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■田原総一朗氏提言「田中角栄ならコロナ対策の全責任を背負った」
livedoorニュース 2021年02月17日 NEWSポストセブン
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停滞感や閉塞感が漂っている今の日本に、もしも昭和を代表する政治家・田中角栄氏がいたら、このコロナ禍をどう乗り切っただろうか──。
ジャーナリストの田原総一朗氏が、過去の歴史から現状を打破するヒントを提言する。
田中角栄の真骨頂は、「責任は俺が持つ」と担当者に完全に任せて、全力で対処させる器量、度量があるということでしょう。
1962年に池田勇人内閣で大蔵大臣に就任した際、大蔵官僚への挨拶で、「できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う。以上!」と言い切った。
コロナ禍でも田中角栄は、同様の姿勢で臨むでしょう。
菅総理はワクチン対応で河野太郎を責任者に据えました。
本来なら田村憲久・厚労相や西村康稔・コロナ対策担当相が扱うものです。
河野の起用が悪いわけではないが、田村、西村に加えて河野を入れれば、人数が多すぎて責任が分散してしまう。
今すべきは、新型コロナ対策の「司令塔」を任命して、その一人に任せることです。
そして「すべての責任はこの菅義偉が背負う」と言い切る。
菅総理にその器量があるでしょうか。
田中角栄の構想力があれば、コロナ対策も変わっていたでしょう。
1968年に田中は自民党都市政策調査会長として「都市政策大綱」を取りまとめた。
この大綱は、後の『日本列島改造論』の元となる構想です。大綱のエッセンスを分かりやすくまとめたのが列島改造論でした。
この大綱を出した背景には、当時の社会問題と、政局がありました。
きっかけは、都知事選で社会党、共産党が推薦した美濃部亮吉が当選し、その後には名古屋や大阪でも革新が勝った。
この状況に田中は危機感を持ちました。
大衆が革新を支持するのは、太平洋側の都市の工業化が進み、過密や公害が問題になった。
一方で日本海側は過疎化が進む。どちらも不満がたまっていったのです。
では、どうするか。
その答えを示したのが都市政策大綱でした。
新幹線や高速道路、航空路線網を張り巡らせ、日本全国を日帰り圏にする。
そうすれば日本海側や内陸部にも工場ができ、過密や公害で悩む太平洋側の問題も解決できるというわけです。
こんな構想を示した政治家は、それまでいませんでした。
この構想を実施するにあたり、公共のためには個人の権利を制限することも盛り込んでいました。
この辺はコロナ感染対策にも相通じます。
それこそ、コロナ感染拡大対策のため、医療行政を変えたり、リモートワークしやすい環境を作るなど、コロナ対策のための“列島改造”を計画する。
その計画の実行にあたって、特定の一人にそれを任せる。
そして責任は自分が取る。
当然、その中では厚労省や医師会の反発が出るでしょうが、それは総理自身が抑える。
田中なら、そうするでしょう。
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■田原総一朗氏提言「田中角栄ならコロナ対策の全責任を背負った」
livedoorニュース 2021年02月17日 NEWSポストセブン
https://news.livedoor.com/article/detail/19711519/
本日は3つの記事をご紹介いたします。
2つ目の記事はこちらです。
■「田中角栄」と「安倍晋三」を比べたら コロナ対応を“シミュレーション”
週刊新潮 2020年6月4日
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サイズの小さい「アベノマスク」を着け続ける安倍総理。
その妙な頑なさを見ているだけでも、この人で大丈夫なのかと不安になる。
では、どのような人物がリーダーなら国民は安心できるのか。
伝説的政治家・田中角栄がもしも生きていたら――というシミュレーションを行ってみると、理想のリーダー像が見えてきた。
危機に直面した時、リーダーの姿勢や、発する言葉が極めて重要になることは言うまでもない。
「角栄さんは、国民から批判を浴びそうなものも、そうでないものもきちんと誠実に説明する方でした」と、角栄の元番記者で新潟日報社長の小田敏三氏は言う。
「今回、安倍さんが批判されているのは、マスク配布、PCR検査、検察庁法改正案、どれを取っても誠実な説明がないから。国民は何かを隠されているのではないかと疑ってしまいますし、政権に対して信頼感、安心感を持てません。角栄さんにだってもちろんやれることとやれないことがあったでしょうが、やれないことはやれない、とはっきり説明したはずです」
無論、角栄はパフォーマンスにも興味がなく、「安倍さんのように自分が自宅でくつろぐ様子を動画で配信しようだとか、小池百合子都知事のように、イギリスのジョンソン首相を真似て『ステイホーム』『東京アラート』などと口にするような発想は一切なかったでしょう」
そう語る小田氏は、次のような角栄の言葉にこそ、政治家としての姿勢がよく表れている、と指摘する。
「政治とは生活だ。政治の仕事は国民の邪魔になる小石を丹念に拾って捨て、国でないと壊せない岩を砕いて道をあける。それだけでいいのだ。政治家は目立たず国民の後ろに控えていて、三度の飯を食べさせられたらそれでいい。政治は吹き過ぎていく風でいい」
同様の姿勢で仕事をしている政治家が今、永田町にどれくらいいるだろうか。
「角栄さんは、ある時は政界に影響力を持ち続ける闇将軍、ある時はロッキード事件の刑事被告人である金権政治家、またある時は新潟の貧しい家から高等小学校卒で総理大臣にまでなった今太閤と、まるで多面体のようにいろいろな見方ができる政治家です。しかし、角栄さんが政治家としてとても真摯であったことは間違いありません」と、小田氏は続けて語る。
「政治とは、決して上から目線ではなく、国民が苦労して汗をかいた分だけ報いなければならない、という考え方を角栄さんは持っていた。角栄さん本人が戦争を経験し、戦後、高等小学校卒で建設会社を興し、苦労してきた方なので、人の痛みや苦しみが分かる。だからこそ彼の言葉には説得力があったのだと思います」
そんな角栄とて、今回のような未曾有の災禍を前に、たった一人で戦うことはできまい。
「たとえ政敵であっても、きちんと対話できるのがオヤジさんでした。だから、オヤジさんだったら、コロナに打ち勝つためにまず内閣改造をすると思います。何よりもコロナ対策を重視しなければならない今は、平時と考え方を変えて、挙党体制を作るはずです」
角栄の元秘書の朝賀昭氏はそう話す。
「1973年の内閣改造で、オヤジさんは自分の右腕ともいわれた大蔵大臣の愛知揆一の後任に福田赳夫を任命しました。角福戦争といわれるほど激しく争った相手を抜擢したのです。当時は列島改造論やオイルショックによって、インフレ抑制策を取る必要に迫られていた。敵が外にあるなら、たとえ政敵であっても能力のある人物を登用すべきだと考えたのでしょう。そしてそう考えたらすぐに実行できる政治家だった」
角栄がロッキード事件で逮捕された後、初めてのインタビューに成功したモンゴル日刊紙東京特派員の佐藤修氏は、「角栄さんなら、コロナについて政治家が徹底的に議論し、党派を超えて対策を練る場、例えば、コロナ対策特別委員会などをすぐに用意したのではないか」と、語る。
「角栄さんは議員立法を通すことを重要視していましたが、ガソリン税を目的税にする議員立法は党派を超えて連携し、通しています。角栄さんは、実質的に自分が立案したけど立場上名前を載せなかったものも含めると110本もの議員立法に関わっている。道路整備を目的とした、いわゆる道路3法と呼ばれる法律や、貧困層に住宅を提供するための公営住宅法など、庶民の暮らしを良くしようとする法律が多かった」
残念ながら現実の国会では、「党派を超えた連携」どころか、コロナとは無関係の検察庁法改正案を巡って与野党が激しく対立。最終的に安倍総理は採決を見送ったものの、「コロナショックで与野党の協力が必要な時に、政治的に対立するような法案を出してくること自体、角栄さんなら『今は休戦しなければならないのだから出すべきではない』と怒るのではないかと思います」(先の小田氏)
・徹底的に勉強
また、安倍総理は会見の度に“専門家の意見もうかがいながら……”と口にするなど、「専門家会議任せ」の姿勢も透けて見える。
「角栄さんなら、専門家会議任せには決してしないでしょうね」と、政治評論家の小林吉弥氏は言う。
「角栄さんは自分が理解できないことは徹底的に勉強する方でしたから。その上で専門的なことについては、医者や学者にデータを上げてもらい、それを厚労省に精査させて政治に生かす。専門家たちに対しては、『何かあれば自由に言ってくれ。責任は私が取る』と呼びかけたことでしょう」
角栄は「コンピューター付きブルドーザー」と評され、数字に非常に強かったことでも知られている。
自民党の石破茂元防衛大臣が言う。
「角栄先生なら、PCR検査で結果を判定するのにどれくらいの労力が必要か、臨床検査技師でなければ検査できないものなのか、検査機器が1台いくらするのか、誤判定する確率はどれくらいなのか……こういった点をデータに基づいて緻密に調べるよう指示されたことでしょう。どれくらいのスピードでやれば、どれくらいの検査数がいつまでにできるようになるのか、ということを数字で明らかにされただろうと思います」
一方、専門家会議が示した「新しい生活様式」については、「角栄さんなら、『生活様式なんてお上が指図するものじゃないだろう。日本人はそこまで間抜けじゃない』と怒ったのではないでしょうか。一歩間違えれば箸の上げ下ろしまで指図されるような窮屈な社会になりかねません」と、先の佐藤氏。
「こういう時こそ、選挙などなくても政治家は地元に帰り『何とか乗り切ろう』とみんなを元気づけてこい、角栄さんならそうおっしゃったんじゃないかな」
対策は専門家会議任せで、補償については場当たり的でスピード感もない。これでは国民の支持など得られるはずもないが、「角栄さんなら安倍政権のような戦略なき政策ではなく、終息後のことまで見通した長期的な政策を打ち出すことは間違いない。新たな日本列島改造論ともいうような、日本再建のための20年計画を立てるのではないでしょうか」と、先の小林氏は言う。
「新型コロナの流行で、地方経済も疲弊している。25年後の2045年は全ての都道府県で高齢化率が30%を超えると予測されている年で、地方経済の衰退は深刻化しているでしょう。そこでこのコロナ禍を機に、角栄さんなら東京一極集中を改め、道州制の実現を目指すなど、地方の力を高めるような経済対策を取るのではないでしょうか」
無論、全ては「夢想」に過ぎない。
しかし、「角栄ならこうしたのではないか」という夢想の中に、事態打開のヒントが隠されているかもしれない。
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■「田中角栄」と「安倍晋三」を比べたら コロナ対応を“シミュレーション”
週刊新潮 2020年6月4日
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/06070600/?all=1
最後3つ目の記事はこちらです。
■コロナ禍で迷走する安倍政権 「田中角栄」が総理だったらこの難局で何をやるか
週刊新潮 2020年4月21日
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コロナ禍で日本中が苦難を強いられている中、安倍内閣の支持率が急落している。
4月14日に共同通信が発表した世論調査(4月10~13日)では「支持しない」が43・0%で、「支持する」の40・4を上まわった。
その上、緊急経済対策で日本経済の回復が期待できると答えた人は僅か1・2。
この国難の時に伝説的政治家・田中角栄氏が宰相だったら、どんな手を打つのか。
「田中角栄さんは水害などの自然災害があると、常識外れの予算を付けた。角栄さんが生きていたら、大型の経済対策をやったに違いありません」
そう語るのは、著書に『指導者の条件―田中角栄に、なぜ人が集まったのか』(光文社文庫)などがある政治評論家で田中角栄研究の第一人者・小林吉弥氏である。
田中氏は郵政相、大蔵相、通産相を歴任した後、1972年に54歳の若さで首相に就任した伝説的な人。
74年の首相退任後も政界に強い影響力を持ち続けた。
生前の田中氏の持論の一つは「金というものはチマチマ使うより、ここぞという時、一気に使え。そのほうが効果は何倍も大きい」だった。
今回、政府が打ち出した新型コロナウイルス対策の緊急経済対策も事業規模約108兆円(GDPの2割)になる見通しで、巨額だ。
ただし、「ハリボテ」と指摘され、評判が悪い。
なにしろ社会保険の納付猶予分などもカウント。
「真水」と呼ばれる政府の財政支出は約20兆円に過ぎないと見られるのだから。
国民への現金給付も当初は収入急減世帯に限って30万円を配る予定で、総額は約4兆円に留まる予定だった。
ところが、新型コロナ禍で苦境に立たされている世帯は数多いので国民から不満が噴出し止まらなかった。
足下の自民党、連立与党の公明党からも酷評された。
このため、一転して1人一律10万円を給付することに。
現金給付の総額は単純計算で12兆円に膨らんだ。
とはいえ、政府の吝嗇さと決断力の鈍さを示す形になってしまった。
再び小林氏が語る。
「安倍政権は当初、給付金支給世帯には複雑な制限を設け、絞り込む予定でしたが、角栄さんなら最初から単純明快に『1人いくら』で支給したはずです。当初の支給対象世帯の説明をすぐ理解できる人なんて、そういなかったでしょうから。角栄さんはお年寄りでもすぐ分かるような仕組みでないと認めなかった」(小林氏)
また、今回の給付金が配られるのは早くても5月中と見られるが、田中氏なら違ったはず。
田中氏のスタイルはこうだったからだ。
「結論が出たらすぐに実行するのが、私の流儀」(田中氏の言葉)。
そもそも田中氏は庶民のために政治家になった人である。
家業を継ぐ形で議員になったのではない。
このコロナ禍においても人々を泣かすまいと懸命になっただろう。
「俺の目標は、年寄りも孫も一緒に楽しく暮らせる世の中をつくること」(田中氏の言葉)
「国民のための政治がやりたいだけ」(同)
背景には自らが経験した貧困と出征の経験がある。
旧制高等小学校を首席で卒業しながら、家が貧しく、進学できなかった。
また、旧陸軍で終戦までの6年間、一兵卒として辛酸を舐め続けた。
自分の経験した苦労を、次代の日本人には味わわせたくなかった。
「昔は政治家になる時の意識が違いました。かつては政治家になりたい理由がはっきりしていた。『困っている人を助けたい』とか『貧しい人を救う』とかです。今は国が豊かになったせいもあるのでしょうか、相対的にそういう考えを抱いて政治家になった人が少ない」(前出・小林氏)
ただし、田中氏は学力エリート集団である官僚のウケも抜群だった。
「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれるほど頭脳明晰で、行動力もあったからだ。
責任逃れをしないことも官僚にとっては頼もしかった。
「今回の新型コロナ問題の大型経済対策を角栄さんがやったら、その財源まで自ら考え出し、官僚を納得させたでしょう。田中政治が可能だったのは、高度経済成長下で、国家に潤沢な予算があったからと言う人がいますが、それは違う。官僚の発想にはない税源を見つけてきて、それをどう使うかを考えたのです」(前出・小林氏)
財源がないから、官僚は金を出し渋る。
だが、田中氏は自分で財源を生み出した。
例えば、田中氏は1952年、道路整備の財源を捻出するため、ガソリン税を議員立法で成立させた。
ガソリン税は道路を作るためだけの特定財源となった(2009年には使途が限定されない一般財源に)。
1949年度時点の国道と都道府県道の舗装率は僅か2・1%。
全部舗装するには100年以上かかると指摘され、復興の大ブレーキになると見られていた。
だが、田中氏が財源を編み出したことにより、舗装は進み、復興のピッチも上がった。
ガソリン税は安くはなかったものの、ポイントは受益者負担にしたこと。
舗装道路を使うドライバーが税を支払う形にした。
田中氏は公平性を重んじた。
危機時の田中氏の活躍で圧巻だったのは大蔵相時代の1965年に行わせた日銀特融だ。
それにより山一證券は倒産を回避した。
「誤解する向きもあるが、あの特融は山一という会社の救済のために行われたわけではない。当時は機関投資家が少なく、山一が倒れたら、多くの個人投資家が被害を蒙った。角栄さんはそれを避けようとした」(前出・小林氏)
山一が倒産した場合、証券会社への不信と不安が募り、景気に甚大な悪影響が出るのは必至だった。
半面、日銀特融はそれまで一度として使われたことがなく、日銀は難色を示した。
田中氏も最初は山一のメインバンクである日本興業銀行(当時)、三菱銀行(同)、富士銀行(同)に救済させようと目論み、3行の頭取を集めて協議を行った。
ところが、その場で三菱銀行の頭取が「2、3日取引所を閉鎖して、ゆっくり対応策を考えたらどうですか」と提案したことから、田中は声を荒らげた。
「君はそれでも銀行の頭取か!」。
事実、山一の支店には既に投資家が殺到していた。
解約の累計は6日間で実に177億円。
国民の利益を守ることを考えると、待ったなしの局面だったのだ。
結局、「日銀にしか山一は救えない」という流れになり、田中氏のリーダーシップによって特融が決定。
メインバンク3行を通じ、282億円が無制限、無担保で山一に融資された。
これにより山一の倒産と証券会社不安は回避された。
仮に山一が返済できなかったら、田中氏の責任問題に発展していただろう。
だが、田中氏は山一の再建を確信していた。
事実、282億円は4年4カ月で完済されている。
新型コロナ対策では政府の対応の遅さ、政府と都の話し合いの長さが批判されているが、これも田中氏には許せなかったに違いない。
長い会議を極端に嫌ったからだ。
「会議の長さは出席者数の二乗に比例し、会議の成果は出席者数の二乗に反比例する」(田中氏の言葉)
「ドケチ」とも揶揄される今回の緊急経済対策の設計図を描いたのは財務官僚ではなく、安倍内閣を支える経産官僚とされる。
いずれにせよ、田中氏が宰相なら、官僚たちのモチベーションは違ったのではないか。
「今の政治家には官僚を掌握する能力はない。今の官僚は『安倍さんを総理にしていれば、やりやすいし、ポストもまわってくる』といった考えでしょう」(前出・小林氏)
田中氏が蔵相に就任した際の省内での挨拶は官僚たちの間で語り草だ。
小学校卒の新大臣を冷ややかに出迎えたエリート官僚たちをやる気にさせた。
この時、田中氏は44歳の若さだった。
「私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才代表であり、財政金融の専門家ぞろいだ。私は素人だが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささか仕事のコツを知っている。一緒に仕事をするには互いによく知り合うことが大切だ。我と思わん者は誰でも遠慮なく大臣室に来てほしい。何でも言ってくれ。上司の許可を得る必要はない。出来ることはやる。出来ないことはやらない。全ての責任はこの田中角栄が背負う。以上」(1962年、田中氏の蔵相就任時の挨拶)
こんな大臣はいなかった。
その上、人情味もあるのだから、官僚たちはぞっこんになった。
田中氏の頭の中には官僚たちの出身地、入省年次から、家族構成まで入っており、夫人の誕生日には花を贈っていた。
田中氏はこんな言葉も残している。
「後代の日本人から褒められるような新しい政治と取り組もうではありませんか」
新型コロナ対策は10年後、20年後の日本で評価を得られるだろうか。
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■コロナ禍で迷走する安倍政権 「田中角栄」が総理だったらこの難局で何をやるか
週刊新潮 2020年4月21日
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/04210556/?all=1
コンピューター付きブルドーザー、田中角栄。
ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、田中角栄の最終学歴は高等小学校です。
小学校卒業?!
驚く人もいらっしゃるかもしれません。
当時、高等小学校は2年制で14~15歳で修了となっていますので、現代では中学校卒業に当たるそうです。
それでも、中学校卒業相当で首相とはすごいですね。
その後、働きながら夜間学校に通い学制上の学校ではない中央工学校(現在の工業高校に相当)を卒業しています。
幼少期には吃音(どもり)もあったようですが、その後克服したそうです。
田中角栄の経歴は以下です。
・18歳で建設設計事務所を設立
・21歳の時、満州に兵役するも肺炎となり内地へ帰還
・23歳で田中土建工業を設立
・28歳で政界に転身するも落選
・29歳で初当選
・39歳で郵政大臣
・54歳、1972年に内閣総理大臣に任命
総理大臣になるまでに、吃音どもり、肺炎、選挙落選など様々な苦難があったようです。
苦労人だったんですね。
金権政治のイメージが強い田中角栄。
しかし、実際はイメージとは大きく異なる、庶民派総理でもありました。
以下、23年間、田中角栄の秘書として身近で見てきた、早坂茂三という方が田中角栄の人物を評しています。
抜粋『早坂茂三の 田中角栄 回想録』(小学館 1987.05.20)
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頭が抜群に切れる。
数字に滅法、強い。
記憶力の良さに秀才官僚も真っ青になる。
人の名前を上下、つなげて覚える。
顔も一度で覚える。
役人の年次も間違うことがない。
約束したら実行する。
できないことは最初から請け負わない。
蛇のナマ殺しはやらない。
面倒見と気くばりは天下一品。
かゆいといえば十メートル先から飛んできて、かゆくないところまで丹念にかいてくれる。
喧嘩上手だ。
勝てると見れば、一気にケリをつける。
根回し、談合の名人。
かなわないと見れば光よりも速く逃げる。
機関銃も腰を抜かすほど早口で雄弁。
ただし、しゃべり出したらとまらない。
酒は二升。
酒席は明るい。
浪花節、小唄、都々逸、なつメロ、何でもござれ。
女にもてる。
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田中角栄と言えば、「日本列島改造論」が有名です。
池田勇人内閣の「国民所得倍増計画」もそうですが、このような明確なビジョンはリーダーにとって非常に重要ではないでしょうか。
政治家が方向性を明示することのリスクは計り知れません。
どんなに批判されようと、その時代、その背景を鑑み、未来を掲示することは、リーダーのあるべき姿かもしれません。
田中角栄が「土建国家」を作ったともいわれています。
しかしながら、それは昭和復興の時代では最善の施策だったのではないでしょうか。
当時の時代背景、状況は建築・土木による公共投資は有効な施策の一つだったと思います。
もちろん、現在の状況がそれに全く当てはまる状況とは言えません。
もし、今、田中角栄が生きていたら、土建国家ではなく、金銭政治でもなく、この時代に合わせた「最善」の施策を打っているかもしれません。
いずれにしても、田中角栄が今のコロナ過のリーダーだったなら、あるべきビジョンを提示し、その実現する姿勢、行動力を示し、皆に元気と勇気を与えてくれたのではないでしょうか。
田中角栄がすごかったのは、驚異の記憶力、人情味あふれる人心掌握力と多々あるのですが、政治家として最も本質的なところでも力を発揮しています。
それが「議員立法」。
立法とは、国会が持つ機能で議会の議決を経て法律を定立することを指します。
つまり「法律を作る」ことです。
田中角栄は生涯33本もの議員立法を成立させています。
他の提出法案にコミットした分を含めれば72本!
さらに、自ら議員立法させた33本のうち、21本をまだ30代前半の役職のない一般議員時代、昭和25、26、27年の3年間に成立させています。
議員立法を成立させるのは、有力議員が生涯をかけて数本がせいぜい、大半の議員は1本も議員立法を成立させていないことは当たり前となっています。
国会議員が国家を創造し得るのか、その心がけ、そして行動力次第かもしれません。
秘書の早坂茂三は以下のように田中角栄について述べています。
以下、「おやじとわたし」著者:早坂茂三(集英社1987.01.20)からの抜粋です。
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田中角栄は若いときから役に立たなくなった法律はどんどん捨てて、新しい法律をつくればいいと考え、実践してきた。
その発想はオリジナルだ。
東大出身の法学士が束になっても、田中のような知恵は出てこない。
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そして田中角栄は、法律を作るだけではありません。
法律を作っても、実際にそれを現実社会に普及させるためには、多くの人からの支援がなければ実現しません。
田中角栄は誰に対しても威張らず、各省庁の公務員も大切にしていたそうです。
特に共に仕事をする国家公務員には、その弱点も理解しながら、その方々の能力も高く評価していたようです。
以下、再び「おやじとわたし」著者:早坂茂三(集英社1987.01.20)からの抜粋です。
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田中角栄は、誰に対しても威張らない。
役人に向かって威張るおやじ(田中角栄)を私は見た事がない。
それどころか、彼は役人をいつも大事にしてよく立てる。
彼は役人が陥りがちな欠点も良く知っていた。
役人はすべて既存の法律を前提にして、その枠のなかで物事を考え行動する。
そして変化に敏感に反応できない。
法秩序の前衛と自認しているだけに、人民を見下しがちになる。
責任の所在があいまいで、責任を背負わされることを嫌う。
広い視野で物を見ることが苦手である。
しかし田中は一般論でいって、日本の官僚を高く評価していた。
「彼らは外国の役人に比べて比較にならないほど有能だ。仕事熱心で、良く訓練された専門家の集団である。」
これは田中が私にいった寸評である。
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何事も実現するには周りの人たちの協力が必要です。
多くの支援を得る姿勢、そして、学び、未来を生み出す知恵、創造力。
このような素質を手に入れることで、さらなる行動力の源泉を身に付けていったのではないでしょうか。
そして、田中角栄の優れた点、もう一つ。
田中角栄の真骨頂はその行動力です。
当時の日本は、資源小国として資源の確保は最も重要な外交課題の一つでした。
特に当時「石油」は国を動かす中心的役割を担う重要な資源でした。
しかし、米国・英国を中心とした石油大企業メジャーが、世界の石油分配をコントロールしている状況下、日本の輸入はその石油メジャーの支配下にありました。
太平洋戦争も、もともと他国からの輸入資源が止められた日本が資源を求めて開戦した戦争でしたが、その流れが当時も大きな潮流だったのです。
田中角栄は、このままでは日本の経済成長がままならない、と独自の資源外交をスタートさせます。
田中角栄は1972年7月に首相となり、いきなり1972年9月には日中共同声明を発表します。
この国交正常化の背景には資源確保の思惑があったと言われています。
当時は中国側も反日感情が高く、さらに、日本国内も台湾との関係もあり、日中国交正常化は事実上不可能と言われている状況でした。
アメリカも勝手な国交正常化に強く反発しました。
その反対を押し切り、大きな決断、そして粘り強い交渉で日中正常国交化に結び付けています。
田中角栄の凄いところは、それだけではありません。
翌1973年には世界各国との独自の資源外交を展開しています。
まず1973年秋には、仏、英、西独、ソ連を次々と訪問し、石油、ウラン鉱石、天然ガス等の共同開発について議論を開始。
英国では北海油田、ソ連ではシベリアのチュメニ油田開発の話も出しています。
1973年11月には親アラブ政策を打ち出し、同年、当時親日国のイランとも共同開発をスタート。
中東最大の石油化学コンビナートの建設を目指して、イラン国営石油化学事情通になるための商社の歴史会社(NPC)と三井グループから成る日本側の事業会社・イラン化学開発(ICDC)が折半出資でイラン・ジャパン石油化学(IJPC)を設立させます。
さらに1974年1月には、ASEAN5カ国を歴訪し、インドネシアとの間で液化天然ガスプラント、石油基地建設の建設協力で合意。
1974年9月には、メキシコ、ブラジル、カナダを訪れ、メキシコ原油の開発、アマゾン開発、西カナダのタールサンド開発について、それぞれ協議を開始。
さらに、その翌月1974年10月には、ニュージーランドやオーストラリア、ビルマを訪ね、マウイ天然ガス開発やウラン資源の確保について合意しています。
なんと、1972年末に誕生した田中政権は、わずか2年でこれだけの資源外交を行ったのです。
凄いですね。
単なる対米従属ではない、その国際的視野における行動力。
世界各国は、田中角栄のその行動力と構想力に驚きと、ある種の嫉妬さえ覚えたのではないでしょうか。
田中角栄は、自ら太平洋戦争の実体験から、戦争への嫌悪感を持っていたと言われています。
なぜ、日本は戦争しなければならなかったのか。
そう考えたのではないでしょうか。
日本が戦争へ突入していった一つの大きな要因は石油等の「資源確保」でした。
当時、軍力を増強していた日本へ、欧米諸国が石油や鉄鋼などを中心とした「資源」の供給を停止。
日本がアジア諸国へ侵攻することとなった大きな要因の一つが「資源」を求めたことが背景にあると言われています。
田中角栄は、この本質的な問題を理解し「日本の真の自立」のため実行したのではないでしょうか。
しかし、この田中角栄の資源外交に対し、世界の石油利権を有していた欧米の「石油メジャー」は反発したとも言われています。
さらに、田中角栄は「日中国交正常化」を実現。
この「日中国交正常化」も、アメリカ政府は反発したとも言われています。
こういった背景からアメリカ航空・軍事企業「ロッキード社」との疑惑が生じたとも言われています。
「ロッキード事件」で田中角栄は失脚。
その後、リクルート事件、東京佐川急便事件などもあり、中曽根元総理、森元総理、安倍元総理などが徐々に日本政治の実権を掌握していきました。
田中角栄が他界したのは1993年。
日本のバブル崩壊が1990年初頭。
田中角栄氏亡き後、日本の経済は大きく衰退、その後日本は「失われた30年」の道を辿ることとなりました。
未曽有の国難、コロナ。
今は亡き、田中角栄。
もし、今、田中角栄が生きていたら。
もし、田中角栄だったら、このコロナ過、どのような行動をとったのでしょうか。
もし、今、田中角栄が生きていたら、この時代に合わせた「最善」の施策を打っているかもしれません。
もし、田中角栄が生きていたら・・・。
最後に田中角栄の名言をお伝えいたします。
【田中角栄名言】
鳥瞰的、俯瞰的に見なくてはいけない。
結論が出たらすぐに実行するのが、私の流儀だ。決断と実行。
確かにノーというのは勇気がいる。しかし、逆に信頼度はノーで高まる場合もある。ノーとイエスははっきり言ったほうが、長い目で見れば信用されるということだ。
最近の議員の資質はなかなかの優等生だが、独創性、エネルギー、統率力といったものが欠けている。内外の情勢は教授会のような議論は許さないんだが。
政治家というのは、人の痛みが分からないといけない。困っている人が目の前にいる時に助けようと思えない人間は選挙に出たらダメだ。
政治は政治家のための政治ではない。お互い国民1人1人のために政治は存在をするのであります。
大学の教授より、むしろ小学生の先生を大事にしなければいけない。小学校の先生が白紙の子供を教えるのだから。
教育ということを間違えてはいかん。子供時代の教育こそが、人間をつくる。
必要なのは学歴ではなく、学問だ。
小学校・中学校の義務教育には情熱を持った先生が必要だ。それには先生が定年になって、役場の用務員だとか、倉庫の守衛をやらなければ食えないということではいけない。東大の教授は勲一等で、義務教育の先生たちが勲七等、勲八等というのは本来、逆ではないか。子供は小さな猛獣だ。これをアメとムチで鍛えて、あやして、一人前に育てあげるという仕事は容易なことじゃない。わが仕事を聖職と思い、情熱を燃やして、小さな魂を持った子供たちの良き師であるためには、暮らしに何の憂いなく教育に専念できるようにしなくてはならない。できれば先生方の月給を倍にしたいんだ。
玉子を食ってしまうか、鶏にして卵の拡大生産でいくか。
一人一人の意志をくみ上げるのが民主主義というなら、医者を見ろ。一人一人の脈を診るじゃないか。政治家なら、みんなの脈を診るべきだろう。日本国民のレベルは高いぞ。その国民を無視して、大衆はバカだとか言って利益のみを追っているようなヤツは、必ず潰れる。また、唯我独尊的となり、行政は万能であるというような考えを持つとしたら、それは極めて危険ということだ。
大仕事は遂げて死なまし、熱情の若き日は二度と来ませじ。
仕事をすれば、批判、反対があって当然。何もやらなければ、叱る声も出ない。私の人気が悪くなったら、ああ田中は仕事をしているんだと、まぁこう思っていただきたい。
法律というのは、ものすごく面白いものでしてね。生き物だ。使い方によって、変幻自在、法律を知らない人間にとっては、面白くない一行、一句、一語一語が、実は大へんな意味を持っている。すごい力も持っている。生命を持っている。面白いものです。壮大なドラマが、その一行一句にこめられているのです。
それを活用するには、法律に熟知していなければならない。それも、法律学者的な知識ではなく、その一行、その一語が生れた背後のドラマ、葛藤、熾烈な戦い、それらを知っていて、その一行・一語にこめられた意味がわかっていることが必要です。
私はそういう方向で法律や予算や制度を見ているのです。特にいまの法律や制度、仕組みは占領軍時代につくられたものが多く、法律制定の背景や目的がわかっていないと運用を間違うのです。
失敗はイヤというほどしたほうがいい。そうするとバカでないかぎり、骨身に沁みる。判断力、分別ができてくる。これが成長の正体だ。
ただ単に、青少年時代を学生として、思うばかりはばたける、好きなことをし放題にできることが楽しいかと言うと、私は必ずしもそうではないと思っている。お互い一人一人、皆、生まれ育つ環境も違いますから、いろいろな社会にいろいろな生き方をして育ってくる訳でありますが、私はその中で勤労というものがいかに大切であるか、勤労と言うことを知らないで育った人は不幸だと思っています。本当に勤労をしながら育った人の中には、人生に対する思いやりももあるし、人生を素直に見つめる目もできてくるし、我が身に比べて人を見る立場にも成り得る訳でありまして、私はそれは大きな教育だと、また教育だったと考えている。本当に病気をしてみなければ病気の苦しみが分からないように、本当に貧乏なければ貧乏の苦しみは分からないと言う人がありますが、勤労しない人が勤労の価値を論ずることはできない。勤労をしない人が、どうして勤労の価値を評価することができるでしょうか。勤労は生きるための一つの手段でしかないという考え方が、このところ充満しつつあるような気がします。もしあるとすれば、それは政治の責任かなとも思います。私も、かっては勤労青年だった。朱きの『偶成』という詩に、『少年老いやすく学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず、池とう春草の夢、階前の梧葉既に秋声』というのがあります。また、何人が詠んだ詩か知りませんが、『大仕事を遂げて死なまし、熱情の若き日はまた来はせじ』と、これらは皆、勤労少年の時自信を失う時には、国家や民族の危機と考える必要がある。
結局、努力、勉強だ。こういったものが、運をとらえるキッカケになる。そのうえで、運を変えて見せるという気概も不可欠だ。
私たち夫婦には正法(まさのり)という長男がおりましたが、仏法の名前負けをしたのか、幼くして肺炎で亡くなりました。眞紀子という名前は訓読みをすると『まさのり子』となります。年子の兄妹はとても仲良しで、まるで双子のようにして育ちました。正法の死は今も私たち夫婦にとって痛恨の極みであります。長男の死後は、眞紀子をあえて女の子というよりも、田中家の跡取りとして男の子のように育ててきました。
物事の判断を間違えず、どんな時にも責任を取れる人間として教育をしてきたつもりです。その点に関してはいささか自信があります。そこで今後、直紀君が眞紀子に対して料理や掃除など家事一切を普通の女性並みに求めてもらっては困るのであります。そういう教育はまるでしてありません。君が今後、家事などで不満がある時には、ウチの妻君やお手伝いさんをいくらでも派遣します。
言わんでいいことをズバリと相手構わず言ってのけます。しかも困ったことにそれが結構的を射ているのであります。しかもさらに続く理屈がこれまた結構理路整然としているので始末が悪い!かくいう私もかなりひどい目にあっている。そこで、今後そういうことがあった場合には遠慮なく殴ってくれて結構です。お転婆娘が今日から私の手を離れると思うと、こんなうれしいことはあ・り・ま・せ・ん……
大事なことは経験則だ。田んぼに入ったこともない者が、コメのことがわかるわけがない。
大臣になって、故郷の駅前で壇上に立ったときに下をみると、旗をもった少年少女がいて、泣きたくなるんで、ひょっと上をみた。そのときに感じたのは、故郷の山河はイイナということです。しみじみとして、こうべを深くたれた。そういうふうに、十五、六の女の子みたいなロマンティックなものが、たえずつきまとっておるんです。
国民全体の利益に統合して立法化することこそが、政治家本来の仕事である。
怒鳴るな。連中も俺のところに来たくて来るんじゃない。仕事で来るんだ。カメラマンは俺の写真、面白い顔をしたのをぱんと撮らなきゃ、社へ帰ってデスクに怒られるぞ。新聞記者だって、お前から無愛想に扱われ、つっけんどんけんやられて、俺が目白の奥で何をしゃべっているか、それも聞くことができないで記事に書けなけりゃあ、社に戻ってぶっ飛ばされるぞ。彼らも商売なんだ。少しは愛想よくしてやれ
約束したら、必ず果たせ。できない約束はするな。
野党が何だかんだと言っても、気にしなくていいんです。まあ、アレは三味線みたいなもんでね、子どもが一人、二人ならいいが、三人、四人おったら、中にはうるさいのもいるわね。皆さん、笑ってばかりいてはダメですよ。いや、笑いの中にこそ真実がある!
天、地、人を恨んではいけない。
政治家、リーダーというものは、最後は51%は公に奉ずるべき、私情は49%に止めておくべきだ。公六分で決断した場合、仮に失敗しても逆風をかわすことができる。私情優先では、同情の生まれる余地はない。
バカ野郎ッ。どこを見て政治をやっているんだ。お前たちは、日本のために政治をやっている。私情で動いてどうする。
国民の生命、財産を守り、生活を向上させなければならない。これはわたしがどんな立場や境遇にあっても、自ら果たすべき責任。
課題は、これまでの多くの苦難を乗り越えてきたわれわれ日本人に解決できないはずはありません。わたくしは、国民各位とともに、国民のすべてが明日に希望をつなぐことができる社会を築くため、熟慮し、断行してまいる覚悟であります。
俺の目標は、年寄りも孫も一緒に、楽しく暮らせる世の中をつくること。
日本じゅうの家庭に団らんの笑い声があふれ、年寄りがやすらぎの余生を送り、青年の目に希望の光りが輝やく社会をつくりあげたい。
和して流れず、明朗闊達。
田中角栄
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