伊藤みどりの「大切な」言葉たち~伊藤みどりの名言・人生・生き方など~

伊藤みどりの「大切な」言葉たち

私、スケートをしている時、じいっと見られるのが好き。

どんな経験も必ずいつかは自分の役に立ち、またその経験から得たことを活用して何かに役にたてようと工夫をしながら私たちは生きていくのだと思います。だから、様々な経験をすること、そしていつも新しいことにチャレンジしていく気持ちをもっていることが大事だと思います。

「自分でもよく分からないけど、好きなスケートという打ち込めるものがあってよかった。スケートがなかったら道を踏み外していたかも。

歩くのが好きじゃなかったので、歩くよりも楽に進むスケートが好きになったのです。足を前に出すと勝手に進んでいく感じがしますよね、スケートって。

最初にトリプルアクセルを飛んだ立場としては、とってもうれしいことです。ふふふ。私たちの頃は、『フィギュアスケート?何それ?』という時代でしたから。NHK杯だってやっと始まった頃ですよ。それが、今の子はオリンピックに出たい!チャンピオンになりたい!と思うんですから。当時は全く想像もつかなかったです。世界チャンピオンなんて夢のまた夢でしたよ。

精神力がものをいいます。そして勇気。普通のジャンプと違って、前向きに跳ぶので、すごく怖いんです。

事はひとりで考えていても堂々巡りになってしまう。だから第3者の意見があることで、客観的に物事をとらえることができ、良いもの駄目なものの区別を明確にすることができるので、そういう意見を取り入れる姿勢がまず大事。そして、違う視点を取り入れることで自分自身の輪郭がより明白になっていく。

武器ですね。話題作りっていうのかな?誰もやったことがなかったので。伊藤みどりのトリプルアクセルが見たい!といって試合に来てくださる方も多かったですし。世界選手権で優勝した1989年当時は、プログラム全体をきれいにまとめれば優勝できたと思います。だけど、どうしてもトリプルアクセルが飛びたかったんですよね。言い方を変えると、それなしでチャンピオンになってもうれしくなかった。トリプルアクセルに優勝がついてきたようなイメージです。

どんな経験も必ずいつかは自分の役に立ち、またその経験から得たことを活用して、何かに役にたてようと工夫をしながら、私たちは生きていくのだと思います。

トリプルアクセルとひとくちに言っても、選手によって違うと思いませんか?たとえば、浅田真央ちゃんのトリプルアクセルは高さがありますよね。今回NHK杯に出場する紀平選手はとっても軽やかだし。私のトリプルアクセルは幅があります。羽生選手なんかは、難しいステップからふっと飛んじゃうし。

人それぞれ違うわけだから、自分にあったものをみつけることが大事であり、そのために多くの機会に触れることもまた大事なポイントとなってきます。

平和で、安全で、セカセカと忙しく人が動き回っている感じがやっぱりどことなく好きで・・・不思議と、そんな自分を改めて知るようになったのは、世界を知るようになったからなのです。

金メダルじゃなくてごめんなさい。

どんな世界でも同じだと思いますが、トップにたつことは簡単ではありません。誰しも努力をし、それだけの経験を積み重ねているので、たとえ戦う相手であったとしても、同じ経験をしてきたひとなら、そのひとの良さ(自分以外の存在)を認めることができる寛大さがトップにたつひとの共通している点だと思います。同じ経験をしてきた仲間としての共感が生まれ、自然と相手を理解できるのでしょうね。当然、スケートは採点式競技なので、試合中、みんながお互いに闘う相手となりますが、そこを一端離れれば、お互いを受け入れ合える仲間になるのです。

“やめたい”と言ったことは数限りなくありますが、“本当は”やめたくはなかったのです。自分が立ち向かわなければならないものから逃げたい一心で、そういう反抗・抵抗をしていたのです。そんなときも救いであったのは、それでも好きなことをしていたということと、そして周りで支えてくれるひとがいたことです!

自分の良さは跳んでいくこと。みんなにないものを見せていく。

いまでも鮮明に覚えていますが、(五輪の演技前に)『やってもいないことを悩むより、とりあえずやってみること』と決意した瞬間があったのです。跳ばなかったことへの後悔よりも、跳んで失敗したことによる後悔のほうがいい・・・、やっておけば良かったという生き方をしたくないと強く思ったのです。その決意をした瞬間こそ、努力の積み重ねという “自らの経験”に裏付けられた「自信」をもつことができ、大切なことを学んだと思っています。

何事もあきらめないこと、つづけることが大事です。何でもいいのです。好きなことをひとつ諦めずに続けること。その経験は必ず何かの形で自分に新たなものをもたらしてくれます。

跳ぶだけじゃダメ。でも跳ばなきゃダメ。

また失敗するかもしれないけど、跳ばないで後悔するよりは、跳んで後悔した方がいい。跳ぼう!

伊藤みどりとは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)

伊藤みどり。

1969年生まれ、愛知県名古屋市出身。

三人兄妹の真ん中で、兄と妹がいる。

伊藤が小学1年の時に両親は離婚し、子供たちは母親に引き取られる。

スケートを始めたのは、3歳のころ。

家族レジャーの一環として近所のスケートリンク(名古屋スポーツセンター)に行くようになったのがきっかけだった。

5歳のとき、このリンクで山田満知子が教えている子供たちのスピンやジャンプを真似して遊んでいたところを、山田に見出される。

山田によれば、伊藤は自分の教え子よりうまく、ジャンプは飛び抜けていたという。

幼稚園のうちから小学生のスケート教室に年齢をごまかして参加した。

初級~上級の3クラスを合わせて10日間で卒業し、本格的にフィギュアスケートを習い始める。

1980年3月、小学校4年生で全日本ジュニア選手権に優勝。

同年11月のNHK杯に特別出場し、日本全国に演技が放送されたことにより伊藤の存在が知られるようになった。

1980年12月の世界ジュニア選手権に史上最年少の日本代表に選出され、フリー1位、総合8位となった。

次いで12月の全日本選手権で3位入賞し、これは稲田悦子以来45年ぶりの小学5年生(11歳)での入賞で、このことから「天才少女スケーター」と呼ばれるようになった。

1982年11月、練習中に右足首を骨折し、全治1か月。

12月の1983年世界ジュニア選手権などシーズンの残り試合をすべて欠場した。

翌シーズン札幌で行われる1984年世界ジュニア選手権の出場を目標に努力した。

1983年11月にヨーロッパに遠征し、シニアでの国際デビューを果たす。

プラハ国際選手権では5種類の3回転ジャンプを成功させ、国際大会で初優勝した。

オランダでのエニア・チャレンジ・カップではヨーロッパ選手権者のカタリナ・ヴィットに次ぐ2位となる。

1984年サラエボオリンピックの出場の際、前年7月1日時点で13歳の伊藤には、年齢制限のため原則として出場資格がなかった。

ただし、「オリンピック開催年に世界ジュニア選手権で3位以内に入れば資格を与える」という特例措置があった。

1984年世界ジュニア選手権(札幌)での3位以内を目標にするが、規定(コンパルソリーフィギュア)13位とほぼ絶望的となる。

しかし、ショートプログラム1位、フリースケーティング1位と追い上げ総合3位となった。

この結果、伊藤は出場資格を得ることができた。

しかし、代表最終選考会を兼ねた1984年1月の全日本選手権において、規定で10位と出遅れ、ショートプログラムでは右足首に痛みを感じるなど不調で、2回転アクセルで転倒して5位。

フリースケーティングで1位と追い上げたが加藤雅子に次ぐ総合2位に終わった。

日本の女子シングルのオリンピックと世界選手権への出場枠は各1名であったため、日本スケート連盟は加藤をオリンピックへ、伊藤を世界選手権へ派遣した。

伊藤は、1984年オタワの世界選手権に初めて出場し、7位に入賞した。

1985年、中学校3年生で全日本選手権初優勝。

以後、1992年まで優勝を重ね、渡部絵美と並ぶ史上最高8連覇を達成する。

この年の東京での世界選手権では、規定競技前日に右足首を骨折し棄権した。

1987年の世界選手権は、規定の出遅れから総合8位に終わるが、翌年のカルガリーオリンピックの出場枠2を確保する。

1988年1月、全日本選手権で優勝して、念願だったカルガリーオリンピックへの初出場を果たす。

大会には「女らしさ」「優雅さ」を意識した演技で競技に臨んだ。

規定で10位につけ、ショートプログラムは4位で暫定8位となり、入賞の目処が立った。

フリーでは5種類の3回転ジャンプを7度決め、思い通りの演技にガッツポーズを演技終了直前に見せた。

演技終了前から2万人の観客のスタンディング・オベーションを受ける。

技術点では5.8-5.9点と出場選手中最高点をマークし再びスタンディングオベーション。

芸術点は5.5-5.7点(芸術点だけで5位)と低く抑えられたため、観客からはブーイングが起きた。

この演技によってフリー演技だけで3位、総合成績で5位入賞を果たした。

なお5位入賞は、1964年インスブルック大会の福原美和と並ぶ冬季五輪のフィギュアスケート日本代表選手最高位の記録(当時)で、6位以内の入賞は 1980年レークプラシッド大会の渡部絵美以来8年ぶりだった。

1988年7月、国際スケート連盟のルール変更によって規定の課題数が3課題から2課題になった。

規定が苦手な伊藤にとって若干有利な状況となる。

1988年11月、愛知県フリー選手権で、競技会では女子選手として世界初の3回転アクセルに成功。

1989年1月の全日本選手権では、規定で初めてトップに立ち5連覇を達成する。

1989年世界選手権は、カルガリー五輪のメダリスト3人が引退したため、4-6位のジル・トレナリー、伊藤、クラウディア・ライストナーの争いになった。

規定で自身最高の6位につけ、オリジナルプログラムは1位(暫定3位)。

フリープログラムでは、女子選手としては初の3回転アクセルを着氷が乱れたが決め、他5種類の3回転ジャンプも成功させた。

この演技でフリー1位となり、日本人初・アジア人初の世界チャンピオンとなった。

このフリー演技は、9人中5人の審判が技術点で6.0満点を出したこともあわせてフィギュアスケート史に残るプログラムとなった。

1989年NHK杯では、自身2度目の芸術点6.0を獲得。

1990年世界選手権は規定で5位以内が目標であったが、10位と出遅れて総合2位となる。

オリジナルプログラム、フリープログラム共に1位と追い上げたが連覇はならなかった。

1990年7月から規定が廃止され、伊藤にとってはさらに有利にはたらくと思われた。

しかし、11月に左足首を痛め、1991年世界選手権大会1か月前に右あご下の唾液を分泌する部分にできた結石を除去する手術のため入院するなどして、大会に臨んだ。

オリジナルプログラムでの直前の6分間練習中に、レティシア・ユベールと接触して相手のエッジが左足の靴に突き刺さり、左脇腹を強打し負傷した。

演技中には、コーナー付近で連続ジャンプを着氷した際、リンク外のカメラ席に飛び出してしまう。

フリーでも前半の3回転ジャンプを失敗、後半は立ち直ったが、総合順位は4位に終わる。

この結果、翌シーズンのオリンピック出場枠を3から2に減らしてしまった。

1991年11月のラリック杯は、アルベールビルオリンピックの有力選手が集まる大会となった。

伊藤はこの大会でフリーでは3回転ルッツー3回転トーループ、3回転アクセルー2回転トーループの2つのコンビネーションを含む6種類6回の3回転ジャンプを成功させ、前年の世界チャンピオンのクリスティ・ヤマグチに逆転して優勝し、アルベールビルオリンピックの優勝候補の筆頭となる。

しかし、アルベールビルのオリジナルプログラムでは、精神的な緊張から2日前の練習の段階で、3回転アクセルのコンビネーションジャンプが14回中すべて失敗、3回転アクセルだけが5回成功と成功率が落ちていた。

そのため予定していた3回転アクセルをより確実性の高い3回転ルッツに変更したが、そのルッツで転倒して4位と出遅れた。

このため、自力での金メダル獲得は不可能になった。

フリー演技でも一度は3回転アクセルで転倒するが、演技後半の残り1分で再び3回転アクセルに挑んで成功。

なお、フリーでは元々3回転アクセルを2度跳ぶ予定だった。

オリンピックでは惜しくも日本人初のフィギュアスケート選手としての金メダル獲得はならなかったが、日本女子としては同アルベールビル五輪スピードスケート1500mで冬季五輪史上初のメダル(銅)を獲得した橋本聖子に続き、日本女子二人目のメダルとなる銀メダルを獲得した。

今後の去就が注目されたが、1992年4月25日に新高輪プリンスホテルで引退記者会見を行った。

6月17日には正式にプロ転向を表明し、夢のひとつだったアイスショーに出演することになった。

6月にはホームリンクである名古屋スポーツセンターで、アマチュア最後の「サヨナラ公演」でアルベールビル五輪の演技を再現した。

1992年バルセロナオリンピックでのテレビのレポーターとして現地に赴いた。

1992年8月以降、プリンスアイスワールドのメンバーとして、日本の各都市でのアイスショーに出演する。

その一方で、1993年世界プロフィギュア選手権や1995年の第10回インターナショナル・プロフィギュア選手権(チャレンジ・オブ・チャンピオン)を制し、第一線で活躍を続けた。

1995年に日本スケート連盟の要請によって、長野オリンピック出場を目指してアマチュアに復帰する。

1996年1月の全日本選手権では3回転アクセルを成功させ、4年ぶり9度目の優勝を果たした。

しかし3月の世界選手権では体重を絞り過ぎてしまい、貧血による体調不良もあって7位に終わり、1996年11月に再びアマチュアを引退した。

1998年2月7日に行われた長野五輪開会式では聖火台に聖火を点す役を務めた。

2001年1月には4年10か月ぶりに競技会に復帰し、国際オープン選手権で3位となった。

2004年3月、世界フィギュアスケート殿堂入りを果たす。

伊藤と共に、1976年インスブルック五輪銅メダリストトーラー・クランストン、カタリナ・ビットのコーチユッタ・ミューラーも表彰された。

2002年8月よりアイスショーからは離れていたが、2009年には「プリンスアイスワールド」で7年ぶりにアイスショーに出演、2回転アクセルを披露した。

2005年からは主にフィギュアスケート解説者として活動している。

2011年6月、元選手や愛好家向けの大会である国際アダルト選手権に初出場。

国際スケート連盟公認の国際大会への出場は15年ぶり、新採点法移行後では初の競技会出場となった。

マスターズエリートIIクラス(フリースケーティング)で2位となる。

2013年5月、国際アダルト選手権に出場し、マスターズエリートIIクラス(フリースケーティング)で1位となる。

2018年5月、国際アダルト選手権に出場し、マスターズエリートIIクラス(アーティスティック)で1位となる。

2019年5月、国際アダルト選手権に出場し、マスターズエリートⅢクラス(フリースケーティング)で1位となる。

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