JFEグループは、常に世界最高の技術をもって社会に貢献します。
挑戦。
柔軟。
誠実。
弥太郎は1893年(明治26年)神奈川県ゆるき郡吾妻村に生まれています。
父親豊八は養蚕業を営み、網元も兼ね、村の収入役を堅実にこなす、実直な人柄でした。
弥太郎は豊八の十男に生まれます。
少年期は運動万能、特に水泳大好きで、遊びまわっていました。
小学校(4年)高等小学校(4年)を卒業すれば、特に本人も両親も、それ以上の高等教育を望まず、親戚の金物屋の手伝いにやられます。
私立錦城中学に進み、そこから一高、東大工学部というエリ-トコ-スを進みます。
工学部では競争の激しい冶金工学科に入り、俵国一教授の指導を受けます。
1921年東大を卒業し、川崎造船に就職。
入社した弥太郎は葺合工場の製鋼掛に任命されます。
弥太郎は関東から関西の神戸にやってきました。
工場の上司は小田切延寿という人でした。
就職して以後、金融恐慌さらに大恐慌などがあり、3500名の解雇、争議と、会社は青息吐息の経営です。
昭和6年満州事変勃発でやっと一息つきます。
この間現場ではドイツ人技師ドリ-ゼンの指導下に、作業能率の改善を試みます。
作業成果を数値で示すようにして計量化を計ります。
その数値に基づき、能率給にします。
弥太郎はこの改革の先頭に立ちます。
1933年(昭和8年)「塩基性平炉改造の経過とその成績」を雑誌「鉄と鋼」に載せ、服部賞を取ります。
この賞は工業技術者の世界では最高の栄誉でした。
これで弥太郎は「平炉の西山」の異名をもらうことになります。
同年製鋼課長に昇進。
1935年当時の社長のめがねにかない洋行し、帰国して技師長に昇進します。
この間工場の一部が日本鋼管の一部と合併し、昭和鋼管という会社が生まれます。
すでに軍人の時代に入っていました。
会社は昭和14年社名を「川崎重工業株式会社」に変更します。
弥太郎は昭和17年に取締役に就任します。
会社は軍需工場に指定されます。
川崎重工業の中の、6つの製鉄工場は統合され弥太郎が製鉄所長になります。
終戦。
弥太郎は幸い追放は免れました。
昭和23年に大争議が持ち上がります。
組合の一部過激派が給食場に乱入したのを、好機として、警察を導入し、関係者を逮捕させ、告訴、懲戒免職になります。結局3000名の解雇に同意させ川崎重工業製鉄所の争議は会社側の勝利に終わります。
この間川崎重工業の造船部門と製鉄部門が分離します。
製鉄部門の独立は弥太郎の念願でした。
1950年(昭和25年)57歳、弥太郎は川崎製鉄株式会社の初代社長に就任します。
資本金は5億円でした。
前後して日本鉄鋼連盟常任理事になります。
5億円の資本で総計270億円の事業が試みられます。
それが千葉製鉄所の建設です。
社長就任の昭和25年、銑鋼一貫工場建設計画書を沿え、見返り資金供与の嘆願書を通産省に提出、千葉の日本航空機跡の60万坪(1坪は3・3平米)を買い、加えて前面の海30万坪を埋め立てます。
川鉄千葉の建設は早くから弥太郎が胸に抱いていた計画です。
なによりも溶鉱炉を持った製鉄所、つまり銑鋼一貫工場の建設を弥太郎は念願していました。
当時銑鋼一貫工場を持っていたのは、八幡、富士、日本鋼管の三社だけ、他の大手である川鉄、神戸製鋼、住友金属は銑鉄を他から買い、鋼鉄を作る平炉メーカ-でした。
これらの三社はすべて関西に本拠を置きます。
川鉄千葉の建設は、平炉メーカ-による三社独占への挑戦という意味もありました。
しかしなによりも三社独占を崩して、国全体での鉄鋼の大増産を計るのが弥太郎の意図です。
技術的には酸素利用とストリップミルの採用が焦点になります。二つの工法はすでに欧米では試みられていましたが、弥太郎はこれの最新式を大規模に採用します。
世界の最新技術を取り入れます。
銑鋼一貫製造は製造費用を低下させます。遠くから重い銑鉄を運ぶのにかかる、運搬費がほとんどいらなくなります。そして新工場は簡素化を旨に、移動行程を最小化する方向で進められました。
1951年(昭和26年)千葉製鉄所開設。
同年世界銀行から2000万ドルの融資を受けます。
当時の1弗は360円ですから、日本円に直せば72億円になります。
結果的には、千葉に巨費を投じて高炉一貫製鉄所を建設することを一度は国からも反対をされ、それでもあきらめず情熱をもって政財界を説得し、最終的には海外からの融資を受けて、高炉メーカーとして独り立ちすることができました。
こうして川崎製鉄千葉製鉄所は運転を開始します。
弥太郎はもう一つの銑鋼一貫工場を岡山県の水島に作り、1961年同工場は開設されました。
1966年(昭和41年)癌のため死去。享年73歳。
これから日本人は、『故郷のあるユダヤ人』を目指したらいいと思う。
これからの日本で復興を果たすには、貿易立国しかない。何を売ればいいのか?それは鉄だ。迷うことなく製鉄業の立て直しに全力で邁進しなければならない。
色んな人がいるが、その人のいいところだけを見て使ってゆきなさい。
社長の挨拶というものはあまり流暢にやってはだめだよ。もう少し、とつとつとやれ。君のように棒暗記では軽くていけない。
我々は川崎重工の伝統である「誠実と敢闘」の精神にのっとって、来るべき難局を乗り越え、社運の発展を掛けての覚悟を新たにしなければならない。
日本経済の将来に関しては、私は信仰のようなものを持っています。今後ますます発展するに違いないと信じて疑わないのです。それは確信などとではありません、すでに信仰の域に到達しているのです。
日本一の男になれ。
勤をもって拙を補う。
1878年4月
川崎正蔵が東京築地に川崎築地造船所を創業
1896年10月
㈱川崎造船所を設立(のち川崎重工業㈱と改称)
1917年5月
兵庫県神戸市に葺合工場を開設
1943年8月
愛知県半田市に知多工場を開設
1950年8月
川崎重工業㈱の製鉄部門を分離・独立し、川崎製鉄㈱を設立(初代社長 西山彌太郎)
1951年2月
戦後わが国初の近代的銑鋼一貫製鉄所となる千葉製鉄所を開設
1961年7月
岡山県倉敷市に水島製鉄所開設
1969年7月
千葉製鉄所西工場埋め立て開始
1912年6月
日本鋼管㈱を設立(初代社長 白石元治郎)
1916年4月
㈱横浜造船所を設立(のち㈱浅野造船所に改称)
1936年6月
最初の高炉に火入れし、銑鋼一貫体制を確立
1940年10月
鶴見製鉄造船㈱(旧㈱浅野造船所)を合併
1965年2月
福山製鉄所を開設
1968年4月
京浜製鉄所を開設(川崎・鶴見・水江の3製鉄所を統合)
1969年1月
津造船所発足
1971年12月
京浜製鉄所扇島建設に着工
2002年9月
NKK1,000株に対しジェイ エフ イー ホールディングス75株、川鉄1,000株に対し同100株の比率で株式を移転。
日本鋼管㈱および川崎製鉄㈱(以下、両社)が共同して株式移転により完全親会社であるJFEホールディングス(株)を設立
当社普通株式を東京証券取引所、大阪証券取引所および名古屋証券取引所市場第一部に上場(両社普通株式は上場廃止)
2003年1月
両社の会社分割契約書締結を承認
2003年4月
両社を会社分割により、JFEスチール㈱、JFEエンジニアリング㈱、JFE都市開発㈱およびJFE技研㈱に再編
川崎マイクロエレクトロニクス㈱を当社の完全子会社とする会社分割を実施
2003年12月
JFEスチール㈱が中国の広州鋼鉄企業集団有限公司と溶融亜鉛鍍金鋼板を製造・販売する合弁会社広州JFE鋼板有限公司(現・持分法適用会社)を設立(2012年4月、合弁パートナーを広州薄板有限公司に変更)
2008年3月
日立造船㈱およびJFEエンジニアリング㈱が保有する株式の取得によりユニバーサル造船㈱を子会社化
2009年4月
JFE技研㈱が持つエンジニアリング関連の研究機能をJFEエンジニアリング㈱へ移転するとともに、JFE技研㈱をJFEスチール㈱へ統合
2011年4月
JFEスチール㈱がJFE都市開発㈱を吸収合併して保有不動産活用事業を承継
2011年5月
合弁会社広州JFE鋼板有限公司の冷延鋼板製造設備稼動
2012年7月
川崎マイクロエレクトロニクス㈱が発行する全部の株式を㈱メガチップスに譲渡
2012年10月
JFE商事㈱を株式交換により完全子会社化
2013年1月
ユニバーサル造船㈱を存続会社として㈱アイ・エイチ・アイ マリンユナイテッドとの経営統合により、ジャパン マリンユナイテッド㈱(現・持分法適用会社)を設立