《新潟DNA》三波春夫名言集と三波春夫のDNA
三波春夫名言集
舞台に出る真剣な気持ち。そういったものが健康につながっているんじゃないでしょうかね。
歌もあんまり技巧に走ったりしますと、暗くて切ないです。そういう歌を聞いてますと、陰々滅々としますわな。
あれはたしか、昭和三十六年の春ころ、ある地方都市の学校の体育館だった。司会の宮尾たかし君と対談の際にこんなやりとりがあった。「どうですか、三波座長。お客様のこの熱気、嬉しいですね」「まったくです。僕はさっきから悔やんでいます」「!?」「こんないいところへ、何故もっと早く来なかったんたろう、と」ここで、お客様はどっと笑ってくれる。ここまでは、昨日通りの対談内容。すると、宮尾君はたたみかけて、「三波さんは、お客様をどう思いますか?」「うーむ、お客様は神様だと思いますね」ウワーッと客席が歓声の津波!私ははっとしたが、宮尾君もびっくり。客席と私の顔を見比べて、「カミサマですか」「そうです」「なるほど、そう言われれば、お米を作る神様もいらっしゃる。ナスやキュウリを作る神様も、織物を作る織姫様も、あそこには子供を抱いてる慈母観音様、なかにゃうるさい山の神・・・・・・」客席はいっそうの笑いの渦。その翌日から、毎日このパターンが続いて、どこもかしこも受けまくった。宮尾君は、お父さんが落語家であり、本人も研究熱心だから、司会者としても一流。漫談もうまい。こうして、このやりとりを続けて全国を廻るうちに、レッツゴー三匹が舞台を見て、おおいに流行らせたのである。
私が舞台に立つとき、敬虔な心で神に手を合わせたときと同様に、心を昇華しなければ真実の藝は出来ない―――と私は思っている。つまり、私がただ単に歌を唄うだけの歌手だったらならば、きっとこんな言葉は生まれなかったと思うのです。浪花節という語り物の世界を経てきたからではないだろうか。つまり、浪花節の台詞の部分は「瞬時のうちに一人で何人もの登場人物を的確に表現」しなくてはならない。そうしなければ、決してドラマは語れないのである。
いかに大衆の心を掴む努力をしなければいけないか、お客様をいかに喜ばせなければいけないかを考えていなくてはなりません。お金を払い、楽しみを求めて、ご入場なさるお客様に、その代償を持ち帰っていただかなければならない。
日本は、日本人は、頑張って、こんなに戦後復興を遂げたんですよ、ということを、戦後初めて世界に示すイベントである東京五輪はなんとしても成功してもらいたいと思った。
お客様は、その意味で、絶対者の集まりなのです。天と地との間に、絶対者と呼べるもの、それは『神』であると私は教えられている。
自分はすべての人をお客様だと思っているわけではない。ステージを見に足を運んでくださる人だけがお客様だと思っている。そうした方々は『絶対者』だろう。ステージが〈天〉なら客席は〈地〉で、その天地の中にいる唯一の絶対者がお客様。そういう存在を〈神様〉というのだと自分は教わった。
戦争のときには僕らは祖国を守る。これは大義名分ですね。ただ死ぬときは個人に返っています。死ぬときは、個人に返ってこと切れるわけで、そのときには「お母さん」です。「天皇陛下」と言った人もいなければ、「お父さん」と言った人もいない。やっぱりお母さんなんですね。ロシアの兵隊も「ママ、ママ」と言って死んでいきました。
お客様に自分が引き出され舞台に生かされる。お客様の力に自然に神の姿を見るのです。お客様は神様のつもりでやらなければ芸ではない。
歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払ってまっさらな、澄み切った心にならなければ完璧な藝をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。ですからお客様は絶対者、神様なのです。
富士山と桜は、いつどんな時代にあっても、私たちに安らぎを与えてくれる。もうひとつは歌。心に深く刻まれた歌は私たちの生涯の宝物である。
永さん、われわれは傲慢でしたね。皆さん歌う歌を持ってらっしゃるじゃないですか。歌いに行って私の歌を聞かせてあげましょうと思ったのがとても傲慢だった。とても恥ずかしい。長い間、私は恥ずかしいことをしてきた。おじいちゃんもおばあちゃんも、自分の歌を持っていらっしゃる。その歌を一緒に歌わせていただいたおかげで、どれだけ歌手として目が覚めたか。本当に勉強になりました。
日本の国に生まれ 日本に育ち、日本人以外の何者でもない、日本人の心にせめて楽しみをお送り申し上げたい、つらい涙が流れた時に、せめて薄めて差し上げられるような歌を芸を私は演じ続けたいのである。
お客様は神さまです。
男の顔には、二種類あると思っています。苦労を刻んだ顔、もうひとつは、苦労を乗り越えた顔。私は、できれば後者を目指したい。顔に苦労を貼り付けて生きるのは、恰好悪いんです。平常心さえ保てていれば、自然と笑顔になる。私は、笑顔でいたい。
逝く空に桜の花があれば佳し
三波春夫のDNAと歩み~三波春夫の経歴・プロフィール・生い立ちなど~
三波春夫。
大正12年7月、本屋を営む北詰幸三郎・ミヨの三男として新潟県三島郡塚山村塚野山(現 長岡市塚野山)に出生されました。
幼少期からの友達として米山稔がいた。
父は、地元の「なんでも屋」。
書籍、文具、瀬戸物、印刷まで請け負う、言葉どおりの、なんでも扱うなんでも屋だった。
家には本があふれている。三波は、物心がつくと、『少年倶楽部』を読んでいた。
本も好きだったが、外を走り回ることも大好きなガキ大将。天真爛漫な子どもだった。
しかし、7歳の秋、突然母が腸チフスで亡くなる。
父は、夜になると子どもを集め、母の仏壇の前で民謡を歌った。
三波春夫が、9歳のとき、父が再婚。
継母は、優しいひとだった。三波は、この義理の母になついた。夜なべをする母に、本を読んで聞かせた。
学校でも、朗読を褒められた。いちばん好きだった話が『俵星玄蕃と杉野十平次』。
村一番の声自慢であった父の影響もあって子供の頃から歌のうまい少年でありました。
三波春夫の父は、ひとが良すぎて、売掛金を取り立てることができなかった。苦しい家計。つい、株に手を出し大損、家業は倒産。
夜逃げ同然で、東京に向かいます。
13歳で上京、米屋、製麺所、魚河岸で働くかたわら、16歳で日本浪曲学校に入学、南篠文若の芸名で麻布六本木の寄席・新歌舞伎座で初舞台を踏み、一枚看板の座長として全国巡業の活躍を開始されました。
1944年(昭和19年)、第二次世界大戦後期の1月、徴兵適齢のため20歳で帝国陸軍に入営し満州国に渡る。
軍隊でもその腕を生かし入営半年も経たない内に各中隊別に口演を行い、のちに「浪曲上等兵」と渾名された。
1945年(昭和20年)8月9日未明、日ソ中立条約を一方的に破棄して満洲国に侵攻してきたソビエト連邦(ソ連)軍と部隊は交戦。
敗戦を同地で迎え9月11日に武装解除を受けソ連軍の捕虜となる。
10月にハバロフスクの捕虜収容所に送られ、その後22歳から26歳までの約4年間、シベリア抑留生活を過ごす。
シベリア抑留中終戦を迎えました。
厳しい労働の合間に浪曲・演劇・歌を創作し演じた4年間は、自分にとっては人生の道場であったと述懐されています。
帰国後浪曲家として復帰、昭和27年結婚されたゆきさんの三味線で浪曲2人旅をはじめられた。
昭和32年「チャンチキおけさ」でデビュー、和服姿の男性歌手一番手としての三波春夫の誕生でありました。
翌年、1958年(昭和33年)、第9回NHK紅白歌合戦に「雪の渡り鳥」で初出場。
1959年(昭和34年)、テイチクの歌謡曲(流行歌)レコード売上で年間1位が「大利根無情」、2位が「忠太郎月夜」、3位が「チャンチキ酒場」と年間トップ3を独占した。
1960年(昭和35年)36歳。3月1日から、歌手としては初の1か月公演を大阪新歌舞伎座で開催。芝居と歌謡ショーの昼夜2回公演を28日間、休日なしで行う。
1963年(昭和38年)6月、東京オリンピックを明くる年に控え、テーマソング「東京五輪音頭」がレコード会社8社競作のもとで発表される。
三波のほかに、三橋美智也(キング)、橋幸夫(ビクター)、北島三郎&畠山みどり(コロムビア)、坂本九(東芝)らが歌っているが、中でもテイチク・三波盤が250万枚を売り上げ突出して大ヒット。
1967年(昭和42年)3月、1970年(昭和45年)3月から半年間、大阪で開催が決まった日本万国博覧会(大阪万博)のテーマソング「世界の国からこんにちは」が8社競作で発表され、総売上げが300万枚を突破する。
この曲でもテイチク・三波盤は130万枚の大ヒットとなった。
1986年(昭和61年)、11月、紫綬褒章受章。
12月、第37回NHK紅白歌合戦に、白組歌手として当時最多記録となる29年連続29回目の出場を果たす。
2001年(平成13年)4月14日、前立腺癌のため東京都内の病院で死去。77歳。
2001年「新潟県民栄誉賞」が贈られた。
2002年(平成14年)長岡市塚野山に顕彰碑が建立される。
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