選ばれし者の恍惚と不安、ふたつ我にあり。~前田日明(プロレス)名言集と軌跡~


新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

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Contents

■前田日明(プロレス)名言集

自分たちはプロレスに関して”スタントマンのメロドラマ”を目指してたんですよ。スタントマンは下手したら大怪我するし、命を失います。

格闘技の延長線上の動き。それを追求しようとしても、自分の中に技術の蓄積とか経験とか実力が無いとできないんですよ。

藤原さんてね、うちの死んだ父親に性格がそっくりなんですよ。いいところも悪いところも。気が短くて、いつもカッカしてて、意固地でね。豪快なところがあるかと思ったら、すぐ拗ねる。藤原さんを見ていると、いつも父親のことを思い出すんです。藤原さんからはいろんなことを勉強しましたよ。

毎試合、この試合が選手として最後の試合になるんじゃないかと思っていた。

本当に統一コミッションで何かやるんだったら、レスラーになるための基礎的な教育だとか、小さな団体が興行に医者を連れて行く余裕がないんだったら派遣してやるとか、そういうことから始めたほうがいい。

一年たとうが二年たとうが、いつだって妥協しないぜ!

猪木さんも山本さんも、若手の頃にアメリカ修行で行った場所はテネシー州なんですね。テネシー州っていうのは、太平洋戦争での戦死者が一番多い州なんです。だからプロレスでも、日本人がヒールで扱われたりとか、日本人をバカにするような取り決めだったんですね。正統派として出たとしても、相手のアメリカ人がショーとしてのプロレスをやってくれずに、ガチンコを挑んできたりとか。あの2人は、“やられた喧嘩は買ってやり返す”っていう経験をいっぱいしている人たちなので、「外人にバカにされちゃいけないよ。向こうがルールを破ってきたら、ヤッていいんだよ」っていう教育だったんです。俺の場合、「ヤッていいんだよ」というところだけが大きくなりすぎましたけど(笑)。

レスリングって言葉は総合格闘技って意味なんだよ。

誰もプロレスに責任を持たない。誰もプロレスと一緒に恥かいてやろうとする人間がいないじゃない。「人のために何かやっている」「人のために働いている」とかいう人がいるけど、それが嘘か本当か見分けるポイントは一つだけ。その人間がその人のために恥をかけるか!自分のプライドと、その人のプライドが重なった時にどっちを取るか、だけ。

アントニオ猪木なら何をやっても許されるのか。

プロレスの厳しさを伝えるのは難しいんですよ。やったものにしかわからない。いくら受け身を名人的に訓練してても、年間100試合、200試合とやってると少しずつ体も壊れてくるんですよ。

俺らは、どんな動きでも格闘技としての整合性を考えるんですよ。

プロレスとは、真剣にやれば死ぬこともあります。

自分の気持ちばかり抑えたり相手のことを無理にでも理解しようとしたりしてたら何も前に進まない。だから、俺は単純に自分の周囲にいる人間たちを”敵か味方か”の2つに分けたんだ。

俺はファンには媚びない。

俺が入った頃の新日本プロレスの道場で、レスラーは強くないとあかん、そのために関節技とか勉強しなきゃいかん、新日本プロレスは発展して、いずれショープロレスじゃなくて格闘技をやろうと思ってるって言われた。俺はそれを真剣に信じて、自分が新日本を辞めてからも忘れずにやった、っていうだけの話でね。

俺は誰とも交われないんですよ。

ごちゃごちゃ言わんと、誰が強いか決まるまでやればいいんだよ、決まるまで。

たまたまファンから貰ったボードレールの『悪の華』という詩集を開いたんだよね。で、そこに書かれてあった詩の一節にこんな言葉が綴られていたんだ。『男性美とは、”神秘”と”復讐”なのである』と。その時、パァーッと視界が開けたような気がしてね。そうか”復讐”してやればいいんだと思った。それまでの俺は、自分から離れていったいろんな人間の気持ちを理解しようとばかり考えていたんだ。

でも、その行為自体、自分自身を傷つけていたんだ。俺を否定している人間も理解する、また、自分をも肯定しようとしていたら最後は精神が分裂するしかなくなるからね。 だったら”復讐”しよう、と。いや、別に誰かに対して本当に”復讐”するのではなくて、そう思うことで自分の気持ちをラクにしようと願ったんだ。

高山!レスラーの身体はなあ、神経で動いてるんじゃ無いんだよ。魂で動いてるんだよ!

俺、自信があるんだ。誰よりも遠くに行けるし、誰よりも最短距離で目的地にたどり着いているしね。

『ひとりぼっち』になれたからこそ、俺は”復讐”できるんだとも思った。要するに、リングスを立ち上げ、ひとりで闘うということは自分自身の”復讐”を成功させることにも繋がるんだと勝手に気分を盛り上げていた。

たとえ潰れたとしても”前田はひとりでは何もできない”と思っている連中に”ざまあみろ”と胸を張ることができると思った。『ひとりぼっち』でもせめて大会場で闘うことができたら、俺の”復讐”は成功するんだと信じていたんだ。 この時点で、完全に俺の澱んでいた気持ちは吹っ切れ旗揚げに向けて精神も肉体もスパートすることができた。

自分の言葉に責任を持っただけだよ。自分ひとりで何もかもやった。誰の手も借りなかった。自分の頭とハートだけでやり遂げた。

強さとは、しつこさです。しつこい人は諦めないでしょ。負けを認めないから、延々と努力するんですよね。しつこいフリをしている人は違いますよ。それはただのわがままです。本当にしつこい人間は、「ちくしょう。そうはいくかい。いまに見てろ」って、虎視眈々と機会を狙う。しつこくて、執念深い。それが強い人ですよ。プロレスに限らず。

俺は不器用だからね。前へ前へと進むしかないんだ。

選ばれし者の恍惚と不安、ふたつ我にあり。

■前田日明(プロレス)とは?

前田日明。

1959年生まれ、大阪府大阪市大正区出身。

在日韓国人三世(1984年に日本に帰化)。

少年時代は少林寺拳法を習っていた。

中学生の時に両親が離婚、北陽高校時代は空手とバイクに熱中した。

空手は無想館拳心道館長の岩崎孝二から学んで二段を取得しており、極真空手の大山倍達の弟子たちのようにアメリカで空手の道場を開きたいという夢を持っていた。

大学受験に失敗し、アメリカに行く金を貯めようとアルバイトに明け暮れる。

アルバイトは運送関係の仕事を中心に行ったといい、たまに長距離トラックの助手を行って運転手に食事を奢ってもらうなどした。

1977年、佐山聡にスカウトされ、新日本プロレスへ入団。

1978年8月25日、長岡市厚生会館の山本小鉄戦でデビュー。

大型であることから将来のエース候補として期待され、1982年2月に海外修行でイギリスへ渡り、「サミー・リー」(佐山聡)の弟というギミックのもと、クイック・キック・リー(Kwik-Kik Lee)のリングネームで活躍。

1983年1月25日にはウェイン・ブリッジを破り、かつてはビル・ロビンソンやホースト・ホフマンも戴冠したヨーロッパ・ヘビー級王座を獲得。

4月21日の凱旋帰国試合では、ポール・オーンドーフを相手にリバース・アームソルトにてピンフォール勝ちを収めた。

5月開幕のIWGP決勝リーグ戦には「欧州代表」として、11月開幕の第4回MSGタッグ・リーグ戦には 藤波辰巳とのタッグチームで出場した。

凱旋当時は「七色のスープレックスを持つ男」と紹介され、相手をロープに飛ばしてのフライング・ニール・キックなど、ダイナミックな技で人気レスラーとなった。

1984年2月29日の合同練習を最後に前田は新日本プロレスを離脱し、WWF会長でもある新間寿の仲介で3月より、WWFに遠征。

同月25日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてカナダのピエール・ラファエルを破り、新設されたWWFインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。

ベルトには「UWF」の文字が中央に大きく施されており、その後、前田は第1次UWFへの移籍を表明した。

UWFでは若きエースとして迎えられ、4月11日に開幕したオープニング・シリーズでは、旗揚げ戦のメインイベントでダッチ・マンテルに勝利。

最終戦の蔵前国技館大会では、当時まだ新日本プロレスに所属していた藤原喜明と流血戦を演じた。

その後、UWFは佐山聡の影響によりキックと関節技を中心とした格闘技色の濃いプロレススタイルに移行するが、格闘技の試合は月に一度と言う“競技志向”の佐山と、会社が大変なんだから試合を増やそうという“興行志向”の前田が対立し、UWFは解散。

1985年12月6日、藤原、木戸修、高田伸彦、山崎一夫らと共に業務提携という形で新日本プロレスに復帰。

前田はリング上で「1年半UWFとしてやってきたことが何であるか確かめに来ました」とマイクアピールを行った。

1986年10月9日、両国国技館で行われた「INOKI 闘魂 LIVE」における異種格闘技戦で、ドン・中矢・ニールセンを逆片エビ固めでギブアップさせて勝利。

この試合を期に「新格闘王」と呼ばれ、プロレス界以外からも注目を浴びるようになった。

1987年11月19日、後楽園ホールにおけるUWF軍対維新軍の6人タッグマッチにおいて、木戸にスコーピオン・デスロックをかけていた長州力の背後から正面へ回り込み、長州の顔面をキック、長州に右前頭洞底骨折、全治1か月の重傷を負わせた。

このことを理由に、新日本プロレスは前田に無期限出場停止の処分を下す。

その後、出場停止解除の条件として、メキシコ遠征することを指示されたが、それを拒否したことにより1988年2月1日に新日本プロレスからプロレス道にもとる行為を理由に解雇される。

第2次UWFは、1988年5月12日に後楽園ホールにて「STARTING OVER」と銘打ち旗揚げ戦を行った。

当時、創刊されたばかりの格闘技通信は「プロレスという言葉が嫌いな人この指とまれ」と、前田を表紙に抜擢した。

第2次UWFは格闘技であることを標榜した、競技色の強いプロレスであった。

その後、前田とUWF社長の神新二との間で、神社長の会社の株式の無断の独占問題と不明朗な経理で問題が発生。

1990年10月、前田は船木誠勝戦直後に、フロントを非難。

これを受けたフロントは前田を出場停止処分とする。

この一連の前田とフロントとの確執は前田と所属選手間にも波及。

第2次UWF解散後の1991年春、リングスを設立。

同年5月11日に横浜アリーナで旗揚げ戦を行った。

リングスの興行はWOWOWで生放送された。

さらには、UWF時代の人脈からオランダのクリス・ドールマンの全面協力を得ることになった。

正道会館からは、石井和義館長が佐竹雅昭ら空手家をリングスに派遣した。

石井館長はリングス参戦によって大型興行のノウハウを蓄積しそれが後のK-1の飛躍へとつながった。

旗揚げ第2戦前の練習で、前田は前十字靭帯断裂、側副靭帯の重傷を負った。

その後しばらくはニーブレスをつけて強行出場を続けるが、最終的には手術を行い長期欠場となった。

1997年に開催されたPRIDE.1では、高田延彦がヒクソン・グレイシーに敗北。

1999年2月21日、前田の引退試合としてアレクサンダー・カレリンと対戦し、判定(ポイント)負け。

WOWOWによる次年度よりの放映打ち切り決定により、2002年にリングスは活動停止。

2005年、元新日本プロレスの上井文彦に請われ、上井が旗揚げした新プロレスイベントビッグマウスにスーパーバイザーとして参画。

同時に、船木誠勝と和解。

2006年2月26日、新生ビッグマウス・ラウド旗揚げ記念大会・徳島興行で、前田は船木と共にビッグマウス・ラウドを脱退。

ビッグマウスとK-1との提携で、「HERO’S」発足時より「スーパーバイザー」として参加。

2008年1月21日、RINGS公式サイトで、アマチュアの格闘技大会「THE OUTSIDER」の立ち上げを発表し、3月30日にディファ有明において旗揚げ大会を開催。

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