国は日露戦争後、積極的な建艦競争にのりだし、互いに相手を仮想敵国視するようになった。
両国でさかんに「もし日米、戦わば」という未来戦が人気を博した。
日本人移民問題 もう一つの日米間の摩擦の要因となったのが、日本人移民問題であった。
明治元年から日本人のハワイ移民が始まり、さらに20世紀に入るとアメリカ西海岸に激増した。
白人(主にアイルランド系)労働者は、人種的偏見と共に安価な労働力によって仕事が奪われるという経済的観点から、激しく日本人移民を排斥するようになった。
それにはドイツのヴィルヘルム2世が唱えた黄禍論の影響もあった。
・日本人移民排斥
1906年、サンフランシスコで、公立学校への日本人学童の入学が拒否され、他のアジア人と同じ学校に通学すべしという市条例が制定された。
これに対して日本国内でも激しい反発が起こり、アメリカに対する非難が強まった。
ようやくローズヴェルト大統領の市当局への説得により収束した。
1908年、高平・ルート協定(駐米公使高平小五郎と国務大臣ルート間の紳士協定)で日本はアメリカへの移民を自主規制するなどの妥協したが、なおも問題は継続した。
その後、カリフォルニアでは日系人の土地所有、賃貸が増加し、1913年にはカリフォルニア州議会が排日土地法を制定し、日系1世は土地所有が出来なくなった。
このときも日本国内で激しい反米運動が起き、日米戦うべしと言った演説も聞かれた。<細谷千博『日本外交の軌跡』1993 NHKブックス p.40>
・パリ講和会議での人種差別撤廃条項問題
1913年のカリフォルニアにおける排日土地法制定など、日本人移民に対する排除、差別の動きがますます強まっていた。
第一次世界大戦が勃発すると、日本は中国大陸や太平洋のドイツ権益を奪おうとして、日英同盟を利用して参戦、連合国の一員となった。
それによって戦後の1919年1月から始まったパリ講和会議に主要五大国(アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本)の一つとして参加することになった。
この時、日本の現実的な要求は山東省で獲得したドイツ権益の継承を軸に中国に対して認めさせた二十一カ条の要求を列強にも認めさせることであったが、もう一つ、国内世論で盛り上がっていたアメリカでの日本人移民排斥反対の声をうけ、ウィルソンアメリカ大統領が提案した国際連盟規約に人種差別撤廃条項を入れよ、という要求を提出した。
この提案は中国代表も賛成するなど、一定の支持があったが、肝心のアメリカは国内の黒人差別問題を刺激することを恐れ、またイギリスは連邦内の自治国オーストラリアが白豪主義をとっていることなどから日本案に反対した。
日本も朝鮮や台湾での差別的な植民地支配をしていることもあって、その提案は世界的な輿論となることはなく、最終的には日本代表は、山東問題で日本の要求が通ることと引き換えに、自ら提案を引き下げた。
・移民法の成立
さらに第一次世界大戦後は、移民制限の動きが強まり、1924年の「移民法」で日本からの移民は全面的に禁止されることとなる。
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日本人移民排斥運動
世界史の窓 <細谷千博『日本外交の軌跡』1993 NHKブックス>
https://www.y-history.net/appendix/wh1403-052.html
■「排日移民法」と闘った外交官 一九二〇年代日本外交と駐米全権大使・埴原正直
チャオ埴原三鈴、中馬清福著 ~苦闘の体験から導かれる外交教訓
東洋経済 2012/03/12
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日米戦争はなぜ起こったか。
日本の軍国主義の暴走、帝国主義による覇権争い、自由主義と全体主義の対決などが原因に挙げられるが、昭和天皇が敗戦直後、こんな見解を述べている。
「遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。……かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上つた時に、之を抑へることは容易な業ではない」(『昭和天皇独白録』)
第1次世界大戦後のパリ講和会議で、日本は人種差別撤廃案を唱導したが、英国や米国の強硬な反対で敗れた。
その後、日本のワシントン会議参加や関東大震災での米国の日本支援などで日米協調体制が定着したかに見えた。
だが、米国議会で人種差別を認める排日移民法が成立する。
本書は移民法阻止に奮闘した当時の埴原正直駐米大使の生涯を通して、「協調・友好」から「排日・嫌米」に至る日米関係の深層を克明に追跡・検証した労作である。
埴原の末弟の孫に当たる研究者と、外交史に精通するジャーナリストの共著だ。
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「排日移民法」と闘った外交官 一九二〇年代日本外交と駐米全権大使・埴原正直
チャオ埴原三鈴、中馬清福著 ~苦闘の体験から導かれる外交教訓
東洋経済 2012/03/12
https://toyokeizai.net/articles/-/8756
■日本軍が変えた「白人優位」 『人種戦争』
産経新聞 2015/8/1
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『人種戦争-レイス・ウォー 太平洋戦争 もう一つの真実』
太平洋戦争は人種差別をめぐる戦いだった、と本書の著者、ヒューストン大学の黒人歴史学者ジェラルド・ホーン教授は言う。
第二次世界大戦に日本が参戦するまで、世界は白人優位の絶対的な秩序のもとで成り立っていた。
「純血の白人」以外は人にあらず、とまで言われるような、有色人が虐げられる劣悪な状況である。これを、日本軍が変えた。
そもそも日本は第一次世界大戦後のパリ講和会議で、世界で最初に人種差別撤廃提案をした国である。
しかし、英米などの反対により、かなわなかった経緯がある。
日本はこうした白人至上主義をくつがえすことを試み、この戦争を、太平洋における白人支配に対する防衛として位置づけた。
そしてヨーロッパの人種差別と植民地政策を逆手にとり、植民地化されていた地域の有色人たちとの間に同盟関係を築いていったのである。
本書には、香港をはじめアメリカ、東南アジア、インド、オーストラリアなど、著者が世界各地で取材した、たくさんの有色人の声が収録されている。
1941年12月、日本軍が香港に侵攻した際、反日感情の強い中国人がこれを支援したという記述も興味深い。
このように日本では知りえなかった真実がここに描かれている。
白人至上主義が依然として根強く残っている現代にも、警鐘を鳴らす異色の問題作である。ぜひご一読いただきたい。
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日本軍が変えた「白人優位」 『人種戦争』
産経新聞 2015/8/1
https://www.sankei.com/article/20150801-5HV5EBYSBNKHVCIDTJCYMLGFXY/
■ご存知ですか? 2月16日は日本人移民制限法が可決された日です
「110年前も問題になっていたアメリカの移民排斥」
文藝春秋 2017/02/16 近藤正高
■欧米の日本たたき
「米国連邦議会において、いわゆる「排日移民法」が成立―帰化権なき外国人の米国への移民入国が完全禁止(大正13年7月1日)」
YouTube 2010/02/19
■人種的差別撤廃を国際会議で初めて提案したのは日本だった
「反対はアメリカ、イギリス、ブラジル、ポーランド、ルーマニアであった」
議長だったアメリカのウィルソン大統領が、こう述べる「全会一致でないので、本修正案は否決された」
渡部昇一 上智大学名誉教授
■人種的差別撤廃提案(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、日本が主張した、「国際連盟規約」中に人種差別の撤廃を明記するべきという提案を指す。この提案に当時のアメリカ合衆国大統領だったウッドロウ・ウィルソンは反対で事が重要なだけに全員一致で無ければ可決されないと言って否決した。国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。
イギリス・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニアの計5名の委員が反対
■悪いのは侵略した白人、東亜民族解放した日本は誇りを…オランダの市長挨拶から再び戦後体制の是非を問う
産経新聞 2016/2/23
■東南アジアの植民地化【列強によるアジア侵略③】
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