金がすべて!
金があれば、何でも手に入る!
そんな風潮があるのは、ご存知の通りです。
でも、明治から昭和初期。
そうではない大人物が日本には多かった、そう言えるのかもしれません。
今回は明治から昭和初期にかけて、あらゆる規制に立ち向かった人物についてお伝えします!
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このガソリンスタンドのマーク。
良く見かけますね。
これは「IDEMITSU」のガソリンスタンドです。
「IDEMITSU」の正式社名は出光興産株式会社。
東京丸の内に本社を構える、売上高3兆円、社員数9,000人(臨時社員除く)以上の東証一部上場企業です。
ちなみに、この赤い人の横顔のロゴマークは「アポロマーク」と呼ばれています。
「アポロ」というのは勿論ギリシャ神話の「アポロン」に由来します。
ギリシャの主神・ゼウスの息子であるアポロンは太陽の神と見なされており、エネルギー事業の象徴として相応しい存在であると考えられ、ロゴマークのモチーフにされたようです。
このロゴマークを作成したのが、創業者の出光佐三氏。
「髪をなびかせた人の横顔」は「スピード感があって、ガソリンなどにピッタリだ」とひらめいたのだそうです。
出光興産の創業者、出光佐三氏。
明治から戦後にかけての、日本を代表する実業家です。
出光佐三氏は1885年生まれ、1981年に95歳で亡くなられています。
明治期の人物には今では考えられないほど、スケールの大きい人物が多いですよね。
少し出光佐三氏の歴史を辿ってみたいと思います。
出光佐三氏は福岡県宗像市出身。
父は藍玉問屋を営む出光藤六。
六男二女の次男として生誕します。
ちなみに渋沢栄一の生家も埼玉県深谷市の藍玉問屋です。
当時の藍玉問屋は、のちの大人物を育てる風土があったのでしょうか。
話を戻します。
出光は生まれついて病弱であり、特に目が非常に悪く、人生ではっきりとものが見えたことは一度もないと語るほどの弱視でした。
出光佐三氏は「生まれつき目が見えないから、よく考える。だから、私は独創的なんだ」と語っています。
自らの弱点を強みに転換している、発想そのものが、普通ではないのかもしれません。
出光佐三氏の学歴は福岡商業(現在の福岡市立福翔高等学校)を経て、神戸高等商業学校(現在の神戸大学経済学部)を卒業しています。
神戸大学の卒業論文ですでに石油時代の到来を予想。
もともと、佐三氏の出身宗像市を含む「筑豊炭田」(ちくほうたんでん)は、国内最大の石炭産出地域の一つ。
石炭発掘は、特に明治政府が協力に推進。
1901年に操業開始した八幡製鐵所(現・新日鐵住金八幡製鐵所)の操業開始により、戦前では日本最大規模の産炭地に成長しています。
宗像市に住んでいた出光佐三氏は、石炭という当時日本の最大のエネルギー源を間近に見ながら育ったと言えるのかもしれません。
だからこそ、石炭から石油の時代が来ることを敏感に感じ取った一人ではないでしょうか。
神戸大学在学中、家庭教師のアルバイトをしていた時、ある人物との出会いがありました。
それがアルバイト先の主人、日田重太郎氏。
日田重太郎氏は神戸や淡路島、徳島などに多くの土地を持つ資産家でした。
石油に関係する事業を起こしたいと悩んでいた佐三に対し、日田重太郎氏は6千円の提供を申し出ます。
当時の6千円は、現在で換算すると1億円近くにもなる大金。
日田重太郎氏は佐三の将来性、その人物を見抜いていたのかもしれません。
出光佐三名という名馬は、日田重太郎という伯楽との出会いがあって、その第一歩を踏み出します。
25歳の佐三は日田重太郎氏の資金を元手に、弟と二人で出光商会を創業します。
当初の事業は主に機械油の小売販売。
特に漁船の燃料販売事業を進めるものの、特約店の厳しい縄張り争いが激しく、思うように事業は進みません。
なおかつ、ワイロを要求してくる人間に対し突っぱねていったため、あっという間に孤立していってしまいます。
追い詰められた佐三がとったアイディアが2つ。
まずは新たな商品の市場投入。
それまで多くの漁船は高価な灯油を主に使用していました。
背景にあるのはエンジンに良いという理由。
しかし、佐三は十分軽油でも、エンジンに支障をきたさないことに注目します。
当時の常識灯油から軽油への転換を啓蒙していきます。
そしてもう一つのアイディアが、既存の販売体制の打破。
既存の規制に守られた業界を打破するために、陸上ではなく、「海上での給油」を実施します。
海上での給油は陸での縄張りに関係ない!と主張し、「良質で安価」な製品を販売していきました。
取り締まりを避けるため、その給油がまさに神出鬼没。
その素早さから、まさに「海賊」だったようです。
このように2つの常識を打ち破るアイディアが功を奏し、企業規模は順調に拡大していきます。
時は満州事変。
満州鉄道が設立され、民間企業も満州に進出し始め、出光佐三も満州の地へ進出します。
目を付けたのが満州鉄道、その車軸油の納入を進めます。
1919年、酷寒の地・満州で車軸油が凍結し、貨車のトラブルが続出していた南満州鉄道に、佐三は「二号冬候車軸油」を無償で提供。
ところが、当時の軍の統制下、自由競争ではない時代に、また既存の取引先の圧力がかかります。
納品に漕ぎつけることができません。
佐三は日本軍の意向に反し、異論を唱えます。
ついに佐三は、単身満州にわたり満鉄本社に直談判し、現地で凍結試験を行い、見事その効果を認めさせ、南満州鉄道の納品に漕ぎつけました。
佐三の反骨精神は、日本軍をも、打ち破る気迫を持っていたのかもしれません。
しかし、第二次世界大戦での日本の敗北。
台湾や朝鮮半島、満州鉄道の他、フィリピンや南方にまで足を延ばしていた出光は、一気に撤退を余儀なくされてしまいます。
アジア各国にあった会社も、資産も、仕事もすべてがなくなり、857人の社員だけを抱えてしまう状況。
この時、出光佐三氏は60歳。
ゼロからの出発の中、出光は、決して一人もクビにすることはないと宣言します。
出光興産が掲げるのは『人間の尊重』。
社員を守るため、あらゆる仕事を引き受けます。
ラジオ販売や醤油・酢の販売、鶏の畜産、印刷に至るまで事業を拡げ、組織・社員を守ります。
さらに、当時、汚くて同業他社が嫌がった、石油の残りかす(スラッジ)の清掃までも、GHQから請け負った。
佐三は自分がコレクションしていた骨董品や絵画を売り払い、私財をもって社員の給料をねん出します。
この行動に社員が答え始めます。
ある社員は、戦争が終わった後やる気が無くなり、田舎にこもり、出光に辞表を出そうとしていました。
そこを父親からこう咎められたといいます。
「お前が戦争に行っている6年間、出光さんは毎月ずっと給料を送り続けてくれていた。働いてもいないのに、家族として。ここで会社をやめるなら、6年分タダ働きしてからやめろ!」
家族主義を唱え、身を挺してまで社員を守る佐三の姿勢は、社員の家族をも巻き込み、出光の和が広がっていきます。
そんな出光に、社員たちは自然と信頼で応えるようになっていき、出光興産がふたたび立ち上がる原動力になっていきました。
出光興産のゼロからの再出発。
この時もまた大きな壁が業界の寡占問題。
戦後、国内の石油業者14社のうち、13社がすでに外国資本となり、日本の石油業者は出光ただ1社の状況。
イギリスを中心とした国際石油資本、いわゆるメジャーの存在です。
高い石油を買わざるを得ない状況を打破すべく、佐三が動き出します。
佐三は政府におもむき、経済安定本部の金融局長に直接訴え、世界最大級タンカー「日章丸」を建造します。
当時のタンカーは12,000トンが相場でしたが、「日章丸」は18,500トン!
出光は世界最大の「日章丸」を使い、メジャーの息がかかっていない、米国独立系企業との取引を当初進めます。
しかし、徐々にメジャーの圧力がかかり、各国どこも出光には石油を販売しなくなりました。
追い詰められた佐三は、また新たな行動に出ます。
目を付けたのがイラン。
当時のイランは、世界でも有数の石油産出国でした。
しかし、イランの石油は完全にイギリスが権利を握っており、湧き出る石油利益の90%近くを独占。
英メジャーからの圧力で、どこからも石油が買えなくなった出光にとって、イランの石油は喉から手が出るほど欲しい存在でした。
イランは、イギリス海軍が封鎖し、密輸外国船は拿捕されたり、攻撃されたりする緊張状態の中、取引は無謀な状況。
ところが、出光は決断します。
1953年(昭和28年)日章丸がガソリンや軽油約2万2千KLを積み込み、イランのアバダンから川崎港に到着!
「海賊」出光が見せた、神出鬼没な航海ルートで見事川崎港に帰港します。
これが世にも有名な「日章丸事件」。
敗戦国日本の一民間企業が、勝戦国イギリスを相手に一矢報いた事件となります。
出光と同じく、英メジャーの支配を受けていたイランは大絶賛。
世界中を驚かせました。
当然、裁判となります。
この日章丸事件後、英・石油メジャーのアングロ・イラニアン社(BPの前身)は、積荷の所有権を主張して出光を東京地裁に提訴し、同時に出光に対する処分圧力が日本国政府にもたらされた。
裁判結果は、なんと、出光勝利!
裁判所はアングロ・イラニアン社の言い分を却下し、裁判にかかった費用もイギリスの負担とする!と判決します。
出光側の正当性が認められ、仮差押え処分の申し立てが却下され、アングロ・イラニアン社は即日控訴するものの、提訴を取り下げたため、結果的に出光側の勝利に終わります。
この背景には、イギリスによる石油独占を快く思っていなかったアメリカの黙認や、喝采を叫ぶ世論の後押しもあったようです。
出光佐三氏はGHQとの石油の残りかす(スラッジ)の清掃受注を通し、GHQやアメリカとのパイプを創り上げていたようです。
そういった意味では、英アングロ・イラニアン社との裁判は、当時世界第一の大国として成長していたアメリカとの関係をうまく利用した佐三の深い読みも功を奏していたのかもしれません。
日章丸事件以降、出光興産の順調な成長はご存知の通りです。
日本を代表する石油会社となっています。
ところで、「題名のない音楽会」ってご存知でしょうか。
そのテレビ朝日のクラッシック音楽番組の「題名のない音楽会」は、出光興産1社だけのスポンサー番組。
1964年から50年以上続き、2,500回以上放送されています。
この「題名のない音楽会」は、なんと、30分間の放送中に一度もCMが入りません。
これは、出光佐三氏が「芸術に中断は無い」という考えが反映されています。
出光佐三氏が「会社がつぶれるまで提供を続ける」という言葉も残っているそうです。
芸術文化をも大切にし、常に利益よりも大切なものを優先するその姿勢。
日本を代表する起業家とも言えそうです。
出光佐三氏の人生は既成の規制を打ち破ってきたものと言えそうです。
創業当時、漁船用油販売縄張り規制を打ち破り、南満州鉄道では日本軍のしがらみを打ち破り、そして世界の英メジャー企業の寡占市場を打ち破ってきました。
賄賂が横行するしがらみや縄張り。
すべて自分より大きな組織に対し、その圧力に風穴を開けてきました。
反骨精神の塊のような人物ではないでしょうか。
それだけではありません。
「利益」よりも大事なものを追求するその姿勢。
まさに、和製ベンチャー企業精神!
日本人とベンチャー企業精神の融合。
古くて新しい、日本のベンチャー起業家とも言えるのかもしれません。
最後に、出光佐三氏の名言を贈ります!
一出光の利益のために、イラン石油の輸入を決行したのではない。そのようなちっぽけな目的のために、50余命の乗組員の命と日章丸を危険にさらしたのではない。横暴な国際石油カルテルの支配に対抗し、消費者に安い石油を提供するために輸入したまでだ。
海外から帰ってくる社員をクビにするだと? 社員は家族だ。そんな薄情なことができるか。仕事がないなら探せばよい。安易に仲間をクビにして残った者だけで生き延びようとするのは卑怯者の選ぶ道だ。みんなで精一杯やって、それでも食っていけなくなったら、みんな一緒に乞食になろうじゃないか。
たんなる金儲けを目指すだけでは、真の事業とはいえない。そこには、真も善も美もない。事業も究極においては芸術である。事業には、常に普遍的な国利民福を念願した、また彼岸した真理性が望まれねばならない。出光の事業は、だれが見ても美しからねばならぬ。醜悪なる、たんなる金儲けであってはならぬ。
私は70年にわたって事業を営んできたが、その根底を成したのは終始一貫して人間の尊重、人間本位のやりかたを貫いたことにある。本来、日本人は金銭のためにのみ働くのではなく、どの民族にもみられぬ協和の精神を持っている。この美徳が敗戦によってぶち壊され、今の世の中は金のみがすべてという風潮になり下がっておる。戦争前にもそんな輩(やから)はウヨウヨいたが、そんな連中はしょせん一時の徒花(あだばな)、長く続くものではない。出光が志向したことは、事業人として、また出光人として、この乱れた世の中に清廉の花を咲かす。それを体現することにより、国家社会に大いなる示唆を与えたい・・・自分の一生はそのためにあったようなものです。
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