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夢を夢とするなかれ
~星野仙一名言集と今までの軌跡~
新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
■星野仙一名言集
勇気を奮い立たせて、毎日闘っていく。弱みは絶対、見せちゃいかん。選手はいつも背中を見てますから。丸まった背中になったら駄目なんです。
監督は孤独を愛さないといけないし、ストレスも愛さないといけない。そんなネガティブなものに対してお友達にならないと駄目なんです。
我々にとって野球というのは仕事ですから仕事に対して闘争心がないというのは生活権を放棄していると僕は受け取ります。人生を放棄していると言っても過言じゃないと思います。ですから、逃げる人間。それは自分でレギュラーなりチャンスなりを放棄していると僕は見ます。もう泥まみれでがむしゃらで苦しめばいい。僕は苦しんでいるうちはチャンスをあげます。逃げるやつにはチャンスをあげません。
「何がやりたいか分からない、自信が持てない」という不安定な気持ちに対して、大切なのは、自信があるかないかではなく、自分の仕事に夢中になっているか否かだ。自分の仕事に馬鹿になれるなんて、すごく幸せなことだ。
すべては幼児教育なんだよ。学校にいるより、家にいる時間の方が長いんだよ?親が、ちゃんと教育せい!
不平等な世界だからこそ、ひいきされるような選手になれ。
一生懸命というのは自分で決めるものではない、他人に認められて初めて一生懸命と言えるんだ。
自分だけでは何もできないというのは自覚しています。
最下位覚悟で優勝を狙う。
就任した当時、いきなり大震災。えらいことになってしまったなと。でも、前を向くしかない。それを乗り越えるという試練を選手たちに与えたんだと。少しでも東北の被災者の皆さんに強さを見せて、少しでもその心を和らげてあげようと。これで全てをお返しした訳ではないけれど、これから一つ一つ東北の皆さんとともに闘い、歩んでいきたいと思っています。
考えられないような継投なんだけれども、どうしたって田中がいくと。彼がいたからこそ日本シリーズに出場できたから、最後はあいつがふさわしいということで彼に託しました。
もう最高。東北の子どもたち、全国の子どもたち、被災者の皆さんに勇気を与えてくれた選手をほめてあげてください。
人生の1%をボランティアに捧げ。
全てはフェアプレーで行われるべきであり、その上でライバルに優れた点があれば、率直に認め、学び、吸収せよ。
今の生活に安住しては進歩はない。ときには大胆な革命もね。
弱気は相手を強気にさせる、弱気は強気に押し切られる、強気は弱気を制していく、強気は強気を押し退ける。
夢は見るものではない。実現させるための目標である。その為に、今何をなすべきかを冷静に考え、できる事は即座に行動する。
どんな時でも過去ではなく、未来をイメージし続けよう。そのためにも、目標に少しでも近づけることを、どんな時でも確実にやっていこう。その積み重ねが後になって必ず役に立ってくる。
ひとつの夢をつかんだと思ったら、次の夢が出てくる。夢にチャレンジしているから、俺はすごく若いわけです。
大変という意味は大きく変わるということ。ピンチはチャンスの前触れ。大難を忍ぶ者は、大善を引き起こす。
弱いチームを引き受けるのは男のロマン。
当たり前の事を当たり前にやるだけ、ただし本気で。
人を愛せ。人を信じよ。人を生かせ。人を褒めよ。
やるべきことだと思っていることを、本気になってやっていかなければ自分の人生も、なにひとつ変わっていきはしないのである。本気か、本気でないのかが人生の分かれ道だ。
差を埋めるのは技術や戦術じゃない。気持なんだ。
思いが強ければ強いほど、勝利に近づいていきます。
夢中になれる仕事自体が見つからないと言うことに対して、見つけることよりも、やってみることが大事なんだ。
少しでも好きに慣れそうな仕事に、とりあえずチャレンジしてみる。
指示を待つな!勇気を持って、積極的に行け。
思い悩んでいるなら、前に出るのが男だろ。
迷ったら前へ。苦しかったら前に。つらかったら前に。後悔するのはそのあと、そのずっと後でいい。
夢を夢とするなかれ。
■星野仙一とは?
星野仙一。
プロ野球選手・監督。
元投手。
中日ドラゴンズ・阪神タイガース・東北楽天ゴールデンイーグルス監督を務め、2008年には北京オリンピック野球日本代表の監督も務めた。
愛称は「燃える男」「闘将」「仙さん」「セン」他。
岡山県児島郡福田町(現:倉敷市)出身。
高校進学は、岡山県立倉敷商業高等学校の野球部部長・角田有三教諭から「君の力で、倉商を甲子園に連れていってくれ」と口説かれて進学。
3年生の時に、甲子園を目指して、1964年東中国大会決勝まで進んだが、鳥取県の米子南高校に敗れ、甲子園出場は叶わなかった。
高校卒業後は明治大学政治経済学部経済学科に進学。
野球部では1年生から一軍メンバーとして活躍し、東京六大学リーグで通算63試合に登板し23勝24敗、防御率1.91、199奪三振。
1968年度主将。
2年生秋には対立教大学戦でノーヒットノーランを記録。
1968年のプロ野球ドラフト会議で、水原茂が監督就任したばかりの中日ドラゴンズから1位指名を受け入団。
入団1年目は、49試合に登板し8勝を挙げる。
1971年に肘を痛めてから速球は影を潜めたが、変化球を駆使し、先発・リリーフとして活躍、チーム事情もあり、14年間の選手生活の中で、先発中心で起用されたのは5年ほどしかない。
現役通算で8回の二ケタ勝利(うち15勝以上4回)、2回の二ケタセーブをマークしている。
1974年には初代最多セーブのタイトルと沢村賞を獲得するなど、巨人のV10を阻みチーム20年ぶり、2度目のセントラル・リーグ優勝に大きく貢献。
優勝を決めた試合では、胴上げ投手となった。
1977年は自身最多の18勝を挙げる。
1981年からは投手コーチ補佐を兼任。
1982年、自身2度目のリーグ優勝を機に現役引退。
現役時代の通算成績は、146勝121敗34セーブ。
長嶋茂雄・王貞治らが活躍したV9時代を含む巨人を相手に、35勝31敗と勝ち越しを記録。
巨人キラーとしてその名を轟かせた。
王貞治には対戦成績195打数62安打、打率3割1分8厘、被本塁打は24本と打ち込まれた一方で、長嶋茂雄は111打数26安打、打率2割3分4厘に抑え込んでいる。
1983年から1986年まで野球解説者などをしていたが、1986年シーズンオフ途中で休養した山内一弘の後任として中日の監督に就任。
ロッテから落合博満を4対1のトレードで獲得するなど大胆な補強を行い、チームカラーを一新する。
監督一年目1987年は2年連続5位のチームを2位にした。
1988年リーグ優勝。1点差試合が34勝15敗を記録した。郭がMVP,、小野が最多勝、立浪が新人王を獲得。
中日生え抜きで優勝した監督は星野だけである。
1989年3位、1990年は4位、1991年は2位となり、辞任した。
辞任後は再び野球解説者を務めたが、1995年シーズンオフに中日への監督復帰。
1997年最下位に転落するも、1998年は2位となった。
1999年は、1954年の西鉄ライオンズ以来45年ぶりとなる開幕11連勝を飾った勢いでそのまま首位を突っ走り、自身2度目のリーグ優勝を果たした。
チーム防御率は12球団一位。
2000年は2位となり、2001年は5位に終わり、責任をとる形で辞任した。
2001年オフの12月に低迷が続いていた阪神タイガースの監督に就任。
星野監督を阪神オーナーの久万俊二郎に推薦したのは前任監督の野村克也だと言われ、長嶋茂雄からも説得されたと言われている。
2002年4年連続最下位だったチームを4位に浮上、翌2003年はチーム18年ぶり、監督としては自身3度目のリーグ優勝を果たす。
しかしかねてから星野には高血圧症という持病があり、シリーズ終了後の10月に「健康上の理由」で退任。
2004年以降、野球解説者等を務めたが、2007年北京オリンピック野球日本代表の監督に就任。
2008年北京五輪の結果は4位となった。
2010年シーズンオフに東北楽天ゴールデンイーグルス監督となる。
しかし、初年度となった2011年は3月11日に発生した東日本大震災の影響で、本拠地・クリネックススタジアム宮城(Kスタ宮城)が損壊したこともあり、公式戦開幕が2週間延期される。
2011年は結局5位に終え、2012年は4位となる。
2013年、球団史上初のリーグ優勝を達成した。
異なる3球団をリーグ優勝させた監督は三原脩、西本幸雄に続き史上3人目。
2013年の巨人との日本シリーズでは4勝3敗で日本シリーズ制覇を達成し、楽天初と同時に自身初の日本一になった。
66歳でのリーグ優勝と日本一は、2000年の長嶋茂雄を超えるプロ野球最年長優勝記録となった。
2014年5月に持病の腰痛が悪化、難病(=特定疾患)の一種である腰椎椎間板ヘルニアと胸椎黄色靱帯骨化症と診断された。
急遽一軍投手コーチの佐藤義則が監督指揮を執った。7月から監督に復帰するも、成績不振から監督辞任を発表。
2014年11月、楽天のシニアアドバイザー就任が発表。
2015年9月、株式会社楽天野球団取締役副会長に就任(死去まで)。
2016年7月に急性膵炎を発症した際に膵臓がんが発覚したが、一切公にされなかった。
2018年1月4日午前5時25分に死去。70歳でした。
楽天は星野が監督時代につけていた背番号「77」を永久欠番とした。