新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
■岡本太郎名言集
下手のほうがいいんだ。笑い出すほど不器用だったら、それはかえって楽しいじゃないか。
自己嫌悪なんて、いい加減のところで自分を甘やかしていないで、もっと徹底的に自分と闘ってみよう。すると、もりもりっとファイトが起こってきて、己自身を乗り越えてしまうし、自己嫌悪なんか吹っ飛んでしまう。
僕だってしょっちゅう行き詰っている。行き詰った方が面白い。それを突破してやろうと挑むんだ。もし、行き詰らないでいたら、ちっとも面白くない。
よく「どうしてそんなに自信があるんですか」とか、「自信に満ちていてうらやましい」と言われる。だが、僕は自信があるとは思っていない。自信なんてものは、どうでもいいじゃないか。そんなもので行動したら、ロクなことはないと思う。ただ僕はありのままの自分を貫くしかないと覚悟を決めている。それは己自身をこそ最大の敵として、容赦なく闘い続けることなんだ。
親の顔色をうかがっていいなりになるとしようか。が、それがきみ自身の人生なんだろうか。そうじゃないだろう。親の人生をなぞるだけになってしまう。そんな人生に責任が持てるかい。
友達に好かれようなどと思わず、友達から孤立してもいいと腹をきめて、自分を貫いていけば、本当の意味でみんなに喜ばれる人間になれる。
何かを始めても、続かないんじゃないか、三日坊主に終わってしまうんじゃないか、なんて余計な心配はしなくていい。気まぐれでも、何でも構わない。ふと惹かれるものがあったら、計画性を考えないで、パッと、何でもいいから、自分のやりたいことに手を出してみるといい。それでもし駄目なら、つまり続かなかったら続かなかったでいいんだ。いいと思うべきだ。
画家にしても、才能があるから絵を描いているんだとか、情熱があるから行動できるんだとか人はいうが、そうじゃない。逆だ。何かをやろうと決意するから意志もエネルギーも噴き出してくる。何も行動しないでいては意志なんてものありゃしない。
不動のものが価値だというのは自分を守りたい本能からくる錯覚に過ぎないんだよ。破壊こそ創造の母だ。
何か、これと思ったら、まず、他人の目を気にしないことだ。また、他人の目ばかりでなく、自分の目を気にしないで、委縮せずありのままに生きていけばいい。これは、情熱を賭けられるものが見つからないときも大切だ。つまり、駄目なら駄目人間でいいと思って、駄目なりに自由に、制約を受けないで生きていく。そうすれば、何か、見つけられるチャンスがおのずから開けてくる。一日も早く実行してみるといい。
ゴッホは美しい。しかしきれいではない。ピカソは美しい。しかし、けっして、きれいではない。
プライドがあれば、他人の前で自分を良く見せようという必要はないのに、他人の前に出ると、自分を良く見せようと思ってしまうのは、その人間にコンプレックスがあるからだ。人に認められたいなんて思わないで、己を貫くんだね。でなきゃ、自分を賭けてやっていくことを見つけることは出来ないんだ人生は、他人を負かすなんてケチくさい卑小なものじゃない。
人間の生活は矛盾だらけだ。それに耐え、そのマイナス面をプラスの面に転化してゆくこと。それが創ることなんだね。
自分を他と比べるから、自身などというものが問題になってくるのだ。我が人生、他と比較して自分を決めるなどというような卑しいことはやらない。ただ自分の信じていること、正しいと思うことに、脇目もふらず突き進むだけだ。
自分らしくある必要はない。むしろ、人間らしく生きる道を考えてほしい。
激しく挑み続けても、世の中は変わらない。しかし、世の中は変わらなくても自分自身は変わる。世の中が変わらないからといって、それでガックリしちゃって、ダラッと妥協したら、これはもう絶望的になってしまう。そうなったら、この世の中がもっともっとつまらなく見えてくるだろう。だから、闘わなければいけない。闘い続けることが生きがいなんだ。
むかしの夢によりかかったり、くよくよすることは、現在を侮辱し、おのれを貧困化することにしかならない。
人生、生きるということ自体が、新鮮な驚き、喜び、新しく開かれていく一瞬一瞬であり、それは好奇心という浮気っぽいもの以上の感動なんだ。
この世に苦しみ悩んでいるのは決して自分だけじゃない。世の中のほとんどが、同じ悩みを持っていると言ってもいい。不満かも知れないが、この社会生活以外にどんな生き方があるか。ならば、まともにこの社会というものを見据え、自分がその中でどういう生き方をすべきか、どういう役割を果たすのか、決めなければならない。
孤独であって、充実している、そういうのが人間だ。
多くの他人との出会いによって、人間は「他人」を発見する。「他人」を発見するということは、結局、「自己」の発見なのだ。つまり、「自己」を発見するためには、大勢の協力者が必要になる。
チームを作ったり、コンビで何かやるときは、遠慮したり、内にこもらず、面白くぶつかりあうことが大事だね。ぶつかりあうことが面白いと思ってお互いをぶつけあう。そうすれば、逆に生きてくる。
誰のために創るんだろう。考えたことあるか。自分のために?そんなの甘っちょろいよ。植木づくりでもやるんならそれでいいんだ。金のために?だったら創るより早いやり方がいくらでもあるだろう。
社会内の個。純粋であればあるほど人生というものは悲劇だ。人間はすべて矛盾の中に生きている。だから矛盾に絶望してしまったら負け、落ち込むのだ。それよりも、矛盾の中で面白く生きようと、発想を転換することはできないだろうか。
なぜ、友達に愉快な奴だと思われる必要があるんだろう。こういうタチの人は自動的にみんなに気を使って、サービスしてしまうんだろうけれど。それは他人のためというより、つまりは自分の立場を良くしたい、自分を楽なポジションにおいておきたいからだということをもっと突き詰めて考えてみた方がいい。もっと厳しく自分を突き放してみてはどうだろう。
生きるということを真剣に考えれば、人間は内向的にならざるを得ない。また逆に、自分が内向的なために、かえって外に突きだしてくる人もいる。だから内向的であると同時に外向的であるわけだ。これが本当の人間的な人間なのだ。歴史的に見て、英雄とか大きな仕事をした人は、みんな内向性と外向性を強烈に活かしている。
何にもしないで、人生を無駄に過ごすなんて、つまらないじゃない。そういう生活を続けていると、世界全体を見失うし、また、自分自身を見失うことになる。
意志を強くする方法なんてありはしない。そんな余計なことを考えるより、本当にいまやりたいことに、全身全霊をぶつけて集中することだ。ひたすらそれを貫いてみる。はたから見れば、あの人はなんという意志の強い人なんだろうということになるんだ。
意志を強くする方法なんてありはしない。そんな余計なことを考えるな。きみは本当は激しく生きたいんだよ。だから死が目の前に迫ってくる。それはとても正常なことだ相手に伝わらなくてもいいんだと思って純粋さをつらぬけば、逆にその純粋さは伝わるんだよ。カッコよく生きようとするのは自分自身に甘えているにすぎない。カッコウにとらわれそうになったら、自分を叩きつぶしてやれ。自分と言う人間をその瞬間瞬間にぶつけていく。そしてしょっちゅう新しく生まれ変わっていく、エネルギーを燃やせば燃やすほど、ぜんぜん別な世界観が出来てくる。
商業と経済は違うんですよ。商業は金儲けでいい。いや金儲けということだ。しかし経済は金儲けではない。人々を幸せにすることだ。このことを多くの人は知らない。
気まぐれでも、なんでもかまわない。ふと惹かれるものがあったら計画性を考えないで、パッと何でもいいから、そのときやりたいことに手を出してみるといい。不思議なもので、自分が求めているときには、それにこたえてくれるものが自然にわかるものだ。
ぼくは忘れるということを素晴らしいことだと思っている。負け惜しみではなく、忘れるからこそ、つねに新鮮でいられるんだ孤独で、自分と闘っている人間は、鏡に向かって対話するんだよ。孤独を純粋につらぬけばつらぬくほど、逆にそれは魅力になってくる孤独感をもっているのはキミだけじゃない。人間全部が孤独感をもっている危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ。ほんとうはそっちに進みたいんだ。危険だから生きる意味があるんだ今までの自分なんか、蹴トバシてやる。そのつもりで、ちょうどいい。いちばん大切なのは、自分自身にうち勝って自分の生きがいを貫くこと、これがいちばん美しい期待というのは、自分自身に対してもつものであって、他には期待しないい。なんにも求めない。みんな、人に期待したり、なぜ英雄は出ないのかなどと、そんなことばかり言っている。自分こそがとは誰も言わない。尊敬する人をもつことは甘えだと思う。それよりも、感動を大切にしろとぼくはいいたい。
「いまはまだ駄目だけれど、いずれ」と絶対に言わないこと。「いずれ」なんて言うヤツに限って、現在の自分に責任を持っていないからだ。生きるというのは、瞬間瞬間に情熱をほとばしらせて、現在に充実することだ。
危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ。
人間本来の生き方は無目的、無条件であるべきだ。それが誇りだ。死ぬのもよし、生きるもよし。ただし、その瞬間にベストを尽くすことだ。現在に強烈に開くべきだ。未練がましくある必要はないのだ。
人生を真に貫こうとすれば、必ず、条件に挑まなければならない。いのちを賭けて運命と対決するのだ。そのとき、切実にぶつかるのは己自身だ。己が最大の味方であり、また敵なのだ。
人生に挑み、本当に生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれ変わって運命をひらくのだ。それには心身ともに無一物、無条件でなければならない。捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋に膨らんでくる。いままでの自分なんか蹴トバシてやる。そのつもりで、ちょうどいい。
僕は、プライドというのは絶対感だと思う。僕がバカであろうと、非力であろうと、それがオレだ、そういう自分全体に責任をもって、堂々と押し出す。それがプライドだ。
本当に生きるということは、いつも自分は未熟なんだという前提のもとに平気で生きることだ。それを忘れちゃいけないと思う。
同じことを繰り返すくらいなら、死んでしまえ。
人間にとって成功とはいったいなんだろう。結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか。夢がたとえ成就しなかったとしても、精一杯挑戦した、それで爽やかだ。
自分の価値観を持って生きるってことは嫌われても当たり前なんだ。
自分はあんまり頭もよくないし、才能のない普通の人間だから何もできないんじゃないか、なんて考えるのは誤魔化しだ。そういって自分がやらない口実にしているだけだ。才能なんてないほうがいい。才能なんて勝手にしやがれだ。
よく、あなたは才能があるから、岡本太郎だからやれるので、凡人には難しいという人がいる。そんなことはウソだ。やろうとしないから、やれないんだ。それだけのことだ。
なんでもいいから、まずやってみる。それだけなんだよ。
自信はない、でもとにかくやってみようと決意する。その一瞬一瞬に賭けて、ひたすらやってみる。それだけでいいんだ。また、それしかないんだ。
自分自身にとって一番の障害であり敵なのは、自分自身なんだ。その敵であり、障害の自分をよく見つめ、つかんだら、それと闘わなければいけない。戦闘開始だ。
自分自身の生きるスジはだれにも渡してはならないんだ。
猛烈に自分を強くし、鋭くし、責任をとって問題を進めていく以外にない。
いつでも計算を超えた、無目的の闘い、あらゆる対象への無条件な挑戦をつづけることが、人間的であり、生きがいだと信じている。ぼくは、五つ、六つのときから、自分はこう生きていくんだという考えをもっていた。筋をもっていたんだ信念のためには、たとえ敗れるとわかっていても、おのれを貫く、そういう精神の高貴さがなくて、何が人間ぞとぼくは言いたいんだ。死ぬと大騒ぎするけれど、死ぬことと生きることはぼくにいわせれば同じことなんだ。
いいかい、怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだ。
逃げない、はればれと立ち向かう、それがぼくのモットーだ。
自分に能力がないなんて決めて、引っ込んでしまっては駄目だ。なければなおいい、今まで世の中で能力とか、才能なんて思われていたものを越えた、決意の凄みを見せてやる、というつもりでやればいいんだよ。
自分の姿をありのまま直視する、それは強さだ。
人生はきみ自身が決意し、貫くしかないんだよ。ぼくは口が裂けてもアキラメロなどとは言わない。それどころか、青年は己の夢にすべてのエネルギーを賭けるべきなのだ。勇気をもって飛び込んだらいい。
■岡本太郎とは?
岡本太郎。
日本の芸術家。
神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現・神奈川県川崎市高津区二子)で、漫画家の岡本一平、歌人で小説家・かの子との間に長男として生まれる。
父方の祖父は書家の岡本可亭であり、北大路魯山人の師匠であった。
父・一平は朝日新聞で”漫画漫文”という独自のスタイルで人気を博すが、付き合いのため収入のほとんどを使ってしまうほどの放蕩ぶりで、家の電気を止められてしまうこともあった。
母・かの子は、大地主の長女として乳母日傘で育ち、若いころから文学に熱中。
世間知らずのお嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ない人物だった。
岡本が3〜4歳の頃、かまって欲しさに創作の邪魔をすると、かの子は兵児帯でタンスにくくりつけたというエピソードがある。
また、かの子の敬慕者で愛人でもある堀切茂雄を一平公認で自宅に住まわせていた。
家庭環境の為か、岡本は 1917年(大正6年)4月、東京青山にある青南小学校に入学するもなじめず一学期で退学。
その後も日本橋通旅籠町の私塾・日新学校、十思小学校へと入転校を繰り返した。
慶應義塾普通部を卒業後、画家になる事に迷いながらも、東京美術学校へ進学した。
父・一平が朝日新聞の特派員として、ロンドン海軍軍縮会議の取材に行くことになり、岡本太郎も東京美術学校を休学後、親子三人にかの子の愛人の青年二人を加えた一行で渡欧。
パリで以後約10年間過ごす。
フランス語を勉強するため、パリ郊外の寄宿舎で生活。
語学の習得の傍ら、1932年頃、パリ大学(ソルボンヌ大学)においてヴィクトール・バッシュ教授に美学を学んでいる。
「何のために絵を描くのか」という疑問に対する答えを得るため、1938年頃からマルセル・モースの下で絵とは関係のない民族学を学んだといわれている。
たまたま立ち寄ったポール=ローザンベール画廊でパブロ・ピカソの作品を見て強い衝撃を受け、「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになる。
1932年、ジャン・アルプらの勧誘を受け、美術団体アプストラクシオン・クレアシオン協会のメンバーとなる。
1940年(昭和15年)、ドイツのパリ侵攻をきっかけに日本へ帰国する。
帰国後、滞欧作《傷ましき腕》などを二科展に出品して受賞、個展も開く。
1942年(昭和17年)、太平洋戦争下の軍備増強の為、補充兵役召集され帝国陸軍兵として中国戦線へ出征。
1945年(昭和20年)、日本の降伏により太平洋戦争が終結。
岡本は長安で半年ほど俘虜生活を経たのち帰国、佐世保から東京に到着するが、自宅と作品は焼失していた。
東京都世田谷区上野毛にアトリエを構え、ふたたび制作に励む。
1947年(昭和22年)、岡本は新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を発表、当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた。
1948年(昭和23年)、 花田清輝らとともに「夜の会」を結成。
またこの頃、平野敏子と出会った。敏子は後に秘書・養女となり、岡本が逝去するまで支え続けた。
1951年(昭和26年)11月7日、東京国立博物館で縄文火焔土器を見て衝撃を受ける。
1954年(昭和29年)、東京都港区青山に自宅兼アトリエを建て、生活と制作の拠点とする。
1960年代後半、メキシコを訪れた岡本は、ダビッド・アルファロ・シケイロスなどによる壁画運動から大きな影響を受け、同地に滞在中、現地のホテル経営者から壁画の制作依頼を受ける。これがのちに岡本の代表作のひとつとされる『明日の神話』となる。
1970年(昭和45年)に大阪で万国博覧会が開催されることが決まり、通産官僚の堺屋太一ら主催者(国)は紆余曲折の末、テーマ展示のプロデューサー就任を要請した。岡本は承諾すると、「とにかくべらぼうなものを作ってやる」と構想を練り、出来上がったのが『太陽の塔』であった。
岡本は、テレビ放送草創期の1950年代から当時のバラエティ番組であったクイズ番組などに多数出演している。
1970年代以降には、日本テレビバラエティ番組『鶴太郎のテレもんじゃ』にレギュラー出演。
冒頭でリヒャルト・シュトラウス『ツァラトストラはかく語りき』を鳴り響かせ、ドライアイスの煙が立ちこめる中から、「芸術は爆発だ」「何だ、これは!」などと叫びながら現れる演出が人気を博すと、これらのフレーズは流行語にもなった。
この番組内で共演した片岡鶴太郎の芸術家としての才能を見出している。
1996年(平成8年)1月7日、以前から患っていたパーキンソン病による急性呼吸不全により慶應義塾大学病院にて死去した(満84歳没)。
生前「死は祭りだ」と語り、葬式が大嫌いだった岡本に配慮し、葬儀は行われず、翌月2月26日にお別れ会として「岡本太郎と語る広場」が草月会館で開かれた。