新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
■小川直也(柔道・プロレス)名言集
僕は柔道家としても他人とは違う道を歩んできました。小さい頃から柔道に取り組んでいたわけではなく、人と同じことをやっていては強くなれない。身長の高さを生かして、当時は邪道と言われた奥襟をつかむ柔道をしていました。先輩たちからは「あんな力づくの柔道では長続きしない」「奥襟を掴むなんて伝統を汚す気か!」と怒られたこともあります。
失敗した者に対しては厳しかった。でも、自分の中では納得できないこともありました。それは、柔道はプロではなかったのに、五輪になるとプロのような感覚で扱われていたことです。柔道はアマチュアで、プロ野球などのプロスポーツとは違うじゃないですか。プロ選手ならば、それでメシを食って生計を立てています。だから負けた時には、ファンから非難の声を浴びても仕方がないと思うんですよ。ぼくは当時、JRA(日本中央競馬会)でサラリーマンをやりながらアマチュアとして柔道をやっていたんです。負けたとはいえ、そこまで非難されるほど悪いことをしたのかなぁ、と。『それは違うだろ』という気持ちはありました。
戦争に行くみたいで『負けたら帰りの切符はないぞ!』という雰囲気でした。でも、それほど気負っていたわけでもなかった。普通にやっていれば勝てると思っていましたから。『勝ってやろう』ではなく、自ずと結果はついてくるという感じでした。
しゃべることで自分が惨めになるのも嫌だったんですよ。だから『完敗です』とだけ言って席を立ちました。『敗軍の将は兵を語らず』という言葉が好きだったので……。でも、賛否両論でしたよね。いまと違って『金メダルを獲って当たり前』と思われていた時代でしたから、期待を裏切ったとマスコミから叩かれました。
やめようと思ってました。もともと五輪を目指して柔道を始めたわけではなかったし、長くやろうとも思っていなかったんです。JRAに就職していましたから、仕事に従事しようという気持ちに傾いていました。でも周囲の雰囲気が、そうじゃなかったんです。『次のアトランタこそは頑張ってくれよ!』と会社の人や関係者がみんな、そう言うんです。とてもじゃないけどやめられない状態でした(笑)。五輪を目指すというよりも、一年一年やっていこうと気持ちをシフトさせて現役を続けていくことにしたんです。
仕事をしながら、柔道を極めることに限界を感じたからです。個人的な思いとしては、ずっと柔道をしていたい。でも、プロではないので会社の人間としても成長していかなくてはいけない。バルセロナで銀メダルを獲って以降、ずっとジレンマを抱えていました。とはいえ、プロの柔道家にはなれないので、どうしようかと考えていた時、明大の先輩でもある坂口征二さんから声をかけられました。
坂口さんの仲介でホテルで会うことになりました。その時に、猪木さんは僕に対してピンとくるものがあったようです。坂口さんに「あいつをスカウトしろ」と言っていたとか。もちろん、当時の僕は五輪を目指していましたから、「それは勘弁してください」と断りましたよ(笑)。それから、ずっとタイミングを待っていてくださったみたいなんですね。
猪木さんから話をもらって、また明治大学柔道部の監督をやることも決まっていましたし、いろいろと考えていました。そんな時にカミさんに言われたんですよ。『人生は一度しかないから。40歳になった時に、やっぱりプロに行っておけばよかったなって悔いを残さないで』って。ちょうど雄勢(長男)が生まれた直後で、本来なら『そんな危ない、安定しない道を選ばないで』って言われそうなものですが、ぼくの性格を知っているからでしょうね。『悔いを残さないで』って。その言葉は大きかったですよ。
自己プロデュースのコツは、プロレスでいえば、一番大事なのは「出方」です。そのイベントに出るのか、出ないのか。「ギャラが多けりゃ何でも出る」というような奴は、その他大勢になってしまいます。臨機応変さも大事だけど、「これだけは譲れない」という自分の芯みたいなものもなきゃ駄目。
『PRIDE』に出たのは『ハッスル』の宣伝のためです。優勝したいなんて気持ちはまったくなかったし、勝負事は柔道時代に散々やったから興味がないんです。自分はプロレスラーとしてこの世界に入ったわけで、総合格闘技の調子がいいからって、そっちに移ろうという気にはなれない。泥舟かもしれないけれど、「プロレスという舟は俺が守る」と思った方が、張合いもあります。
プロレスに元気がないのは時代の変化に対応できていないからです。プロレスはいま、総合格闘技とは違う独自の魅力を生み出さなきゃいけない変革期にあるんです。それなのに、変わろうとしない奴が多すぎる。変わるということは、自分のこれまでのプロレス観を否定しなきゃいけないということですからね。
プロレス界のためになることは何でもやります。ためにならないことは、いくら金を積まれてもやりません。だから、どんなイベントでも、必ず「何の意味があるの?」って聞くんです。それで納得できればギャラは関係ない。地方の試合だって行きます。
『ハッスル』の目標は『アレグリア』です。アレグリアって要はサーカスですよね。それと同じでハッスルも、基本はプロレスだけど、ひとつのエンターテインメント・ブランドとして見てもらいたい。だから、サブタイトルは「ファイティング・オペラ」です。ショーであり、エンターテインメントである以上、当然、レスラー一人一人も自己プロデュースと演出ができなきゃ駄目です。
プロレスというのは、世の中と常にリンクしているものです。会社でも、よく3代目が潰すっていいますよね。プロレスでは力道山さんたちが第一世代、猪木さんたちが第二世代。そして自分たち第三世代が、猪木さんたちの遺してくれた貯金を食いつぶしているのが現状です。このまま潰すわけにはいかないので、大手の団体にもいろいろ言ったけど、全然ダメ。「それなら自分たちで立ち上げるしかない」ということで始めたのが『ハッスル』です。
ハッスル・ポーズを始めたのは、観に来てくれたお客さんに、最後スカッとして帰ってもらって、明日からの活力にしてほしいと思ったから。いまの世の中、みんな元気がないからね。
子どもを通して、出られないさびしさ、悔しさを体験させられました。ですが、雄勢には、オリンピックにまたトライしてほしい。そういう意味では、ぼくはいまでもオリンピックと常に対峙しているのかなと思います。
昨年の大晦日は、相当なギャラでオファーがあったけど、断りました。プロレス界には何のプラスにもならないですから。それに、あれは「対紅白歌合戦」というひとつのプロジェクトで、出場選手はみんなその選手にすぎない。俺はワン・オブ・ゼムにはなりたくない。
バルセロナで勝っていたらプロの道には進みませんでした。ずっと柔道界にいたと思います。名誉を得ると、それが大事になりますから新たな挑戦ができなくなっていたでしょう。でも、五輪で負けたことで人生の振り幅が広がりました。明日どうなるかわからない世界に飛び込むことができたんです。いろいろな経験をしながら、常に前を向いて歩くことで、新たな自分を見つけることもできました。
負けて、格好悪いけど、これだけはやらせて下さい。
柔道を飛び出してしまった以上、もう元には戻れないと感じていましたから、なりふり構わず、やるしかない。
負けた言い訳ってのは、何言っても言い訳にしか過ぎない。
■小川直也(柔道・プロレス)とは?
小川直也。
1968年生まれ、東京都杉並区出身。
私立八王子高等学校に入学。
柔道部部長である小野と監督である川野昭吾の指導によって力を付け始め、高校3年の時に金鷲旗ではベスト16、国体では世田谷学園高校の古賀稔彦とともに活躍して東京都の優勝に貢献した。
1986年4月には明治大学経営学部経営学科に進学した。
柔道部監督の上村春樹と助監督である原吉実の指導の下で力を付けて、11月には全日本学生(無差別)において順調に勝ち上がり、決勝では東海大学の関根英之との1年生対決を判定2-1の微妙な内容ながら制して、山下泰裕以来10年ぶりの1年生チャンピオンに輝いた。
続く全日本新人体重別選手権大会では準決勝で日本大学の金野潤に判定負けして3位に終わった。
12月にはブラジルのサンパウロで開催された世界学生に出場して、初戦で韓国の金建秀に合技で敗れるも、その後の3位決定戦でポーランドのイェルジィ・コラノフスキを出足払で破り3位となった。
また、団体戦では優勝を果たした。
1987年1月には正力国際の無差別に出場して、準決勝で当時の外国勢最強の選手と見なされていたソ連のグリゴリー・ベリチェフを払腰で破るものの、決勝では東ドイツのヘンリー・ストールに払腰で技ありを取られて2位に終わった。
しかしながら、ベリチェフを豪快な一本で破ったことで、一躍マスコミから斉藤仁、正木嘉美に次ぐ重量級第三の男として注目された。
7月には体重別決勝で、新日本製鐵の滝吉直樹を判定で破り初優勝を果たしたことにより、世界選手権の代表候補に選ばれた。
10月の正力杯決勝では、高校の時から苦手にしていた金野を判定 (3-0) ながらも6回目の対戦にして初めて破り優勝を飾った。
11月には西ドイツのエッセンで開催された世界選手権に出場、史上最年少の19歳7か月で世界チャンピオンとなり、一躍1988年ソウルオリンピック95 kg超級代表の有力候補となった。
12月には史上最年少で世界チャンピオンになったことが評価されて、日本スポーツ賞大賞を受賞した。
1988年8月のアジア選手権無差別では準決勝で北朝鮮のファン・ジェキル、決勝でも中国の徐国清を破ってオール一本勝ちで優勝を果たした。
10月の正力杯では決勝で関根から内股で技ありを取り2連覇を達成した。
さらに全日本学生に出場して、決勝では78kg級世界チャンピオンである筑波大学の岡田弘隆がケガで棄権したため、不戦勝で2年ぶり2度目の優勝を果たした。
1989年3月には全日本選手権東京予選で優勝を果たすと、4月の全日本選手権では関根との史上初の大学生同士の決勝対決を横四方固で一本勝ちすることによって制して初優勝を果たした。
7月の体重別では決勝で関根を支釣込足で破って優勝を果たして、世界選手権では95 kg超級と無差別両方の代表となった。
10月にはユーゴスラビアのベオグラードで開催された世界選手権に出場して、95 kg超級の決勝ではキューバのフランク・モレノを横四方固、無差別の決勝ではソ連のアカキ・キボルザリゼを上四方固でそれぞれ破り、計8試合をオール一本勝ちして圧倒的な強さで2階級制覇を達成した。
翌年3月には明治大学を卒業した。
1990年4月からはJRAサービス推進部保安企画課所属となった。
社会人になって初めての大会となる全日本選手権では準決勝で金野を注意で破ると、決勝では71 kg級世界チャンピオンである平成の三四郎こと古賀稔彦との夢の対決となったが、序盤から優勢に試合を進めて7分過ぎに足車で一本勝ちして大会2連覇を達成した。
1991年4月の全日本選手権では決勝で金野を判定で破り3連覇を達成した。
7月にスペインのバルセロナで開催された世界選手権では95kg超級の準決勝でソ連のセルゲイ・コソロトフに崩袈裟固で敗れるも、3位決定戦ではフィンランドのユハ・サロネンに反則勝ちした。無差別級も出場、決勝でソ連のダヴィド・ハハレイシヴィリを体落で破り、オール一本勝ちで無差別3連覇を果たした。
1992年4月の全日本選手権決勝では後輩である明治大学4年の大漉賢司を横四方固で破り4連覇を達成した。
5月の体重別は欠場したが、1992年バルセロナオリンピック代表に選ばれた。
7月のバルセロナオリンピックでは準決勝でドゥイエを体落と崩袈裟固の合技で下すが、決勝ではソ連崩壊でEUN代表となったジョージア出身のハハレイシヴィリに開始早々に大腰で技有を奪われると、1分を過ぎたところで小外掛で再び技有を奪われ合技で敗れて2位に終わった。
1993年4月の全日本選手権決勝では金野から足車で一本勝ちして5連覇を達成した。
7月の体重別では決勝で関根を判定で破って優勝して世界選手権代表に選ばれた。
1996年2月のフランス国際では準決勝でタタログルに体落で一本勝ちすると、決勝はクバツキの棄権により優勝を果たした。
4月の体重別準決勝では篠原を注意で破るが、決勝で警視庁の真喜志慶治に0-3の判定で敗れて2位に終わった。
続く全日本選手権では準々決勝で金野に2-1の微妙な内容で判定勝ちすると、準決勝では会社の後輩であるJRAの賀持道明を横四方固で破り、決勝では日本道路公団の三谷浩一郎から掬投で一本勝ちして2年連続7度目の優勝を飾るとともに、1996年アトランタオリンピック代表に選ばれた。
7月のアトランタオリンピックでは、準々決勝でクバツキから先に体落で有効を取るが終了間際に双手刈で有効を取り返されるものの3-0で判定勝ちするが、準決勝でドゥイエ相手に先に内股で有効を取られるがその後はよく攻めたものの結局ポイントを取り返せず敗れ、3位決定戦ではモラーに払巻込で敗れて5位に終わった。
9月には全柔連に国際試合強化選手の辞退届けを提出し、現役を引退した。
1997年2月にはJRAを退職してフリー格闘家への転向を表明した。
柔道で世界の頂点に立った経歴から、その格闘家としてのポテンシャルの高さが期待され、アントニオ猪木と佐山聡の設立したUFOに入団した。
1997年4月12日にプロ格闘家として必殺技の「STO(スペース・トルネード・オガワ)」をひっさげて新日本プロレスマットに立ち、デビュー戦はノンタイトルながら当時のIWGPヘビー級王者であった橋本真也にSTOからの裸絞めで勝利した。
1か月後の5月3日新日本初の大阪ドームで行われた、同王座を賭けた再戦では、橋本から頭部へ蹴りを受け失神KO負けを喫した。この試合が唯一橋本に敗れた試合となった。
以降スランプとなり、1997年8月10日の新日本ナゴヤドーム大会でグレート・ムタに敗れ、1998年4月4日に東京ドームで行われた、猪木引退興行「ファイナルイノキトーナメント」の対戦相手決定トーナメントではドン・フライに敗れ、猪木との対戦は叶わなかった。
1999年1月4日、東京ドーム大会における3度目の橋本戦において、自らをスランプに追い込んだ橋本に対して、セメントを小川は仕掛けた。
小川は橋本が入場曲をバックに花道を入場する途中で「橋本!死ぬ気があるならあがって来いっ!」と、リング上から前代未聞の「相手の入場中にマイク挑発」を行い、試合前から不穏な雰囲気が漂った。
試合が始まって間もなく、小川から数発のパンチを受けた橋本は、小川に不可解なレッグダイブを繰り返した。
「プロレス」を行うつもりであったにもかかわらず、小川の格闘技的なパンチに不意をつかれた橋本は、攻撃らしい攻撃を全く行えなかった。
現場監督だった長州力が、リングサイドのカメラマンを押し退けてリングに上がり、コーナーポストに座る小川に対して「これがお前のやり方か?」と詰め寄った。
こうして小川は「暴走王」として一気にステータスを上げることになる。
2000年4月7日、橋本と東京ドームでシングル5度目の対戦。橋本はこの試合に負けたら引退すると公表していた。このドーム大会はテレビ朝日でゴールデンタイムに生中継され、番組のコピー「橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退スペシャル」は大きな波紋を呼んだ。
試合は小川が優位に試合を進めた。橋本は場外からの水面張りで奇襲を仕掛けるが、橋本がオープンフィンガーグローブを外して素手で小川にパンチを入れたことにセコンドの村上が激怒し、リング内に乱入し、その後持ち直した小川はSTO6連発で橋本をKOした。
テレビ中継は平均視聴率は15.7%、瞬間最高視聴率は24%を超え、反響を呼んだ。
橋本とのシングル戦は事実上4勝1敗で勝ち越した。
橋本との抗争後は、PRIDEに参戦し、ゲーリー・グッドリッジ、佐竹雅昭に勝利した。
2001年4月18日に、宿敵だった橋本真也率いるプロレスリングZERO-ONEの旗揚げ第2戦(日本武道館)に参戦。
メインイベントで三沢光晴とタッグマッチで対戦した。
2002年頃から猪木との方向性の違い、元々総合ではなくプロレスラー志向が強かったこともあり、主戦場をZERO-ONEのリングとし、かつての宿敵・橋本真也と「OH砲」を結成。
2004年1月から、PRIDEを主催するドリームステージエンターテインメント(DSE)と、主戦場とするZERO-ONEが共催して始まった「ハッスル」に登場。
当時のZERO-ONEの掛け声であった「3、2、1、ゼロワーン!」を流用した「3、2、1、ハッスル!、ハッスル!」という掛け声とポーズが有名となった。
ハッスルの普及を目的に、同年4月からのPRIDEグランプリに参戦。
ヒョードル戦は敗れたが、試合後に会場外で行われたハッスルPRイベントに集まったファンが、熱烈な小川コールを送った。
同年9月にシングルCD「ハッスル音頭」を発売し、テレビの歌番組にも出演する。
2005年12月31日、「PRIDE 男祭り 2005」のメインイベントで吉田秀彦戦が行われた。
この年の7月に突然の病気で亡くなった戦友・橋本の入場曲「爆勝宣言」の前奏が流れ、登場。
曲が変わった直後、小川は一瞬こみ上げるものがあり表情が崩れている。
試合は吉田に腕ひしぎ十字固めで見込み一本負けを喫したが、試合後のリング上、マイクで、実は試合序盤の吉田のヒールホールドで「足(の骨が)、折れちまったよ」と告白した。
最後には吉田自身の信念により拒否こそされたものの、まともに立てない状態ながらハッスルポーズを決め、締めた。
2007年6月29日、アントニオ猪木が主催するIGF旗揚げ戦「闘今 BOM-BA-YE」に参戦。
マーク・コールマンに6分44秒スリーパーホールドで勝利。以降、IGFを主戦場とする。
2010年7月、筑波大学大学院人間総合科学研究科博士前期課程コーチング学専攻に合格。
2011年4月より同大学にて岡田弘隆の指導を受け、柔道指導者としての理論を学んだ。
2013年3月、筑波大学大学院を修了。
2018年6月11日、「息子(小川雄勢)の指導に専念したい」としてプロレス及び総合格闘技を引退して柔道界への復帰を目指す方針を明らかにした。