ふてくされる時間が一番無駄だ。~中村俊輔(サッカー)名言集と軌跡~


新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

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Contents

■中村俊輔(サッカー)名言集

誰よりも練習する事。それが必ず自信になる。

10番って、チームの象徴みたいなもの。日本のために恥ずかしいプレーはできない。

妥協しない毎日を過ごせば、何かが得られる。

自主練習も、ただやるだけじゃなくて、テーマを設定して、「今週はこういうことができるまでやろう」という風に順序だててやった。努力というよりも、そうやってテーマを作ってやったほうが楽しいから。ひとつのテーマをクリアしたら、次のテーマという風に。ただ漠然とやるよりも、僕にとってはそのやり方がずっと面白い。ロールプレイングのゲームをやるのと似た感覚かもしれない。

満足すると、痛い目にあう。

言い訳をしようと思ったら、材料はいくらでもある。でも、それって自分には何もプラスにならないし、かえって足を引っ張ることになる。

ちょっと遠回りすることになっても、目標を忘れなければ、いつかはそこへたどりつけると僕は信じている。

いっぱい考える。ライバルにあって僕にないものは何だろうか、僕が試合に出るためには何をすればいいだろうか、と。そういう瞬間に、力がついている。

やっぱり外に出て、五輪で対戦したような選手と毎日やったら、絶対成長できる。環境も全然違う。荒れたグラウンド、小さいクラブハウス、過酷な移動、慣れない言葉や食事。そういうものを経験すれば、選手としても、人間としても、大きく成長できる。

成功か失敗かなんて誰にもわからないし、誰にも決められない。今の僕に自分が成功しているという気持ちはない。ただ、成功させたいと願い、毎日を100%で生きようと努めている。

どんなことであっても、大きな目でみれば、「失敗はない」と思っている。確かに”その瞬間””ある時期”は失敗だったと思うかもしれない。でも、それを次に活かすことができれば、失敗にならない。

僕は身体的に恵まれたとは言えない。線も細いし、身長が高いわけでもない。それでもヨーロッパで身体能力を武器にした選手と戦えるのは、「考えているから」だと思う。頭を使ったプレーができなければ、今の僕はない。

「考える力」は年をとっても関係ない。いや逆に経験を積んだ分、判断のスピードや質は上がるはず。「考える力」は武器となる。だからこそ、年を重ねれば重ねるほど、今まで以上に空気を読み、察知して考える力を磨いていかなくちゃいけない。

受け止めなきゃしょうがない。力がなかった。無駄な時間はない。これもサッカー人生だから。

サッカー界には「ボールは汗をかかない」という言葉がある。これはボールは幾ら動かしても疲れないんだから、人間が走るよりもボールを走らせろという意味なんだけど、「考えること」もこれに似ている。もちろん、考えすぎて頭が疲れるということはあるけど、普段の生活でどんなに悩んで、考えても、それが無駄になることはない。

他人を妬んでいる人は伸びない。自分の足りない力を分析せずに、他人を妬んでも意味がないのだ。

壁があるほうが僕は落ち着く。どんなに分厚い壁であっても、それから逃げることはない。逃げようという気持ちも起きない。どんなに困難で、たとえぶつかって砕け散ったとしても、”ぶつかった”ことで得るものがあるから。物事が起きるには、絶対に何か原因があるはず。自分の思い通りにことが進まないなら、その原因を察知して解決の糸口を見つけ出せばいい。そして僕はわかった。自分がこうやって頑張れば、どんどん巧くなっていく。どんどんいいことが起きるんだなということが。

サッカーは1人でやるスポーツではない。11人でやることで生き長らえるヒントがある。

察知力というのは、人が成長するためには欠かせない力であり、目標を達成したい、願いを叶えたいと思うなら、磨くべき重要な力だと思う。それはサッカー選手だから、アスリートだからというのではなくて、あらゆる仕事をしている人に当てはまるはず。思うようにいかないことにぶち当たったとき、原因を察知する力。上司から自分が求められていることを察知する力。目標へ到達するためにやるべきことを察知する力。周囲の変化を「察知」して、臨機応変に対応できれば、状況や環境は変わっていく。空気を読むというのは察知することであり、それは人を思いやり、他人の気持ちを感じる力でもあると思う。

どんなに困難で、たとえぶつかって砕け散ったとしても、”ぶつかった”ことで得るものがあるから。

歯が立たない、自分はまだまだだと思えたら、それはそれで素晴らしいことだと感じている。だって、課題が見つかったってことだから。ラッキーだと感じる。その課題を克服すれば、「また自分の引き出しが増えるな」と。僕はそういう思いをしたくて、ヨーロッパに来たといっても過言ではないから。

悔しいと思ったら、また強くなれると思う。

『落ちている』というふうに思う人がいても、それは間違いじゃない。僕自身でそれを実感することも確かにある。まだまだうまくなりたいし、環境が変われば、新しいものを身に着けなくちゃいけない。自分の身体も確実に変わっているからそれに応じたプレー選択も必要になってくる。そういう意味での進化を求めているし、進化しなくちゃいけないと考えている。

妥協してこなかったから、今の自分がある。

ちっぽけな戦術や対策じゃ歯が立たない。ほとんどのチームは「その時の世界最高の選手を集めました」っていう感じなんだけど、バルサはちょっと違った。彼らは単なるパスサッカーをやってるんじゃなくて、すごく染み付いてる。文化としてのサッカーがね。そう。まさに「美しく勝つ」って感じですね。

ベスト4なんて無理だと言う人はいるけど、それに向かっていく過程こそが大事なんだと思う。

僕はもがく。このまま終わるわけにはいかない。

ボロボロになるまでやる。

ふてくされる時間が一番無駄だ。その時間が生み出すいいことなんて、何ひとつない。

努力したことは、無駄にはならない。

■中村俊輔(サッカー)とは?

中村俊輔。

1978年生まれ、神奈川県横浜市戸塚区出身。

横浜市瀬谷区で男4兄弟の四男として生まれた。

3歳でサッカーボールを蹴りだした。

4歳の時、一家は横浜市戸塚区に引っ越した。

幼稚園の体操教室では古沼貞雄にも教えを受けた若林可夫の指導を受けた。

1985年、深園FCに入団し、サッカーを始める。

1991年4月横浜市立深谷中学校に入学、倍率50倍のセレクションに合格し日産のジュニアユースに所属し、2度の全国制覇を経験したが、ユースへの昇格が出来、1994年に桐光学園高校へ進学しサッカー部に入部、1年生次には雑用も経験した。

2年生次には第74回全国高等学校サッカー選手権大会に出場し、3年生次には第75回全国高等学校サッカー選手権大会で準優勝を果たした。

1996年、AFCユース選手権1996の日本代表に選出され、6試合に出場しカタール戦では1得点を決めた。

1997年、横浜マリノスに加入する。

1997年シーズンのJリーグ優秀新人賞を受賞。

1998年初頭にはフル代表合宿に初参加した。

2月15日のオーストラリア戦で岡田武史が監督を務めるフル代表に初招集されたが、このときは試合に出場することはできなかった。

同年12月にはアジア大会U-23日本代表に選出され、クウェート戦で1得点を決めた。

1999年、シドニーオリンピック予選では司令塔に抜擢された。

1999年のシーズンから、10番に背番号を変更した。
またこのシーズンにはJリーグベストイレブンを初受賞。

マリノスの2000年のシーズンは、22歳でJリーグ最優秀選手賞、日本年間最優秀選手賞を受賞した。

2000年、U-23代表に選出され、シドニーオリンピックにて4試合に先発出場した。

2月13日には、AFCアジアカップ2000 (予選) のシンガポール戦でフル代表として初出場し、同月16日にブルネイ戦にてフル代表初得点を決める。

アジアカップ本戦では優勝とベストイレブンを受賞した。

2002年5月、2002 FIFAワールドカップ日本代表への招集が有力視されていたが、代表合宿で痛めていた足首のケガが長引いたことや、当時の日本代表監督であったトルシエの選考基準に合致しなかったことなどで落選した。

ケガが癒えた直後の同年7月、イタリアのセリエAのレッジーナに移籍、レギュラーを確保しプレースキッカーを任され、7得点をあげてセリエA残留に貢献した。

2003年6月、ジーコが日本代表監督になると再び招集され、FIFAコンフェデレーションズカップ2003で、3得点をあげ『ブロンズシューズ賞』を受賞。

2004年7月、8月に行われたアジアカップ中国大会では、最優秀選手に選ばれた。

セリエA3年目となる2004-2005シーズンは、終盤数戦こそ恥骨炎や膝の負傷などで途中出場があったがほぼスターティングメンバーとして戦いクラブ創設以来の最高順位に貢献。2005年3月にはガゼッタ・デロ・スポルトからレジーナの歴代ベストイレブンに選出された。

同年6月、FIFAコンフェデレーションズカップ2005で、1得点2アシストをあげベストイレブンに選出。
セルティックFCの監督、ストラカンにプレーを高く評価されセルティックに移籍することとなった。

セリエAで3年間プレーした後、2005年7月に、スコティッシュ・プレミアリーグのセルティックへ移籍。

リーグ優勝と国内カップ戦優勝の2冠を獲得した。

2006年9月、2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグに初出場する。

グループリーグ第1戦、オールド・トラッフォードで開催されたマンチェスター・ユナイテッド戦でフリーキックによる得点をあげ、UEFAチャンピオンズカップからUEFAチャンピオンズリーグに改編されてからの日本人初得点者となった。

続く対マンチェスター・ユナイテッド戦でもFKから得点、決勝トーナメント進出を果たす。

2006年10月14日、ダンディー・ユナイテッド戦で海外リーグ戦における自身初のハットトリックを決めた。

2007年4月、セルティックのリーグ戦連覇が決まり、実質日本人で初めて欧州リーグで連覇を経験した選手となった。

2006-07シーズンではリーグトップの12アシストを挙げ、スコットランドPFA年間最優秀選手賞、スコティッシュ・プレミアリーグベストイレブン、スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞を受賞、年間ベストゴール賞も獲得した。

アジア人の選手による欧州リーグでのMVP獲得は初となる快挙でもあった。

2009年6月22日、横浜F・マリノスなどのオファーを断り、スペイン1部リーグのRCDエスパニョールへの移籍が決定した。

2010年2月28日、かつて所属した横浜F・マリノスに移籍が決まった。

2011年1月、中村俊輔のキャプテン就任。

2013年は自身初のリーグ年間2桁得点を記録、またJ1第30節大分戦では通算17点目となる直接フリーキックを決め、遠藤保仁が持っていたJ1のフリーキック最多得点記録を更新。

その年のJリーグアウォーズでは史上初の2度目のそして2016年現在最年長でのMVPを受賞した。

2017年1月磐田へ移籍。

シーズン30試合5得点を挙げ、昨季13位で残留争いをしていたチームを6位でシーズンを終えるなど加入一年目からチームの中心選手として活躍した。

2019年7月11日、横浜FCに移籍することが発表された。

10試合に出場し、チームのJ1昇格に貢献した。

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