《新潟DNA》渡辺謙名言集と渡辺謙のDNA
渡辺謙名言集
超一流の仕事といえるのは、つまるところ、自分の仕事や人生にどこまできちんと向き合えたかじゃないでしょうか。
いままで僕にはいろんな出来事がありました。そのひとつひとつが糸となって、タペストリーみたいに人生を織りなしているわけです。ひとつの色の糸だけで織った綺麗さはあるけれど、様々な色の糸で複雑な文様を描くのもいい。だから、予想した色と違う糸に変わっても恐れません。
大きな存在にぶつかって初めて、身の丈を知ることが出来る。
必要に迫られて、本気で取り組めば身につけられますよ。「ラストサムライ」に出演が決まってからの僕は寝る間も惜しんでトレーニングしましたから。42歳でしたが、寝言も英語でいうぐらい英語漬けでした。
結局、仕事が上手くなるというのは、スキルを習得するうんぬんよりも、どれだけ自分や他人の人生に対して真摯に向き合えているかってことではないでしょうか。仕事って全人格的な表現だから、その人の人生との向き合い方が如実に現れてしまう。付け焼刃で誤魔化すことはできません。
与えられた環境の中で与えられた自分の状況の中でベストを尽くすということ。それができるかできないか。ということじゃないかなと思いますね。
若いころから大きな夢を語ることも大切だけど、目の前のことを地に這いつくばって必死にやることも大切です。映画界でも、演出でも脚本でもない裏方の仕事を血眼になってやっていた若い人が、メキメキと力をつけて監督に出世することがあるんです。目の前の仕事を一心不乱にやっていると、きっといろんなことに興味が出てきて自然に育っていくんです。
いま、お客様に何を伝えられるか、伝えるべきかを最初に考える。
いまは「これは自分のやりたい仕事ではありません」と、すぐ転職してしまう時代じゃないですか。でも、好きなことって、そんなにすぐには見つからないよねっていう気がするんです。自分の望みと、自分がやれることと、与えられたことが一致する状態は、僕自身も40歳を超えて、いろんな変革を遂げたうえで、やっと近づけて来たかなと思えます。
成功とか名誉という言葉は、僕にはあまり関係ない。作品を通して社会と向き合い、何を伝えられるのか。そのほうが僕には大切なんです。
すぐに結果が出ないからと言って、次々に変化を求めるよりも、自分の中できちんと得心して、方向が見えた時に舵を取っていかないと、自分の中で納得できないまま進んでいっちゃう気がするんです。
「個性を伸ばす」という観点でいえば、あまり自分をひとつのカテゴリーにはめて考えない方がいいかもしれません。いま「ニート」が増えているって問題になっていますが、「ニート」っていう枠に自分から既定しちゃって何も行動を起こさないというのはやっぱり甘えだと思う。僕もポスト団塊の世代で「三無主義」と揶揄された世代なので、気力がわかない時代背景は理解できないわけじゃない。でも、世間が勝手につくったカテゴリーに自分をはめたところでつまらないのに変わりはありません。
全部どこかで一度捨てないと。次の役には向かっていけない。キャリアを捨てないと、また一から始められない。このキャリアをまた持ってここに行ったって何の役にも立たない。
そこに集ってくれる人たちにどうやって喜んでいただけるか、どうやったら笑顔になってもらえるか、それだけを考えている。もしかしたら、それが僕の本質的な原動力かもしれない、ということは感じます。
自分を成長させるために大切なことがあるとすれば、人生で何かアクシデントに遭遇しても、逃げずにきちんと向き合うことではないでしょうか。嵐が通り過ぎるように受け流すのではなく、「残念だ」「悔しい」という気持ちをきちんと受け止めて整理して次につなげる。そういう生き方が、知らず知らずのうちに仕事の勘や生きる知恵に昇華されていく。何か特別なスキルを身につけて実力が一足に飛び上がるなんてなかなかないんじゃないでしょうか。
すぐに結果が出ない場合もあるはず。でも、結果が出なかったとしても、方向が間違ってると、急いで結論を出す必要はない。僕目身も成果を出すために一生懸命あがいていきます。
映画づくりで一番大切なのは、最初に自分が突き動かされた思いを、制作過程でいかに捻じ曲げずに育てていくかなんです。枝葉を伸ばすのではなく、幹を太くしていくイメージです。
今の世の中はポジティブ過ぎる気がする。前に進まなきゃいけない、上がっていかなきゃいけない、とか。でも、それだけが人生じゃない。今、足踏みしていても、前に進むための準備だと考えればいい。
人生は、そんなに確実なものじゃない。僕なんて再来年の自分がどうなってるかわかりません。それを幸せなことだと思っているんです。5年後、10年後を決めすぎると、その点と点を結ぶことに躍起になりがちだから。
「さて、次はどこに行こうか」ぐらいのほうが可能性の幅が広がると思う。これからも素晴らしい明日や、豊かな1週間後を積み重ねていきたい。
苦労は買ってでもしろとよくいわれますが、そうなのかもしれません。逆境にさらされているときって、自分がどちらに向かって進んでいるのか、方向を見失いそうになるじゃないですか。そこにありとあらゆる知恵や感性、経験値を最大限に駆使していかないと、立ち往生して一歩も進めなくなってしまう。そこで前に進んでいこうというエネルギーを振り絞ることで、自分自身が鍛えられていくんでしょう。
僕の場合、最大の逆境だったのは病気と人間不信です。40歳前後でいろいろと騒動があって、精神的にひどく落ち込みました。病気は直すために何をしなければいけないかが自ずと見えてきますが、人間不信にはつける薬がない。この時期はとにかく仕事に励むしかありませんでした。
向かい風に立ち向かうとパワーが出ます。人間不信に陥って仕事に逃げ込んだとき、仕事に対してすごいエネルギーが出ました。
やっぱりまずは、自分の心を開いて飛び込んでいくことが、前に進む力になるんじゃないかなっていう気がしますね。
一人がなくて、一万人の観客はない。
まあ言ってみれば崖をよじ登るみたいに。そうやってあがいているのが全てだと思っているので。
日々の小さな営みが、仕事では一番大切なんだと思います。ひいては仕事の成果にも影響していくんじゃないでしょうか。
生まれつき心が強い人はいない。逆境に強いといわれている人にだって、迷いはいっぱいあったはずです。
僕らの世界では才能ってすごく曖昧なもので、僕自身、「俺の才能って何なんだ?」とずっと悩んできました。最近は「考え、悩み続けることができる」のが自分の才能なのかなと思っています。
とりあえず安全なところで自分のこう安全でひっかかりやすいところにやっていくというよりかは、精一杯手を伸ばして足を伸ばして、自分の体のどこまでそういうものをひっかけてしかも上まであがっていけるかということをトライしないと、僕はいけないと思うんだよね。
あきらめないことだよね。とにかく何があろうが与えられたものに関してはあきらめないこと。
何のために努力を続けるかというと、やはり自分のためです。いつからかコツコツ努力することがカッコ悪いという風潮がありますが、いいじゃないですか。カッコ悪くたって。
おそらく僕は、紳士に興味がないんですね。でも男には興味がある。
とにかく試すんですよ。可能性を試す。恥をかく商売だと思ってるから。
仕事は自由に。人生はまじめに。
渡辺謙のDNAと歩み~渡辺謙の経歴・プロフィール・生い立ちなど~
渡辺謙。
1959年生まれ、新潟県北魚沼郡広神村(現・魚沼市)出身。
新潟県北魚沼郡広神村にて共に教師をしていた両親の元に生まれる。
両親の転勤で、幼少期を新潟県内の入広瀬村、守門村(ともに魚沼市)、高田市で過ごす。
新潟県立小出高等学校在学時には吹奏楽部に所属し、幼少の頃から親しんできたトランペットを担当。
高校卒業後の1978年、東京の武蔵野音楽大学進学を目指す。
しかし音大受験に必要な本格的な音楽教育は受けておらず、また渡辺が中学生の時、父・亮一が病に倒れて仕事が出来なくなったこともあり、学費捻出の困難などの問題から断念した。
同年、芥川比呂志演出による演劇集団 円公演『夜叉ヶ池』を観劇して感銘を受け、翌年に同劇団附属の研究所に入所。
アルバイト先で知り合った猪俣公章の紹介で唐十郎作、蜷川幸雄演出『下谷万年町物語』のオーディションを受け、研究生ながら主演の青年役に抜擢された。
1982年、演劇集団 円の劇団員に昇格し、『未知なる反乱』でテレビデビューを果たした。
1984年には『瀬戸内少年野球団』で映画デビュー。
その後も『タンポポ』、『海と毒薬』などの映画に相次いで準主役級で出演。
1986年のNHK連続テレビ小説『はね駒』にも出演した。
1987年のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』で主役(伊達政宗役)を演じ、39.7%という大河ドラマ史上最高の平均視聴率を獲得。
一躍全国的な人気を獲得、スターダムにのし上がる。
1989年、映画初主演となるはずであった『天と地と』の撮影中に急性骨髄性白血病を発症して降板。
再起はおろか生命も危ぶまれたが、約1年の闘病の後、治療を続けながらも俳優業に復帰。
定期的に入院治療を続けながら、『仕掛人・藤枝梅安』を中心に活動するが、大きな仕事はできなかった。
経過は良好に見え、一応治療が終了した1993年、NHK大河ドラマ『炎立つ』に再び主演、完全復活をアピールした。
しかし、発病から5年経過した1994年に再発。
再治療を行い、経過は良好となって、翌年、無事復帰を果たす。
30代の終わりを機に、従来彼のイメージにはなかった悪役・ダメ男役・格好悪い役柄などを積極的に演じるようになる。
2000年には、『池袋ウエストゲートパーク』に出演。
日本国外映画初出演となったアメリカ映画『ラスト サムライ』(2003年公開)で、渡辺は同年度の第76回アカデミー賞助演男優賞ならびに第61回ゴールデングローブ賞 助演男優賞、第30回サターン賞 助演男優賞にノミネートされる等高い評価を得る。
これを機にロサンゼルスに居を構え、『バットマン ビギンズ』や『SAYURI』など日本国外映画に立て続けに出演。
当初通訳を要していた英会話に関しても猛勉強の末、殆どの会話を自らこなしている。
日本映画では2006年に、荻原浩の小説『明日の記憶』映画化作品で映画初主演。
2006年には、クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』に、栗林忠道役で日本国外映画初主演。
他の主要日本人キャストはオーディションの末選出されたが、渡辺だけは監督から直接出演要請があった。
外国語映画賞を受賞したゴールデングローブ賞の授賞式において、壇上のクリント・イーストウッド監督は「偉大なるケン・ワタナベに敬意を表したい」と渡辺に言葉を贈った。
2007年2月25日(現地時間)、第79回アカデミー賞授賞式に出席し、カトリーヌ・ドヌーヴと2人で非英語圏の俳優代表として舞台に立ち、賞が設定されて50周年を迎えた外国語映画賞の歴史を紹介した。
2008年2月に撮影開始された映画『ダレン・シャン』にも、サーカスのオーナー、Mr.トールで出演。
また、『バットマン ビギンズ』で仕事をしたクリストファー・ノーラン 監督の新作サスペンス『インセプション』で再び起用されている。
2009年10月、山崎豊子原作の映画『沈まぬ太陽』に恩地元役で主演し、第33回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞、第34回報知映画賞主演男優賞を受賞。
2014年には、『GODZILLA ゴジラ』にメインキャストの一人として出演。
2014年11月1日、魚沼市制施行10周年記念式典で「名誉市民称号」を授与。
2015年、ミュージカル『王様と私』でトニー賞・ミュージカル部門主演男優賞にノミネート。
2015年9月2日、新潟県民栄誉賞授与。
2016年2月9日、早期の胃がんが発見され、手術を受けたことを明らかにした。
2時間弱の手術と4日間の入院後、自宅療養を経て、3月5日に渡米し、再び『王様と私』でブロードウェイミュージカルに出演を果たす。
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