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「アサヒグループホールディングス株式会社(アサヒビール)」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『鳥井駒吉』/沿革・歴史など~

 

「アサヒグループホールディングス株式会社(アサヒビール)」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)

 

 

 

 

「アサヒグループホールディングス株式会社(アサヒビール)」のミッション

 

 

期待を超えるおいしさ、楽しい生活文化の創造

 

 

 

 

 

「アサヒグループホールディングス株式会社(アサヒビール)」のビジョン

 

 

高付加価値ブランドを核として成長する“グローカルな価値創造企業”を目指す

 

 

 

 

 

「アサヒグループホールディングス株式会社(アサヒビール)」のバリュー

 

 

挑戦と革新

 

最高の品質

 

感動の共有

 

 

 

 

 

「アサヒグループホールディングス株式会社(アサヒビール)」の創業者・創立者『鳥井駒吉』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~

 

 

 

鳥井駒吉(アサヒ創業者)

 

 

鳥井駒吉。

鳥井駒吉は、1853年3月12日、和泉国堺宿院町で米穀商を営む和泉屋伊助の二男として生まれた。

 

父の伊助は養子であったが、1861年に分家して堺市甲斐町に移り酒造業を始め、商標は駒吉の名にちなみ「春駒」とした。

駒吉には男4人・女3人の兄弟姉妹がいたが、長男は早世していたので、駒吉が一家を背負い、家業を繁栄させていかなければならない立場にあった。

 

父の死により、1870年に鳥井駒吉は17歳で家業を受け継ぐ。

このころ、父が存命中に始めた北海道(函館)の回漕業が破綻し、鳥井はその後始末に追われたが、若い当主を危ぶむ声をよそに、みごとに本業の酒造業を盤石のものとしている。

 

北海道の事業は、堺の綿商・回船問屋河盛仁平(1834~1885年)の成功にヒントを得たと思われるが、鳥井は河盛から公私にわたり薫陶を受けていた。

河盛とは、鳥井の弟がその娘を娶るといった姻戚関係もあり、河盛の堅実な事業運営の方針と利益を社会に還元する考え方は、鳥井の事業に対する考え方や人となりに大きな影響を与えたとされている。

 

堺は、灘や西宮・伊丹などとともに、江戸時代に摂泉十二郷と呼ばれた清酒の名産地である。この伝統ある堺酒造業のなかで、鳥井駒吉は頭角を現していく。

1879年に26歳で堺酒造組合の初代組長に就任すると、1883年6月に精米会社、1886年9月に酒造改良試験所、1887年5月には共同醸造所を設立した。

 

いずれも醸造技術の改良や生産の合理化を目的とする革新的な取り組みであり、1888年にはバルセロナ万国博覧会に初めて瓶詰めの清酒を出品して輸出の途を開いたのであった。

そして鳥井が本格的国産ビールづくりを目指し、大阪麦酒会社を立ち上げたのもこのころのことである。

 

鳥井駒吉は1889年11月5日、大阪麦酒初代社長に就任しビールの製造、発売に向けて腐心する一方、引き続き酒造業界でも活躍を続ける。

1890年ごろになると酒造業では全国組織結成の動きが生まれ、駒吉自身の活動も堺から関西地区へ、そして全国へと広がっていった。

 

1893年には全国酒造組合連合会が結成され、駒吉は大阪府代表の一人として参加し、常議員に選任された。

その後、1896年には全国酒造組合連合会の副会長に就任し、1902年ごろまで日本の酒造業の発展に大きく貢献したのである。

 

そのほかにも駒吉は多くの公職に就いている。

1880年に堺県会議員、1882年に大阪府会議員、1889年には堺市会議員に選出され、 1889~92年と1895~1905年には堺市参事会員といった公職を務めたのである。

 

また、阪堺鉄道の発起人に名を連ね、取締役となっています。

1888年(明治21年)には、阪堺鉄道によって難波~堺間が繋がった後、より南への路線拡張を目指し、その後、南海鉄道(当初は紀泉鉄道)を立ち上げ、1895年(明治28年)に堺~和歌山間の工事を開始し、1898年(明治31年)に開業。

 

その後、南海鉄道の二代目社長に就任するなど、鉄道事業にも大きく貢献しました。

また、駒吉は身内に対する面倒見のよいことでもよく知られていた。

 

母親をはじめ弟妹を大切にするとともに、一族の発展を心から願っていたとされる。

1893年10月には同族を総合した鳥井合名会社を設立し、家業的性格の強い酒造業に近代的な経営の仕組みを取り入れる一方、一族の絆をいっそう強固なものにしている。

 

駒吉は、多数の事業から得た教訓として、「信為万事之本」(まことこそばんじのもといなり)の信条を大切にしていた。

人と接する際に和の心を第一とし、そのために多彩な趣味を持ち、茶道は免許皆伝の腕前、俳句・和歌・書画を嗜み、自ら筆をとることも多かった。

 

雅号は「半静(はんせい)」、晩年には「粋處(すいしょ)」と称し、玄人跣の作品を数多く残し、趣味の茶道具・美術品の収集にも熱心であった。

さらに、事業の利益は社会へ還元するという思想を実践し、本業以外の報酬は公共の寄付に費やすことが多かった。

 

たとえば、1887年には堺港の海防事業に1000円もの寄付を行い、また日本赤十字社の大阪支部堺市委員として多額の寄付を実施するなど駒吉の公共的な事業への支援は枚挙にいとまがない。

創業17年目を迎えた1906年3月26日、大阪麦酒は日本麦酒、札幌麦酒と合併し国内屈指の大企業、大日本麦酒が誕生する。

 

しかし、このころ駒吉は体調を崩し、大日本麦酒の社長就任を固辞したばかりか関係先の役職も辞するようになり、その後も快復することなく1909年5月24日、享年57歳にてこの世を去った。

 

 

 

アサヒビールの名前の由来

 

1892(明治25)年5月、大阪麦酒吹田村醸造所から出荷された待望の本格的国産ビールには「アサヒビール」という名前がつけられた。

その「アサヒ」にこめられた思いは「輸入を防ぎ国産を興さん」(発売の挨拶状から)という創業の理念から、「日出づる国に生まれたビールへの誇りと、昇る朝日(旭日昇天)のごとき将来性、発展性を願ったもの」と語り継がれてきた。

 

駒吉が社長となって正式にスタートする大阪麦酒が、吹田村醸造所でビールの醸造に着手するが、そのビールの名前として、「旭日昇天」の意味もめでたい上に、身近なあちこちに存在するアサヒが浮かんだのはごく自然のことであったろう。

ちなみに昭和24年に大日本麦酒が分割されてできた新会社の社名は、カタカナ表記に変わるまで朝日麦酒株式会社であったが、大阪麦酒時代の宣伝や挨拶状では、旭ビールと表記していた。

 

 

 

 

 

鳥井駒吉(アサヒ創業者)の名言・考え方

 

 

旭ビールは堺だけのものではなく、日本のもの

 

 

 

 

【参考】樋口廣太郎(アサヒ6代目社長)

 

 

樋口廣太郎、スーパードライの大ヒットでアサヒビールを再生。

京都市出身。

 

京都市立第二商業学校、彦根経済専門学校(現・滋賀大学経済学部)を経て野村證券に就職。

京都支店から祇園支店に転勤後、上司の紹介で野村銀行に転職。同行では大阪本店に配属されたが数日で退社し、1946年(昭和21年)に京都大学経済学部に再入学。

 

同大学卒業後、1949年(昭和24年)4月に住友銀行に入行。

代表取締役副頭取まで昇進したが、磯田一郎頭取と対立し、大阪建物社長職や新大阪ホテル社長職への出向を打診されるも断り、辞職を決意する。

 

住友銀行業務部時代の上司で、前任の東京支店長でもあった、8年先輩の村井勉前社長に招かれ、1986年(昭和61年)、アサヒビールの社長に就任。

アサヒビールの社長に就任後、ロゴマークの変更に際し、社内の反対を押し切って売れ残っていた古いビールを全て店頭から回収・廃棄したことが結果的にアサヒ再興につながった。

 

1987年(昭和62年)、アサヒスーパードライを発売して大ヒットさせる。

1995年(平成7年)から経団連の副会長も務め、1998年(平成10年)には当時の小渕恵三内閣総理大臣に請われて首相の諮問機関・経済戦略会議の議長に就任。

 

2012年(平成24年)9月16日に、急性心不全のため東京都渋谷区内の病院で死去。86歳没。

 

 

 

【参考】樋口廣太郎(アサヒ6代目社長)の名言・考え方

 

 

 

私はビール業界素人だから人に聞くのが一番だということで、厚かましくもまずライバル会社のキリンビールの小西秀次会長や山本英世社長のところに行って、「ビールには何が一番大事なんですか」と聞いてみました。

 

 

 

私は全国の得意先を回り、社長就任二ヶ月でいただいた名刺が2500枚を超えた。そんな社長はビール4社の歴史には珍しいと言われた。

 

 

 

人生とは面白いもので、いつも明るく元気にしていると、ものごとはいい方向に動き出してくれます。それはあまりに楽天的だと言われる人もいるかもしれませんが、私はそれを信じて、アサヒビールの経営に力を尽くしてきました。社長に就任したとき、「私は運がいい。アサヒビールの業績はこれから良くなるだけだ」と前向きにとらえたんです。私の友人を見ていても、明るく、元気な人が幸せをつかんでいる確率が高いです。

 

 

 

私の経営の原点は、感謝することにある。

 

 

 

大きい声を出して、いつも元気にニコニコしていれば、たいていのことはうまくいきます。

 

 

 

チャンスは貯金できない。

 

 

 

企業には夢がなければならない。

 

 

 

前例がない。だからやる!

 

 

 

 

『仕事十則』

 

 

一、基本に忠実であれ。基本とは、困難に直面した時、志を高く持ち初心を貫くことであり、常に他人に対する思いやりの心を忘れないことである。

ニ、口先や頭の中で商売をするな。心で商売をせよ。

三、生きた金を使え。死に金を使うな。

四、約束は守れ。守れないことは約束するな。

五、出来ることと出来ないことをはっきりさせ、YES、NOを明確にせよ。

六、期限のつかない仕事は「仕事」ではない。

七、他人の悪口は言うな。他人の悪口が始まったら耳休めせよ。

八、毎日の仕事をこなしていく時、「いま何をすることが一番大事か」ということを常に考えよ。

九、最後までやり抜けるか否かは、最後の一歩をどう克服するかにかかっている。これは集中力をどれだけ発揮できるかによって決まる。

十、二人で同じ仕事をするな。お互いに相手がやってくれると思うから「抜け」が出来る。一人であれば緊張感が高まり、集中力が生まれて良い仕事ができる。

 

 

 

『管理職十則』

 

 

一、組織を活性化しようと思ったら、その職場で困っていることを一つずつつぶしていけばよい。人間は、本来努力して浮かび上がろうとしているのだから、頭の上でつかえているものを取り除いてやれば自ずと浮上するものだ。

ニ、職位とは、仕事のための呼称であり、役割分担を明確にするためにあるのだと考えれば管理とは何かがきちんと出てくる。

三、「先例がない」、「だからやる」のが管理職ではないか。

四、部下の管理はやさしい。むしろ上級者を管理することに意を用いるべきである。

五、リーダーシップとは、部下を管理することではない。発想を豊かに持ち、部下の能力を存分に引き出すことである。

六、「YES」は部下だけで返事してもよいが、「NO」の返事を顧客に出す時は上司として知っていなければならない。

七、人間を個人として認めれば、若い社員が喜んで働ける環境が自ら出来る。

八、若い人は、われわれ自身の鏡であり、若い人がもし動かないならば、それはわれわれが悪いからだと思わなければならない。九、 若い人の話しを聞くには、喜んで批判を受ける雅量が必要である。

十、結局職場とは、人間としての切磋琢磨の場であり、練成のための道場である。

 

 

 

 

「アサヒグループホールディングス株式会社(アサヒビール)」の沿革・歴史(年表・社歴など)

 

 

 

1889(明治22年) 朝日麦酒㈱の前身である大阪麦酒会社設立(11月)。日本麦酒醸造会社、札幌麦酒会社も相前後して創立され、日本のビール産業の興隆期を迎える。

 

1891(明治24年) 吹田村醸造所[現アサヒビール㈱吹田工場]竣工(10月)

 

1892(明治25年) 「アサヒビール」発売(5月)

 

1893(明治26年) 大阪麦酒㈱に改組(2月)。

 

1897(明治30年) 本格的なビヤホール「アサヒ軒」の第1号店開業(7月)。

 

1900(明治33年) 日本初のびん入り生ビール「アサヒ生ビール」発売。

 

1906(明治39年) 大阪麦酒㈱、日本麦酒㈱、札幌麦酒㈱の3社合同により、大日本麦酒㈱設立(3月)。

 

1907(明治40年) 「平野シャンペンサイダー」発売[三ツ矢サイダーのルーツ「平野水」は1884(明治17年)の発売]。

 

1930(昭和5年) 純粋ビール酵母製剤「エビオス錠」発売(5月)。

 

1949(昭和24年) 朝日麦酒㈱設立(9月)。山本爲三郎、初代社長に就任。過度経済力集中排除法により、大日本麦酒㈱は、朝日麦酒㈱と日本麦酒㈱に分割。本店/東京、支店/東京・大阪・広島・四国・九州、工場/吾妻橋・吹田・西宮・博多

 

1950(昭和25年) 新日本硝子㈱[後の㈱アサヒビールパックス。平成15年6月、石塚硝子㈱に経営統合]設立(9月)。

 

1954(昭和29年) ニッカウヰスキー㈱に資本参加(8月)。

 

1958(昭和33年) 日本初の缶入り「アサヒビール」発売(9月)。

 

1964(昭和39年) 北海道の現地資本と共同出資により、北海道朝日麦酒㈱設立[平成6年アサヒビール㈱と合併](4月)。

 

1965(昭和40年) 世界初の屋外発酵貯酒タンクを開発、西宮・吾妻橋・博多の3工場に順次設置(3月)。

 

1969(昭和44年) 日本初のビールギフト券発売(6月)。

 

1971(昭和46年) 日本初のアルミ缶入りビール発売(6月)。

 

1972(昭和47年) ㈱三ツ矢ベンディング[現アサヒ飲料㈱]設立(3月)。

 

1977(昭和52年) 日本初のアルミ製小型樽「アサヒ生ビールミニ樽(7リットル)」発売(5月)。

 

1980(昭和55年) 「バャリース」商標権取得(11月)。

 

1982(昭和57年) 村井勉、朝日麦酒㈱社長に就任(3月)。

 

レーベンブロイ社(ドイツ)と提携(11月)。

 

1983(昭和58年) [国内での活動]「ウヰルキンソンタンサン」の商標権取得(1月)。

 

1984(昭和59年) [関連会社、財団など]㈱千葉漢方医薬研究所[現アサヒフードアンドヘルスケア㈱]設立(9月)。

 

1985(昭和60年) [国内での活動]CI導入宣言(10月)。

 

1986(昭和61年) 「コク・キレ」の新しい 「アサヒ生ビール」発売(2月)。

 

村井勉、朝日麦酒㈱会長に就任。樋口廣太郎、社長に就任(3月)。

 

1987(昭和62年) 日本初の辛口生ビール「アサヒスーパードライ」発売。ビール業界に革命を起こすヒット商品となる(3月)。

 

1988(昭和63年) バス・エキスポート社(イギリス)と提携、「バス・ペールエール」の輸入販売を開始 (3月)。

創業以来の先輩社員と業界関係者を祀る「先人の碑」を吹田に建立(4月)。

日本ナショナル製罐㈱の株式の過半数を取得、製缶事業に進出(4月)。(平成16年、東洋製罐㈱に株式譲渡)

アサヒビールワイナリー㈱[現サントネージュ㈱]設立(7月)。

アサヒビール飲料製造㈱[現アサヒ飲料㈱]設立(10月)。

 

1989(昭和64年/平成元年) 「朝日麦酒㈱」から「アサヒビール㈱」に社名変更(1月)。

 

1990(平成2年) アサヒビール飲料㈱[現アサヒ飲料㈱]設立(9月)。

 

1992(平成4年) アサヒビール食品㈱[現アサヒグループ食品㈱]設立(3月)。

樋口廣太郎、アサヒビール㈱の会長に就任。瀬戸雄三、社長に就任(9月)。

 

1994(平成6年) 中国の杭州西湖?酒朝日(股?)有限公司、福建泉州清源?酒朝日有限公司、嘉興海燕?酒西湖朝日有限公司の3社へ資本参加、各社と技術供与およびライセンス契約を締結し中国への本格進出開始(1月)。

アサヒビール薬品㈱[現アサヒグループ食品㈱]設立(3月)。

北海道アサヒビール㈱と合併(7月)。

 

1996(平成8年) イギリスのバス・ブルワーズ社と包括提携契約を締結(5月)。

アサヒビール飲料㈱、アサヒビール飲料製造㈱、北陸アサヒビール飲料製造㈱が合併、アサヒ飲料㈱へと社名変更し、飲料の製造販売会社としてスタート(7月)。

 

1997(平成9年) 北京に中国代表部設立(9月)。

アサヒビールグループ全体の研究開発拠点として、アサヒビール研究開発センターを開設(10月)。

 

1998(平成10年) アサヒビールU.S.A., Inc.設立(4月)。

アサヒビール・ヨーロッパLtd.設立(5月)。

国内ビール市場でシェア首位の座を獲得(12月)。

 

1999(平成11年) 瀬戸雄三、アサヒビール㈱会長に就任。福地茂雄、社長に就任(1月)。

沖縄アサヒ販売㈱設立(1月)。

 

2001(平成13年) 発泡酒「アサヒ本生」発売(2月)。

ニッカウヰスキー㈱との営業部門統合(4月)。

国内ビール・発泡酒市場でシェア首位の座を獲得(12月)。

 

2002(平成14年) 福地茂雄、アサヒビール㈱会長に就任。池田弘一、社長に就任(1月)。

アサヒビール食品㈱とアサヒビール薬品㈱を統合し、アサヒフードアンドへルスケア㈱を設立(7月)。

アサヒビール㈱とオリオンビール㈱による包括的業務提携の合意(8月)。『アサヒオリオンドラフト』を新発売(11月)。

「アサヒ協和酒類製造㈱」を設立(9月)。(2006年1月ニッカウヰスキー㈱と合併)

スマイルサポート㈱[現アサヒフィールドマーケティング㈱]設立(12月)。

 

2003(平成15年) アサヒフードアンドヘルスケア㈱、ポーラフーズ㈱を統合(1月)

スマイルサポート㈱がアサヒフィールドマーケティング㈱に社名変更するとともに体制強化(12月)

 

2004(平成16年) イタリア・スパークリングワインの名門ガンチア社商品の国内販売権を取得(6月)

韓国ロッテグループの酒類販売会社に出資し「㈱ロッテアサヒ酒類」設立(11月)

 

2006(平成18年) 池田弘一、アサヒビール㈱会長に就任。荻田伍、社長に就任(3月)

ベビーフード国内最大手の「和光堂㈱」の株式取得(5月)

中国・浙江省湖州市に「浙江西湖?酒朝日有限公司」設立(5月)

 

2007(平成19年) カゴメ㈱と業務・資本提携(2月)

和光堂㈱完全子会社化(4月)

 

2008(平成20年) 次世代型の軽量缶蓋「206径スーパーエンド」を開発(2月)

「クリアアサヒ」新発売(3月)

「天野実業㈱」の株式取得(7月)

世界初の新技術「PIE煮沸法」を吹田工場で本格導入(8月)

 

2009(平成21年) 「アサヒスーパードライ『うまい!を明日へ!』」プロジェクト開始(3月)

豪州飲料会社「シュウェップス・オーストラリア」の全株式取得(4月)

 

2010(平成22年) 荻田伍、アサヒビール㈱会長に就任。泉谷直木、社長に就任(3月)

「アサヒスーパードライ」エクストラコールド本格展開(3月)

ハウス食品のミネラルウォーター事業を譲渡契約締結(4月)

「P&N Beverages Australia」の株式売買契約締結(8月)

中国食品・流通最大手「頂新グループ」へ出資(11月)

 

2011(平成23年) 純粋持株会社「アサヒグループホールディングス株式会社」へ移行(7月)

ニュージーランド酒類大手「Flavoured Beverages Group Holdings Limited」の株式取得(9月)

ニュージーランド飲料会社「Charlie’s Group Limited」の株式取得(9月)

豪州飲料会社「P&N Beverages Australia」からミネラルウォーター類及び果汁飲料事業を取得(9月)

マレーシア飲料会社「Permanis Sdn. Bhd.」の株式取得(11月)

 

2012(平成24年) 「アサヒドライゼロ」発売(2月)

“ワールド・ウイスキー・アワード2012”ブレンデッドモルト・ウイスキー部門 「ニッカ 竹鶴17年ピュアモルト」初の世界最高賞受賞!(3月)

アサヒビール 西宮工場 製造終了(8月)

カルピス㈱ 株式取得(10月)

 

2013(平成25年) ブラウン・フォーマン社が製造するウイスキー・リキュールなど8ブランド18アイテムを日本国内で販売開始(1月)

「クリアアサヒ プライムリッチ」発売(3月)

タイにおける「カルピス」ブランド飲料製品の合弁会社設立契約を締結(3月)

「スーパードライ ドライプレミアムギフト」限定発売(6月)

カルピス㈱国内飲料事業及び営業部門をアサヒ飲料㈱へ移管統合(9月)

マレーシアで缶コーヒー「WONDA」発売(12月)

 

2014(平成26年) プレミアムビール『アサヒスーパードライ ドライプレミアム』を本格展開(2月)

マレーシア食品会社「Etika International Holdings Limited」より「東南アジアにおける乳製品関連事業」の株式売買契約締結(4月)

アサヒビールが「ワールドビアカップ」においてゴールドメダルを獲得(4月)

アサヒビール㈱による㈱なだ万の株式取得(11月)

 

2015(平成27年) アサヒビール㈱が「東京2020ゴールドパートナー」に決定(1月)

ワイン商国内大手の「エノテカ㈱」の株式取得(3月)

 

2016年1月に、ドライ飲料事業をアサヒ飲料に、食品事業を新設のアサヒグループ食品に集約することを発表(6月)

オーストラリア限定のプレミアムビール「アサヒ爽快」を発売開始(10月)

「カルピス」ブランドをマレーシアで展開(12月)

 

2016(平成28年) ドライ飲料事業をアサヒ飲料(株)に集約。(1月)

カルピス(株)の機能性食品・飼料事業は「アサヒカルピスウェルネス(株)」に移管(1月)

「長期ビジョン」、「中期経営方針」を発表(2月)

泉谷直木、会長に就任。小路明善、社長に就任(3月)

旧SAB Miller社のイタリア、オランダ、英国事業その他関連資産の取得(子会社化)(10月)

 

2017(平成29年) 旧SAB Miller社の中東欧事業その他関連資産の取得(子会社化)(3月)

 

2019(平成31年) 「Asahi Group Philosophy」を施行

「中期経営方針」を更新

「アサヒグループ環境ビジョン2050」を策定

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