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「株式会社バンダイナムコホールディングス」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『中村雅哉』/沿革・歴史など~

 

「株式会社バンダイナムコホールディングス」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)

 

 

 

 

「株式会社バンダイナムコホールディングス」のmission- ミッション –

 

 

「夢・遊び・感動」

 

 

「夢・遊び・感動」は幸せのエンジンです。

わたしたちバンダイナムコは斬新な発想と、あくなき情熱で、エンターテインメントを通じた「夢・遊び・感動」を世界中の人々へ提供しつづけます。

 

 

 

 

「株式会社バンダイナムコホールディングス」のvision- ビジョン –

 

 

「世界で最も期待されるエンターテインメント企業グループ」

 

わたしたちバンダイナムコは常に時代の先頭で、エンターテインメントに新たな広がりと深みをもたらし、楽しむことが大好きな世界中の人々から愛され、最も期待される存在となることを目指します。

 

 

 

 

バンダイナムコグループシンボル

 

ブランドコンセプト

Fusion and Evolution(融合と進化)

 

活性化した生き物のように、有機的な2つのフォルムが重なりあい、融合し、たえず進化しつづけ、これまでにない夢や遊び、感動を生み出していく様子をバンダイナムコのグループシンボルとして表現しています。

 

シンボルカラー

エンターテインメントへの情熱と、発想の自由さをレッド・オレンジ・イエローを組み合わせたレイヤードカラーで表現しています。

 

 

 

 

 

「株式会社バンダイナムコホールディングス」の創業者・創立者『中村雅哉』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~

 

 

 

中村雅哉(ナムコ創業者)

 

 

中村雅哉。

1948年、横浜工業専門学校(現横浜国立大学)造船科卒業。

 

家業は東京・神田の銃砲店であった。

戦後のものがない時代であり、狩猟用の銃砲の需要は多かった。

 

横浜国立大学工学部の造船科を出た後、忙しかった家の仕事を手伝った。

しかし、銃刀法による規制が強いという業界に折り合いを付けられず、7年務めた後に独立した資本金300万円で東京・池上に有限会社中村製作所を設立した。29歳であった。

 

光子夫人の実家の一室に間借りしてのスタートだった。

何をするかも独立してから考えていった。

 

思いついたのが遊戯類を設置する営業である。

古い木馬が2台あったのでそれを販売することから始めた。

 

当時は人が集まるのはデパートであった。

大学の時代に通った横浜市伊勢佐木町のデパート「松屋」に営業に行き木馬2台を設置したのが最初の仕事になった。

 

その後、横浜松坂屋本店屋上に事務所を構え、デパートの屋上遊園用遊具製造・管理を手がける。

1971年より中村製作所の英語名(Nakamura Amusement Manufacturing Company)の略称である「namco」ブランドの使用を開始、1977年には社名をナムコへ改める。

 

1974年に米国アタリジャパン(旧社)を買収。

当時の資本金の2倍を投じてビデオゲームに進出した。

 

ビデオ開発では業界では腕利きの石村繁一氏が入社して開発技術を徐々に蓄積していった。

アーケードゲーム事業に進出、1980年にリリースした『パックマン』が世界的大ヒットを記録。

 

日本アミューズメントマシン協会(JAMMA)会長(後に名誉会長、最高顧問)等を歴任する。

1999年4月1日、財団法人マルチメディアコンテンツ振興協会 (MMCA) 会長に就任。

 

2001年に新映像産業推進センターと合併しデジタルコンテンツ協会(DCAJ)に改称した際も会長職に留まり、2006年3月まで務めた。

 

また、映画に対する関心も深く、1993年に会社更生法を適用した日活を買収(2005年にインデックス・ホールディングスへ売却)し、1996年には自ら社長に就任している他、2000年には東京芸術大学と慶應義塾大学へ「映画産業を担う人材育成に役立てて欲しい」として私費から総額4億円を寄付している。

 

また、市川崑監督による映画『どら平太』(2000年製作。役所広司主演)など数々の映画作品の製作総指揮を務めた。

2005年6月、ナムコとバンダイの経営統合の議案が可決承認。

 

2005年9月、バンダイナムコホールディングス最高顧問就任。

2006年6月、バンダイナムコゲームス(現・バンダイナムコエンターテインメント)名誉相談役就任。

 

2010年8月8日、「国際ビデオゲームの殿堂」(IVGHOF)に基礎を作った先駆者5名の内の一人として、「パックマン」とともに選出される。

2017年1月22日に死去。満91歳没。

 

 

 

 

 

中村雅哉(ナムコ創業者)の名言・考え方

 

 

 

第1次産業、第2次産業よりも第3次産業(サービス)のほうが、ビジネスとしては儲かる形態であるといわれています。さらに突き進めれば、第3次産業は、従来型労働サービス、第4次産業(知識サービス)、第5次産業(情緒サービス)に分類できると私は考えています。

 

 

 

29歳で会社を起こしてから、いつもどやってお金を集めようかと考えていました。増資は何十回とやりました。出張に行くときに、実際は三等列車を利用しているのに二等列車に乗ったことにして、その差額を蓄積して増資の資金に充てるようなこともしました。そうやって資本金を30万円から50万円、200万円、300万円へと増やしていきました。

 

 

 

自分はそんなに苦労をしたとは思っていません。会社が大きくなって、もっと社会的な責任を担っていくことができるようになるんだとの気持ちがあったからです。

 

 

 

社会から大いに期待され資金援助を受けながら駄目になっていったベンチャーをたくさん見てきました。資金が潤沢だと、ついそれが自分の実力だと勘違いしてしまうのでしょう。苦労をするときには、苦労をさせなくては駄目なんです。私自身も、資金に恵まれていたら、世の中って甘いものだなと思ってしまったかもしれません。

 

 

 

ベンチャー企業の支援が重要だと言われていますが、私はベンチャーを助けることにはあまり積極的ではないんです。というのも、自らの経験から、自分で苦しんでこそ企業は力をつけていくと考えるからです。

 

 

 

マルチメディアコンテンツは、コンテンツの中でも、デジタル情報であるわけですよね。コンテンツというのは、デジタルなデータであっても、映画のようにアナログなデータであっても、人に感動を伝えられるものでなくてはなりません。そういった意味では、デジタルコンテンツの前提として、“ハイテク”を生かした“ハイタッチ”なものでなくてはならないと思っています。

 

 

 

20年以上前ですが、一次産業、二次産業に比べて三次産業があまりに大きくなっていると感じました。それで三次産業は肉体を使うサービス、四次産業は知恵を使う「知識産業」、五次産業は心に訴える「情報産業」と分類し、三次より四次、四次より五次の方が付加価値が高いとみなしたのです。その方向に向かっていくことが企業の成長につながると思ってやってきました。

 

 

 

後継者というのは、別に自分の肉親である必要はありません。彼らが後を継いでくれるかどうかだって分かりませんしね。親父が継げと言って継がせるような真似もしたくない。社長にふさわしい人物が社長になる。それは上場している企業の然るべき宿命なんだと思います。

 

 

 

私が厚かましく、百歳まで生きられるとしても、的確に対応できるかどうか。これまで会社を創業し道をつくってきた人間からすると、間違った選択をしないようにするといういのが肝心なことなんだ。

 

 

 

アタリ・ジャパンの買収も、業界の将来像が描けたから決断できたのです。そしてナムコはアミューズメント産業から、さらに付加価値の高いエンターテインメント産業に脱皮できたのです。

 

 

 

体力のあるものでも賢いものでもなく、変化に対応できるものだけが生き残れる。

 

 

 

“人間は遊ぶ存在(ホモ・ルーデンス)である”との、ヨハン・ホイジンガの言葉のとおり、“人間は遊ぶために生まれてきた”と、私は考えています

 

 

 

 

 

【参考】山科直治(バンダイ創業者)

 

 

山科直治。

1918年生まれ。

 

義兄久々津一夫が経営する繊維会社「萬代産業」(旧鴻池財閥と旧山口財閥系列の三和グループ)の玩具製造子会社「萬代屋」として浅草にて創業。

「萬代」(万代)とは武経七書の一つに数えられる兵法書「六韜」に登場する語の「萬代不易」(永久不変の意)に由来し、創業者の山科直治が「いつの世も人の心を満たす物を作り、絶えない企業の発展を願う」という意味だとしている。

 

当初は萬代産業の余りの布切れで作った人形を販売。

その後、1950年初の自社製品のゴムまり「リズムボール」発売、「B26ナイトプレイン」が50万個以上のヒットになり、これ以降、金属玩具を主力とするようになる。

 

輸出が中心で国内には輸出の余りを販売しており、玩具業界では評判が悪かったが国内向けの玩具開発をてがけるようになる。

創業~1960年代当時は、教育のバンダイと言われた。

 

玩具メーカーとしては後発であり旧来の玩具業界から反発が強かった。

そこで同じく後発のタカラとエポック社と組んで1961年に「玩具三社会」を設立。

 

三社共同の玩具見本市を開催したり、新入社員の研修を合同で行うようになる。

後にトミーとニチガンと学習研究社が加わり「玩具六社会」になる。

 

1960年代半ばより「クレイジーフォーム」「わんぱくフリッパー」「サンダーバード」などのヒットにより大手に成長する。

1961年 商号を株式会社バンダイに変更。またバンダイ、タカラ、エポック社で「玩具三社会」設立。

 

1963年 バンダイ初のテレビキャラクター商品鉄腕アトムを発売。

1960年代の版権違反問題で大失敗し版権協会から追放され、業績が落ち込んでいたところ、東映の渡邊亮徳が『仮面ライダー』を作る際にバンダイの救済も兼ねる形で、バンダイに子会社ポピーを設立させた。

 

以後ポピーがキャラクター玩具を担う形となり、東映と関係を深めて行きキャラクタービジネスを主軸としたマーチャンダイジングを推進していった。

1967年に経営破綻した模型メーカーのコグレのプラモデルの金型を買い取ったことから本社内に模型部を発足。

 

前述の今井科学の静岡工場と金型と社員を買収して、1971年に子会社のバンダイ模型を設立。仮面ライダー『変身ベルト』発売。

1972年 『超合金マジンガーZ』発売。

 

1977年 『ガシャポン』発売(カプセル玩具自販機に参入)

1977年冬に発売した宇宙戦艦ヤマトでは1/500、1/700等キャラクター系キットに対する初のスケール表示の導入や、艦首を広げたディフォルメモデル、主役メカだけでなく脇役メカや悪役側メカもシリーズに加えるなどの商品展開のディスプレイキットが大ヒットした。

 

その商品展開は機動戦士ガンダム関連キット(通称「ガンプラ」)に継承されて1980年代以降の爆発的ヒットにつながり、プラモデルの取扱はキャラクター系キットに特化され、数多くのヒット商品を産み出した。

1978年 バンダイ出版設立。『ウルトラシリーズ』の商品ライセンスを獲得。

 

1980年に山科直治は35歳の長男・山科誠に社長職を譲り会長職に退いた。同年、プラスチック製のガンダムプラモデル(ガンプラ)を発売し大ブームになる。

1983年 バンダイを存続会社として、ポピー、バンダイ模型、バンダイ工業、バンダイオーバーシーズ、マミート、セレンテ、バンダイ出版の7社を吸収合併した新生バンダイがスタートする。

 

1985年 ファミコンソフト『キン肉マン マッスルタッグマッチ』がミリオンセラーを記録。

1986年 東証2部に上場。

 

1988年 東証1部に上場。

1996年 『たまごっち』発売。

 

たまごっちの爆発的ヒットの最中、1997年10月他界。

 

 

 

 

 

「株式会社バンダイナムコホールディングス」の沿革・歴史(年表・社歴など)

 

 

 

1955年6月1日 – 有限会社中村製作所として創業。横浜の百貨店の屋上に、木馬2台を設置。

 

1959年 – 株式会社に改組。

 

1967年 – 大阪事務所(後の関西支社)を開設。

 

1971年 – namcoブランドの使用を開始。

 

1974年 – アタリジャパンを買収、アーケードゲームに進出。

 

1977年 – 株式会社ナムコに社名変更。

 

1979年 – 日米ゲームメーカーの関係が、これまではナムコとアタリ、またはミッドウェイ(今のミッドウェイゲームズ)とタイトーが親密だったが、各社の事情により『ギャラクシアン』から『パックマン』までは、ナムコとミッドウェイが親密になる。

 

1984年 – MSXパソコン用のレーベルとして「namcot(ナムコット)」をスタートさせる。同年2月には任天堂と提携してファミリーコンピュータにもソフトを供給する。

 

1986年 – イタリアントマトを買収。

 

1988年 – 東京証券取引所2部に上場。

 

1988年 – 神奈川県横浜市港北区(現・都筑区)に「横浜未来研究所」を開設(2008年閉鎖。

 

1991年 – 東京証券取引所1部に上場した。

 

1992年 – ナムコ・ワンダーエッグ開園(テーマパーク事業進出)。

 

1994年 – 神奈川県横浜市神奈川区に「横浜クリエイティブセンター」を開設。

 

1995年 – 家庭用ゲームのレーベルnamcot廃止。業務用レーベルのnamcoに統合される。

 

1997年 – 日活に出資、子会社化

 

1997年 – CRフィーバーピストル大名を開発。パチンコ・パチスロの液晶基板と映像ソフトの制作を始める。

 

2001年 – エニックス、スクウェア(現・スクウェア・エニックス)、およびセガ(現・セガゲームス)と業務提携。

 

2005年9月30日 – バンダイと共同持株会社・バンダイナムコホールディングスを設立し、同社の100%子会社になる。

 

2006年3月31日 – バンダイの家庭用ゲーム事業を譲受し、「株式会社バンダイナムコゲームス」に商号変更。アミューズメント施設運営組織・新規事業部門の一部事業部門を新設会社「株式会社ナムコ」(2代)に移管。「ナムコ」の商号を受け継ぐ。

 

2007年3月6日 – ソニー・コンピュータエンタテインメントと合弁会社「セリウス」を設立。
5月 – 子会社モノリスソフトの株式80%を任天堂へ譲渡。
6月 – 本社および事業拠点を東京都品川区東品川4-5-15(旧・品川パナソニックビル)に移転。「未来研究所」と命名する。

11月 – 2008年4月1日よりバンプレストのゲーム事業を譲受予定と発表。

 

2008年4月1日 – バンプレストを吸収合併しゲーム事業を統合、その際にプライズゲーム用景品部門を母体とした新法人「バンプレスト」を設立。
8月6日 – 2009年4月1日を目処にバンダイネットワークスを統合すると発表。
11月 – 携帯電話コンテンツ事業部署を横浜クリエイティブセンターから本社近隣の品川シーサイドパークタワー(バンダイネットワークスの階上)に移転。

 

2009年2月12日 – ディースリーの完全子会社化を目的とした公開買い付けを開始。
3月24日 – ディースリーを完全子会社化。
4月1日 – バンダイネットワークスを吸収合併、同日よりバンダイ・ナムコ・バンプレストの各レーベルおよび総合サイトの4つに分散していた公式サイトを統合、「バンダイナムコゲームス公式サイト」としてリニューアル。石川祝男のバンダイナムコホールディングス社長就任に伴い、鵜之澤伸が社長に就任。
10月1日 – インターネットを利用したオンラインゲームその他ソフトウェア、サービスの企画・開発・運営の子会社として、株式会社バンダイナムコオンラインを設立。

 

2010年2月18日 – 制作ユニット毎に売上責任を負わせることを発表。
4月1日 – 統合後初のグループ連結赤字350億円の大半がゲーム部門であったため、鵜之澤が責任を取り副社長に降格。石川が出戻り、バンダイナムコホールディングス社長と兼務する。ディースリーが新ディースリー・パブリッシャーとして再編しバンダイナムコホールディングス傘下に。

 

2011年3月14日 – 東北地方太平洋沖地震を受け、バンダイナムコグループとして1億円とグループ社員からの募金を義援金として寄付すると発表。
4月1日 – 子会社のベックとバンプレソフトを統合、新会社名をB.B.スタジオとする。
DeNAの共同出資の「BDNA」(後にBNDeNA)を設立する。

 

2012年1月1日 – ナムコ・テイルズスタジオを吸収合併。
2月29日 – セリウスを解散。
4月2日 – 開発部門(約1000人)を新会社「バンダイナムコスタジオ」に分社。

 

2014年3月31日 – BNDeNAを解散。
4月1日 – 英文社名を「NAMCO BANDAI Games Inc.」から「BANDAI NAMCO Games Inc.」に変更。

 

2015年4月1日 – 株式会社バンダイナムコエンターテインメントに商号変更。

 

2016年2月2日 – 本社を東京都港区芝5丁目37-8(バンダイナムコ未来研究所〈住友不動産三田ビル〉)へ移転。
2月29日 – 関西支社を閉鎖。関西支社で行っていた業務は同年3月1日付で本社やテクニカルセンターへ移管。
10月17日 – テクニカルセンターを東京都品川区勝島から神奈川県横浜市神奈川区へ移転。

 

2017年1月22日 – 中村雅哉(バンダイナムコエンターテインメント名誉相談役)が死去。満91歳没。
4月3日 – テクニカルセンターを新会社「バンダイナムコテクニカ」に分社。
7月14日 – 国内最大級となるVR体感施設『VR ZONE SHINJUKU』を新宿にオープン。
8月3日 – ドリコムとの共同出資の新会社である「BXD」を設立。

 

2018年2月9日 – セガ・インタラクティブ、コナミアミューズメントとの間で、アーケードゲーム用ICカードの仕様統一に合意。
4月1日 – アミューズメント機器事業部門を分割しナムコ(同日付でバンダイナムコアミューズメントに商号変更)に承継。
10月1日 – ゲームアプリなどネットワークサービス運営機能を分社し、「バンダイナムコネットワークサービス」を設立。

 

2019年4月1日 – 遊技機関連事業を「バンダイナムコセブンズ」へ分社。
8月27日 – B.LEAGUEチーム「島根スサノオマジック」を運営する山陰スポーツネットワークの株式56.5%を取得し子会社化。

 

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