世界のSONY、世界のHONDA。
日本を代表するグローバル企業2社。
このメーカー2社創業期に、大きな共通点があります。
今回はSONYとHONDAという世界企業を作り上げた、最強タッグについてお伝えします!
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ご存知、日本を代表するソニー株式会社。
ソニーの創業者はご存知でしょうか。
有名なのが、井深大(いぶかひろし)氏と、盛田昭夫(もりたあきお)氏ですね。
え!2人?と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
SONY(当時東京通信工業)は20数名で設立した会社です。
設立当初は、戦後すぐの内閣で文部大臣を務めた井深の義父の前田多門氏に社長になってもらい、専務に井深大氏、取締役に盛田昭夫氏が就任しました。
20数名で設立したSONYですが、その創業者の中で世界のSONYを作り上げた中心メンバーが、井深大氏と盛田昭夫氏と言われています。
この二人のコンビが、その後の日本を代表する企業、SONを作り上げたと言っても過言ではないでしょう。
井深氏、盛田氏のお二人の経歴をご紹介いたします。
1908年生まれ、栃木県日光市出身。
先祖の一人は白虎隊の一人、飯盛山で自刃した井深茂太郎氏。
早稲田在学中に「光るネオン」を発明、パリ博覧会優秀発明賞受賞。
1933年に早稲田大学理工学部電気工学科を卒業。
早稲田を出たあと東芝を受けたが、不合格となっています。
その後、日本測定器株式会社を立ち上げて、常務に就任。
日本測定器は、海軍に頼まれ、潜水艦探知機などの周波数にかかわる研究を続け、熱線誘導兵器の開発に取り組んでいました。
戦時科学技術研究会で知り合った盛田昭夫らとともに、終戦後、1946年東京通信工業を創立。
1921年生まれ、愛知県知多郡小鈴谷村出身。
井深大の12歳年下。
生家は愛知県常滑市で300年続く酒造家。
第八高等学校(現・名古屋大学)、大阪帝国大学理学部物理学科卒。
太平洋戦争中、海軍技術中尉時代に戦時科学技術研究会で井深大と知り合います。
終戦後、1946年(昭和21年)に井深大らとソニーの前身である東京通信工業株式会社を設立し、取締役に就任。
ご存知の通り、SONYの前身、東京通信工業株式会社は1950年代にはテープレコーダー、やトランジスタラジオ、60年代に入るとトランジスタテレビ、家庭用のビデオテープレコーダーを発売し、業界にたびたび新風を巻き起こします。
1958年に社名を(それまで商標名であった)ソニーと改称。
1979年、世界初の “ウォークマン” を世に生み出し大ヒット、世界企業へ。
井深氏と盛田氏の出会いは戦時中でした。
井深氏はもともと日本測定器株式会社という会社を立ち上げ、熱線誘導兵器の開発に取り組んでいました。
学生時代からすでに技術者として、知名度を有していた井深氏。
相応の年収も手にしていたようです。
日本測定器時代、盛田氏と出会います。
盛田氏は当時、海軍技術中尉。
井深氏と盛田氏は、兵器研究の技術者交流である官民共同「戦時科学技術研究会」にて運命的に出会います。
終戦後、東京通信工業株式会社(現SONY)の立ち上げに、中心人物井深氏は盛田氏を誘いました。
井深氏の盛田氏への想いは強かったようです。
井深氏は12歳年少の盛田氏に対し、盛田家に乗込んで強談判したと言われます。
こうして世界企業SONYが歩み出されました。
井深氏も盛田氏もともに理系でしたが、特に井深の研究に対する執念は凄い物があったようです。
盛田氏も本来研究者でしたが、実家が醸造業を行っていたこともあり、経営感覚は生来持っていたのかもしれません。
次第に井深氏の技術と盛田氏の経営戦略に職能が分化していきます。
しかし、個人的所感では、盛田氏が一歩下がって井深氏を支え続けたように思います。
こうして「井深氏の技術力」と「盛田氏の経営センス」がお互いをカバーし、ヒット製品が生み出されていきます。
SONYと言えば、ウォークマンを中心として技術力、開発力は有名ですが、当時の日本企業の中でも経営能力はとびぬけていました。
金融面では、盛田氏を中心として、1961年ADR(米国預託証書)発行やニューヨーク証券取引所上場など日本企業初の快挙を達成しています。
また、いち早くアメリカに進出、マーケティングも当時の日本企業としてはずば抜けていた、といっても過言ではないでしょう。
井深氏の技術力と、盛田氏の金融・マーケティング力が、世界のソニーに導いて行ったと言えるでしょう。
二人がお互いをバックアップする体勢で世界のソニーが作られてきたのかもしれません。
世界企業HONDA。
バイク製造からスタートし、自動車製造、そして現在航空機産業にも大きく羽ばたいています。
ご存知、創業者は本田宗一郎氏です。
根っからの技術者、本田宗一郎氏にも、最強のパートナーがいました。
それが藤沢武夫(ふじさわたけお)氏。
藤沢氏の経歴を見てみましょう。
明治43(1910)年、東京市小石川区(現・東京都文京区)に生まれる。
父秀四郎、母ゆきは、茨城県結城市の生まれであり、秀四郎の生家は代々の漢方医で、名家として知られていました。
京華中学卒業後、1934年から「三ツ輪商会」という鋼材小売店に勤めます。
1939年には独立して「日本機工研究所」を設立。
しかし戦争が激化したため同社をたたみ福島県に疎開、戦争終結後も福島にとどまり製材業を営みます。
昭和24(1949)年、本田技研工業に常務として入社。
経営を担当し、技術部門を担った本田と共に“世界のホンダ”の基盤を作る。
1939年副社長、1948年には第一線から退き取締役最高顧問となり、1958年取締役を引退。
実質的には藤沢氏がホンダのCEOと評する人も多い。
創業間もない本田技研工業は経営全体としてみれば、順調というには程遠い状態だったそうです。
本田氏と藤沢市の出会いは、ドリーム号(HONDA初の二輪車)の完成した昭和24年(1949)8月。
研究開発だけにしか没頭できない本田氏は、自らの弱点も自分で理解していたのかもしれません。
そのとき、通産省技官の竹島弘氏が紹介してくれたのが、藤沢氏。
出会うなり二人は意気投合。
技術面は本田氏、経営面は藤沢氏が分業する形で話が進んでいきました。
しかし、藤沢氏は意気投合していたとはいえ「本田宗一郎という男とやっていけるのか。二人で組んで大丈夫か」と一抹の不安が残っていたそうです。
ある出来事が藤沢氏の心を大きく動かします。
それは、昼食に本田宗一郎氏の妻がお手製のうどんを振舞ってくれたことがポイントだったと後に藤沢氏は語っています。
「けっして裕福とはいえない宗一郎の妻が自分の亭主を助け、一緒に仕事をしてくれる人が東京からわざわざ尋ねてくるということで、食べきれないほどのうどんを自分で打って、大きなざるに山盛りにして出した。そんな妻のもてなし方に胸を打たれました。こういう女房がいる男なら間違いないと。」
こうして、その後の本田・藤沢伝説が始まりました。
この時、本田氏は42歳、藤沢氏は38歳。
本田氏は藤沢氏に全幅の信頼を置き、実印と会社の決定権を託しました。
本田氏は研究開発に、藤沢氏は経営に、それぞれお互いの強みを最大限に発揮します。
藤沢氏は卸専門の販売システム、修理のためのサービス・ファクトリー工場、中古車販売会社を全国展開して小売店をサポートする体制などを構築。
HONDAの資金調達などの金融面もすべて取り仕切りました。
市場を判断し、生産計画を立て、それに基づいて資材手当をし、協力メーカーに発注するという体制を整え、さらに、当時のマスセールにふさわしい大衆商品が開発されたところで、一気に大勝負を賭けて広告宣伝を強化させました。
社内体制も構築。
本田氏に依存した技術開発から、各分野のエキスパートの力を束ねた開発体制へと移行するために、研究開発部門を独立させて「本田技術研究所」を発足。
ホンダが創業期から展開期に向かうために、1970年に常務4人をそろって専務に昇格させ、集団指導体制を敷いて経営を任せ、1973年に本田宗一郎氏と共に退任。
退任時、本田が65歳、藤澤が61歳という若さでした。
まさに、世界のHONDAを作ったのは、本田氏と藤沢氏の最強コンビがあったからこそ、と言えそうです。
世界企業SONY、HONDAを作り上げたもの。
それが、最強のパートナーだったのかもしれません。
お互いの弱みをカバーし、強みを最大限発揮できる体制作り。
そういえば、私が実際に見てきた成功しているベンチャー企業には、必ずと言っていいほど創業者と、その有能なパートナーがいました。
理念・ビジョンを掲げ、一人一人のモチベーションを鼓舞するリーダーと、緻密に計画しリスクを計算し、リーダーのビジョンを実現化するために最善を尽くす参謀。
それぞれ強みを生かし、弱みをサポートする。
こういった最強コンビは、現代でも成功するベンチャー企業に共通している部分だと思います。
大事なのは「信頼」。
お互いの強みや違いを理解し、そのうえで信頼する力かもしれません。
井深氏、盛田氏。
本田氏、藤沢氏。
それぞれ、お互い違いを認めたうえで、「信頼する力」が備わっていたように思います。
それが、最高で最強の相棒を持っている人に共通するの能力かもしれません。
名言をお伝えします。
私は盛田(昭夫)君以下のこの上ない良いメンバーに囲まれて生きてきた。この人たちは無謀にも近い私の夢を実現させて楽しませてくれる。こんな幸福は世の中にそんなにあることではないと信じている。
井深大
(本田宗一郎氏との)長いつきあいのなかでも、ふたりのあいだでは経営の話なんていうのは、まず出てきませんでした。ふたりとも経営者としては失格だったのですが、ご存じのように、それぞれ藤沢武夫、盛田昭夫といういい相手がいたからこそ、ここまでやってこられたわけです。
井深大
(井深大とは)ケンカだってするんですよ。意見がそっくり同じなら、2人の人間がいる必要はないんですから。
盛田昭夫
井深(大)さんと私は、しょっちゅう自分たちでモノをつくったり、使ったりしているんです。こういうものが欲しい、ああいうものが欲しいというところからアイデアが出てきますね。
盛田昭夫
本田宗一郎は特別な人間です。だから、彼のような人物を育て上げようとしても無理です。それならば、何人かの人間が集まれば本田宗一郎以上になる、という仕組みをつくりあげなければならないということです。そうしなければ、この企業は人様に迷惑をかけることになる。
藤沢武夫
トップが一緒に行動する必要がどこにありますか。年中一緒にいるということは、裏を返せば、お互いの意思が完全につながっていないことを示すものではありませんか。縦糸さえ通っていれば、一見お互いにばらばらの行動であってもいいのではないでしょうか。
藤沢武夫
創立期に藤沢武夫って経営の名人に巡り合えて、二十数年も一緒に仕事をしてきた。世間の人たちは、俺と藤沢のことを水と油だとか、太陽と月だとかに例えて言っているようだけど、若いころに腹をぶち割って話し合い、互いの長所を心底認め合ったんだ。ちょっとやそっとじゃ壊れる仲じゃない。男同士の友情なんて派手な言葉は好きじゃないが、他人に友情を求めるなら相手の秘密を絶対に守ること。人間親しくなれば当然相手の不可侵領域まで立ち入るようになる。それを軽々しく他人に喋るようじゃ、友情だの信頼だのが成り立つわけがないよね。
本田宗一郎
藤沢(武夫)は自分にないものを持っている。考え方は違うけれど、違うからこそ組む価値がある。世界には45億も人間がいるが、みんなとつきあうわけにはいかない。藤沢と僕の出会いはその代表みたいなもので、藤沢はいわば45億の代表ですから。
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