新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
■青木功(プロゴルファー)名言集
僕は85勝していますが、2位が200回ぐらい。悔しさは喜びの3倍ぐらいありますよ。
若い頃は自分のゴルフにあれこれ言われるのは嫌だったけど、そういう人ほど自分のことを思ってくれていたということが、いまになってよくわかる。だって、どうでもいいヤツには声もかけないもの。
メンタルが大事とよくいいますが、僕は体がすべての基本だと思います。
攻撃的ーというと、いかにも景気がいいし、カッコもいい。が、いたずらに攻撃的なのは、攻撃的なのではなく無謀というものである。進むときは進み、退くときは退くーというのが、昔からの兵法の常識ではなかったか。ただやみくもに突進し、みずから墓穴を掘った例は、古今東西、いくらでもあったことだ。
ドライバーで遠くに飛ばすのもいいけど、パットやアプローチにも醍醐味があるのを感じられたら、名手の一人です。
うまくいくことを前提に立てたゲームプランなど妄想にすぎない。練習ではほとんどミスも起きないショットですら、コースの上では生じるのだという認識に立って、初めてゲームプランは成立する。
オレはオフは作らない。試合が明けて疲れたときにちょっと息抜きすることはあるけど、オフはない。だって、ゴルフで生活してるんだから、ゴルフでオフを作るわけにはいかないじゃない。
上まで上がって行って、いまは確かにピークも過ぎている。でも、簡単に降りて来られないようにするのが、難しいけど面白い。ゴルフを長くやってきて、関わってきて、こんなにいい人生はないと思う。振り返れば、やれないのにやろうとする挑戦的なゴルフ人生だったと思う。これからも、その電車に乗り続けたい。
よく頑張ったなんて、ちょっとでも自分を甘やかしたらダメだ。衰える速度をいかに遅くさせるか、そのためにトレーニングが必要なんだよ。
フルショットの練習をいくら続けても、ショートゲームの技術が向上することはあり得ない。
俺の場合は初優勝が30歳近かった。それからスタートしているから、すごくバリエーションが広く、どこに行っても、何があっても、どんなゴルフができるんだろうと思える好奇心が強い。
ゴルフのクラブを振ることも大切だが、それ以上に重要なのが、頭をどのように使うかだ。
「心・技・体」という言葉は、「体・技・心」という順番が正しいと考えている。まず強い体がなければ、技術も身に付かないし、強い精神力だって生まれないよ。
天気が悪いとゴルフをしたくないなと思う人もいる。雨を味方にするぞとプラス思考で考えれば、それが大きな差になってくる。ビジネスの世界だって、人と同じ事をやっていたら絶対に上には行けないでしょ?
上には上がある。下には下がある。どっちを向いて歩くかだよ。俺の場合は、風の向きひとつで、昨日のゴルフが今日は通用しなくなっちゃう。だから面白いんだな。向上心が失われないんだ。今日の俺より、明日の俺の方がもっと上手くなっているんじゃないか。そう思わずにはいられない。
勝てなくても、上の位置にいればいつか勝てると思えるようになってきた。3位や5位で我慢していればいつかは優勝できるかもしれないって。それは「忍」っていう字に表されるんだけど、我慢ができるようになって捨てなくなったね。勝負はしてるんだけど、結局投げちゃったら何の意味もないし、プロなんだから金を稼がなきゃならないんだって気持ちになった。それが、オレの言う「体技心」が一番充実していた頃だと思うよ。
いくぶんか打ちそこなったショットが普通なのであって、思いどおりのショットはむしろまぐれなのだと見なすべきなのではないか。
英語もろくにできない俺が海外でやれたのは、とにかく好奇心が強かったから。外国の選手たちのやり方が面白そうだと思うと、俺は自分ですぐに試してみた。すると相手も「バンカーショットを教わりたい」とか言ってきて、そのうち食事やツアーの移動も一緒にするほど仲良くなってね。結局、コミュニケーションは言葉じゃない。気持ちの問題。
スイングは10人10色、一人として同じスイングの者はいない、ただインパクトだけはみんな同じだ。この瞬間をつくるために、自分に合ったスイングをしているのだ。
目的に向かうには難しいこととか邪魔なことも出てくるよ。でも、それを避けていったっていずれは打ち破っていかなきゃいけないことになる。ダメだったらこっち、それもダメだったらあっちっていうんじゃいつまで経ってもダメ。一つの目的に向かっていくのはすごい精神力がいるかもしれないけど、その分、やり遂げたときの達成感も大きいんだよ。だから、困難にぶつかっていく体力や精神力を養っておくことも大事だね。
自分に合ったグリップを身につけるため、手に縛って寝たもんだ。
昨今、野球もサッカーも随分多くの選手が海外で活躍するようになりました。自分はゴルフでは、その先駆者と言わせていただいてよいかもしれません。ですが、自分たちが切り開いた世界への道に続いてくれる選手がそれほど多くないのが残念、それが正直な気持ちです。日本選手のゴルフの技術が世界レベルではないとは思いません。が、「世界へ出る」その気迫を感じられないのです。海外に出て「世界のメジャー大会で大暴れしてやる」このくらいの気概がある選手でないと日本の賞金王にもなれません。日本でプレーをしていながら、虎視眈々と世界への道を見つめている。そんな選手が数多く現れるといいと思うのです。
俺が指導しているジュニアたちには「自分から先に挨拶するのが基本」だと教えている。たとえ苦手な相手でも、挨拶されて嫌な気持ちになる人はいないからね。
とにかくゴルフが好きだった。好きだからこそ発想するんです。
僕は常にプラス思考ですから、失敗しても気にしません。ゴルフの神様が「おまえ下手だからもう一回やれ」と言っているんだなと、そんな風に思いますね。
ゴルフの技術は「出来た!」のは、終わりではなく、始まりなのだ。
私はいつも自分に4つのことを言い聞かせています。「耐えること」「やり遂げようとする気迫を失わないこと」「失敗は忘れ、常に次の手を考えること」そして、「素早い気分転換」。
結局、負けず嫌いなんですよ。だから練習するんです。
僕の気持ちの中では、「完成と思えば成長なし」。これ以上先へ進まないということですから、成長しないでしょう。だから、「おまえ幾つまでゴルフやるんだ?」と聞かれたら、答えは「決めてない」。幾つになっても挑戦心を忘れたくないです。
どんなに失敗しても、自分を信じること。強くなりなさい。失敗を恐れずに、自分を信じて前へ進め。
もっと世界に挑戦して欲しい。世界という舞台で戦うことは、つらさ以上に、自分自身だけが感じる喜びがあるんだよ。
いつかやろうじゃなくて、やるときは今すぐやる、とことんやります。
自分勝手の人間だから、勝手に考え、勝手にやる。
自分はあるがままのもの。それ以上でもなければ、それ以下でもない。
自分がしたいと思うゴルフをやるための環境は、自分でつくっていくしかない。
■青木功(プロゴルファー)とは?
青木功。
1942年生まれ、千葉県我孫子市出身。
1956年、14歳の頃、我孫子ゴルフ倶楽部にて我孫子中学校の同級生で盟友となる鷹巣南雄と共にキャディのアルバイトを介しゴルフと出会う。
1957年に我孫子中学校卒業と同時に新東京都民ゴルフ場(東京都足立区)にキャディとして就職。
1958年、師匠である林由郎プロに引き抜かれ、我孫子ゴルフ倶楽部へ移籍。1961年、飯能ゴルフ倶楽部へ移籍。
1964年 6月1日、二回目の受験でプロテストに合格。4月20日鎌ケ谷カントリークラブで36ホール147、6月1日大宮ゴルフコースで36ホール155(38-42-36-39)で、合格ラインに2打差で合格。
1965年、関東プロゴルフ選手権で日本ツアー・デビュー。
1971年、関東プロゴルフ選手権で日本ツアー初優勝。
1973年、国際興業配下の日本電建と所属契約締結。
1975年、マスターズの前座試合「パー3コンテスト」で、米国籍外選手として初の優勝。
1976年、初の日本ツアー賞金王。
1978年から1981年にかけて、4年連続で日本ツアー賞金王。
1978年、「世界マッチプレー選手権」で海外ツアー初優勝。同年、宏子夫人 (チエ夫人) との再婚を発表。
1980年、全米オープン2位。4日間「帝王」ジャック・ニクラスとラウンドし、死闘を繰り広げた。
1981年、正式な米国レギュラーツアーのライセンスを取得。マスターズ「パー3コンテスト」で二度目の優勝。
1982年、米国レギュラーツアーの賞金ランキング122位。日本人初のシード権を獲得。
1983年、ハワイアン・オープンで、日本人初の米国PGAツアー優勝。ヨーロピアンツアー「ヨーロッパオープン」優勝。
このハワイアン・オープン優勝は、最終日・最終ホールでピンまでの距離128ヤードのショットでチップインイーグルを決めて、2位に1打差の勝利であった。1打差でリードしたままホールアウトしたジャック・レナーがスコアカードを提出しているさなかの奇跡の逆転であった。同ショットは米国にて、80年代を代表する印象に残るショットの一つに選定されており、このショットで使用したパワービルト社製のPWピッチング・ウェッジは、世界ゴルフ殿堂の施設内に展示されている。
1989年、豪州ツアー「コカ・コーラクラシック」優勝。世界四大ツアー (日米欧豪) 優勝を達成。
1992年、米シニアツアー (現在の名称は「チャンピオンズツアー」) に主戦場を移し、同年の「ネーションワイド選手権」にて初優勝。
1994年から1997年にかけて、日本シニアオープンゴルフ選手権競技4連覇を達成。
1997年、青木功ジュニアクラブ発足。以後、ジュニアの育成にも力を注いでいる。
2001年、米シニアツアー「フォードプレーヤーズ選手権」にて、通算1,000試合出場を達成。
2004年、日本人男性として初の世界ゴルフ殿堂入り。
2007年、最終日に65をマーク、エージシュートを達成し逆転で日本シニアオープンゴルフ競技を10年ぶりに優勝。2002年のキャッスルヒルオープンで鷹巣南雄が樹立した「59歳4カ月」を6歳近くも塗り替え、「65歳2カ月」で大会を制した。
2008年、秋 紫綬褒章受章。
2010年、慈善ゴルフ、ザ・レジェンド・チャリティーで66を記録し、3度目のエージシュートを達成した。
2015年、秋の叙勲で旭日小綬章を受章。
日本プロゴルフツアー永久シード保持者。
2016年から日本ゴルフツアー機構(JGTO)会長。
1980年に全米オープンで準優勝、1983年には日本人で初めてPGAツアーで優勝を果たすなど、尾崎将司、中嶋常幸と共に「AON (エーオーエヌ)」と呼ばれる日本を代表する名ゴルファー。
日本ゴルフツアー通算51勝。