始まるのを待ってはいけない~植村直己名言集と軌跡~




新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

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Contents

■植村直己名言集

僕はとても臆病なんですよ。高所恐怖症なんで、高いところでは足が震えます。

所持金三万円、装備らしきものはいっさいもたずの旅でした。3000キロの感触をからだでつかむのが目的でしたから、荷物ガサガサ持って、日常生活の延長みたいなことを望んじゃダメだという考えでした。歩くだけが目的なんですから、何も持たないのがいちばんの早道だと思ったわけです。

出発するとすぐ、帰ることばかり考えるんですよね。毎日先に進みながら、いかにして先に進むかじゃなくて、いかにして引き返すかっていうことばかり考えてるんです。それがある一定のところまで進むと、もう引き返しのきかない状況までくるわけです。そこで初めて、先に進むことだけしか考えなくなるんです。

高い山に登ったからすごいとか、偉いとかいう考え方にはなれない。山登りを優劣でみてはいけないと思う。

私はモン・ブラン、キリマンジャロ、アコンカグアとひとりで登り続け、そして一九七〇年の春、単独ではなかったが、アジアのエベレスト、さらにまたひとりでいま世界の五大陸の最後の山、北米のマッキンリー登頂にも成功することができたのだ。

物資に恵まれている中では、人間本来のものは失われている。

私はきょうまで、ひとつひとつ強い決意のもとに全精神力を集中してやりぬいてきたのだ。必ずやりぬける自信がある。ただ、思うだけではない。南極横断に出発する前、体力をつけ、精神力のトレーニングにより、精神を強靭にすれば、道は必ず開けると私は思う。

自分で危険に直面せず、他人に言われただけで中止するとはまったくいい訳にもならない。

単独登山はグループ登山以上に危険である。安全のためザイルを結ぶ相手がいない。また、どんな事故が起こっても、助けを求めるべき相手がいない。あらゆる障害を自分ひとりで切りぬけなければならないのだ。

旅の出発には、いつもどこから湧いてくるかわからぬ不安感が心のなかに生れ、私を苦しめた。いまも、またそうなのだ。闘志をかきたて全身をひきしめているつもりなのに、漠然とした不安がときおり心を横切る。そして、これをふり払うには、実際に行動を起こすほかないことを、私は知っている。

怖いがゆえ、死にたくないがゆえに、自分の技術以上のことをやらないよう、自分に言い聞かせている。

君たちに僕の考えを話そう。僕らが子供の時、目に映る世界は新鮮で全てが新しかった。医者でも登山家でもやろうと思えば何でも出来た。しかし、年をとると疲れてくる。人々はあきらめ、みんな落ち着いてしまう。世界の美しさも見ようとしなくなってしまう。大部分の人が夢を失っていく。

いや、オレはなんとしてでもやらねばならないのだ。単独登攀はいつの場合にも危険なのはわかっている。それを承知の上でやっているのだから、自分で危険に直面もせず、他人にいわれただけで中止するとはまったくいい訳にもならない。

これまでの私の山を舞台にした自然との苦闘と違い、アマゾンへの挑戦には、恐ろしい中にも別なスリルの味わいがあった。つね日ごろ宗教心などひとかけらもない私がとにかく真剣に神に祈ったのだから不思議なものだ。しかし自分の力で切りぬけられるときには、祈るよりは立ち向かうべきことを学んだ。

私は初志を貫徹しようと決心した。山に登るときと同じように全精力を傾けてことを成せば、たとえ厳しい河といえども、下れないことはないと思った。私はそう決心するともう完全にアマゾンの虜になってしまった。決心のつかないころは、恐怖がつきまとったがいったん決心がつくと私の心はおちついてきた。

全力投球で自分のやりたい事をやることは楽しいことである。

私は先へ進まなければならない。憂鬱でも気が重くても、それが私の運命のようなものなのだから、勇気をふるい起こして、先へ進まなければならない。

いくら私が冒険が好きだからといっても、経験と技術もなくて、また生還の可能性もない冒険に挑むことは、それは冒険でも、勇敢でもないのだ。無謀というべきものなのだ。それがどんなに素晴らしい挑戦であったにしても、生命を犠牲にしては意味がない。

冒険とは、生きて帰ることなのである。

困難のすえにやりぬいたひとつ、ひとつは、確かに、ついきのうのできごとのように忘れることのできない思い出であり、私の生涯の糧である。しかし、いままでやってきたすべてを土台にして、さらに新しいことをやってみたいのだ。若い時代は二度とやってこない。

五体満足なら次に行けるからいいや。

人間の社会の五里霧中をさまようより、この大自然のガスの中の方が、私にとってはずっと身に合っているのだ。いやいや、この濃厚なガスの中でなら、私にも生き延びる道はあるのだ。気が狂いそうな単調さに耐え抜き、弱音を吐きたがる自分に打ち勝つ以外にない。進むこと、ひたすら前へ進むこと。

単独の登山は、無謀にひとしいほど危険がつきまとっている。人の意見も、とうぜん重視しなければならないが、その意見にしたがってばかりいては何もできない。人にいわれてやめるのではなく、自分で実際に直面して肌で感じとり、それでできないと思ったらやめ、できると思ったらやるべきではないか。

これまでの私の山を舞台にした自然との苦闘と違い、アマゾンへの挑戦には、恐ろしい中にも別なスリルの味わいがあった。つね日ごろ宗教心などひとかけらもない私がとにかく真剣に神に祈ったのだから不思議なものだ。しかし自分の力で切りぬけられるときには、祈るよりは立ち向かうべきことを学んだ。

人の目につくような登山より、このエーデルワイスのように誰にも気づかれず、自然の冒険を自分のものとして登山をする。これこそ単独で登っている自分があこがれていたものではないかと思った。

旅の出発には、いつもどこから湧いてくるかわからぬ不安感が心のなかに生れ、私を苦しめた。いまも、またそうなのだ。闘志をかきたて全身をひきしめているつもりなのに、漠然とした不安がときおり心を横切る。そして、これをふり払うには、実際に行動を起こすほかないことを、私は知っている。

こうして五大陸の最高峰を自分の足で踏み、さらにアルプスの中でも特にむずかしい冬期の北壁の登攀に成功したいま、私の夢は夢を呼び起こし、無限に広がる。過去のできごとに満足して、それに浸ることは現在の私にはできない。困難のすえにやりぬいたひとつ、ひとつは、確かに、ついきのうのできごとのように忘れることのできない思い出であり、私の生涯の糧である。しかし、いままでやってきたすべてを土台にして、さらに新しいことをやってみたいのだ。若い時代は二度とやってこない。

私も人相応に年齢を重ねてきたし、できればもっと重ねていきたいと思うが、近頃感じるのは、経験の一つ一つが、随分時間の経った今頃になってひょいと帰ってきて、私を勇気づけてくれることだ。

人のやった後をやるのは意味がない。それも人のためにではなく、自分のためにやるのだ。南極横断はいまから二年後を目標にしている。極寒の中、三千キロの氷の上を単独横断するのだから、自殺行為だと誰もがいう。しかし、私はきょうまで、ひとつひとつ強い決意のもとに全精神力を集中してやりぬいてきたのだ。必ずやりぬける自信がある。ただ、思うだけではない。南極横断に出発する前、体力をつけ、精神力のトレーニングにより、精神を強靭にすれば、道は必ず開けると私は思う。

私の単独登山にしても、やはりひとつの登山形態として、未知なものへの探求と可能性への挑戦、さらに大きくいうなら、人間の可能性への挑戦ではなかろうかと思っている。

努力している人を笑うこと。それは、何よりも最低な行為である。

山は他人のために登るものではないと思う。誰からも左右されない、自分の意志ひとつで行動できる単独行であれば、それが人のためでなく自分のためであればあるだけ、すべてが自分にかえってくる。喜びも、危険も。

英語ができないフランス語が出来ないなどと言っていたら、一生外国など行けないのだ。男は、一度は体を張って冒険をやるべきだ。

山登りはたとえどんな山であろうと、自分で計画し、準備し、自分の足で登山する。その過程が苦しければ苦しいほど、それを克服して登頂して登りきったその喜びは大きい。

いつも前進があるだけだった。失敗したら逃げ道がないと思った。旅の中止は私が自分なりに積み上げてきた実績を、一挙にフイにすることだ。そうしたら自分はもう何をしたらよいかわからなくなる。最初の屈辱の中に戻るだけだ。

気が狂いそうな単調さに耐えぬき、弱音を吐きたがる自分に打ち克つ以外にない。進むこと、ひたすら前へ進むこと。

自分の足跡を残したい。人の評価でなく、自分でものをつくり出したい。年がいくほど、ますます青春を感じて夢が広がるんです。でも、次に必ず壁はある。それを乗り越えた時、パッとまた新しい世界があります。だから、厳しく自分を鞭打ってやってきた時は、振り返った時、実に爽やかです。

人の生きる本当の価値は、お金や肩書きなどではなく、夢を追い求め一瞬一瞬を精一杯生きることにあります。

不安な時は小さなことでもいい、今できる行動を起こすこと。

始まるのを待ってはいけない。自分で何かやるからこそ 何かが起こるのだ。

みんな、それぞれが、何か新しいことをやる、それはすべて冒険だと、僕は思うんです。

いいかい、君たちはやろうと思えば何でもできる。僕と別れた後もその事を思い出してほしい。やろうと思えば何でもできるんだ。

■植村直己とは?

植村直己。

日本の登山家、冒険家。

兵庫県出身。

1984年に国民栄誉賞を受賞。

1941年2月12日、兵庫県城崎郡国府村(現豊岡市日高町)で植村藤治郎・梅夫妻の末っ子として生まれる。

実家は農家。

藤治郎の3代前の「植村直助」から「直」の字を取り、干支の巳と合わせて「直巳」と名付けられたが、町役場の戸籍担当職員の誤字により戸籍名は「直已」として登録された。

のち、大学時代から「巳(へび)より己(おのれ)の方が格好良い」ということで「直己」を名乗るようになった。

少年期より同郷の加藤文太郎に憧れ、学校行事で登った蘇武岳を皮切りに但馬の嶺々への山行を始める。

兵庫県立豊岡高等学校卒業後、豊岡市の新日本運輸(現在は廃業)に就職。

翌1960年に明治大学農学部農産製造学科に入学、山岳部へ入部してからは登山に没頭。

1964年5月大学卒業後、ヨーロッパアルプスの氷河を見ようと考えたが資金が足りないため、まず生活水準が高いアメリカで資金を貯めてそれからヨーロッパに行こうと考え、周囲の反対を押し切って、とび職のアルバイトで貯めた金を元手に横浜港から移民船「あるぜんちな丸」に乗り込み、ロサンゼルスへ向かった。

その際の渡航費用は長兄の植村修が援助した。

到着後苦労して職を得るが9月に不法就労で捕まり、登山の資金を貯めるために働いていることを日系人の通訳を通じて話して強制送還は免れたもののアメリカにはいられずフランスへ向かった。

シャモニーでモンブラン単独登攀を目指すがクレバスに落ち失敗。

モルジヌのスキー場で冬季オリンピック滑降金メダリストのジャン・ヴュアルネに雇われ、ここで資金を稼ぎながら登山活動の拠点とした。

1965年明治大学のゴジュンバ・カン(チョ・オユーII峰)登頂隊に途中参加、登頂を果たした。

1966年7月モンブラン、続いてマッターホルン単独登頂に成功。

10月アフリカ最高峰キリマンジャロの単独登頂に成功。

続いて1968年には南米最高峰のアコンカグア単独登頂に成功した。

この後アマゾン川のいかだ下り6000kmの冒険を経て、北米最高峰のマッキンリー登頂を目指すが、単独登頂の許可が下りず断念。

4年5カ月ぶりに日本に帰国する。

日本山岳会が創立65周年事業としてエベレスト登頂隊派遣を決定し、山岳部の先輩である大塚博美に誘われ植村も参加した。

自己負担金を用意できなかったため荷揚げ、ルート工作要員としての参加であったが、抜群の体力などが認められ松浦輝夫とともに第1次アタック隊に選ばれ、1970年5月11日、エベレスト南東稜から登頂に成功する。

同年8月26日、エベレスト登頂の勢いを借りて再びマッキンリーに挑戦し単独登頂(を成功させ、この時点で世界初の五大陸最高峰登頂者となった。

同年、アメリカ・エクスプローラーズ・クラブからアカデミー・オブ・アチーブメントを授与される。

1971年初めには小西政継らの山学同志会隊に加わり、冬季のグランド・ジョラス北壁に完登した。

同年4月、BBCが主催し、アメリカ人のノーマン・ディレンファース隊長率いるエベレスト国際隊へ伊藤礼造と参加しネパール側南壁制覇を目指して再びエベレスト登頂を目論むが、インド人のハッシュ・バフグナ隊員の遭難以降各国からの代表を寄せ集めた国際隊は互いの利害関係が徐々に表面化し、失敗に終わった。以後登山・冒険とも「単独」での行動へと傾倒する。

1971年8月南極横断距離3000kmを体感するため、同距離となる北海道稚内市から九州鹿児島までの国内縦断を徒歩51日間で実現した。

グリーンランド北部でのエスキモーとの共同生活を経たのち、1974年12月から1976年5月まで1年半かけての北極圏12000kmの犬ぞり探検に成功。

1978年、ナショナルジオグラフィック協会からも資金提供を受け、犬ぞりを操って人類史上初の北極点単独行に成功、日本人として初めて『ナショナルジオグラフィック』の表紙を飾った。

同年にはグリーンランド縦断にも成功し、これらの業績から1979年、イギリス王室ビクトリア・スポーツ・クラブから優れた冒険家に贈られるバラー・イン・スポーツ賞を受賞するなど世界的な名声と評価を獲得した。

2度の失敗に初心に戻る決心をした植村は野外学校設立を夢見て、勉強を兼ねてミネソタ州にある野外学校「アウトワード・バウンド・スクール(OBS)」に参加するため渡米。

ついでにマッキンリー冬期単独登頂を目指した。

植村の登頂開始は一部の記者のみによってインタビューされた。

1984年2月12日、43歳の誕生日に世界初のマッキンリー冬期単独登頂を果たしたが、翌2月13日に行われた交信以降は連絡が取れなくなり、消息不明となった。

消息が最後に確認された2月13日が命日となった。

享年43。

1984年4月19日、国民栄誉賞を受賞。

功績名は「世界五大陸最高峰登頂などの功」。

6月19日にはデンマーク政府により、1978年のグリーンランド縦断の際の到達点であったヌナタック峰を、植村の功績を称え「ヌナタック・ウエムラ峰」と改称することが決定した。

8月、北極点・グリーンランド縦断のゴールであるナルサスワックに植村の功績を伝えるためのレリーフが設置された。

1994年、故郷である豊岡市日高町の神鍋高原に植村直己冒険館が開館。

また公子夫人と有志によって記念館と植村直己自然学校が設立された。

1996年、植村直己冒険賞が設けられた。

■主な登山・冒険歴

1965年4月23日 – ゴジュンバ・カン登頂

1966年7月 – モンブラン単独登頂

1966年10月24日 – キリマンジャロ単独登頂

1968年2月5日 – アコンカグア単独登頂

1968年4月20日 – 6月20日 – アマゾン河6,000km単独筏下り

1970年5月11日 – エベレスト登頂(松浦輝夫とともに日本人初登頂)

1970年8月26日 – マッキンリー単独初登頂(世界初の五大陸最高峰登頂成功)

1971年1月1日 – 冬季グランド・ジョラス北壁完登

1971年8月30日 – 10月20日 – 日本列島3,000kmを徒歩で縦断

1972年9月4日 – 1973年2月4日 – グリーンランド北端シオラパルクのエスキモー宅に単身寄宿し共同生活

1973年2月4日 – 4月30日 – グリーンランド3,000km犬ゾリ単独行

1974年12月29日 – 1976年5月8日 – 北極圏12,000km犬ゾリ単独行

1976年7月 – エルブルスに登頂

1978年4月29日 – 犬ゾリ単独行で北極点到達(単独到達世界初)

1978年8月22日 – 犬ゾリ単独行でグリーンランド縦断成功

1982年8月13日 – 冬期アコンカグア第二登達成(共同)

1984年2月12日 – マッキンリー冬期単独登頂(世界初)



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