いよいよ桜の季節です。
桜はなぜか、他の花と違うように感じます。
何故でしょうか。
何かワクワク、ソワソワしてきます。
今回は桜の思い出話から、桜の由来、桜についてお伝えします。
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桜の季節。
桜と言えば、花見ですね。
学卒後に入社した会社では花見をよく開催しました。
もともと、同社は新卒歓迎会というものがなく、入社後2年目で私が同期に声をかけたのが最初でした。
その後、新卒社員が入社するごとに開催し、年々増加。
気が付けば、若手社員だけで100人以上の参加者となりました。
あれから20年以上経過していますが、まだその恒例行事は継続しているそうです。
開催場所は毎年、東京の上野恩賜公園。
花見は楽しいですよね!
私も、花見では、色々な面白いエピソードもありました。
酔っぱらって、靴を無くして裸足で帰る社員。
泣き上戸の女性社員や、同期で喧嘩を始める社員。
近くの酔っぱらいが乱入してくるアクシデント。
様々な「イベント」が待ち構えていました。
でも、毎年、上野恩賜公園は桜の季節、雪洞の明かりが灯り、散り際の桜を際立たせ、公園全体が赤く染まります。
まさに幻想的でした。
通常冷静な人も、通常酔わない人も、その仄かな赤い世界に巻き込まれ、お酒の力も相乗しながら、様々な「イベント」とともに楽しんでいるようでした。
花見開催当初、毎年、後輩と花見の場所取りをしていました。
入社して5年目でも場所取り担当でした。
東京上野恩賜公園の場所取りはまさに争奪戦。
中にはホームレスの方にお駄賃を出して場所を先取りする強者もいました。
場所取り係は前日入り。
寝袋用意し、朝を迎える担当と、始発組みの2交代制。
始発組みは、朝5時~夜7時まで、約14時間、ただひたすら夜が来るのを待つ作業・・・。
当初は会社に内緒で開催していたので、同期や後輩の力を借りて、仮外出アポイントを創作。
当時、三井住友銀行の前身に「さくら銀行」(三井銀行と太陽神戸銀行が合併)という都銀がありましたが、場所取り当日のスケジュールには「さくら銀行(上野支店)訪問」と記載し、場所取りを行っていました。
今では許されませんよね。
さすがに参加者が100人を超えると社内にも噂が立ち始め、その後の場所取りは正式に有休消化して場所取りしました。
ひたすら14時間待つのが、場所取りの宿命。
でも。
実はこれが結構楽しい。
昼間も多くの人が入り乱れる上野恩賜公園。
同じく場所取をしている人達とは仲良くなり、桜を見に来日した綺麗な外国人女性と一緒にお酒を飲んだり、ランチでお弁当を食べに来たOLと仲良くなったり。
花見取材のラジオやTVなどのマスコミにも多数出演・・・。
花見本番と同様、場所取りも楽しかった、そんな感想です。
はじめて場所取りをしたときも驚きの連続でした。
朝、始発電車で上野公園へ行ったときのことです。
場所取りして安堵していると、多くの体操着やトレーナーを着た方々が続々と集結してくるのです。
その数、200~300人くらい?
そして、白い体操着の方々が3名、いきなり用意してあった壇上に上がり、あの音楽が・・・。
そうです、ラジオ体操です。
ラジオ体操の先生と思わしき3名が、約300人と共に一斉にラジオ体操を開始したのです。
私と一緒に場所取りしていた後輩と共に、思わず、缶ビール片手にラジオ体操参加。
総勢300人ほどの壮大なラジオ体操を終えると、その先生3人に向かって生徒?たちは先生とコミュニケーション。
まさに、「カリスマタイサー」。
驚きの連続でした。
ある年の花見の席でのお話です。
隣にいた場所取りしていた男性。
少し怖そうなひとでした。
嫌な予感・・・。
予感は的中!
お昼頃、任侠の世界の人達が総勢30人くらい到着。
さらに驚きなのは、全員正座。
コンクリート上のブルーシートで!
約1時間、誰一人足を崩しませんでした。
その方々一行が帰るとき、私が「席を譲っていただけますか」と声を掛けたら「いくら出す?」と凄みを利かされました。
結局席は譲って頂きましたが、花見でしか経験できない貴重な体験でした。
桜と言えば、なぜ、「サクラ」というのでしょうか。
「サクラ」という名前の由来は、一説に「咲く」に複数を意味する「ら」を加えたものとされていて、元来は花の密生する植物全体を指していたと言われています。
また、春になると里にやってくる稲(サ)の神が憑依する座(クラ)だから「サクラ」になったという説もあります。
他には、桜の霊である「木之花咲耶姫(このはなさくやひめ)」が、富士山の頂から最初の桜の花の種をまいて花を咲かせたので、姫の名前から「さくや」をとって「桜」になった、という説もあるそうです。
平安時代以後の日本において、単に「花」といえばサクラのことを指します。
(なお、平安時代以前の「花」は、梅のことを指すそうです)
日本最古の史書である『古事記』『日本書紀』にも桜に関する記述があり、日本最古の歌集である『万葉集』にも桜を詠んだ歌があります。
そして、桜の儚さ、日本人独特の感性を表現しているのが「もののあはれ」。
もののあはれ(もののあわれ、物の哀れ)とは、平安時代からある言葉です。
「目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や哀愁」で、日常からかけ離れた物事(=もの)に出会った時に生ずる、心の底から「ああ(=あはれ)」と思う何とも言いがたい感情です。
「さくら」や「もののあはれ」で日本人として忘れてはならないのは、戦争です。
ご安心ください。
戦争と言っても、私個人、「左」でも「右」でもありません。
中立です。
しかし、日本は世界でも唯一の被爆国。
1945年8月6日広島、9日には長崎に合計2つの原子爆弾が投下されました。
広島では約20万人、長崎では約14万人の方が亡くなりました。
原爆投下は小倉、京都、新潟への投下も検討されており、東京投下案もあったようです。
原爆投下と言えば、私個人にとって衝撃だった画像があります。
それが、この画像。
報道写真家 ジョー・オダネル撮影 「焼き場に立つ少年」 (1945年長崎の爆心地にて)
アメリカの写真家ジョー・オダネルが撮影した写真です。
1945年日本敗戦と同時に、そのアメリカの写真家は、長崎の状況把握の任務のため、日本へ来ました。
ジョー・オダネルが、長崎での現状を写真に収め、ある火葬場で撮影していたとき。
そこへ、一人の少年が赤ちゃんを背負い、火葬場へやってきました。
弟を背負った少年は、その弟を、燃え盛る死体の山の上に乗せ、しっかり、目をそむけることなく、まっすぐに見つめ、、そして一切振り返らずに、立ち去ったとのことです。
弟を火葬する場面で、1人であるということは、想像するに、両親がいないと思う。
自ら弟を火の中へ放り込む、寸前の写真・・・。
色々考えさせられます。
日本は太平洋戦争で多くの悲しみが生まれました。
「昔の話だ」「俺たちは関係ない」というものではなく、日本で起こった事実、そして考えること、伝えること、過去から学ぶべきことは、あるのではないでしょうか?
以下、ある一人の特攻隊員が遺した婚約者宛ての遺書です。
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【遺書】
二人で力を合わせて努めてきたが終に実を結ばずに終った。
希望を持ちながらも心の一隅であんなにも恐れてゐた”時期を失する”といふことが実現して了ったのである。
毎月十日、楽しみの日を胸に描きながら池袋の駅で別れたが、帰隊直後、我が隊を直接取巻く状況は急転した。発進は当分禁止された。転々と処を変へつつ多忙の毎日を送った。
そして今、晴れの出撃の日を迎へたのである。便りを書き度い、書くことはうんとある。然しそのどれもが今迄のあなたの厚情に御礼を言ふ言葉以外の何者でもないことを知る。
あなたのご両親様、兄様、姉様、妹様、弟様、みんないい人でした。至らぬ自分にかけて下さった御親切、全く月並の御礼の言葉では済み切れぬけれど「ありがとうございました」と最後の純一なる心底から言っておきます。
今はいたづらに過去に於ける長い交際のあとをたどりたくない。問題は今後にあるのだから。常に正しい判断をあなたの頭脳は与へて進ませてくれることと信ずる。然しそれとは別個に、婚約をしてあった男性として、散ってゆく男子として、女性であるあなたに少し言って征きたい。
あなたの幸を希ふ以外、何物もない。
後に過去の小義に、拘る勿れ。あなたは過去に過去に生きるのではない。
勇気をもって過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと。
あなたは今後の一時々々の現実のなかに生きるのだ。
私は現実の世界にはもう存在しない。
極めて抽象的に流れたかも知れぬが、将来生起する具体的な場面々々に活かしてくれる様、自分勝手な一方的な言葉ではないつもりである。純客観的な立場に立って言ふのである。
当地は既に桜も散り果てた。大好きなどんようの候が此処へは直に訪れることだらう。
今更何を言ふかと自分でも考へるが、ちょっぴり欲を言って見たい。
1. 読みたい本 「万景」「句集」「道程」「一点鐘」「故郷」
2. 観たい画 ラファエル「聖母子像」芳崖「慈母観音」
3. 智恵子。会ひたい、話したい、無性に。
今後は明るく朗らかに自分も負けずに朗らかに笑って征く。 昭20.4.12
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