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瀬戸内寂聴の「大切な」言葉たち~瀬戸内寂聴の名言・人生・生き方・性格など~



瀬戸内寂聴の「大切な」言葉たち

あなたは苦しんだ分だけ、愛の深い人に育っているのですよ。

人に憎しみを持たないようにすると、必ず綺麗になりますよ。やさしい心と奉仕の精神が美しさと若さを保つ何よりの化粧品なのです。

どんな悲しみや苦しみも必ず歳月が癒してくれます。そのことを京都では『日にち薬(ひにちぐすり)』と呼びます。時間こそが心の傷の妙薬なのです。

人は所詮一人で生まれ、一人で死んでいく孤独な存在です。だからこそ、自分がまず自分をいたわり、愛し、かわいがってやらなければ、自分自身が反抗します。

人生はいいことも悪いことも連れ立ってやってきます。不幸が続けば不安になり、気が弱くなるのです。でも、そこで運命に負けず勇気を出して、不運や不幸に立ち向かってほしいのです。

私は「元気という病気です」とよく言います。ある講演会の司会者が、「瀬戸内さんの元気という病気が、ますます重症になるようにお祈りします」と挨拶して、会場が爆笑の渦となりました。

どんなに好きでも最後は別れるんです。どちらかが先に死にます。人に逢うということは必ず別れるということです。別れるために逢うんです。だから逢った人が大切なのです。

生かされているのですから素直に有り難いと思いましょう。生きている値打があるから生かされているのですもの。

人は、不幸のときは一を十にも思い、幸福のときは当たり前のようにそれに馴れて、十を一のように思います。

たくさん経験をしてたくさん苦しんだほうが、死ぬときに、ああよく生きたと思えるでしょう。逃げていたんじゃあ、貧相な人生しか送れませんわね。

死というものは、必ず、いつか、みんなにやって来るもの。でも、今をどのように生きて行くか、何をしたいか、生きることに本当に真剣になれば、死ぬことなんて怖くなくなるもんです。

お子さんに「何のために生きるの?」と聞かれたら、「誰かを幸せにするために生きるのよ」と答えてあげてください。

瀬戸内寂聴とは?(人生・生き方・性格など)

瀬戸内 寂聴(せとうち じゃくちょう、1922年(大正11年)5月15日 – )は、日本の小説家、天台宗の尼僧。

俗名晴美。京都府在住。僧位は権大僧正。

学歴は徳島県立高等女学校(現:徳島県立城東高等学校)、東京女子大学国語専攻部卒業。学位は文学士(東京女子大学)。

元天台寺住職、現名誉住職。比叡山延暦寺禅光坊住職。元敦賀短期大学学長。徳島市名誉市民。京都市名誉市民。

徳島県の徳島市で生まれ育った瀬戸内寂聴さんは元々の姓は『三谷』でしたが、父が従祖母の家である瀬戸内家の養子になり、姓が『瀬戸内』に変わりました。

父:三谷豊吉、母:コハルの次女として生まれる。

両親は、徳島県徳島市中州町の仏壇店(瀬戸内商店)を営んでいました。

瀬戸内寂聴は幼いころ、身体が弱く、本を読むのが好きな子供でした。

小説家を目指していたものの、東京女子大学に在学中21歳で結婚し、旦那は中国古代音楽史を研究する学者で、旦那の仕事の関係で北京に同行します。

中国で女児を出産しました。

北京から帰国後、瀬戸内寂聴さんは旦那さんの教え子と、不倫関係になり、旦那さんや子供を残してその教え子と駆け落ちします。(夫の家庭内暴力もその原因だったようです)

瀬戸内寂聴はその時24歳。娘はまだ3歳。

そのことが原因で、父親とモメた挙句、親子の縁をきられる。

しかしその後、その青年から捨てられます。

一人になった瀬戸内寂聴は自立を目指し出版社に就職します。

今度は、そこで出会った小説家・小杉慎吾と恋に落ちます。

そんな時に、お別れした青年が12年ぶりに瀬戸内寂聴に会いにきて、放っておくことが出来ず再び関係がスタート、二股に。

1973年に51歳で岩手県の中尊寺にて出家し、1987年に岩手県の天台寺にて住職に就任します。

出家を決意したのはやはり過去の不倫したことに対する、罪滅ぼしとも言われています。

代表作には『夏の終り』や『花に問え』『場所』など多数。1988年以降には『源氏物語』に関連する著作が多い。

これまで新潮同人雑誌賞を皮切りに、女流文学賞、谷崎潤一郎賞、野間文芸賞などを受賞している。

1997年文化功労者、2006年文化勲章。

瀬戸内寂聴をもっと知りたい人はこちら!


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