【“田中角栄”実は平和を願う「ハト派」だった!】「カミソリ後藤田」後藤田正晴の警告「戦争を知らない世代ばかりになると日本は怖いことになる 」~田中角栄「憲法9条」を盾にベトナム戦争への派兵要請を断っていた~
■安倍政権のやり方はいかにも拙速……今の自民党に「後藤田正晴」はいないのか?
歴史家・保阪正康が「憲法改正ロードマップ」に警鐘を鳴らす
「文藝春秋」2019/11/26
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「デフレからの脱却、少子高齢化への挑戦、戦後外交の総決算、その先には憲法改正もある。チャレンジャーの気持ちで令和の新しい時代をつくる」
11月20日、安倍晋三首相の通算在職日数が、2887日となり、桂太郎を抜いて歴代単独1位となった。
記者団に対して、安倍首相はその感慨を述べ、続けて残る任期での憲法改正実現への意欲を冒頭のような言葉で語った。
安倍政権が掲げる「憲法改正」のロードマップ。だが、その拙速な取り組みに疑問を呈したのがノンフィクション作家の保阪正康さんだ。
発売中の「文藝春秋」12月号および「文藝春秋 電子版」でインタビューに答えた。
・後藤田正晴のような“重石”がいなくなってしまった
「安倍首相は『2020年の改正憲法施行』を、繰り返し主張しています。しかし、憲法を改正するということ自体が目的化し、なぜいま改憲なのか、この国をどの方向に持っていこうとするのか、その土台から論議を進めていく姿勢は全く見られません。とにかく衆参両院の3分の2の同意を取り付けて、何が何でも在任中に『改正』を実現させたい。首相としてのレガシーを残したいという思いだけで、憲法改正を行おうとしているように見えます」
そういった首相の姿勢を見るたびに、保阪さんはある思いにとらわれるという。
「(今の状況を見るたびに)私はもし後藤田正晴が存命ならば、と思わずにはいられません。『こんなことしとったら、日本は壊れてしまうわな』という彼がよく口にした言葉を最近特に思い出します。保守の中のもっとも良識的な姿勢で日本を見続けてきた後藤田なら『改憲は時期尚早』と首相を窘めたのではないかと私は思うのです。ところが今の自民党には、後藤田のような『重石』はいなくなってしまったようです」
・「スケジュール闘争のようなやり方はいかにも拙速です」
保阪氏は、「私自身はいわゆる護憲派ではなく、現行憲法には時代に合わなくなってきたさまざまな点があり、いずれ改憲は必要という立場です」という。
「しかし、改憲には歴史への深い考察がまず必要です。そこを一切飛ばした、安倍政権の現在のスケジュール闘争のようなやり方はいかにも拙速です。これを軌道修正できる後藤田のような有為な政治家がいない今の政治状況を、私は非常に不幸なことだと思うのです」
後藤田正晴(1914年~2005年)は「護憲」の政治家としてしられる。
警察庁長官を務めたのち、政界に進出し、内閣官房長官を長く務めた。
93年の宮澤喜一内閣では副総理、晩年は首相にも擬せられた。
「旧内務省出身の官僚というイメージとは異なる柔軟な思想の持ち主で、自民党のリベラル派とも言うべき体質を持っていました。のちに宮澤内閣で、PKOへの自衛隊出動にも一定の歯止めをかけて、軍事を政治のコントロール下に置くことを実現させています」と保阪さんは語る。
93年、保阪さんはそうした彼の政治的姿勢に関心を持ち、幾度も本人取材を重ね、彼の評論を書き、『後藤田正晴??異色官僚政治家の軌跡』として出版した。
・後藤田正晴はなぜ「護憲」だったのか?
保阪さんが今の憲法改正論議に決定的に欠けていると指摘する「歴史への深い考察」。
とりわけ後藤田正晴らの政治家たちがなぜ「護憲」だったのかを理解する必要があるという。
「今の憲法改正、とりわけ『9条改正』についての論議はどうでしょうか。安倍首相には全く歴史の教訓から学ぼうという姿勢が感じられません。戦後70年近く、日本人は今の憲法のもとで国づくりをしてきました。後藤田に限らず、自民党内の戦争体験世代には『護憲』という直接的な言い方はしないものの、その考えであることを時に漏らす有力者は少なくありませんでした。宏池会、三木派、松村派、そして田中派の議員が多かったと思います。自民党が改憲を党是としながらも、その動きがほとんど表面化しなかったのは、これらの議員の『抑止力』が働いていたからでしょう。さらに戦後の保守本流の政治家たちの多くも、憲法を維持する、あるいは変えようとしないという姿勢でずっとやってきました。代表格ともいえる吉田茂は、本心はともかく、言っていることは当時の社会党より護憲的でした。共産党が『自衛権否定はおかしい』と言ったら『そんなことはない』と反論したほどです。その流れを引く池田勇人も佐藤栄作も、田中角栄も内心はともかく改憲は公言しませんでした。保守本流こそ『護憲』の側にいたのです。とするならば、現在国民に改憲を訴えている安倍政権は、国民に向けてその意思を明らかにするより先に、まず後藤田に代表されるような自民党にあって護憲的立場を貫いてきた先達に、なぜ自分は改憲なのかについて説明し、新しい言葉で改憲を訴える必要があるのではないでしょうか。ところが、今の改正論は『押し付けだ』『占領憲法だ』という感情的かつ通弊的な議論が先行するだけで、まっとうな議論が何もなされていません」
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安倍政権のやり方はいかにも拙速……今の自民党に「後藤田正晴」はいないのか?
歴史家・保阪正康が「憲法改正ロードマップ」に警鐘を鳴らす
「文藝春秋」2019/11/26
https://bunshun.jp/articles/-/15800
■「憲法改正」後藤田正晴の警告が聞こえる――保阪正康が語る。
文藝春秋digital 2019年11月24日
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・後藤田正晴の戦争観
「必ずや成し遂げていく決意だ。新しい体制で憲法改正に向けた議論を力強く推進していく」
9月11日、第4次安倍改造内閣発足後初の記者会見で、安倍晋三首相は「憲法改正」への意欲をこう強調しました。
安倍首相は「2020年の改正憲法施行」を、繰り返し主張しています。
しかし、憲法を改正するということ自体が目的化し、なぜいま改憲なのか、この国をどの方向に持っていこうとするのか、その土台から論議を進めていく姿勢は全く見られません。
とにかく衆参両院の3分の2の同意を取り付けて、何が何でも在任中に「改正」を実現させたい。
首相としてのレガシーを残したいという思いだけで、憲法改正を行おうとしているように見えます。
そういった首相の姿勢を見るたびに、私はもし後藤田正晴が存命ならば、と思わずにはいられません。
「こんなことしとったら、日本は壊れてしまうわな」という彼がよく口にした言葉を最近特に思い出します。
保守の中のもっとも良識的な姿勢で日本を見続けてきた後藤田なら「改憲は時期尚早」と首相を窘(たしな)めたのではないかと私は思うのです。
ところが今の自民党には、後藤田のような「重石」はいなくなってしまったようです。
私自身はいわゆる護憲派ではなく、現行憲法には時代に合わなくなってきたさまざまな点があり、いずれ改憲は必要という立場です。
しかし、改憲には歴史への深い考察がまず必要です。
そこを一切飛ばした、安倍政権の現在のスケジュール闘争のようなやり方はいかにも拙速です。
これを軌道修正できる後藤田のような有為な政治家がいない今の政治状況を、私は非常に不幸なことだと思うのです。
いうまでもなく、後藤田正晴は「護憲」の政治家でした。
警察庁長官を務めたのち、政界に進出し、内閣官房長官を長く務めました。
93年の宮澤喜一内閣では副総理、晩年は首相にも擬せられました。
旧内務省出身の官僚というイメージとは異なる柔軟な思想の持ち主で、自民党のリベラル派とも言うべき体質を持っていました。
のちに宮澤内閣で、PKOへの自衛隊出動にも一定の歯止めをかけて、軍事を政治のコントロール下に置くことを実現させています。
平成の初めの頃、私はそうした彼の政治的姿勢に関心を持ち、その評伝を書きたいと思い、議員会館に交渉に行きました。
最初は「評伝なんて書いて欲しくない」と断られましたが、雑談の際にたまたま彼が身を置いていた戦時下の台湾司令部に話が及んだところ、私がこの司令部について詳細に知っていることに、彼は興味を持ったらしく、取材に応じることになりました。
それから1年半、月に2、3回、議員会館の部屋、自宅、個人事務所を訪ねて、話を聞き、平成5年に『後藤田正晴――異色官僚政治家の軌跡』(文藝春秋)として刊行しました。
その本に私は彼の「戦争観」についてこう書きました。
〈後藤田には後藤田なりの戦争観があった。戦争のあの愚劣さは、決してくり返してはならない、もう二度とあのような体験はしたくない、との覚悟を固めていた。後藤田と会話を交わすと、そうした覚悟がはっきりみてとれる〉
取材中、彼は「わしの眼の黒いうちは憲法改正は許さない」との信念を語り、「軍事が政治のコントロールを踏み外して暴走を続けるなら、とんでもない事態になる」と何度も口にしました。
実際、中曽根康弘内閣の官房長官時代、後藤田は内閣の軍事への傾斜を窘めるスタンスをとり、その種の発言を続けました。
後藤田は昭和14年、東京帝国大学法学部を卒業して、高等文官試験に合格し内務省に入省しています。
1年ほど身を置いたのちに徴用され、昭和15年4月、台湾歩兵第2連隊に2等兵として入隊。
その後、陸軍経理学校で学び、主計将校、そして台湾司令部に将校として身を置きました。
太平洋戦争の期間にはこの司令部に在籍していて、司令官に仕えていました。
その頃の記憶を質している時に、後藤田は、ふとこんな言葉を漏らしました。
「戦争末期になると、中国に駐屯していた部隊が台湾を経て南方に投入されていった。中国にいた部隊はどうしてあれほど荒っぽくなるのかと内心で不思議に思っていたよ」
さらにその「荒っぽさ」を後藤田は具体的に語りました。
彼によれば台湾では中国にいた部隊による暴行事件も起こったそうです。
戦争は人を狂わせる――後藤田はその想いを台湾で強くしたのではないでしょうか。
彼が護憲の立場を貫いたのには、「もうあんな戦争は二度とゴメンだ」という戦場に赴いた世代の「共通の感情」が土台にあったからと、その時実感しました。
・地方局育ちと警保局育ち
後藤田はよく「私は地方局畑育ちだから」と言いました。
彼に限らず旧内務省の出身者はよくそういう言い方をします。
私は、最初はその意味がわかりませんでしたが、次第に納得することができました。
旧内務省出身者には「地方局育ち」と「警保局育ち」がいるのです。
地方局育ちは当時のシステムでは、最終的に官選の知事になります。
つまり国民の民生全般に目を向ける官僚として育っていく。
一方、警保局育ちは特別高等警察(特高)を動かし、国民生活を治安維持という観点で見ていく。
治安維持法を基に、国民を弾圧することが主要な仕事となります。
その結果、警保局育ちは国民の思想や生活の監視、取り締まりを、すぐに口にするようになるのです。
戦後の自民党の極右グループで、「治安維持」を主張し、思想弾圧を考えたのは、大体が内務省警保局育ちの連中でした。
「自分は思想弾圧しない」という意味が「地方局畑育ち」という言葉にはある。
その“誇り”のようなものを垣間見たのが、原稿用紙1000枚近い彼の評伝を書き終えた時でした。
後藤田から「事前に読ませてほしい」と言われ、私はその胸中を描写した部分は諒解も必要だったので、見せることにしました。
しかし、それ以外の部分は見せませんでした。
後藤田は、新聞はともかく、雑誌や書籍などの自らに関わる原稿は事前にチェックしているらしく、見せてもらうのは当然と考えている節がありました。
しかし、私はその要求を「それは検閲ですよ」と言って、全面的には受け入れなかったのです。
特高の弾圧を連想させる「検閲」という言葉を聞いた時の後藤田のびっくりした様子と、すぐに「そうか」と引き下がった時の顔が忘れられません。
「俺は特高の親玉のようなことはしたくない」という意識が彼には強くあったのです。
・僕はこんなにやわな人間ではない!
この話には続きがあります。
単行本の見本が刷り上がった日の夕方、議員会館に本を届けました。
すると翌日の早朝、午前5時ごろに後藤田から電話が入ったのです。
電話口の彼は大変な激高ぶりでした。
「君、これは何だ。文学的に書きすぎている。僕はこんなにやわな人間ではない!」
そして、いくつか書き直してくれというのです。
私は「先生は取材に応じて書く側に任せた以上、どのような本になろうともそれは仕方のないことです」と、平行線のやりとりを続けました。
カミソリと呼ばれた後藤田は自らの強いイメージがこの本によって、崩れるのを恐れているように感じました。
確かに、評伝の冒頭は「寂として物音ひとつしない」という書き出しで、徳島の剣山地の描写から始まります。
ここで父の遺体を街の病院から自宅に運ぶ様子を7歳の少年がどのように見守ったか、その心情を解き明かしていました。
そういった表現を、後藤田は「文学的にすぎる」というのです。
しばらく同じようなやりとりが続いたあと、気まずい雰囲気で電話は切れ、私は後藤田との関係もこれで最後かと思いました。
その1週間後に後藤田のパーティーが開かれました。
私は出席の返事をしていたので、気が重かったものの、顔だけはだそうと思い向かいました。
ところが会場に入ると夫人が近づいてきて「保阪さん、本当にありがとう。血も涙もないと思われている後藤田を人間的に書いていただいて」と何度も頭を下げるのです。
すると、今度は後藤田本人が近づいてきて、「やあ」といつものポーズをとったのです。
まるで何事もなかったかのように。
彼は夫人の説得を受け入れたようでした。
それ以来、後藤田と私は取材の対象者という枠を超え、互いに胸襟を開いて話すようになりました。
それからは、私が特に予定もなく事務所を訪ねても、後藤田は時間を割いてくれるようになりました。
後藤田も歴史好きなところがあり、2人で歴史談義を交わしたこともありました。
そんな時によく私は彼の「本音」を聞かされました。
ある時は、苦笑しながらこう明かしたのです。
「今日、国会を歩いていると土井たか子さんら社会党の女性議員数人とすれ違ったよ。そしたら彼女たち、わしに何と言ったと思う? 『先生、我が党の委員長になってくれませんか。先生は護憲派なんだから』ってさ」
もちろん、委員長になる気はなさそうでしたが、「護憲派」と言われ、妙に嬉しい顔をしていました。
後藤田には「俺の時代には戦争はさせない。そのためにはとにかくさしあたってこの憲法を守るんだ」という強い気概がありました。
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「憲法改正」後藤田正晴の警告が聞こえる――保阪正康が語る。
文藝春秋digital 2019年11月24日
https://bungeishunju.com/n/nae6c13835200
■「『角栄ブーム』の陰にあるハト派政治家への渇望」
AERA dot. (アエラドット) 2016/05/31 田原総一朗
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数多くの“田中角栄本”が書店に並び、「角栄ブーム」が起きている。
ジャーナリストの田原総一朗氏は、護憲派政治家への渇望があるのではと分析する。
いま、どの書店にも田中角栄について書かれた本がやたらに目につく。
「角栄ブーム」なのである。
一つには、田中が他の政治家にない、どでかい構想力を持っていたことが見直されているのだ。
田中は、1960年代の末に『都市政策大綱』という本をまとめた。
その前文で、「都市の主人は工業や機械ではなくて、人間そのものである」とうたった。
そして「この都市政策は日本列島全体を改造して、高能率で均衡のとれた、一つの広域都市圏に発展させる」と述べていた。
日本列島を一つの広域都市圏にする。
そのためには、北海道から九州まで、どこからどこへでも日帰りで往復できなくてはならない(当時は、沖縄は返還されていなかった)。
そこで田中は、「1日生活圏」「1日経済圏」という言葉を提唱した。
当時、東京や名古屋、大阪など、太平洋側の大都市の過密と、日本海側や内陸部の過疎が深刻な問題となっていた。
そこで田中は、日本列島の大構造改革をしようとしたのだ。
田中は日本列島を一つの広域都市圏にして、さきの条件が達成できれば、第2次、第3次産業を全国に配置することができ、日本海側や内陸部の過疎化に歯止めがかかると考えたのである。
そのためには北海道から九州まで、それも太平洋側にも日本海側にも新幹線を通し、全国に高速道路を張り巡らせる。
そして、第2、第3の国際空港と各地の地方空港を建設し、北海道、本州、四国、九州の四つの島をトンネルか橋で結ぶ。
まさに現在の日本の構造を、40年以上前に構想していたのである。
また、田中は建物の高さを制限するのではなく、低さを制限して高層化を図り、容積率を高めることを提案した。
このほか、4メートルだった道路幅の最低基準を2倍に広げるなど、具体的な対策を数多く打ち出した。
田中は30本以上の法律を、いわゆる議員立法としてつくり上げているが、このような政治家は彼以前にも、以後にもいない。
もちろん、田中が首相になって、まず行ったのは日中国交正常化であり、それまでの首相たちが台湾に向けていた視野を大きく切り替えたことはあらためて記すまでもないだろう。
だが意外に知られていないのは、田中がいわゆる護憲派で、憲法改正に強く反対しており、これこそが「角福戦争」、つまり福田赳夫との対立点だったことである。
田中はノモンハン事件に一兵卒としてかり出され、あやうく生命を失いそうな体験をした。
それで、戦争というのはバカげたことで二度とやってはいけないと、私にも強い語調で語ったことがある。
若い世代のために記しておくが、自民党には判然と2本の異なる流れがあった。
田中、大平正芳、宮沢喜一、加藤紘一とつながるのは護憲のハト派であり、岸信介、福田赳夫、小泉純一郎、さらに安倍晋三へつながるのは改憲、タカ派である。
ハト派が主流の場合はタカ派が反主流派、タカ派が主流の場合はハト派が反主流派となって、その意味では自民党はいつの時代もバランスがとれていた。
ところが、小選挙区制のためもあって、いまや、タカ派の安倍主流派に対して反主流派も非主流派もいなくなってしまった。
いま田中角栄がウケるのは、少なからぬ国民がなんとかしてハト派の手がかりをつかみたいと願っているのではないか。
※週刊朝日 2016年6月3日号
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「『角栄ブーム』の陰にあるハト派政治家への渇望」
AERA dot. (アエラドット) 2016/05/31 田原総一朗
https://dot.asahi.com/wa/2016052700160.html?page=1
■「経験者が戦争の悲惨さを教えてやれ」田中角栄の言葉に突き動かされて――藤井裕久の使命感
Yahoo!ニュース 2019/08/19
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「戦争を知らないやつが出てきて日本の中核になったとき、怖いなあ」――。
田中角栄元首相にそう言われたという。
その言葉が私の根っこにあると語るのは、藤井裕久・元衆議院議員(87)だ。
大蔵官僚から国会議員になり、自民党、新生党、民主党などを渡り歩きながら、常に政界の中心にいた人物である。
藤井さんは2012年に政界を引退した後も、全国各地に足を運んで戦争体験を語っている。
なぜ、そんなことをしているのか。その思いを聞いた。(河野正一郎/Yahoo!ニュース 特集編集部)
・東京の空に爆撃機
東京・白金台にあるマンションの3階。エレベーターのない急な階段を上がると、藤井裕久事務所がある。
政界引退から7年、87歳になったいまも、藤井さんはこの事務所に毎日のように通っているという。
「足腰の鍛錬ですよ」。
そう笑う藤井さんには、一つの使命感がある。
――政界を引退した後、戦争体験を語る講演を全国各地で続けているそうですね。
つい先日は青森へ行きました。
いろいろと声を掛けていただけるので、週に1回ぐらいは、戦争の話をしています。
思いはたった一つ。
次の世代の人間にわれわれと同じような経験をさせたくない、と。
それだけです。
特に若い人に伝えたいという思いがあるんですが、実際のところ若い人の参加者は少ない。
それが少し残念ですね。
――藤井さんが戦争を意識したのはいつごろですか。
私が生まれた1932(昭和7)年は五・一五事件(海軍青年将校らが首相官邸を襲撃し、当時の犬養毅首相を暗殺した反乱事件)があり、1936年には、二・二六事件(陸軍の青年将校らによるクーデター未遂事件)が起きました。
政情が不穏な時期です。
でも幼いころですから、もちろんピンときていません。
実際に「戦争」を感じたのは、真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まった翌年の1942年です。
当時、私は東京・本郷に住んでいて、4月のある土曜日に母親に手を引かれて近所に買い物に行くと、それまで見たこともない爆撃機が空を飛んでいるのが見えたんです。
すごく大きくてね。
それを見て、「日本にはこんな立派な飛行機があるんだ。すげえなあ」と思っていたら、爆弾や焼夷弾をボコボコと落としていった。
それが、米軍が初めて日本本土を空襲した「ドーリットル空襲」(4月18日)だったのです。
――当時、ご家族はどんな暮らしでしたか。
親父は医者で、患者がいるので戦時中もずっと東京に居続けました。
母はその手伝い。医者はだいたい、疎開をせずに残ってましたね。
慶応(義塾)の大学生だった兄は、1943年に学徒出陣して横須賀のすぐそばの海兵団に配属されました。
その年の暮れだったか、母と私と弟と妹の4人で逗子の海岸で兄と面会したときのことは、よく覚えています。
もともと気が強い性格だった兄が、しばらくぶりに会うなり、「何とか生きているよ」「頑張っているよ」などと言いながら、ぼろぼろ泣きだしてね。
ガラッと変わった兄の様子を見て、「軍隊は、えれえ大変な世界なんだ」と子供心に感じたものです。
翌年になると、戦火が激しくなってきたので私は学童疎開し、弟と妹は親類を頼って岡山に行きました。
・B29の墜落現場で見たもの
――疎開先の生活はどうでしたか。
疎開先は、いまの東京都小平市でした。
当時、私は東京女子高等師範学校附属国民学校(現・お茶の水女子大学附属小学校)に通っていて、そこに学校の農園があったんです。
ところが、すぐそばに中島飛行機(現SUBARU。当時は日本有数の飛行機メーカー)の工場など軍需産業の施設があったので、頻繁に空襲がありました。
そのときに肌身で感じた「爆撃」の恐怖は、忘れようにも忘れられません。
疎開先の学校の農園には畑があるので、「イモは食える」と言われていました。
実際、畑でサツマイモは採れたのですが、食べたのは真っ白でガリガリ。
湯がいて食べてもガリガリ。冠水イモですね。
同級生に、後に日本興業銀行(現・みずほ銀行)の頭取になった西村正雄君がいたんですが、彼とは食べ物の話しかしなかった。
ある日、僕が「オレたち、またお汁粉を飲めるかな」と言ったら、西村君が「死んでいるから駄目だろう」と答えたのを覚えています。
僕らは、もうすぐ爆撃で死ぬと思っていました。
――それほど空襲が多かったのですね。
確か1945年の1月だと思いますが、疎開先の上空に米軍の爆撃機B29が飛んできたんです。
そこに日本の戦闘機が体当たりした。
2機の飛行機は炎上しながら近くに墜落しました。まさに自分たちの頭上で起きたことです。
すぐに僕らは先生の了解を取って、墜落場所に走っていきました。
女子も含めて数十人みんなで。
理由は簡単です。
食べ物があるんじゃないかと、それだけですよ。
チョコレートが落ちてないか、と期待していました。
ところが、そこにあったのは、はらわたがちぎれた遺体でした。
悲鳴を上げたり、泣いたりする同級生もいました。
そのときから僕は、こう思っているんです。
「戦争というものには、戦勝国も敗戦国もない。みんな犠牲者なんだ」と。
戦争に勝ったって駄目なんです。
・新型爆弾をつくる「選抜クラス」
学童疎開先から本郷の自宅に戻ったのは、1945年3月10日の朝。
未明に東京大空襲があった、その直後のタイミングだった。
もともと日程は決まっていて、その前夜、東京都心のほうを見ると、空が真っ赤に染まっていたという。
――自宅は大丈夫だったんですか?
うちも焼けてしまったかも、と心配しましたが、その日の空襲で狙われたのは下町でした。
東京を標的にした大規模な空襲は4月、5月にもあり、4月13日の空襲では、うちの隣の家まで焼けました。
とはいえ、毎日が戦争一色というわけではないんですよ。
私は4月から東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大附属中)に入学したら、野球をしていました。
一般的にはストライクを「よし」、ボールは「ダメ」と敵国語の英語を使わずに試合をしていたと言われますが、私たちはボール、ストライクと英語を使っていました。
軍事教練に来ている軍人さんがノックしていました。
ただ、その後、この話はあまりしたくないのですが……。
5月25日に「特別科学組」という組織に入れられて……。
――なんですか、それは?
最初の授業で、理化学研究所の偉い先生が講義に来て、こう言いました。
「君たちは新型兵器をつくる先兵なんだ」と。
それは当時、日本で物理学の大家だった仁科芳雄博士でした。
そのとき新型兵器が何なのかの説明はありません。
自分も、何のことだかまったく分からなかった。
後になって、仁科博士は日本の原子爆弾を極秘に研究開発していたと知りました。
――そこから実際に原爆の研究が始まったのですか?
特別科学組は、学校から30人が選ばれて石川県金沢市に移り、僕らは微分積分の勉強をしていました。
原爆を造るどころじゃないですよ。
みんな中学生ですから。
後になって、本当に日本ってバカだったなと思いましたよ。
米国は原爆の開発を終えていたのに、こちらは中学1年生に微分積分から教えているんですから。
これでは戦争に負けるのは当たり前です。
ただ、当時一番つらかったのは、原爆の話ではなく、ほとんどの友人たちが東京に残っていたことでした。
空襲が相次ぐ東京では、きっと死んでしまう。
金沢にいる自分たちだけが生き残ってしまうのか、と。
だから、言いにくいですが、金沢で終戦の玉音放送を聞いたときは本当にうれしかった。
助かったと思いましたよ。
もうこれで、いつ爆撃があってもいいようにゲートル(すねに巻く防具の一種)を巻いて寝なくてもいいな、とも思いました。
・戦後初の高校野球夏の大会に
――終戦を迎えて、金沢から東京に帰るわけですね。
玉音放送を聞いた2、3日後に汽車で東京に戻りました。
汽車はぎっしり満員で、私はずっと立っていました。
乗客はみんな何もしゃべらず、静かでした。
明け方に上野に着いて、本郷まで歩きました。
上野の街も静かだった。人がいませんでした。
家に帰ると、親父が「おう、帰ったか」って一言。それで終わり。
とにかく寝るだけでした。
空襲の心配がないから、ゆっくり眠れたことだけは覚えています。
――終戦後は、高校野球で甲子園に出場したそうですね。
昭和17(1942)年から中断されていた全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)が、敗戦の翌年から再開されて、私たちの学校が出場したんです。
その年の会場は甲子園ではなく、西宮球場でしたけどね。
私は2年生で、補欠のもう一つ下の食料調達係として西宮へ行きました。
そして阪神電車に乗って移動していると、突然、若い女性が抱きついてきて、ぼろぼろと泣き出したんです。
彼女は「私は死ぬまで、この制服は見られないと思っていた」と言います。
どういうことかというと、女性は東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)を卒業して大阪で先生をしていたんですね。
僕たちの学校は、彼女の母校の隣にあった。
だから、その制服を大阪で見かけて、涙が止まらなくなったんです。
女性は最後にこう言いました。「日本は平和になったのね。うれしいわ」って。
改めて平和のありがたさを感じましたね。
・歴史観なくして政治を語れない
その後、藤井さんは東京大学法学部に進み、1955年に大蔵省に入省。
田中角栄政権の二階堂進・竹下登両官房長官の秘書官などを務めて1976年に退官。
翌年の参院選に立候補して当選、1990年に衆院議員に転じた。
1993年、細川護熙連立政権で大蔵大臣に就任した。
以後、民主党(当時)などで要職を務め、2012年、80歳で政界を引退した。
――民主党代表代行時代の2005年、日本の近現代史を再検討する「日本の近現代史調査会」を座長として立ち上げました。
民主党代表だった岡田克也さんから「靖国参拝などでもめることが多いが、本当の歴史観を持たずに議論してはいけない。藤井さん、何かやってくれませんか」と持ち掛けられたのがきっかけです。
私の根っこにあったのは、角さん(田中角栄元首相)の言葉です。
角さんはよく、こう言っていました。
「戦争を知っているやつが世の中の中心である限り、日本は安全だ。戦争を知らないやつが出てきて日本の中核になったとき、怖いなあ」
そのころ、角さんとはたいへん親しくさせていただいていたので、私が「また戦争をやれっていうことですか」と軽口をたたいたら、ものすごく怒られた。
「そうじゃない。絶対戦争なんかダメだ。だから、経験者が戦争の悲惨さを教えてやれ」とね。
私の中には、歴史観なくして政治を語れない、という思いが強くあります。
それで歴史家を招いて、明治から勉強を始めました。
その成果は『日本の近現代史述講 歴史をつくるもの(上・下)』(中央公論新社)にまとめてあります。
――いまの政治家はきちんとした歴史観を持っていると思いますか。
戦争を美化する風潮が強すぎると感じます。
極めて危険だと思います。
いま世界の状況は、日本が戦争に至る直前の昭和初期と非常に似ていると思います。
英連邦は1932年に連邦内だけ関税を安くするオタワ協定を結びました。
保護貿易主義です。
さらに同時期、英連邦、米国が金本位制を離脱して通貨安を誘導させました。
最近の米中貿易戦争で起きている現象は、保護貿易・通貨安を引き起こしています。
まさに昭和初期と同じだと思います。戦争にならないように祈るだけです。
――北方領土を戦争で取り返す是非に言及する国会議員がいる現状を、藤井さんはどう見ていますか。
角さんも言うように、また戦争をやったらダメだと、教えることしかない。
教えてもらったことと、経験したことでは、大きく違うのは分かっています。
でも、これが大事なんです。
教えることで頭の体操をしたり、想像力を働かせたりして分かっていく。
だから、私にできることは体験を語っていくこと、それ以外にないのだと思います。
私はやりますよ、死ぬまで語っていきます。
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「経験者が戦争の悲惨さを教えてやれ」田中角栄の言葉に突き動かされて――藤井裕久の使命感
Yahoo!ニュース 2019/08/19
https://news.yahoo.co.jp/feature/1416/
■元祖ダーティーなハト派・田中角栄は庶民の声を政治に反映
失われている「保守の知恵」~友好の井戸を掘った人たち(4)田中角栄
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・暮らしを大事にするハト派の田中角栄、中国との国交回復へ
田中角栄という人を私は、「嫌いになれないで困る親戚のおじさん」というように評したことがあります。
やはりお金というものを、いろいろなところにばらまいたという側面は、否定しきれないわけですけれども、ただ、そのお金ということは、ある意味、思想で統制するということではないわけです。
田中角栄という人がおもしろいなと思うのは、自民党の歴史を振り返ったときに、1949年に隣の中国が中華人民共和国、つまり、共産主義の国となるわけです。
いわゆる赤の国。
それで、反共産主義の政党である自民党では、「赤の国とは付き合うな」ということになる。
そういう中で、戦前からの政治家である松村謙三とか石橋湛山とか、あるいは実業家では高碕達之助とか、そういう人たちがいろいろ苦心して、中国との関係を結ぼうとする。
そういう流れの中で、「なんぼ赤の国でも隣のお給仕と付き合わないわけいかないんでねえか」というような形で中国との国交回復に乗り出したのが、私は田中角栄だと思うわけです。
つまり、共産主義というイデオロギーに対して反発するイデオロギー優先の政治ではなくて、経済、暮らしというものから見れば、隣の大きい家、つまり中国と付き合わないわけにはいかないではないかと。そこには、「イデオロギーより暮らしが大事だ」という、まさにハト派の考え方がある。
・ダーティーなハト派の元祖は田中角栄
私は、小泉純一郎という人が出てきたときに、政治家を判定するには、「ダーティーかクリーンか」という軸と「ハト派なのかタカ派なのか」という軸、二つを交差させて考えなければならないと言いました。
この二つの軸を交差させると、四つのタイプに分かれる。
私から見れば、一番だめなのがダーティーなタカ派です。
色々異論はあるかもしれませんけれども、これには中曽根康弘のような人が入る。
それから、ほとんど絶滅危惧種とも言うべきものが、クリーンなハトという人。
土井たか子とか、保守ではないけれども。
あるいは保守で言えば、クリーンなハトと言えば、伊東正義とか、そういう人になるのでしょうか。
そして、絶滅危惧種のクリーンなハトとダーティーなタカを除けば、クリーンなタカとダーティーなハトというタイプが残るわけです。
クリーンなタカとダーティーなハトというものを並べた場合に、どちらを取るのかと。
そうすると、一般的には、やはりクリーンが上のように見られるのです。
小泉純一郎という人は、あまり派閥というものを相手にしていなかったというか、個人プレーが多かったために、子分を養う必要がないから、お金集めをしなかった。
消極的クリーン。
しかし、考え方は、靖国参拝に表れているようにタカです。
あるいは憲法改正。
だからクリーンなタカ。
それに対して、ダーティーだけれどもハト派というのが、小泉と対抗すれば加藤紘一だけれども、その元祖は田中角栄ということになるわけです。
・田中角栄と大平正芳の共通理念~庶民の声を政治にする~
私は、「クリーンなタカよりはダーティーだけれどもハト派を選ぶ」というようにずっと言ってきた。
その田中角栄が言うのは、つまりは「イデオロギーを超えて中国と仲良くしなければならない」ということです。
あのまだ青嵐会とか、すごく右翼チックな雰囲気が充満していた1970年代初めの頃、日中国交回復をするというのは、すさまじく危険なことだった。
だから、田中角栄が、暗殺を覚悟して中国に行くわけです。
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元祖ダーティーなハト派・田中角栄は庶民の声を政治に反映
失われている「保守の知恵」~友好の井戸を掘った人たち(4)田中角栄
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=32
■田中角栄が「憲法9条」を盾にベトナム戦争への派兵要請を断っていた
デイリー新潮 2019年06月21日
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ロッキード事件の背景に「アメリカの陰謀」があったかどうかはさておき、彼の国にとって“扱いづらい”存在だったことは間違いない。
泥沼化するベトナム戦争への派兵要請を断った田中角栄元総理。
その際、“盾”として使ったのは「憲法9条」だった――。
令和の世の政治を巡る難題の一つは、ご存じのように「ポスト安倍」が見当たらないことである。
「角栄さんがいた時代とは大違いですね。当時の自民党には、“三角大福中”と言われたように実力者がたくさんいたため、国民には、誰かがつぶれても次の誰かが出てくる、という安心感がありました」
そう語るのは、政治評論家の小林吉弥氏。
「今、見渡しても先見性のある政治家がいないのも心配です。角栄さんは昭和40年代の初めから“日本の借金は1千億円を超えるだろう”と予想していました。今の時代に10年後20年後を見据えて、この国の財政状況がどうなるかを言える人はいません」
一方、昨年末、当時の天皇陛下が「平成という時代が戦争のない30年間となって良かった」との平和への思いを話されたのを聞いて、角栄の言葉を思い出したと言うのは、新潟日報社の小田敏三社長だ。
「角栄は、自民党の二階俊博幹事長など、1980年代に初当選した議員たちに次のように話していました。『戦争を体験した世代が政治の中心にいる時代は、平和について議論する必要すらない。いずれ戦争を知らない世代が、政治の中枢を占める時代が来るのが怖い』と……」
・リアリスト
高等小学校卒ながら自らの才覚と器量で国権の頂点を極めた今太閤。
あるいは、金脈批判で総理の職を辞し、ロッキード事件で逮捕された悲劇の主。
角栄についてはそうした部分が取り上げられることが多いが、
「角栄が、リアリズムを第一とした平和主義を貫く人物だったということは、あまり光が当てられてこなかった側面です」と、小田社長は語る。
「70年代に入り、アメリカから日本に対してベトナム戦争派兵への圧力が強まった時、総理だった角栄は『どんな要請があっても、日本は一兵卒たりとも戦場には派遣しない』と答えたと、当時の官僚から聞いたことがあります」
その官僚が“アメリカからの強い要請がある”と食い下がると、「角栄は『そういう時には、憲法9条を使えばいい』と返したそうです。アメリカが日本に押し付けた憲法を逆手に取って、日本が派兵しない理由に使うというのは、リアリストの角栄らしい理論だと思います」
憲法9条を巡る知られざるエピソードは他にもある。
「総理になる前、ジョン・F・ケネディ大統領の実弟で司法長官を務めたロバート・ケネディから9条改正を持ち掛けられたことがあった。その時、角栄は『日本は憲法9条を国民に定着させて平和国家を目指そうとしている。それをアメリカが変えようとするなら、日本国民に一言断りがあってもいいのではないか』と答えたと言います」(同)
アメリカに対しても決して尻尾を振らず、毅然とした態度で臨む。
さすがは角栄と言いたいところだが、心配が先にたつ。
どこかで彼の国の“地雷”を踏みはしなかったか、と……。
週刊新潮 2019年6月20日号掲載
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田中角栄が「憲法9条」を盾にベトナム戦争への派兵要請を断っていた
デイリー新潮 2019年06月21日
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/06210600/?all=1
■「戦争を知っている世代が社会の中核にある間はいいが、戦争を知らない世代ばかりになると日本は怖いことになる 」田中角栄
田中角栄が今ブーム!『田中角栄 100の言葉』
PR TIMES 2015年8月8日 株式会社 宝島社
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終戦から70年の節目を迎える今年。
安倍首相の戦後70年談話の内容に注目が集まっています。
また、集団的自衛権の行使容認などを盛り込んだ安全保障関連法案の成立を確実にするために国会が9月27日まで延長されるなど、よりいっそう政治的関心が高まっています。
そんな中、安倍政権と比較されるのが、没後20年以上経った今でも、多くの人を惹き付ける田中角栄です。
酒、女、カネ、そして、政治力と今では考えられない豪快さで、数々のエピソードを残す角栄。
ロッキード事件、金権政治で「巨悪」と指弾されながらも多くの政治家たちが「オヤジ」を慕い、地元でも多くの支持者が最後まで票を投じたほど人望は厚く、利益誘導型の政治と批判はされながらも、「人間の暮らしを楽にする」という政治の原点は 最後まで変わりませんでした。
また、現代の政治家に対する不信感、リーダーシップ不足への不満、政治状況に対する閉塞感など日本における政治不信が続く中、列島改造、日中国交正常化など、角栄が成し遂げた功績を再評価する動きも高まっています。
現に、今年上半期ですでに14冊もの角栄本が刊行されていて、Amazon.co.jpの「政治家」カテゴリでは、上位10冊中5冊を角栄の関連本が占めているほどです(2015年8月7日現在)。
そんな角栄本の中でも特に売上を伸ばし、16万部を突破したのが、宝島社から発売中の『田中角栄 100の言葉 日本人に贈る人生と仕事の心得』。
世界の要人から雪国の庶民まで、あらゆる人間を魅了し続けた角栄の言葉とふるまい。
時代を超えて語り継がれる人間・田中角栄の「人生と仕事の心得」を厳選した100の言葉で伝えています。
その中からいくつかの言葉を紹介します。
・『田中角栄 100の言葉』の中から…
ー戦争についてー
「戦争を知っている世代が社会の中核にある間はいいが、戦争を知らない世代ばかりになると日本は怖いことになる 」
将来、憲法改正があったとしても、9条の改正だけはないと断言していた角栄。
対決型の政治を避ける平和主義者として知られる彼が今の状況を見たらどう感じるのだろうか?
ー学生運動についてー
「学生運動を繰り広げる若者たちがいる。経験が浅くて視野が狭いが、まじめに祖国の先行きを考え心配している。若者はあれでいい」
1960年代から70年代にかけて、日本列島に吹き荒れていた学生運動の嵐。彼らに対して、角栄は一定の理解を示していました。
いま国会のまわりで活動している「SEALDs」の活動に対する一部政治家の発言と比べると…
ー政治についてー
「いい政治というのは国民生活の片隅にあるものだ。目立たずつつましく国民の後ろに控えている。吹きすぎて行く風ー 政治はそれで良い」
理想よりも現実を見つめ、国民がメシを食えるようにすることが大事という角栄の政治信条。
学歴もなく、カネ持ちでもない、雪国の少年だった角栄一国の宰相にまで上りつめた角栄だからこその発言です。
比較して、現在の政治はどうだろう、目立たずつつましく国民の後ろに控えているだろうか…
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「戦争を知っている世代が社会の中核にある間はいいが、戦争を知らない世代ばかりになると日本は怖いことになる 」田中角栄
田中角栄が今ブーム!『田中角栄 100の言葉』
PR TIMES 2015年8月8日 株式会社 宝島社
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000194.000005069.html
■「オヤジとわたし 頂点をきわめた男の物語 田中角栄との23年」 (早坂茂三 集英社 1987/1/20)
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日中国交正常化のために田中のオヤジが訪中する前、中国側は私のところへやってきて、田中の趣味嗜好のいっさいを聞きとっていった。
いざ北京に着いたら、暑がりのオヤジの部屋は、終始、摂氏17度に保たれている。
冷たいオシボリと氷の入った水も目白の家と同じものが出る。
大好きな「台湾バナナ」がいつもそばにある。
朝、かならずみそ汁をとるオヤジのために、郷里である新潟県柏崎市の「西牧」という古いみそ屋から自宅のヤツと同じみそを取り寄せてあった。
米も同じ越後のコシヒカリです。
さすがの田中も「やるねえ」と驚いていた。
こういう気くばりは、ほかのどんな国でも、まずやらない。
確かに一国の宰相を遇するんだから、山海の珍味でもてなしはする。
でも、中国流はそんなレベルのものじゃない。
徹底的です。
しかし、考えてみると、田中のオヤジもこの流儀なんです。
そういう意味では、オヤジのメンタリティと中国流は、よく響きあうところがあった。
周知のように、日中国交正常化を果たしたのは、田中角栄です。
それはそうなんだが、あの時期になぜ田中が日中国交回復を急いだか……そこに、田中角栄という政治家のヨミの深さを知ることができる。
田中のオヤジは私にこう言った。
昭和47年7月、総理になって間もなくです。
「毛沢東とか周恩来という、いまの中国をつくった創業者は、共産主義であれ、何であれ、えらい苦労をしてきた連中だ。多くの死線を越えてきた。それだけに、すべてないものづくしの中で、あのでかい国をやりくりしていくためには、いま何が必要かということがよくわかっている」
「たぶん、そうでしょうね」
「だから、あの連中が元気なうちに、この勝負を決めなければならないんだ」
オヤジの言うところによれば、いまの時期をのがすと二代目、三代目……学校を出てインテリになって、じいさまの苦労が肌ではわからず、頭は理屈と数字が破裂しそうに詰め込まれていて、笑い顔はとても冷たい。
「こんな連中と掛け合っていたら、わがほうが「賠償金はカンベンしてくれ」と言って、「じゃあ仕方がないな」というようなわけにはいかない。だから毛沢東や、周恩来の目の玉の黒いうちにやらなきゃダメだ。急がなければならない。「掛け合いごとというのは、そういうもんだよ」そうオヤジは言った。
「オレにしても、いまが一番、力のある時だ。厄介なことを片づけるのはいまだ。後回しにして、力が弱まればできない」……田中はこうも言った。
おそるべき人間洞察の深さだ……と、私は思う。
政治家、田中角栄のもっともすぐれた資質は、まさにこの点にある。
人間の本性、人情の機微を体全体で知っているんです。
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田中角栄は、誰に対しても威張らない。
役人に向かって威張るおやじ(田中角栄)を私は見た事がない。
それどころか、彼は役人をいつも大事にしてよく立てる。
彼は役人が陥りがちな欠点も良く知っていた。
役人はすべて既存の法律を前提にして、その枠のなかで物事を考え行動する。
そして変化に敏感に反応できない。
法秩序の前衛と自認しているだけに、人民を見下しがちになる。
責任の所在があいまいで、責任を背負わされることを嫌う。
広い視野で物を見ることが苦手である。
しかし田中は一般論でいって、日本の官僚を高く評価していた。
「彼らは外国の役人に比べて比較にならないほど有能だ。仕事熱心で、良く訓練された専門家の集団である。」
これは田中が私にいった寸評である。
同時に彼は役人が陥りがちな欠点も良く知っていた。
役人はすべて既存の法律を前提にして、その枠のなかで物事を考え行動する。
そして変化に敏感に反応できない。
法秩序の前衛と自認しているだけに、人民を見下しがちになる。
責任の所在があいまいで、責任を背負わされることを嫌う。
広い視野で物を見ることが苦手である。
田中角栄は若いときから役に立たなくなった法律はどんどん捨てて、新しい法律をつくればいいと考え、実践してきた。
その発想はオリジナルだ。
東大出身の法学士が束になっても、田中のような知恵は出てこない。
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「オヤジとわたし 頂点をきわめた男の物語 田中角栄との23年」 (早坂茂三 集英社 1987/1/20)
https://a.r10.to/h6dECp
■『早坂茂三の 田中角栄 回想録』(小学館 1987.05.20)
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田中角栄は頭が抜群に切れる。
数字に滅法、強い。
記憶力の良さに秀才官僚も真っ青になる。
人の名前を上下、つなげて覚える。
顔も一度で覚える。
役人の年次も間違うことがない。
約束したら実行する。
できないことは最初から請け負わない。
蛇のナマ殺しはやらない。
面倒見と気くばりは天下一品。
かゆいといえば十メートル先から飛んできて、かゆくないところまで丹念にかいてくれる。
喧嘩上手だ。
勝てると見れば、一気にケリをつける。
根回し、談合の名人。
かなわないと見れば光よりも速く逃げる。
機関銃も腰を抜かすほど早口で雄弁。
ただし、しゃべり出したらとまらない。
酒は二升。
酒席は明るい。
浪花節、小唄、都々逸、なつメロ、何でもござれ。
女にもてる。
加えて、田中は良く勉強している。
見識がある。
経験もある。
方針を明確に示す。
責任を取ってくれる。
一度付き合えば大事にしてくれる。
懐に飛び込めば骨まで拾ってくれる。
これが田中角栄の真骨頂だ。
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『早坂茂三の 田中角栄 回想録』(小学館 1987.05.20)
■『田中角栄の「戦争と平和」』
別冊宝島編集部【編】(2019/05)
・内容説明
「戦争の時代」を生き抜いた角栄の平和論。
・出版社内容情報
「戦争を知っている世代がいなくなったとき、日本は怖いことになる」――護憲と平和主義を貫いた田中角栄の言葉は、いまなお時代を鋭く射抜く力を持っている。
「死んでたまるか」と戦中を生き抜いた角栄の「従軍時代」と、政治家として体現した保守の平和主義を、心に残る言葉とともに読み解く。
古き良き日本人が大切に守り続けてきた「平凡な幸せ」の原点がここにある。
■田中角栄は弱者への思いやり、格差社会の痛みを忘れなかった人
『未完の敗者 田中角栄』を語る(1)今、なぜ田中角栄なのか
■強者にすり寄らず弱者によって立った角栄
週刊ポスト2012年12月21・28日号 2012.12.13
■名もなき庶民が日本の主役だった「田中角栄の時代」があった
週刊ポスト 2015.06.30 山本皓一
■コロナ禍だから響く「田中角栄の7金言」元秘書が明かす
日刊ゲンダイ(講談社)2021/01/01
■鳩山一郎、石橋湛山、田中角栄……。今こそ聞きたい、日本の「自立」を追求した政治家たちの言葉
ハーバー・ビジネス・オンライン(扶桑社)2019.07.26
■なぜ田中角栄は全国民に愛されたか 田中角栄が残した偉大な3つの功績
・ここへ来ての「角栄ブーム」に日本人は何を求めているのか
ダイヤモンドオンライン 2016.5.6 鈴木貴博
■【最後の秘書が語る】田中角栄は、結局何が凄かったのか?
『角栄の「遺言」 「田中軍団」最後の秘書 朝賀昭』(著:中澤雄大)2016.06.07 講談社BOOK倶楽部
■コロナ禍に田中角栄が首相だったら――元側近ら語る「マスク2枚は配らない」
週刊新潮 2020年6月4日
■「田中角栄」と「安倍晋三」を比べたら コロナ対応を“シミュレーション”
「こういう時こそ、選挙などなくても政治家は地元に帰り『何とか乗り切ろう』とみんなを元気づけてこい、角栄さんならそうおっしゃったんじゃないかな」
週刊新潮 2020年6月4日
■コロナ禍で迷走する安倍政権 「田中角栄」が総理だったらこの難局で何をやるか
「俺の目標は、年寄りも孫も一緒に楽しく暮らせる世の中をつくること」
「後代の日本人から褒められるような新しい政治と取り組もうではありませんか」
週刊新潮 2020年4月21日
■消費税撤廃、アジア版列島改造、そして格差是正……ニッポン経済復活へ、田中角栄ならこうする
週刊現代 2016.06.01
■「田中角栄に今の日本を任せたい」
角川SSC新書 (角川新書)大下英治 2011年11月10日
■「その油、米国が回してくれるのか」(田中角栄のふろしき)小長秘書官の証言
日本経済新聞 2018年4月30日
■田中角栄が挑んだ資源立国 – J-Stage
前野雅弥 (日経新聞 シニアエディター) (2018)
■「おい、アメリカをあまり信用してはいかん。ロシアもひどいけど、アメリカもひどいぞ」
田中角栄が生きていたら言う3つのこと
週刊朝日2016/10/18
■田中角栄はなぜ葬られたのか? ――人気作家が徹底取材で挑んだノンフィクション大作『ロッキード』
本の話(文藝春秋)2021.01.13 真山 仁
■角栄逮捕から45年、ロッキード事件とは何だったのか
福岡の経済メディア NetIB-News 2021年6月9日
■「いま裁判をすれば無罪になるだろう」なぜ田中角栄は悪人と言われるのか
日本社会を変えようとした「巨悪」
PRESIDENT Online 2021/03/04 真山仁
■田中角栄はアメリカにハメられた…今明かされる「ロッキード事件」の真相
現代ビジネス 2020.11.15 春名幹男
■「米の虎の尾を踏んだ」(田中角栄のふろしき)小長秘書官の証言
日本経済新聞 2018年3月19日
■「日本は政治的“ピグミー”だ」ロッキード事件の裏側で田中角栄への侮蔑を重ねたリチャード・ニクソン
文藝春秋 2020/10/30 『ロッキード疑獄 角栄ヲ葬リ巨悪ヲ逃ス』(春名幹男)より
■ロッキード事件の「真の巨悪」は田中角栄ではなかった
米高官・CIAを後ろ盾に暗躍した「元戦犯容疑者」たちを徹底究明
クーリエ・ジャポン(講談社) 2020.10.31
■ロッキード事件の“もみ消し”をアメリカ政府に頼んだ中曽根康弘
~自民党幹事長はなぜ総理を裏切ったのか~
週刊文春(2021/02/06)
■なぜ日本は壊れていったのか…「ロッキード・リクルート事件」の真相
現代ビジネス(講談社)2021.03.23
■「日中国交回復は裏安保」 角栄さんの肉声の意味と真意
日本記者クラブ 2017年10月(小田敏三)
「日本が敗戦から立ち直り、経済繁栄を成し遂げたら、いずれ米国から軍備の増強を迫られる。その前に中国との国交正常化が大事だ」
■【ロッキード事件】「この事件には陰謀が絡まっている。底が深すぎるし、奇々怪々だ」(産経ニュース 2016)
米国の政権は自分の思い通りになると思っていた日本を、日中国交正常化や資源外交などで独自の道に進めようとした田中を追い落とそうとした。
石井一
■検察は安倍首相を逮捕しない…「検察庁法改正」の根本的問題と今後
・排除すべき政治家とそうでない政治家
「GHQがらみの複雑な事件」「特捜の誕生秘話」
週刊現代(講談社)2020.05.21
■特別捜査部(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
「隠退蔵物資事件を契機にGHQ主導で設立された「隠匿退蔵物資事件捜査部」が前身」
・東京地方検察庁特別捜査部
「東京地検特捜部が連合国軍による占領下で、旧日本軍が貯蔵していた隠退蔵物資を摘発してGHQの管理下に置くことを目的に設置された「隠匿退蔵物資事件捜査部」としてスタートした経緯や特捜部エリートに駐米大使館の一等書記官経験者が多いことから、「アメリカの影響を受けている」とする見方がある。また、捜査対象が歴史的に木曜クラブの流れを汲む平成研究会系列(田中派―竹下派―小渕派―橋本派―津島派)の政治家に集中する一方で、党風刷新連盟を興りとする清和政策研究会系列(福田派―安倍派―森派―町村派―細田派)の政治家は多くが免れていることから、「捜査対象が偏っているのではないか?」という主張がある」
■自民党「経世会」「清和会」と「東京地検特捜部」
2010年11月15日 杉並からの情報発信です
■集団的自衛権、黒幕の米国が考えていること
日米安保体制はますます米国の思うまま
東洋経済オンライン 2014/07/01 高橋 浩祐
■現実味を帯びてきた、日本が米中「代理戦争」に利用される日
まぐまぐニュース 2016.04.21
■「台湾有事の時、メインで戦うのは日本」アーミテージ発言で露見した米国の“本当の計画”
2022.07.05
■安倍晋三首相が愛してやまない祖父、岸信介がA級戦犯を逃れるため米国と交わした裏取引きが!
「岸がアメリカから言われた最大のミッション」「アメリカの資金でつくられた首相」
exciteニュース 2015年8月17日 野尻民夫
■安倍首相の危険な最終目標
徴兵制復活、上世代に雇用奪われた若年層を戦地へ派兵の懸念
Business Journal 2014.12.13
■安倍総理が絶対に逮捕されない理由
報道ニュースドットコム
■西部邁・関岡英之・三橋貴明【参院選後の第二次安倍政権】(2013年7月27日)
■『田中角栄』日本人の心を惹きつける名演説 | HD版
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