新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
■新庄剛志(野球)名言集
早くブーイングの起こる選手になりたい。
まわりにバカにされようが、自分を信じてトライしていれば必ず道は開けると思うんだよね。
僕は常にオーラを出す練習をしている。きょうは162%。
“私のしくじりなんか、大したことないや”って、元気を出してほしいから。そもそも、しくじってない人生って、本当に楽しくないんですよ。しくじって、それをなんとか努力して解決したときって、すごくホッとしてうれしいでしょ。
ヘラヘラして、相手をカリカリさせて勝ちたい。
プロ野球の存在意義とは、その街の人々の暮らしが少しだけ彩られたり、単調な生活がちょっとだけ豊かになることにほかならない。
メジャーリーグでは英語ばかりで、これでやっと日本語で話ができると思ったら監督が外国人だった。
僕がメジャーで通用すれば、誰でもこれると思うので、門を開けてあげたいですね。
誰かに相談しても、間違いなく『無難な道を選べ』と言われるだろうから、誰にも相談しなかった。親父にも『メジャーで通用するはずがない』と言われたけれど、全然気にしなかったし、むしろ闘争心に火がついたね。
体力の限界はあるが頭の限界はない。
今だから言うけどさ、現役だった頃、練習してるの見られたくなくて、みんなが来る前に練習して、その後に家帰ってオシャレして試合ギリギリに車で乗り付ける姿をファンや記者にみせるようにしてた。毎日練習はしてたよ、本当はね。
俺、毎日が日本シリーズなら4割打てるわ。
残りわずかな野球人生。明るく楽しく白球を追い掛ける事を今日この日みんなに約束します。
チャンスでしか打てないバッターと思われたい。
北海道で種をまき、フロント、監督、コーチ、選手で毎日一生懸命水を与え、やっと三年目にして花が咲かせらることができたんじゃないかな。
僕は盗塁に興味がないんです。
みんな、夢はあるかい? 1%の可能性があれば、必ず、できる。今日からトレーニングを始めて、もう1回、プロ野球選手になろうと思います。みんなも何か挑戦しようぜ。
今日はジャイアンツ戦だからね、4-5(四打数五安打)は打ちたい。
野球をやりたいというか、今、夢を持っていても、挑戦しない人たちが多いじゃないですか。それが、すごいさみしくて。48歳からでもプロ野球選手を目指す。それをみんなに見せたいというのが一番ですね。
簡単じゃないし、楽には入れないと思うけど、なんか楽しいんですよ。練習はまあしんどいですけど、しんどさの中に笑顔があるんです。
ボクは昔から「毎日、その日できる楽しいことを必ずひとつする」というのを決めてたんです。お金を取られたりしても、その日できる楽しいことはいっぱいあるでしょ。現役時代だってずっと高年俸だったわけじゃなくて、最初はお金なくて、同期の選手に借金してたんだもん(笑)。月の手取りが12万円で、1本7000円のバットが買えなくてね。それでも野球が楽しかったから、誰よりも練習してた。まわりが110kgのバーベルでヒーヒー言ってたら、自分は135kgのバーベルを上げる。試合後の練習も人の4倍やった。お金にめぐまれてなくたって、「楽しいこと」と思ってたらなんだってできるんですよ。
みんながもっと笑顔になれるにはどうしたらいいかな?
でも、だんだん交渉したり節約するのが楽しくなってきたんだよね。普段の買い物でも、近くのスーパーの50円の水ではなく、少し遠いスーパーまで20円の水を買いに行く。面倒だけど、普段から工夫を凝らしてコツコツ努力するのって、すごく楽しんだよね。『幸せってこういうことなのか』って感じたな。お金があったら、人を雇えばいいから自分は動かなくていい。でも、それじゃつまらないって初めて気づいたんだ。
ユニフォームを着ている姿を見せるのがオヤジへの一番の薬だと思ったんです。自分の人生どうこうじゃなく、命にはかえられませんから。
メジャーへの挑戦をはじめ、これまでのオレの人生ってなにかと『新庄だからできたんだ』ってよく言われるんだけど、誰だって人より優れているものが何かしらあるはずなんだ。でも、たいていの人が頭で考えているだけで行動しないでしょ?オレが成功できたのは、実際に行動したから。
まず皆にわかってもらいたいのは『一番最初にする勇気』。宣言した後は注目が集まりプレッシャーもかかるが、結果を残しさえすれば周りも認めてくれる。
俺は今まで3回夢をかなえているのよ。小さいころの夢がプロ野球選手になる夢。プロ野球選手になってメジャーリーグに行きたいという夢。プロ野球で日本一になりたいという夢。3つ叶えたけど、今考えると夢がちっちぇなと思って。
ちがうちがう! みんなできるんだって。よく「新庄さんは特別だから」「宇宙人だから」とか言われるんだけど、ちがう。野球だったら「打てなかった…」と落ち込んでたってヒットにしてもらえるわけじゃないじゃん。つまりポジティブな姿勢は自分でつくっていくしかないんだよね。
今日のお前は、世界一格好いい。
いつ死ぬかわからないでしょ。それまでに思いっきり自分のやりたいことをやりたい。それが目標。後悔はせずに、いつ死んでもいいですよっていう気持ちのモチベーションを毎日持っていく。今は苦しいけどね。今を乗り越えたら楽しいことがある。でも今がないと、その先はないから。そういう気持ちですね。
楽しめば、きっと成功する。
可能性は誰かに決めつけられるものじゃない。身の程なんか一生知るな。
■新庄剛志(野球)とは?
新庄剛志。
1972年生まれ、長崎県対馬市(旧:下県郡美津島町)出身。
福岡県で造園業を営む家庭の第2子(長男)として、長崎県の母親の実家にて誕生。
小学時代に8回の交通事故に遭うが、いずれも大怪我は負わずにすんだ。
小学1・2年時には町内のサッカーチームへ所属。
足の速さと肩の強さは幼い頃から身につけており、6歳時には既に大人よりも遠くまで石を投げられるほどであった。
やがて父親から野球を教わり始めた。
小学高学年時には家業を手伝い、重い石碑等を持つ作業で体力をつけた。
小学3年時より始めたソフトボールでは、6年時5月の町内対抗大会でのサヨナラ負けが決定するプレーの判定をした審判員に泣きながらひとり食ってかかり、なだめる監督にも誤審を訴え続けた。
その様子を見るに見かねた監督が、そんなに悔しいのなら自分が監督を引き受けるから少年野球チーム(軟式の学童野球)を創ってその悔しさを晴らそうと持ちかけると、新庄は2日間でメンバーを集め、ユニフォームのデザインやチーム名命名も担当して「長丘ファイターズ」というチームが誕生した。
キャプテンでエースで4番打者の新庄は目立ちたがり屋で、ノーステップでのジャンピングスローをよくやっていたという。
同チームは結成後1か月余りで福岡県大会(出場64チーム)の第3位に入賞した。
福岡市立長丘中学校時代には軟式野球部に所属。
1987年、高校は父親からの薦めもあり西日本短期大学附属高等学校へ一般生として入学し、硬式野球部員として寮生活を送った。
高校時代に部の全国大会出場は叶わなかった。
同年のプロ野球ドラフト会議にて阪神タイガースから5位指名を受けた。
1年目の1990年は二軍で過ごし、腰痛の影響もあり出場36試合・打率.074(安打2)・本塁打および打点なし。
守備は中堅手から、シーズン中に自らコンバートを志願して内野の遊撃手へ転向した。
9月から11月にはフロリダ州レイクランドでの秋季教育リーグへ派遣された。
1991年も秋口まで二軍で過ごし、キャリアにおいて唯一となる二軍規定打席に到達して打率.246・本塁打9・打点39を記録した。
そして一軍監督の中村勝広ら首脳陣により見いだされ、9月9日に初の一軍昇格。
翌10日、東京ドームでの巨人戦で9回表の代打としてプロ初出場を果たし、香田勲男から初打席初安打初打点を記録した。
16日、広島市民球場での広島東洋カープ戦で7番・遊撃手としてプロ初先発出場を果たした。
1992年より守備位置登録が内野手へ変更となった。
一軍に定着して「(虎の)プリンス」という愛称が浸透していった。
9月16日、優勝争いが山場を迎えていた広島戦の両チーム無得点8回表二死満塁の守備で、山崎隆造の右中間へのライナーを中堅から走り込みダイビングキャッチしてピンチを防ぎ、そのまま0-0で迎えた9回裏の攻撃では大野豊からプロ初サヨナラ安打となる本塁打を放った。
試合後のヒーローインタビューでは「優勝です!」と宣言した。
この年、前年まで低迷していたチームは最終戦の1試合前まで優勝争いをした。
この躍進は、右中間守備コンビを組む亀山努らと共に活躍したことから亀山・新庄の頭文字をとり「亀新フィーバー」と称された。
当時に入寮している球団寮・虎風荘へ届く新庄宛のファンレターは1日につき段ボール1個分あったという。
また寮や新庄の行く先々へ連日殺到する若い女性ファンを指して「新庄ギャル」と報道され、寮の前の混雑により球場からの帰寮もままならない状況となった。
翌1993年の年俸は当年の520万円から2200万円に上がり、323%増の昇給率は当時の球団歴代最高であった。
1993年より背番号を「5」へ変更。
この年に初めての規定打席へ到達。
初のシーズン100安打も達成して打率.257、オマリーと並びチーム最多の23本塁打を記録し、ベストナイン初受賞。
守備ではリーグ外野手最多13補殺を記録しゴールデングラブ賞初受賞。
1994年より外野手登録へ戻った。
7月のオールスターゲームにファン投票セ・リーグ最多得票で初選出され、第1戦にて代走として初出場し、球宴初盗塁を記録した。
この年は石嶺和彦と並びチーム最多の17本塁打、同じくチーム最多の205塁打を記録。
守備ではリーグ外野手最多289刺殺を記録しゴールデングラブ賞受賞。
1995年オフの11月19日、契約更改交渉後会見にて「野球に対するセンスがないって見切った」と突然の現役引退宣言を行った。
最終的に父親を勇気づけるために現役続行を決断。21日に宣言を撤回。
1996年はシーズン打率.238・本塁打19。共にキャリア最高となる四球55・出塁率.335を記録した。ゴールデングラブ賞受賞。
1999年6月12日、巨人との首位攻防戦12回裏同点一死1.3塁の場面で敬遠球を打ちサヨナラ安打を記録。
初球の外角への外し方がやや甘い投球を見逃し、自身は「これくらいの球(外し方)なら打てる」と感じ2球目の同様の投球を打ち、三遊間を抜いて左翼前へ転がした。
7月のオールスターゲーム第2戦(甲子園)で黒木知宏から記録した自身球宴初安打が、全セ・リーグ通算1000本目の安打となった[90]。
第3戦・2リーグ制発足50周年記念試合では岩本勉から球宴初本塁打を放つなど全セの全2打点を記録して、初のMVPを獲得した。
2000年は打率.278 142安打 23二塁打 28本塁打 85打点 15盗塁でチーム六冠王に輝き、猛打賞10回を含む打撃成績全てがこの年のチーム最多記録だった。
ベストナイン・ゴールデングラブ賞受賞。
シーズンオフの11月に開催された日米野球に出場して打率.409(22打数)を残した。
2000年8月に取得した初めてのフリーエージェント (FA) 権を11月9日に行使してFA宣言。
かねてより移籍志望を抱いていたMLBのニューヨーク・メッツへの移籍となった。
2001年のスプリングトレーニングでの新庄を取材する日本人メディアの多さや新庄の話題性の高さについて、ニューヨーク・タイムズが「ジェームズ・ディーンがきた」と表現して報じた。
オープン戦での成績に対し球団よりジョン・J・マーフィー賞を受賞して開幕メジャー入り。
チームのプレーオフ進出争いに終盤は4番打者としても貢献した。
この年は外野3ポジションそれぞれで補殺を記録して総数は12。
打撃では故障離脱の影響もあり規定打席には未到達ながら、満塁時に打率.583・打点17を記録し、勝利打点11はピアッツァと並びチーム最多。
Topps ルーキーオールスターチームなどを受賞した。
翌2002年の年俸は135万ドルとなり、日本円換算で当時約1億3500万円と自身初めて1億円を超えた。
プライベートでは日本メガネベストドレッサー賞とベストドレッサー賞を受賞。
2001年12月16日、デシー・レラフォード内野手と共にサンフランシスコ・ジャイアンツ、ショーン・エステス投手との2対1トレードで移籍した。
背番号は引き続き「5」。
2002年は球団が獲得に際し想定していた通り、監督のダスティ・ベイカーより1番中堅で起用され開幕。
7月、オールスターゲーム・ファン投票で100万票以上を得てナ・リーグ外野手部門第4位となった。
守備ではリーグ外野手および中堅手のレンジファクター1位を記録。
自身NPB/MLB通じて初のポストシーズン出場およびリーグ優勝を果たした。
10月19日、対アナハイム・エンゼルス第1戦にて9番・指名打者で、日本人選手として初めてワールドシリーズに出場。
第2打席にジャロッド・ウォッシュバーンからシリーズ日本人選手初安打となる中前安打を放ち、この時使用したバットは「TSU No.5」と自筆サイン入りでアメリカ野球殿堂博物館に展示されている。
2003年1月11日に古巣のニューヨーク・メッツと年俸60万ドルで契約した。
MLB3年目にして故障明け調整出場以外では初めてマイナー落ちした。
オフにノンテンダーFAとなり、MLB/NPBの数球団より契約オファーを受けた。
移籍先はNPBの翌シーズンより北海道へ移転する北海道日本ハムファイターズに決まった。
12月3日に新本拠地・札幌ドームで行われた入団発表の会見は、当初非公開の予定が約2000人のファンが来場したため、急遽グラウンドにて一般公開された。
会見では「札幌ドームを満員にする」「チームを日本一にする」と目標を掲げた。
入団初年度よりファンサービスの一環として、本塁打時の談話にて独特の打法命名を始めたほか、翌年にかけて試合前シートノックにて かぶりもの(仮面)を着用するというパフォーマンスを5度行い、該当試合でチームは3勝1敗1引き分けの成績を残した。
2004年は開幕から7月まで主に2番中堅で、8月早々に打順を坪井智哉と交代した後はプレーオフまでビッグバン打線の1番で起用された。
この年は猛打賞12回・打率.298とそれぞれキャリア最高を記録。
7月から9月はいずれも月間打率3割以上を残し、7月には下旬に『スパイダーマン』のかぶりものパフォーマンスを行った試合から5試合連続複数安打を記録。
8月には中旬から7試合連続複数安打とリーグ月間最多二・三塁打(11本)を記録。
9月には全16試合中15試合で安打し、前述したストライキ明けの試合から3試合連続本塁打するなど、それぞれリーグ月間最多の本塁打7・打点20・得点15を記録して月間MVPを受賞。
守備でもリーグ外野手最多272刺殺を記録するなど、球団移転初年度でのプレーオフ進出に貢献。
プレーオフ第1ステージにて自身NPBポストシーズン初出場を果たした。
シーズンMVPを選定する記者投票で第4位となる点数を得た。
受賞は他に、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、JA全農Go・Go賞3回、日本プロスポーツ大賞功労賞など。
2005年は規定打席に到達できなかった。
2006年、阪神時代の監督であった中村勝広がオリックスの、野村克也が東北楽天ゴールデンイーグルスのと同リーグ球団の監督に就任し、ロッテのボビー・バレンタイン監督と合わせ、3人の恩師と対戦することとなった。
1年間を6番中堅でほぼ固定起用された。
自身の発案で「ファイターズ超満員大作戦(43,000プロジェクト)」と銘打ち、何かやりますと予告していた3月25日の開幕戦試合開始にあたり守備へ就く際に、自身がハーレーダビッドソンのトライクを運転して入場し場内を周回して守備位置へ向かい、続いて他の先発選手もそれぞれサイドカーの助手席に乗車して守備位置へ向かうというパフォーマンスを、満員となった観客の前で披露した。
これを皮切りとして、この年の試合前に本格的なパフォーマンスショーを行った3試合はいずれもチームが勝利を収めた。
4月18日、東京ドームでのオリックス戦にて、1本目の本塁打を「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニフォームを脱ぎます打法」と命名することにより、試合中に当シーズン限りでの現役引退を表明。
そしてヒーローインタビューで改めて引退を宣言した。
引退表明以降のマスコミからの注目度は日に日に増し、新庄のグラウンド内外におけるパフォーマンスは「新庄劇場」と形容されて連日のように報道された。
チームがレギュラーシーズン1位通過を決めた試合後に引退セレモニーが行われた。
チームは4勝1敗で44年ぶり2度目の日本一に輝き、個人5試合通算17打数6安打1打点を記録した。
日本ハム入団会見で掲げた2つの目標である「札幌ドーム満員」と「チームの日本一」を共に達成してユニフォームを脱いだ。
2019年11月13日、自身のインスタグラムに動画を投稿し、翌年のトライアウトを受験し現役復帰を目指すためトレーニングを始めると発表した。
2019年11月27日付で任意引退選手公示が抹消され、自由契約選手公示された。