「出光興産株式会社」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『出光佐三』/沿革・歴史など~

「出光興産株式会社」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『出光佐三』/沿革・歴史など~

 

「出光興産株式会社」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)

 

「出光興産株式会社」の経営ビジョン

 

私たちは、ダイバーシティ&インクルージョンをもとに、環境・社会と調和を図りながら、お客様・ステークホルダーとともに、新たな価値創造に挑戦し続ける日本発のエネルギー共創企業です。

●多様なエネルギー・素材を、安定的に届けます

●培ってきた課題解決力を、世界に展開します

●変化への適応性に富む、レジリエントな企業体を作ります

 

 

 

 

「出光興産株式会社」の出光の5つの主義方針

 

 

出光の5つの主義方針

 

人間尊重

 

一、出光商会の主義の第一は人間尊重であり、第二も人、第三も人である。

一、出光商会はその構成分子である店員の人格を尊重し、これを修養し、陶冶し、鍛錬し、かくして完成強化されたる個々の人格を、更に集団し、一致団結し、団体的偉大なる威力を発揮し、国のため、人のために働き抜くのが主義であり、方針であるのであります。

一、人間がつくった社会である。人間が中心であって、人間を尊重し自己を尊重するのは当然過ぎるほど当然である。種々の方針や手段はこれから派生的に出てくるのである。

 

 

大家族主義

 

一、いったん出光商会に入りたる者は、家内に子供が生まれた気持ちで行きたいのであります。店内における総ての事柄は親であり子であり、兄であり弟である、という気持ちで解決して行くのであります。

一、出光商会は首を切らないという事が常識となっておる。首を切られるなど思っている人は一人もないと思います。

 

 

独立自治

 

一、仕事の上においても、私のみが独立しているのではありません。店員各自が、その持ち場持ち場において独立しているのであります。換言すれば、自己の仕事の範囲では全責任を負い、完全に事務を遂行すべきであります。

一、私生活に公生活に独立自治の大精神を体得し、個々に鍛錬強化されたる店員が、店全体の方針の下に一糸乱れず一致結束し、団体的総力を発揮するのが、すなわち出光商会であります。

 

 

黄金の奴隷たるなかれ

 

一、出光商会は事業を目標とせよ。金を目標とするな。しかしながら決して金を侮蔑し軽視せよと言うのではない。

一、事業資金として大いに金を儲けねばならぬ。経費も節約せねばならぬ。冗費無駄を省かねばならぬ。(中略)ただ将来の事業の進展を邪魔するような、儲け方をしてはならぬ。あくまでも事業を主とし、資本蓄積を従とし、この本末を誤ってはならぬ。

 

 

生産者より消費者へ

 

一、創業に際し、先ず営業の主義を社会の利益に立脚せんとしました。内池先生※より示唆されたる生産者より消費者への方針を立てたのであります。

一、生産者に代わって消費者を探し、消費者に対しては生産界の変遷、品質の改善発達の状態、需給の釣り合い、市場の情勢、価格の変動等について専門的の知識を供与し、相互の利便をはかる機関は社会構成上絶対必要なる事でありまして、社会と共に永久であるという信念を持ったのであります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「出光興産株式会社」の創業者・創立者『出光佐三』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~

 

 

 

出光佐三(出光興産創業者)

1885年生まれ、福岡県宗像市出身。

 

父は藍玉問屋を営む出光藤六。

六男二女の次男として生誕します。

出光は生まれついて病弱であり、特に目が非常に悪く、人生ではっきりとものが見えたことは一度もないと語るほどの弱視でした。

出光佐三氏は「生まれつき目が見えないから、よく考える。だから、私は独創的なんだ」と語っています。

 

出光佐三氏の学歴は福岡商業(現在の福岡市立福翔高等学校)を経て、神戸高等商業学校(現在の神戸大学経済学部)を卒業しています。

神戸大学の卒業論文ですでに石油時代の到来を予想。

 

もともと、佐三氏の出身宗像市を含む「筑豊炭田」(ちくほうたんでん)は、国内最大の石炭産出地域の一つ。

石炭発掘は、特に明治政府が協力に推進。

 

1901年に操業開始した八幡製鐵所(現・新日鐵住金八幡製鐵所)の操業開始により、戦前では日本最大規模の産炭地に成長しています。

神戸大学在学中、家庭教師のアルバイトをしていた時、ある人物との出会いがありました。

 

それがアルバイト先の主人、日田重太郎氏。

日田重太郎氏は神戸や淡路島、徳島などに多くの土地を持つ資産家でした。

 

石油に関係する事業を起こしたいと悩んでいた佐三に対し、日田重太郎氏は6千円の提供を申し出ます。

当時の6千円は、現在で換算すると1億円近くにもなる大金。

 

出光佐三名という名馬は、日田重太郎という伯楽との出会いがあって、その第一歩を踏み出します。

25歳の佐三は日田重太郎氏の資金を元手に、弟と二人で出光商会を創業します。

 

当初の事業は主に機械油の小売販売。

特に漁船の燃料販売事業を進めるものの、特約店の厳しい縄張り争いが激しく、思うように事業は進みません。

 

なおかつ、ワイロを要求してくる人間に対し突っぱねていったため、あっという間に孤立していってしまいます。

追い詰められた佐三がとったアイディアが2つ。

 

まずは新たな商品の市場投入。

それまで多くの漁船は高価な灯油を主に使用していました。

 

背景にあるのはエンジンに良いという理由。

しかし、佐三は十分軽油でも、エンジンに支障をきたさないことに注目します。

 

当時の常識灯油から軽油への転換を啓蒙していきます。

そしてもう一つのアイディアが、既存の販売体制の打破。

 

既存の規制に守られた業界を打破するために、陸上ではなく、「海上での給油」を実施します。

海上での給油は陸での縄張りに関係ない!と主張し、「良質で安価」な製品を販売していきました。

 

取り締まりを避けるため、その給油がまさに神出鬼没。

その素早さから、まさに「海賊」だったようです。

 

このように2つの常識を打ち破るアイディアが功を奏し、企業規模は順調に拡大していきます。

時は満州事変。

 

満州鉄道が設立され、民間企業も満州に進出し始め、出光佐三も満州の地へ進出します。

目を付けたのが満州鉄道、その車軸油の納入を進めます。

 

1919年、酷寒の地・満州で車軸油が凍結し、貨車のトラブルが続出していた南満州鉄道に、佐三は「二号冬候車軸油」を無償で提供。

ところが、当時の軍の統制下、自由競争ではない時代に、また既存の取引先の圧力がかかります。

 

納品に漕ぎつけることができません。

佐三は日本軍の意向に反し、異論を唱えます。

 

ついに佐三は、単身満州にわたり満鉄本社に直談判し、現地で凍結試験を行い、見事その効果を認めさせ、南満州鉄道の納品に漕ぎつけました。

佐三の反骨精神は、日本軍をも、打ち破る気迫を持っていたのかもしれません。

 

しかし、第二次世界大戦での日本の敗北。

台湾や朝鮮半島、満州鉄道の他、フィリピンや南方にまで足を延ばしていた出光は、一気に撤退を余儀なくされてしまいます。

 

アジア各国にあった会社も、資産も、仕事もすべてがなくなり、857人の社員だけを抱えてしまう状況。

この時、出光佐三氏は60歳。

 

ゼロからの出発の中、出光は、決して一人もクビにすることはないと宣言します。

出光興産が掲げるのは『人間の尊重』。

 

社員を守るため、あらゆる仕事を引き受けます。

ラジオ販売や醤油・酢の販売、鶏の畜産、印刷に至るまで事業を拡げ、組織・社員を守ります。

 

さらに、当時、汚くて同業他社が嫌がった、石油の残りかす(スラッジ)の清掃までも、GHQから請け負った。

佐三は自分がコレクションしていた骨董品や絵画を売り払い、私財をもって社員の給料をねん出します。

 

この行動に社員が答え始めます。

ある社員は、戦争が終わった後やる気が無くなり、田舎にこもり、出光に辞表を出そうとしていました。

 

そこを父親からこう咎められたといいます。

「お前が戦争に行っている6年間、出光さんは毎月ずっと給料を送り続けてくれていた。働いてもいないのに、家族として。ここで会社をやめるなら、6年分タダ働きしてからやめろ!」

 

家族主義を唱え、身を挺してまで社員を守る佐三の姿勢は、社員の家族をも巻き込み、出光の和が広がっていきます。

そんな出光に、社員たちは自然と信頼で応えるようになっていき、出光興産がふたたび立ち上がる原動力になっていきました。

 

この時もまた大きな壁が業界の寡占問題。

戦後、国内の石油業者14社のうち、13社がすでに外国資本となり、日本の石油業者は出光ただ1社の状況。

 

イギリスを中心とした国際石油資本、いわゆるメジャーの存在です。

高い石油を買わざるを得ない状況を打破すべく、佐三が動き出します。

 

佐三は政府におもむき、経済安定本部の金融局長に直接訴え、世界最大級タンカー「日章丸」を建造します。

当時のタンカーは12,000トンが相場でしたが、「日章丸」は18,500トン!

 

出光は世界最大の「日章丸」を使い、メジャーの息がかかっていない、米国独立系企業との取引を当初進めます。

しかし、徐々にメジャーの圧力がかかり、各国どこも出光には石油を販売しなくなりました。

 

追い詰められた佐三は、また新たな行動に出ます。

目を付けたのがイラン。

 

当時のイランは、世界でも有数の石油産出国でした。

しかし、イランの石油は完全にイギリスが権利を握っており、湧き出る石油利益の90%近くを独占。

 

英メジャーからの圧力で、どこからも石油が買えなくなった出光にとって、イランの石油は喉から手が出るほど欲しい存在でした。

イランは、イギリス海軍が封鎖し、密輸外国船は拿捕されたり、攻撃されたりする緊張状態の中、取引は無謀な状況。

 

ところが、出光は決断します。

1953年(昭和28年)日章丸がガソリンや軽油約2万2千KLを積み込み、イランのアバダンから川崎港に到着!

 

「海賊」出光が見せた、神出鬼没な航海ルートで見事川崎港に帰港します。

これが世にも有名な「日章丸事件」。

 

敗戦国日本の一民間企業が、勝戦国イギリスを相手に一矢報いた事件となります。

出光と同じく、英メジャーの支配を受けていたイランは大絶賛。

世界中を驚かせました。

 

当然、裁判となります。

この日章丸事件後、英・石油メジャーのアングロ・イラニアン社(BPの前身)は、積荷の所有権を主張して出光を東京地裁に提訴し、同時に出光に対する処分圧力が日本国政府にもたらされた。

 

裁判結果は、なんと、出光勝利!

裁判所はアングロ・イラニアン社の言い分を却下し、裁判にかかった費用もイギリスの負担とする!と判決します。

 

出光側の正当性が認められ、仮差押え処分の申し立てが却下され、アングロ・イラニアン社は即日控訴するものの、提訴を取り下げたため、結果的に出光側の勝利に終わります。

背景には、イギリスによる石油独占を快く思っていなかったアメリカの黙認や、喝采を叫ぶ世論の後押しもあったようです。

 

出光佐三氏はGHQとの石油の残りかす(スラッジ)の清掃受注を通し、GHQやアメリカとのパイプを創り上げていたようです。

1981年に95歳で他界。

 

 

 

 

 

 

 

 

出光佐三(出光興産創業者)の名言・考え方

 

 

 

本を読まなかったので、自然自分で考えるようになった。本を読んでいたら仕事も人の後を追っかけているようなことが多い。考えて考えて考え抜くことが大事だ。

 

 

 

 

 

人間はお互いに助け合わなければならない。ところが人を助けるためにはまず自分の力を養成することが先決でしょう。しかしその利益を得るために人を害してはなんにもなりませんよ。

 

 

 

 

 

 

金を軽んじても重んじてもいけない。

 

 

 

 

 

海外から帰ってくる社員をクビにするだと?社員は家族だ。そんな薄情なことができるか。仕事がないなら探せばよい。安易に仲間をクビにして残った者だけで生き延びようとするのは卑怯者の選ぶ道だ。みんなで精一杯やって、それでも食っていけなくなったら、みんな一緒に乞食になろうじゃないか。

 

 

 

 

 

僕は日本人として日本人らしく実行の道を歩いてきた。妥協を排し、誘惑に迷わず、ただひたすらに日本人の道を歩いてきたに過ぎない。

 

 

 

 

 

私は日本人として生まれ、日本人として育てられ、そして日本人として経営をしている。

 

 

 

 

 

 

不言実行は事業家の最も尊重すべき要点であります。大言壮語は実業家の最も慎むべき事であります。実業界の唯一の頼みは実力であります。この実力を個人的錬磨とその団結力によって発揮しようというのが我々の主義方針であります。

 

 

 

 

 

 

出光の利益のために、イラン石油の輸入を決行したのではない。そのようなちっぽけな目的のために、50余命の乗組員の命と日章丸を危険にさらしたのではない。横暴な国際石油カルテルの支配に対抗し、消費者に安い石油を提供するために輸入したまでだ。

 

 

 

 

 

 

 

金や権力、組織の奴隷になるな。学歴や学問、主義の奴隷になるな。自立して国家と国民、人類の幸福のために尽くせ。

 

 

 

 

 

 

 

いくら大学を出ていても困難を克服して、試練を乗り越えなければ何にもなりませんよ。人間が先であります。「育」が先で「教」が後である。それだから「教育」という言い方が間違いで「育教」といったほうがいい。

 

 

 

 

 

よく私のやっていることは非常に変わっておると言われるが、一般人とは全然違った歩き方をしているからだろう。それは結局、本を読まずに考えてきたことから来たんじゃないかと思う。体が弱いし神経衰弱であるから第一に仕事を怠ける。何をやってもすぐあくびが出たり嫌になってしまう。また短気になる。それを何とか克服していこうというので病と闘ってきた。それが私の一生を貫く大きな原動力になった。

 

 

 

 

 

 

終戦から2日後の8月17日、社員一同に対し僕は3つのことを伝えた。愚痴を止めよ。世界無比の三千年の歴史を見直せ。そして今から建設にかかれ。

 

 

 

 

 

 

 

出光の仕事は金もうけにあらず。人間を作ること。経営の原点は人間尊重です。世の中の中心は人間です。金や物じゃない。その人間というのは、苦労して鍛錬されてはじめて人間になるんです。

 

 

 

 

 

 

わが社の資本はカネでなく、人間だ。カネは資本の一部だ。いちばん大切なのは人。人が第一であって、人が事業をつくり、事業がカネをつくる。カネは人についてくる。

 

 

 

 

 

 

たんなる金儲けを目指すだけでは、真の事業とはいえない。そこには、真も善も美もない。事業も究極においては芸術である。事業には、常に普遍的な国利民福を念願した、また彼岸した真理性が望まれねばならない。出光の事業は、だれが見ても美しからねばならぬ。醜悪なる、たんなる金儲けであってはならぬ。

 

 

 

 

 

 

私は70年にわたって事業を営んできたが、その根底を成したのは終始一貫して人間の尊重、人間本位のやりかたを貫いたことにある。本来、日本人は金銭のためにのみ働くのではなく、どの民族にもみられぬ協和の精神を持っている。この美徳が敗戦によってぶち壊され、今の世の中は金のみがすべてという風潮になり下がっておる。戦争前にもそんな輩、長く続くものではない。出光が志向したことは、事業人として、また出光人として、この乱れた世の中に清廉の花を咲かす。それを体現することにより、国家社会に大いなる示唆を与えたい・・・自分の一生はそのためにあったようなものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「出光興産株式会社」の沿革・歴史(年表・社歴など)

 

 

1911(明治44)年門司で出光商会創業(6月20日)

1913(大正2)年 消費者本位の漁船燃料油販売

1914(大正3)年 外油独占の大陸市場へ進出

1919(大正8)年 満鉄用の凍結しない車軸油の開発

1920(大正9)年 朝鮮半島、台湾に販路を拡大

1923(大正12)年計量器付配給船を考案し、漁船燃料油の中身給油開始

1936(昭和11)年華北、華南に販路を開拓

1938(昭和13)年大型タンカー日章丸(一世)就航

1939(昭和14)年中華出光興産(株)、満州出光興産(株)設立

1940(昭和15)年 出光興産(株)設立
上海で大規模油槽所 竣工

1942(昭和17)年 東南アジアで民需配給業務を遂行

1943(昭和18)年 出光興産本社を東銀座に移転

1945(昭和20)年 敗戦により国内外の事業消滅

1946(昭和21)年 旧海軍タンク底油回収作業開始

1947(昭和22)年 全国29店舗が石油配給公団販売店に指定され、石油業に復帰
出光商会と出光興産(株)合併

1948(昭和23)年 長崎、門司、宇部に油槽所を入手

1949(昭和24)年 元売業者に指定

1950(昭和25)年 石油輸入基地の室蘭・川崎・神戸油槽所 竣工
消費地精製方式で苦境に

1951(昭和26)年 大型タンカー日章丸(二世)就航

1952(昭和27)年 高品質で安価な「アポロガソリン」発売

1953(昭和28)年 イランとの直接取引で世界で初めて石油製品を輸入した「日章丸事件」

 

1957(昭和32)年 出光初の製油所の建設、徳山製油所 竣工

1959(昭和34)年 国の要請によりソ連石油を初輸入

1961(昭和36)年 本社を丸の内一丁目(パレスビル)に移転
アポロサービス(株)設立(現、アポロリテイリング)

1962(昭和37)年 大型タンカー日章丸(三世)就航(当時世界最大)
出光タンカー(株)設立
第一宗像丸遭難事故

1963(昭和38)年 千葉製油所 竣工
生産調整に抗議し、石油連盟を脱退
天皇・皇后両陛下徳山製油所をご視察

1964(昭和39)年 出光石油化学(株)設立(2004年出光興産と合併)
出光石油化学徳山工場 竣工

1966(昭和41)年 中央訓練所 開設
出光美術館 開館
本社を丸の内三丁目(帝劇ビル)に移転
出光佐三は会長に、出光計助は社長に就任
石油生産調整撤廃により石油連盟に復帰

1967(昭和42)年 千葉製油所に世界初の重油直接脱硫装置 竣工
「出光100ガソリン」発売

1968(昭和43)年 営業研究所 開所

1969(昭和44)年 「出光クレジットカード」発行

1970(昭和45)年 兵庫製油所竣工(2003年生産停止)
千葉製油所に潤滑油精製装置 竣工
中央研究所 開所(現、先進技術研究所)

1971(昭和46)年 石油開発に進出し、新潟沖で出油に成功
米国で出光アポロ設立

1972(昭和47)年 出光佐三は店主に、出光計助は会長に、石田正實は社長に就任
沖縄石油精製(株)設立(2003年生産停止)

1973(昭和48)年 石油の安定供給めざし、中東で事務所設置
中国の大慶原油を初輸入
北海道製油所 竣工

1974(昭和49)年 ロンドン事務所 設置(1987年廃止)

1975(昭和50)年 石油化学千葉工場 竣工
愛知製油所 竣工

1977(昭和52)年 石田正實は会長に、大和勝は社長に就任
石炭、地熱、ウランを3本柱として石油代替エネルギーの開発、事業化に着手
シンガポールで出光アジア設立

1979(昭和54)年 北海道石油共同備蓄(株)設立

1981(昭和56)年 店主出光佐三 逝去
大和勝は会長に、出光昭介は社長に就任

1983(昭和58)年 出光エンジニアリング(株)設立
「出光無鉛金アポロガソリン」発売

1984(昭和59)年 サービスステーション新業態「Shop&Care」開始

1986(昭和61)年 出光クレジット(株)設立

1988(昭和63)年 豪州、エベネザ鉱山の権益取得し、自社炭輸入開始

1989(平成元)年 出光オイルアンドガス開発(株)設立(2015年出光興産と合併)

1991(平成3)年 ポルトガルでアポロマークのサービスステーション開設(1999年売却)

1992(平成4)年 プエルトリコでサービスステーション事業開始(2001年売却)
北海でスノーレ油田 生産開始
米国で潤滑油ブレンド工場 竣工

1993(平成5)年 出光昭介は会長に、出光裕治は社長に就任
低ベンゼンガソリン「ゼアス」発売

 

1996(平成8)年 出光大分地熱(株)滝上発電所 営業運転開始

1998(平成10)年 全製油所、工場で「ISO 14001」の認証取得
東京で出光初のセルフサービスステーション開所
出光裕治は相談役に、出光昭は社長に就任

2000(平成12)年 優先株式を発行し、資本金356億円に増資

2001(平成13)年 IR準備室を設置し、上場の準備を開始
石油業法廃止

2002(平成14)年 電子材料室 設置(現、電子材料部)
出光昭は会長に、天坊昭彦は社長に就任

2003(平成15)年 兵庫製油所と沖縄石油精製 生産停止
北海道製油所 タンク火災発生
出光クレジットを、出光興産とクレディセゾンで合弁会社化

2004(平成16)年 出光興産(株)と出光石油化学(株)合併

2005(平成17)年 (株)プライムポリマー設立
第三者割当増資、優先株式有償消却を実施し、資本金513億円

 

2006(平成18)年 アストモスエネルギー(株)設立
東京証券取引所市場第一部に株式上場

2008(平成20)年 ベトナムでの「製油所・石油化学コンプレックス」建設に向けた合弁会社に参加

2009(平成21)年 天坊昭彦は会長に、中野和久は社長に就任

2010(平成22)年 二又風力開発(株)へ参画

2011(平成23)年 出光創業100周年

2012(平成24)年 (株)イエローハットと出光興産(株)の業務・資本提携
バイオエタノール事業に関するカンボジア政府との覚書締結

2013(平成25)年 ニソン製油所、石油化学コンプレックス建設コンソーシアムを決定
中野和久は会長に、月岡隆は社長に就任

2014(平成26)年 徳山製油所 原油処理機能停止

2015(平成27)年 土佐グリーンパワー(株) 土佐発電所を竣工
昭和シェル石油(株)との経営統合に関する基本合意書を締結

2016(平成28)年 ロイヤル・ダッチ・シェルからの昭和シェル石油株式会社の株式取得完了

2017(平成29)年 昭和シェル石油株式会社と「ブライターエナジーアライアンス」を立ち上げ

2018(平成30)年 月岡隆は会長に、木藤俊一は社長に就任

 

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