学校の校庭に良く見かけた「二宮金次郎」像。
覚えていますか?
以前はどの学校にもあったのですが、昨今撤去されることが多いそうです。
時代の流れでしょうか。
今回は二宮金次郎から見えてくる日本の民主主義とは何か、お伝えいたします!
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昨今、二宮金次郎を知らない方が増えているそうです。
ご存知の方は銅像のイメージでしょうか。
薪を背負いながら勉強した、まさに「勤勉」の象徴。
昨今は時代の背景や、歩きスマホの悪影響と同一視される風潮があり、撤去されている傾向があるそうです。
でも、この二宮金次郎氏。
単なる勤勉の象徴だけではありませんでした。
合理的、かつ革新的な事業家としての一面があったのです。
少し二宮金次郎についてみてみましょう。
二宮金次郎(二宮尊徳)は、現在の神奈川県小田原市に農家に生まれます。
生家は比較的裕福でした。
ところが、豊かな生活は一転、一気に奈落の底に落ちてしまいます。
その不遇がこちら。
生まれた頃は裕福でしたが、川の氾濫で田畑を失います。
この心労も重なり、病気が原因でお父さんは金次郎が14歳の時亡くなります。
さらに、心労もあってお母さんは16歳の時に亡くなりました。
まだ幼い2人の弟は母の実家川久保家に預け、金治郎は伯父の萬兵衛の家に身を寄せることとなります。
両親の死から、一家離散の状態となってしまいます。
独り身となった、二宮金次郎。
預けられた伯父さんが酷いのです。
ケチな伯父・萬兵衛は金治郎が夜に読書をするのを「灯油の無駄使い」として嫌い、しばしば口汚く罵られました。
油が必要だと考えた金次郎は、堤防にアブラナを植え、それで菜種油を取って燈油とします。
しかし、伯父は「お前はうちに世話になっているのだから、お前の時間は俺のものだ!」と、深夜に勉強する事さえ許しませんでした。
結果、仕事の合間に勉強することに。
この姿があの「薪を背負いながら勉強する姿」となったのですね。
そういえば、幼少期の不遇と言えば、シャープ創業者の早川徳治氏も同じような境遇でした。
早川徳治氏は生後1年11か月で養子として出され、厳しく当たられ、食事も満足に与えられない過酷な幼少期を過ごしました。
尋常小学校へ進学するも2年で中退させられ、朝から深夜までマッチ箱張りの内職を手伝わされる日々が続いたそうです。
幼少期の不遇。
乗り越えた人は本当に強い人なのかもしれませんね。
不遇だった二宮金次郎。
凄いのはここからです。
自ら勉強をするためのアブラナ。
その作付け範囲を徐々に堤防や空き地に広げていきます。
また、田植えの際に余って捨てられた苗を用水堀に植えて、プラスアルファの収穫を手にします。
さらに、夜はわらじ織りなどの内職。
そして、落ちていた薪を小田原の町に売りに行っては家計の足しにします。
すごいですね。
今の環境を良しとしない。
まずは自分でできる範囲から創意工夫を積み重ねる。
少しづつ、プラスアルファで改善を積み重ねていきます。
結果、ついに、伯父さんから独立することに成功します。
文化3年(1806年)、二宮金次郎は20歳で生家の再興に着手します。
家を修復し、質入田地の一部を買い戻します。
そして、田畑を小作に出すなどして地主として収入も増えていきました。
文化5年(1808年)、母の実家川久保家が貧窮するとこれを資金援助し、翌年には二宮総本家伊右衛門跡の再興を宣言するに至ります。
不遇だった幼少期の辛い過去。
まさにリベンジを実現した瞬間だったかもしれません。
家の再興などで地元では、ある程度名の知れた金次郎。
この評判が小田原藩主、大久保忠真の耳に入ります。
小田原藩の家老をしている服部十郎兵衛より、金治郎に服部家の家政の建て直しを依頼されます。
金治郎は五年計画を策定、実施。
文化11年(1814年)に服部家の財務を整理して約1,000両の負債を償却し、余剰金約300両を贈ります。
まさに大成功。
一切の褒美も受け取らず、名声は各地に及んでいきます。
金次郎はこれを契機に財政再建・農村復興の仕事にまい進することになります。
驚きなのが、その数。
なんと生涯で関わった支援先が600以上!
小田原からスタートしましたが、飢饉などが相次ぎ、栃木県、静岡県、福島県と広範囲に支援先が広がります。
弟子も増やし、仕組みも構築。
レバレッジを利かせ、多くの地域を復興させました。
この功績を称え、晩年には幕臣に取り立てられています。
600以上の復興、地域再生を成し遂げた二宮金次郎。
ただ、戦時中、二宮金次郎の名声を「愛国精神」の象徴として使われたことも事実です。
戦時中、二宮金次郎を当時の政府が軍国主義の象徴として「利用」していたとも言われています。
その始まりは明治5年「修身教科」(道徳教育として)。
修身教育は学制公布から開始され、明治13年教育令改正により尊王愛国の養成のため筆頭科目となります。
明治23年の「教育勅語」発布により教育の中核となります。
二宮金次郎が修身の教科書に出てきたのは明治37年国定教科書「尋常小学修身書」で「孝行」・「勤勉」・「学問」・「自営」という4つの徳目に登場します。
明治37年~大正・昭和16年までの尋常小学校と、国民学校の昭和20年まで一貫して「修身」という教科で二宮金次郎は題材として利用されました。
二宮金次郎の銅像が、日本全国に広がったのもこういった背景があったからだと言われています。
でも。
革命的「成り上がり」の二宮金次郎。
本当の姿は、もっと「現代的」であり、「合理的」であり、「先進的」な人物だったのではないでしょうか。
軍事教育の一環として「利用」された二宮金次郎イメージ。
実は意外に、人間的なんです。
その一つが、体格。
なんと、身長180センチで、体重は94キロ!
江戸時代当時、日本人規格外の大男だったんですね!
当時の表記だと、身の丈は、六尺で、二十五貫のまさしく巨漢。
さらにもう一つ。
バツイチなんですね。
離婚歴あり。
最初の結婚は金次郎31歳。相手は隣村の娘「きの」20歳。
ただ、金次郎の博愛主義が、きのにとって不安材料になります。
自分たちの生活より他人を優先する金次郎の考え方。
きのは、自己犠牲の精神に納得していなかったと言われています。
いつの時代も「異端児」は理解されにくいのかもしれません。
そのような中、金次郎・きのとの間に子どもが生まれますが、生後すぐに亡くなります。
このことがきっかけで離婚。
その後、金次郎は再婚します。
相手は家老の家の女中の一人「なみ」。
金次郎は自己犠牲の精神を理解してくれたなみを生涯大切にしたそうです。
バツイチの大男、それが二宮金次郎なのです。
思想で祭り上げられた人は、実は私たちと変わらない、同じ人間だったのです。
600以上の村々、組織を再生してきた二宮金次郎。
二宮尊徳の根本思想に「報徳思想」というものがあります。
財政再建に取り組む上で、経済力に応じた消費支出限度「分度(ぶんど)」を守り勤倹節約し、倹約して生まれた余剰を社会公共のために提供する「推譲(すいじょう)」で、困窮を救うことができると説いています。
キーワードは「分度」と「推譲」。
「分度」とは、あらかじめ定めた収入の範囲内に支出を収めることです。
つまり、「入るを量って、出ずるを制す」ことですね。
画期的だったのは、「感覚」で組織運営していた時代に、客観的「数字」と「予測」の概念を持ち込んだことではないでしょうか。
そして「推譲」。
「推譲」とは、残った剰余を他に譲ること。
金次郎は、過去に遡る調査で見定めた土地の生産力に基づき、農民と領主双方の取り分を設定します。
その上で農民達には勤労を求め、努力すれば、分度を超える収入が生まれます。
この「分度」以上の収入は、子孫や他者に譲ることとされたのです。
つまり、現代風に言えば、子孫への推譲は将来世代に残す貯金であり、他者への推譲は地域への寄付と言い換えられるのではないでしょうか。
また、推譲で集まった資金は、用水路の整備や洪水対策などの土木事業、農民の借金を一括返済するための無利子の貸付等に使われました。
すごいですね!
二宮金次郎は江戸時代の「事業再生・地域再生コンサルタント」とも言えそうです。
金次郎の凄いのは、ここから。
金次郎は「報徳思想」を軸に、『五常講』と呼ばれるマイクロファイナンスのような融資制度を考案します。
最初は、破綻に陥っていた、金次郎の奉公先である服部家の負債を解決するために考えられたものです。
当初個人向けに融資し、その返済利子を融資に回し、新たに個人へ貸付していく。
新たな利子が原資に。
少しづつですが、原資が拡大していきます。
結果、村単位への貸し付け、小大名や旗本にも融資するまでに成長していきました。
この『五常講』。
世界で初めての信用金庫や協同組合の原型となるビジネスモデルだと言われています。
信用組合の発祥はドイツ(1862年にライファイゼンが設立した『救済貸付組合』、農村信用組合)といわれていますが、金次郎はそれより20年以上も早く信用組合と同じ組織である五常講を制度化し実施していました。
すごいですね、まさに世界の偉人。
そして『五常講』は、マイクロファイナンスにも近い思想の側面もあります。
貧困層への小口融資や、金融を通じて人々の自立心と独立の精神を育んだことなどは、マイクロファイナンスとも多く類似する点ではないでしょうか。
二宮金次郎は「金融の革命家」という側面もあった、と言えるのかもしれません。
道徳教育に「利用」された側面がある二宮金次郎。
しかし、戦後、民主主義が軸となった日本においても、大きな影響を与えています。
実際、二宮金次郎の思想は、日本の民主主義の父、渋沢栄一にも多くの影響を与えています。
渋沢栄一は、東京証券取引所創設者であり、みずほ銀行創設者、500社以上の大手企業・組織を立ち上げた人物。
二宮金次郎は1856年に亡くなっていますが、渋沢栄一は1840年に生まれています。
渋沢栄一は二宮金次郎と同じ時代を生きていました。
実際、渋沢氏は二宮金次郎の「推譲」に関し、以下のように述べています。
「推譲とは即ち物事総て恭譲なれとの意味であって、慈善もその中に含まれて居る事と思ふ。」
二宮金次郎、渋沢栄一の思想は、その後の松下幸之助(Panasonic創業者)や稲盛和夫(京セラ創業者)などに受け継がれていきます。
二宮金次郎の不遇の幼少期。
ある意味、人生の恨みを背負いながらの半生だったのかもしれません。
ただ、そのエネルギーをどう使うのか、私たち一人一人に問いかけているのではないでしょうか。
「利益」を生み出し、次世代や社会への「投資」を生み出す仕組み。
そして、「利益」を社会還元する思想。
二宮金次郎の思想は、まさに、今の日本の「民主主義」を作り上げたとも言えるのかもしれません。
事業とは何か。
組織とは何か。
利益とは何か。
利益の目的とは何か。
その古くて新しい「熱い想い」が伝わってくるような気がします。
二宮金次郎の名言を贈ります。
貧者は昨日のために今日働き、富者は明日のために今日働く。
一万石の米は一粒ずつ積んだもの。1万町歩の田は一鍬ずつの積んだもの。万里の道は一歩ずつ積み重ねたもの。高い築山(つきやま)も、もっこ一杯ずつの土を積んだものなのだだから小事を努めて怠らなければ、大事は必ず成就する。
善悪と言っても、天が決めたものではなく。結局、人間にとって便利かどうかだけの話である。
人々にはそれぞれ長所もあり、短所があるのは仕方がない。相手の長じているところを友として劣っているところは友としてはいけない。人の短所を捨て、長所を友とするのだ。
両方が得をして、両方が喜べるような間柄を作ることに、知恵を働かせるのがよい。
すべての商売は、売りて喜び、買いて喜ぶようにすべし。売りて喜び買いて喜ばざるは道にあらず。貸借の道も、また貸して喜び、借りて喜ばざるは道にあらず。
世の中は、知恵があっても学があっても、至誠と実行がなければ、事は成らない。
富は人のほしがるものだ。けれども人のために求めれば福を招き、己のために求めれば禍を招く。財貨も同じことで、人のために散ずれば福を招き、己のために集めれば禍を招く。
奪うに益なく譲るに益あり。
道徳を忘れた経済は、罪悪である。経済を忘れた道徳は、寝言である。
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