人々の健康で豊かな生活のために、研究開発を基盤とした新たな価値の創造により、広く社会に貢献する
顧客視点の経営と革新的な研究を旨とし、これからの医療と健やかな生活に貢献する
たゆまぬ事業の発展を通して企業価値を持続的に拡大し、株主の信頼に応える
社員が自らの可能性と創造性を伸ばし、その能力を発揮することができる機会を提供していく
企業市民として社会からの信用・信頼を堅持し、よりよい地球環境の実現に貢献する
Innovation today, healthier tomorrows
“Innovation today, healthier tomorrows” は、大日本住友製薬の合併10周年の節目に、大日本住友製薬グループの医薬事業4社(大日本住友製薬、Sunovion社、Boston Biomedical社、住友制葯(蘇州)有限公司)で制定したグローバルスローガンです。
このグローバルスローガンには、従業員一人ひとりが、つねに自らの変革(=Innovation) を追求しながら、新たな発想や高い研究開発力により革新的な新薬を社会に届けることで、患者の皆さまとそのご家族が、より健やかに自分らしく(=healthier)過ごせる日々を実現したいという、私たちの強い意志が込められています。
大日本住友製薬のシンボル”グリーン・プリズム”は、明日に向かって前進していく躍動感を表す「太陽」、未来の可能性と希望を表す「光」、健康でいる喜びとその開放感を表す「花」、がデザインのモチーフになっています。
すべての人に明日に向かって前進していくチカラを提供していくための、高い研究開発力、的確なサポート体制、チャレンジング・スピリットなど、大日本住友製薬の企業姿勢を体現したデザインです。
またシンボルには、世界へ拡がっていくネットワークの様子も込めています。
コーポレート・カラーのグリーンは、健康で活き活きした気分の状態、未来の可能性の象徴である若葉の色などを表現しています。
肥前国大村藩(現在の長崎県大村市)に代々仕える漢方医の家系に生まれる。
長与の父は藩主の侍医で、祖父も掌薬医を務めました。
4歳のとき父が亡くなり、長与は9歳にして祖父の養子となりました。
祖父の俊達に育てられます。
俊達は、天然痘の予防など大村藩医として大活躍した医者であり、専齋のその後の活躍は、この祖父の影響が大きかったと思われます。
大村藩の藩校である五教館(長崎県立大村高等学校の前身)で学んだ後、安政元年(1854年)、大坂にて緒方洪庵の適塾に入門し、やがて塾頭となる(福澤諭吉の後任)。
のち大村藩の侍医となった。
文久元年(1861年)、長崎に赴き、医学伝習所にて、オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。
その後、ポンペの後任マンスフェルトに師事し、医学教育近代化の必要性を諭される。
明治元年(1868年)、長崎精得館の医師頭取(病院長)に就任する。
明治維新により同館は長崎府医学校(現長崎大学医学部)となったが、マンスフェルトと共に、自然科学を教える予科と医学を教える本科に区分する学制改革を行った。
明治4年(1871年)、岩倉使節団の一員として欧米に渡り、ドイツやオランダの医学および衛生行政を視察した。
専斎はドイツで池田謙斎、桂太郎、松本ケイ太郎、長井長義らの協力のもと日本の医療行政の基盤である「医制」七十六条の構想を練る。
明治6年(1873年)に帰国。明治7年(1874年)、文部省医務局長に就任する。
また東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長を兼務する。
同年、東京司薬場(国立医薬品食品衛生研究所の前身)を創設した。
衛生行政組織、医事、薬事、公衆衛生のみならず、医学教育について定めた総合法典である医制が公布された。
この時作った「医制」は医者の許可制度や医学教育など現在にも通じるもので、近代医学制度は、専齋の力によるところが大きかったと言えます。
明治8年(1875年)、医務局が内務省に移管されると、衛生局と改称して、初代局長に就任する。
明治10年、日本にコレラが上陸・流行するようになってからは、菌が広がらないよう、上下水道の整備を進めていきます。
専斎は海港検疫の重要性を認識しコレラ予防の諸規則を立案する。
専斎は、医学部内に薬学科を設置するなどして薬業社会の意識の改革、制度の改良を促しながら、これらは薬局方がないのが大きな原因と判断し日本薬局方制定のため明治13年にその編纂委員会を設けた。
コレラなど伝染病の流行に対して衛生工事を推進し、また衛生思想の普及に尽力した。
「衛生」の語は、Hygieneの訳語として長与が採用したものである。
しかし明治16年(1883年)に内務卿となった山縣有朋とは肌が合わず、衛生局は業務に支障を来したため、軍医本部次長の石黒忠悳が兼務で衛生局次長に迎えられ、衛生局内では長與局長に劣らない力を持った。
石黒の紹介で、愛知医学校長兼愛知病院長であった後藤新平を見出して明治16年(1883年)、衛生局に採用し、明治25年(1892年)、衛生行政の後継者として後藤を衛生局長に据えたが、後藤が相馬事件に連座して失脚するとこれを見捨て、以後は石黒が医学界における後藤の後ろ盾となった。
依然として医薬品は輸入にたより取り締まり難しく、日本薬局方に適合したわが国独自の薬品を製造することが必須となり、明治18年衛生局監督の下に国庫援助の大日本製薬会社が開業し、ここから近代製薬業が始ることになる。
1886年(明治19年)4月27日、元老院議官、1890年(明治23年)9月29日、貴族院勅選議員に就任する。
明治24年(1891年)に衛生局長を退いて後も、宮中顧問官、中央衛生会長などを歴任した。
1892(明治25)年、私立「伝染病研究所」および結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」設立を支援。
また、石黒忠悳、三宅秀、佐野常民らと大日本私立衛生会(のち日本衛生会、現日本公衆衛生協会)を興し会頭に就任するなど、医学界および衛生行政に重きをなした。
また、種痘の普及に甚大な功績があった。
元来日本人の遊びは卑屈極まりて演劇を観るとか
或は碁を囲むとか茶の湯のとか謠とか、甚だしきは「芸妓の尻でもつねる」如き
総て座敷内の遊興にして真に不健康の至りなり。
斯の如き文明社会に不健康なる遊びをなすは必竟真の公園地なきが為なるべし。
およそ達識遠見ある人の論説行為は、普通凡庸の思想以上に超過するが故に世俗の容るるあたわざるところとなり、意外のところに障害を蒙ること人間の常態にして、文明の世といえどもまた免るべからず。
畢竟事の成敗は忍耐勇往の如何に存するものと謂うべし。
旧大日本製薬
1897年
(明治30年)5月14日 設立
1897年に大阪・道修町の有力薬業家21名により、大阪製薬株式会社が設立される
1898年
大阪・海老江に製薬工場(旧大阪工場、旧大阪総合センター)を設置
東京にあった半官半民の大日本製薬会社を吸収合併し、社名を大日本製薬株式会社に改称
1908年
大阪薬品試験株式会社を吸収合併
1914年
化成品事業スタート
1927年
気管支拡張・鎮咳剤「エフェドリン『ナガヰ®』」新発売
1950年
動物薬事業スタート
1956年
一般用医薬品事業スタート
1960年
食品添加物事業スタート
1963年
台湾大日本製薬設立
1968年
鈴鹿工場(三重県鈴鹿市)を設置
1970年
総合研究所(大阪府吹田市)竣工
1974年
ラボラトリープロダクツ事業スタート
1979年
抗菌性化学療法剤「ドルコール®」新発売
1987年
てんかん治療研究振興財団設立
1988年
米国駐在事務所開設
末梢循環改善剤「プロレナール®」新発売
持続性ACE阻害降圧剤「セタプリル®」新発売
1989年
抗てんかん剤「エクセグラン®」新発売
1993年
中央物流センター(現在の神戸物流センター)竣工
1996年
持続性抗アレルギー剤「エバステル®」新発売
1997年
創立100周年
1998年
ロンドンおよび北京事務所開設
消化管運動機能改善剤「ガスモチン®」新発売
1999年
持続性癌疼痛治療剤「カディアン®」新発売
2002年
吸入ステロイド喘息治療剤「キュバール™」新発売
2003年
大阪工場を閉鎖(鈴鹿工場に統合)
癌疼痛治療用内服液剤「オプソ®」新発売
2005年
一般用医薬品事業の営業を譲渡
持続性選択H1受容体拮抗剤「エバステル®OD錠」新発売
2005年
10月1日 旧住友製薬と合併し、大日本住友製薬 誕生
2006年
深在性真菌症治療剤「アムビゾーム®」新発売
2007年
ファブリー病治療剤「リプレガル®」新発売
ラボラトリープロダクツ事業をDSファーマバイオメディカル株式会社に結合
中期経営計画(`07-`09年度)を策定
2008年
非定型抗精神病薬「ロナセン®」新発売
高血圧症治療剤「アバプロ®」新発売
2009年
パーキンソン病治療剤「トレリーフ®」新発売
米国に持株会社(大日本住友製薬アメリカホールディングス・インク)を設立
米国セプラコール・インク(現サノビオン・ファーマシューティカルズ・インク)を買収し、米国持株会社の完全子会社化
2010年
肝細胞がん治療剤「ミリプラ®」新発売
第二期中期経営計画(`10-`12年度)を策定
セプラコール・インク(現サノビオン社)と大日本住友製薬アメリカ・インクを合併
ビグアナイド系経口血糖降下剤「メトグルコ®」新発売
成長ホルモン事業を譲渡
アニマルサイエンス事業を会社分割し、DSファーマアニマルヘルス株式会社を設立
フード&スペシャリティ・プロダクツ事業を五協産業株式会社に統合し、DSP五協フード&ケミカル株式会社に商号変更
米国セプラコール・インクをサノビオン・ファーマシューティカルズ・インクに商号変更
2011年
非定型抗精神病薬「LATUDA®」サノビオン社が米国にて新発売
速効型インスリン分泌促進剤「シュアポスト®」新発売
2012年
米国ボストン・バイオメディカル・インクの買収
2012年
アレルギー性鼻炎治療剤「ゼトナ」サノビオン社が米国にて新発売
サノビオン社がエレベーション社(現サノビオン・レスピラトリー・ディベロップメント・インク)を買収
高血圧症治療剤「アイミクス®」新発売
2013年
シンガポール共和国に子会社(サノビオン・アジア・パシフィック社)を設立
第三期中期経営計画(`13-`17年度)を策定
大日本住友製薬ヨーロッパ・リミテッドがサノビオン・ファーマシューティカルズ・ヨーロッパ・リミテッドに商号変更
米国に抗がん剤販売子会社(ボストン・バイオメディカル・ファーマ・インク)を設立
2014年
再生医療等製品事業に関する合弁会社(株式会社サイレジェン)を設立
神戸再生・細胞医薬センター(現 再生・細胞医薬神戸センター)を開設
2014年
抗てんかん剤「APTIOM®」サノビオン社が米国にて新発売
非定型抗精神病薬「LATUDA®」サノビオン・ファーマシューティカルズ・ヨーロッパ・リミテッドが英国にて新発売
生産拠点再編を決定(茨木工場および鈴鹿工場の生産機能統合、愛媛工場の閉鎖)
2015年
そう痒症改善剤「レミッチ®」の国内プロモーションを開始(慢性肝疾患患者におけるそう痒症)
GLP-1受容体作動薬「トルリシティ®」新発売
2016年
サノビオン社がカナダのシナプサス・セラピューティクス・インク(現サノビオン・CNS・ディベロップメント・カナダ・ULC)を買収
オーソライズド・ジェネリック等のプロモーション子会社(DSファーマプロモ株式会社)を設立
2017年
米国トレロ・ファーマシューティカルズ・インクの買収
米国ボストン・バイオメディカル・ファーマ・インクをボストン・バイオメディカル・インクと統合し、ボストン・バイオメディカル・インクに商号変更
COPD治療剤「UTIBRON®」サノビオン社が米国にて新発売
大日本住友製薬アメリカホールディングス・インクが大日本住友製薬アメリカ・インクに商号変更
COPD治療剤「SEEBRI®」サノビオン社が米国にて新発売
2018年
非定型抗精神病薬「ロナセン®」住友制葯(蘇州)有限公司が中国にて新発売
再生・細胞医薬製造プラント(SMaRT)を竣工
セロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害剤「イフェクサー®SRカプセル」の国内プロモーションを開始
COPD治療剤「LONHALA® MAGNAIR®」をサノビオン・ファーマシューティカルズ・インクが米国で新発売
2019年
生産拠点再編を実施(茨木工場および鈴鹿工場の生産機能統合、愛媛工場の閉鎖)
DSファーマバイオメディカル株式会社の体外診断用医薬品事業を合弁会社に承継し、DSファーマプロモ株式会社と統合
シンガポール共和国サノビオン・アジア・パシフィック社がSumitomo
Pharmaceuticals Asia Pacific Pte. Ltd.に商号変更し、タイに子会社を設立
中期経営計画2022(2018~2022年度)を策定
造血幹細胞移植前治療薬「リサイオ®」新発売
2型糖尿病治療剤「エクア®」、「エクメット®」の共同プロモーションを開始
非定型抗精神病薬「LATUDA®」住友制葯(蘇州)有限公司が中国にて新発売
非定型抗精神病薬「ロナセン®テープ」新発売
Roivant Sciences社との戦略的提携契約を締結し、米国に子会社(スミトバント・バイオファーマ)を設立。その傘下にマイオバント社、ユーロバント社、エンジバント社、アルタバント社およびスピロバント社を子会社化