新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
■葛西紀明(スキージャンプ)名言集
小3でジャンプを始めた時、初めて登ったジャンプ台の高さに怖さを感じました。でも、「どのくらい飛べるのかな?」とワクワクもした。結局、その気持ちは今も変わらず、「どのくらいいけるかな?」と心が躍ってしまう。誰よりも遠くにきれいに飛び、飛距離を出すことに快感を覚えています。
今までやってきた蓄積というか、若い頃のトレーニングが実になっている。
スランプ脱出のカギは、柔軟な思考で、自ら変化しようと努めること。そして、自分を信じて、目の前のことに愚直に取り組むこと。
誰が勝ってもおかしくない状況で銀メダルを取れた。自分をほめたい。自分の力ずくで取ったメダルなので20年前とは比べものにならないくらいうれしい。金メダルを取って本当にレジェンドと呼ばれたかったが、また金メダルという目標ができた。諦めずに頑張りたい。
一緒にメダルを獲るならこいつらだなと思っていた。日本にいる時も一緒にごはんを食べて、どんちゃんして、心が通じ合った仲間。絶対にメダル獲らせてやりたかった。
生来の負けず嫌いなので、悔しい経験はなかなか忘れられないですね。今も、長野のジャンプ台に行くとあのとき。ただ、その悔しさや「勝ちたい」という気持ちが自分を奮い立たせてくれるのも事実。そうしてトレーニングをすれば、それが確実に実力アップにつながり、自信ややる気につながっていきます。
何をやっても結果が出ないのは、自身の思考にとどまっているせいだ。であれば、柔軟な思考で、ゼロベースから新しいことにチャレンジするしかない。
つらいときはもちろんありますが、「練習しなければ勝てない」「強い選手はもっと頑張っているぞ」と自分に言い聞かせながらやっています。でも、「つらいこと」も実は好きなんですよ。練習しながら「つらい」と思うと、「でも、これが成績に、勝利につながるんだ」と思えば嬉しくなるし、やる気も出ます。
過去のやり方を棚上げし、心機一転、環境を変えることを決めた。
ソルトレイクシティオリンピックが散々な結果に終わりました。それは、「もう、自分にはこれ以上進歩はないかもしれない」と、すっかりモチベーションを失ってしまうほどの挫折でした。しかし、打ちのめされたことで、もう一度ゼロからやり直そうという気持ちになり、新しいものを受け入れてみる気持ちになったのです。それ以降は、モチベーションを良い状態で保ち続けられています。「やる気が出ない」という人ほど新しいことに目を向けてチャレンジしてみてほしい。
自分がしっかり準備をし、心身ともにいいコンディションを保っていないと運も回ってこない。
理不尽だなと思うことはしょっちゅうです。実際に、風のせいで何度も泣かされました。「なんで、前の選手まではいい風だったのに、自分のときは変わるんだ」と。でも、そのたびに、「いつかいいときが来る」「きっと、オリンピックのときに来るぞ」と自分に言い聞かせてきました。そうすると本当に、大舞台で自分のときに急に風向きが良くなったり、「我慢して良かった」と思う瞬間がやって来るのです。ソチでメダルを取るまで、22年もかかりましたが、チャンスを信じる気持ちを失わなかったからこそモチベーションを維持できたのだと思います。
レジェンドといっても、オリンピックの金メダルがない。それを取ってから、僕のほうから「レジェンド葛西」だと言いたいなと思っています。
長野五輪以降、スキー板やジャンプスーツの規定など、日本人に不利だと言われた大幅なルール改正がありました。でもそれを批判しても何も変わらない。どう対応すればベストか考える「探究心」が大事です。私はこれが得意で、いつも楽しみながら考えています。
ジャンプは一瞬で終わる競技だけど、飛び終わったあとには肉体的にも精神的にもすごく疲れるんです。もし一日中ジャンプのことばかり考えていたら、身体より先に頭が疲れてしまって、やりたいこともできなくなってしまいます。ですから、競技が終わったらできるだけジャンプのことを考えないようにしています。時間があるときは温泉やショッピングに行ったり、おいしいものを食べたり、リラックスして過ごします。そうすればトレーニング中にもやる気を維持できるし、試合のときには集中できます。努力を続けることは大事ですが、その一方で頭と心をリフレッシュさせることも必要。そのほうが、モチベーションが続くと思います。
私は頑固な性格で、考えを曲げないタイプ。でも、どん底まで落ちた私は、コーチの提案を受け入れるしか復活の道はなかった。積極的に自分を変化させようと努めた結果、思考がかなり柔軟になり、前向きになりました。
以前はまったく休むことなく、ハードなトレーニングをしていました。2002年のソルトレイクオリンピックは体もメンタルも一番鍛えて臨んだけれど、成績は最悪。ガツガツやっても成績に結びつかなかったんですね。次の年にフィンランド人のコーチに出会い、練習の間に犬ぞりに乗るなど、リフレッシュを取り入れるように。余計なことをやりすぎず、体というよりは頭の中を疲れさせないようにした結果、ジャンプの成績に活かされましたね。休みを入れたり、そういったケアも必要なんだとわかってきました。
ジャンプ競技は、重心の位置や姿勢、タイミングなどを数秒間で考えなければならず、かなり頭が疲れるスポーツです。疲れた状態が続くといい思考は生まれず、いいジャンプにもつながりません。定期的に脳をリセットすることで、新たな思考が生まれやすく、集中力も増します。
フィンランドで合宿をした時の休養日は、ただ休むのではなく、夏はバギーに乗り、冬はスノーモービルや犬ぞりに乗って皆で楽しみました。それまでは、四六時中、ジャンプ競技のことだけを考え、午前・午後・夜もトレーニングしていないと不安でした、しかし、ジャンプから離れて息抜きをすれば、脳が覚醒されるように、頭がシャキッとした。これは新たな発見でした。
昔は質より量だったが、30歳を超えてからは量より質に変えた。
私も何度か経験しましたが、調子が悪い時ほど、トップ選手のフォームのマネをしたくなる。しかしそれは、すべての歯車を狂わせ、自分のベースを崩す場合があります。ベースとは、子供の頃から慣れ親しんでいるテイクオフ動作といった、自身の土台となる長所です。変えていいのは、目線や飛び出した時の方向、空中での体勢など。まずは自分のベースを知り、それは変えずにトップ選手のいいところをうまく取り入れるといった「取捨選択能力」と、「対応力」が大事。
コンスタントに結果を出すコツは、心技体のコンディションを安定させること、自身のベースを崩さないこと。
所属していた地崎工業のスキー部が廃部(1998年)になることを聞かされた時は、まさかこんな大きな会社が、と驚きましたが、まだ20代の前半でしたし、結果も残しているのだから、他の受け入れ先もあるだろうと。そしてマイカルが新たにスキー部をつくって、地崎のメンバーも数名一緒に受け入れてくれました。ただ、後にこのマイカルも破綻(2001年)して、もう一度所属チームがなくなるという経験をしました。
応援してくれる人や、不景気の中、スキー部を作ってくれた会社に金メダルを取って恩返ししたい。だからモチベーションが落ちない。自分の能力プラス努力してきたことが7大会連続につながっていく。
私が所属する土屋ホームの経営方針発表会が11月にあるのですが、そのときに手帳が支給されるんです。それに毎年、目標を書き込んでいます。大事なのは、できるだけリアルに書くことです。たとえば、『この大会で何位に入る。すると、これだけの賞金が手に入るので、そのお金で新しいテレビを買う』といったことまで書き込んでいます。実際に先日、賞金でテレビを買いましたよ。書くことによって目標は『計画』に変わり、モチベーションがアップします。すると、ちゃんと思い描いたように叶っていく傾向があるのです。ソチオリンピックでメダルを取ったときがまさにそうでした。事前に、『2本目を飛んだあと、ブレーキングトラックで1位の結果を見て、号泣する』というところまで手帳に書き込んでいたのです。実際にあの舞台でそれが現実になりました。ただ、わずかなポイント差で2位になってしまったので、そこだけが書いたとおりにならず、悔しいのですが……。ただ、書いたからといって簡単に実現できることではないとわかっているので、もちろんそれに向けて努力はします。
現在の所属先である土屋ホームに入社し、朝礼で「成功への十訓」という社訓を、声に出して唱えていました。その中に、「逆境こそ天が自分に与えた最大のチャンスである」という言葉があり、それが心に染みました。度重なる試練が訪れても、その言葉が自分を支えてくれた。
【成功への十訓】(土屋ホーム)
①もののみかた、考え方を変えると人生が変わる
②信念暗示など、心の戦時意識を活用せよ
③夢をみ、目標をたて現在に最善をつくせ
④逆境こそ天が自分に与えた最大のチャンスである
⑤良い本、良い人、良いものに積極的に接せよ
⑥数字、時間、他人、自分に強くなれ
⑦専門知識または超一流のものを何かひとつ身につけよ
⑧人生成功すべてのものに先人の知恵と汗とで作り上げた公式がることを知れ
⑨常に問題意識を持ち、なすべきことを知り、それをなし遂げる根性を持て
⑩自分の立場や環境に監査の念を持ち現状改革にたゆまず挑戦せよ
【目標を達成するために大切なこと】(土屋ホーム)
①目標は、自分が心から欲している願望であり、その願望に確固とした信念を持つこと
②明確な目標、実現可能な目標であること、やりがい、生甲斐のある目標であること
③個人、家庭、会社の総合的な目標設定をすること
④目標は長期と短期、有形と無形に分けられる
⑤目標を設定したら、必ず紙に書くこと
⑥身近な欲求からスタートさせること
⑦毎日見て、声に出して読むこと
⑧行動は継続か、習慣化させる
⑨達成したときのことを絵や写真などでイメージ化する
⑩信じて疑わない
僕のジャンプ人生を振り返ってみれば、95%以上は負けているんです。でもその悔しさより、勝った時の嬉しさの方が数倍も数十倍も大きいんです。だからまたそれを味わいたくて続けているんです。
自分の能力をずっと信じてきたこと。「天才」と言われましたが、天才というのは練習しなくても飛べるみたいな、そんな感じだと思います。そう言われながらも、隠れてしっかりトレーニングをしました。しっかり感謝の気持ちを持ちました。天狗にならずに、「なんで自分はこんなに性格が良いのだろう」という感じで思っちゃっています。そういうのも全部入ったものなのじゃないかなと。
負けたくない気持ちだと思います。負けるからこそ勝ちたいって気持ちになります。小さい頃からたくさんのライバルもいて、モチベーションもありました。妹の病気、母親の死もありましたが、たくさんの方に支えてもらいました。
妹や母にも、「やっと納得するメダルが取れたぞ」と報告したいです。母はもう亡くなっていますが、妹はいまも入院して辛そうな状況です。僕がこういう目標を追いかけることで、妹にも頑張って生きてもらいたい。そうして、僕も家族も、応援してくれる会社やファンの皆さんも、それぞれ自分の人生の花を咲かせられたらいいですよね。
後から母が書いた日記が出てきましてね、それを開くといつも涙が出ます。「死にたい」みたいなことも書いてあるし、妹のことや僕のことも書いてありました。また、入院中、手も握れないくらい辛い状態の中で、長野五輪前のスランプに陥っていた僕に手紙をくれました。そこには震える字でこう書いてありました。「いまこの時を頑張れ。絶対におまえは世界一になれる。おまえがどん底から這い上がってくるのを楽しみに待っているよ」自分が何か壁にぶつかった時は、いつも家族のことを思ってきました。
僕にはどうしても金メダルが欲しい理由があったんです。5歳年下の妹が前年に高校に入学してすぐ、再生不良性貧血という難病で倒れ、入院治療を続けていました。当時のインタビューでも「金メダルを取ってすりつぶして飲ませたら、病気がよくなるんじゃないか」と言っていたくらいですから、金メダルを取ることが妹を元気にする道だと思っていたんですね。だからこそ、次の長野五輪(1998年)は「今度こそ金メダル」と思い4年間努力しましたが、直前のW杯で捻挫したこともあり、代表には選ばれたものの、団体メンバーの4人に入ることはできなかったのです。あの時、日本チームはリレハンメルの雪辱を果たし、金メダルを獲得しました。その様子を会場から見ていて、なぜ自分がその歓喜の輪の中にいないのか。そう思うと、その場にいることがいたたまれなかったですね。あの歓喜のシーンがテレビで放映され、長野にトレーニングに行くたびに駅に写真が飾ってある。それを見るたびに「チクショウ!」と思いながら練習してきました。その悔しさを忘れずにモチベーションにしていけることは、自分の中ではいいことじゃないかなと思っています。
いまこの時をがんばれ。絶対におまえは世界一になれる。
向かい風が一番いいです。
自分の夢は努力で叶える。
■葛西紀明(スキージャンプ)とは?
葛西紀明。
1972年生まれ、北海道上川郡下川町出身。
札幌オリンピックが開催された1972年に下川町で生まれ、同郷の嶋宏大や岡部孝信らの後を追うように10歳でジャンプを始める。
すぐに才能を発揮し雪印杯全日本ジャンプ大会ジュニアの部などで優勝を重ね、中学3年時には宮様スキー大会のテストジャンパーとして成年組と同じ助走距離で優勝した東昭広の飛距離を上回るなど逸材として注目を浴びた。
東海大四高校1年時の1988/89シーズン、11月に札幌で開催されたスキージャンプ・ワールドカップに16歳6ヶ月の史上最年少 (当時)で初出場。
1月には第28回STVカップ国際スキージャンプ競技大会で国際大会初優勝。
さらに当時の中村圭彦ジャンプ部長による抜擢で、2月にラハティ ( フィンランド) で開催された1989年ノルディックスキー世界選手権に16歳8ヶ月の日本人男子史上最年少出場。
高校2年生時の翌1989/90シーズンからワールドカップに本格参戦し、12月9日のレークプラシッド大会で初の一桁順位となる9位に入り、翌12月10日にそれを更新する7位。
1991年に秋元正博らが所属する地崎工業 (現岩田地崎建設)に入社した。
ちょうどこのシーズンはV字スタイルへの移行期に当たり葛西も習得に手間取った。
クラシカルスタイルで挑んだ1991/92シーズン前半のW杯では札幌・大倉山大会で6位に入るなど前シーズンの不調から脱していたが、1月に日本ナショナルチーム全体の方針としてV字スタイルに転向してから五輪初出場した2月のアルベールビルオリンピックではノーマルヒル31位、ラージヒル26位と振るわなかった。
しかし、V字スタイルに慣れると再び成績も上昇し、2月29日に行われたワールドカップラハティ大会で3位に入り初めて表彰台に登ると、3月4日のエルンシェルツビク大会では自己最高を更新する2位。
さらに3月22日にハラホフで開催されたスキーフライング世界選手権で金メダルを獲得し、19歳9ヶ月のワールドカップ日本人最年少優勝記録を作った。
スキーフライング世界選手権でのメダル獲得は日本人初、日本国外開催のW杯優勝は1980年3月の秋元正博以来12年ぶり2人目である。
1992/1993シーズンは、年末年始のスキージャンプ週間では第1戦オーベルストドルフで3位、第2戦ガルミッシュ=パルテンキルヒェンは、ジャンプ週間では1971/72シーズンの笠谷幸生以来となる優勝を達成、第3戦インスブルックで3位、第4戦ビショフスホーフェンで2位と、4戦すべてで表彰台に登り、総合でもオーストリアのアンドレアス・ゴルトベルガーと激しく優勝を争い、総合2位となった。
このシーズンはV字スタイルを完全に習得し、シーズンスキー板よりも身体を前に放り出す深い前傾姿勢と、前述のジャンプ週間を含むW杯3勝をあげて総合3位となった活躍からジャンプの本場・欧州では「カミカゼ・カサイ」の異名を放つ。
1993/1994シーズンは日本国内では大倉山ジャンプ競技場のバッケンレコードを大幅に更新するなど圧倒的な成績を残した。
スキージャンプ週間は2度表彰台に立ち総合4位。
ワールドカップでも1月9日のムーラウ大会で秋元正博を抜いて日本人単独1位となる通算5勝目をあげた。
2月のリレハンメルオリンピックではノーマルヒルで5位入賞。団体戦で銀メダルを獲得した。
1997/1998シーズンは11月29日のワールドカップリレハンメル大会で3位に入り、その後も一桁順位を続ける幸先の良いスタートを切ったが、12月30日にチームで興じていたサッカー中に原田雅彦にたまたま足を蹴られ、左足首捻挫を負う。
長野オリンピックでは、2月11日の個人ノーマルヒルでは7位入賞を果たすも、2月15日の個人ラージヒルでは上記の怪我の影響もあって出場メンバーから外され、さらに翌16日に発表された団体メンバーからも外される。
だが個人入賞ということもあって、直後のテレビ番組や式典では金メダルを獲得した団体メンバーとともに出演するなど悔しい思いをする。
その後、3月に行われたワールドカップでは22日のプラニツァ大会で4シーズンぶりの優勝を果たすなど3度表彰台に登り復活した。
同月には所属していた地崎工業のスキー部が廃部となり、マイカルへ移籍した。
1998/1999シーズンはジャンプ週間で第3戦インスブルックでの優勝を含む3度表彰台に登り、フィンランドのヤンネ・アホネン、ドイツのマルティン・シュミットらと総合優勝を争い、1992/1993シーズン以来の総合2位入賞。
ジャンプ週間を含むワールドカップでは6勝をあげて自己最高タイの総合3位に入った。
1試合平均の獲得ポイントは55.28で、これは現スコア方式の1993/1994シーズン以降では自己最高である。
ラムサウで開催された世界選手権にも3大会ぶりに出場し、団体戦で自身初のメダルとなる銀メダルを獲得した。
2001/2002シーズンは、10月に所属していたマイカルが廃部したため土屋ホームに移籍。
2002/2003シーズンは1月までのワールドカップでは2度の9位が最高だったが、2月9日のヴィリンゲン大会で優勝を飾ると、直後にヴァル・ディ・フィエンメで開催された世界選手権で初めて個人戦のメダルを獲得。
団体戦の銀メダルと合わせて出場全種目でメダルを獲得した。
2003/2004シーズンはワールドカップ序盤より度々シングルを記録し、1月25日の札幌大会でシーズン初表彰台となる2位。
2月28日にパークシティ大会で優勝し、31歳7ヶ月の最年長優勝記録を樹立した。
シーズン総合でも3シーズンぶりの一桁順位となる8位。
2005年、マッチ・ニッカネンらを指導したフィンランド人のカリ・ユリアンティラが、日本チームのヘッドコーチに就任。
2006年トリノオリンピックでは全種目に出場。
世界選手権では2007年札幌大会、2009年リベレツ大会で団体戦の銅メダルを2大会連続で獲得。
2009年4月6日、所属する土屋ホームスキー部の監督に就任することとなり、日本スキー界としては異例となるプレーイング・マネージャーとなった。
2010年2月、6大会連続出場したバンクーバーオリンピックでも全種目に出場。
ラージヒル個人では、1本目121.5mの21位から2本目に135mの大飛躍で順位を上げて8位入賞。
団体ではアンカーを務めて5位入賞。
2010/2011シーズンは、開幕の団体戦で3位に入った。
個人戦の最高成績は1月23日ザコパネ大会での5位。
2013/2014シーズン、12月15日のワールドカップ・ティティゼー・ノイシュタット大会で3位入賞し、W杯史上最年長での表彰台入りした。
年末年始のジャンプ週間で4戦全てで一桁順位に入り総合5位となった後、2014年1月11日、バートミッテルンドルフで行われた個人第13戦スキーフライングで10シーズンぶりに優勝し、スキージャンプ・ワールドカップ史上最年長優勝を達成した。
翌12日の個人第14戦スキーフライングでも3位、25日の個人第17戦札幌でも3位に入り、スキージャンプ・ワールドカップ史上最年長表彰台記録を更新した。
2月のソチオリンピックでは夏季・冬季通じて史上最年長で日本選手団主将を務める。
2月9日、最初の競技となったノーマルヒル個人では、1本目101.5mで、1回目首位のカミル・ストッフと10.8点差、3位のペテル・プレヴツとは3.6点差の131.2点の8位で2本目に進んだが、2回目に上位陣を上回ることが出来ずそのまま7位で終了した。
同月15日に行われたラージヒル個人では、1回目139mを飛び、飛距離は1回目1位のストッフと同じだったが、着地で後ろ足がやや流れた葛西の方が飛型点が1.5点低く、また向かい風による減点も葛西の方が大きかったために、計2.8ポイント差の2位となり、2回目は133.5mを飛びストッフの距離を1m上回ったことで、2回目のポイントだけならばストッフを上回ったものの、1回目の得点差を覆すまでに至らずそのまま2位に終わる。
それでも、1994年リレハンメルオリンピックでの団体銀メダル以来20年ぶり、個人としてはオリンピック7度目の出場で初のメダルとなる銀メダルを獲得した。
日本ジャンプ勢のオリンピックでのメダル獲得は1998年長野オリンピックでの船木和喜・原田雅彦以来16年ぶりのことであり、41歳254日でのメダル獲得は、冬季五輪に於ける日本人最年長記録となったほか、冬季五輪ジャンプ競技に限れば1948年サンモリッツオリンピックに於いて「36歳168日」で銀メダルを獲得したビルゲル・ルート以来約66年ぶりの世界最年長記録更新となった。
同月17日、清水礼留飛、竹内択、伊東大貴と出場した団体ラージヒルでも銅メダルを獲得した。
団体での合計得点はメダル獲得チームの選手中で最高だった。
2014年4月1日、1992年アルベールビルオリンピックから2014年ソチオリンピックまでの計7回の冬季五輪最多出場記録、2014年1月11日に41歳219日で達成したワールドカップ最年長優勝記録、同年2月17日に41歳256日で達成した冬季オリンピックスキージャンプ競技最年長メダリストの3つの記録がギネス世界記録に認定された。
2014/2015シーズン、11月22日のW杯シーズン開幕戦のクリンゲンタール大会団体戦で準優勝すると、翌日の個人第1戦でも6位に入る幸先の良いスタートを切った。
28日にルカで開催された第2戦で3位に入り、シーズン初表彰台入り。
この試合では伊東大貴も2位に入っており、日本勢のW表彰台は2006年1月の札幌大会以来となった。
翌日の第3戦では1本目で最長不倒の145mでトップに立つと、2本目は風に恵まれず131.5mだったがトップは譲らず、スイスのシモン・アマンとの同点で通算17勝目をあげ、自身の持つW杯最年長優勝記録を42歳5か月に更新した。
世界選手権後のW杯で復調し、第29戦ホルメンコーレンスキー大会で2位になり最年長表彰台記録を42歳282日に更新。
最終的に総合成績で6位となり2シーズン連続のトップ10入りを果たした。
2015-16シーズンは11月22日にクリンゲンタールでのW杯個人開幕戦で5位スタート。
その後は調子が上がらなかったため今季は表彰台獲得は厳しいと感じていたが、12月19日の第6戦エンゲルベルク大会では1本目12位ののち、2回目のジャンプでプレヴツ兄弟に続く3位に順位をあげ、シーズン初表彰台入り。
ジャンプ週間は第1戦オーベルストドルフでの5位が最高で全4戦の総合では日本人トップの7位となり、3シーズン連続でトップ10入りした。
FISスキーフライング世界選手権で5位入賞をしたのち、1月31日のW杯札幌大会から3戦連続の3位入賞を達成。
3月4日のヴィスワ大会でも3位に入り、自身の持つW杯最年長表彰台記録を43歳272日に更新した。
3月17日の第27戦プラニツァ大会スキーフライングで、出場試合数がW杯個人で史上初めて500試合に到達。
また、シーズン中の2月にスキー界で最も権威がある賞の一つと言われているホルメンコーレン・メダルを受賞した。
2016-17シーズン、11月25日に行われたルカでのW杯開幕戦は18位。
1月4日に行われたジャンプ週間第3戦インスブルックで、ジャンプ週間通算100試合出場を達成し、主催者より記念ゼッケンが贈られた。
この試合でシーズン最高の10位となった。
その後は調子が上がらず、ラハティでの世界選手権を含めて表彰台入りできていなかったが、3月19日にビケルスンで行われたスキーフライングにおいて1回目5位につけた後、2回目で2位に順位を上げ、シーズン初表彰台入りし、W杯最年長表彰台記録を44歳9か月に更新した。
次戦3月24日、プラニツァでのスキーフライングでも4位、26日の最終戦で3位となりW杯最年長表彰台記録をさらに更新してシーズンを終えた。
総合順位はトップ10入りは逃したもののこのシーズンも日本勢トップの15位。
2017-18シーズンは小林潤志郎、小林陵侑兄弟が台頭してきたが、全日本選手権ラージヒルで2人を破り優勝。
W杯は12月10日のティティゼー・ノイシュタット大会で10位となりシーズン初のトップ10入り。
ジャンプ週間は不振だったが、1月13日に開催されたバート・ミッテルンドルフ大会スキーフライングで今季最高の5位となった。
平昌オリンピック開会式で日本選手団の旗手を務めた。
2月10日のノーマルヒルでは104.5m, 99mで21位。
17日のラージヒルは121mと伸び悩み、2回目に進めず33位だった。
W杯シーズン個人総合は26位で、日本勢では3番目だった。
2018-19シーズンもW杯メンバーに選出。
12月16日の第7戦エンゲルベルク大会で30位に入り、今シーズン初めてW杯ポイントを獲得した。
この試合以外は不調でポイント獲得できない試合が続いていたが、1月27日の第16戦札幌大会でシーズン自己最高の7位に入り、W杯史上最年長トップ10入り記録を更新した。
所属チームの教え子、小林陵侑が日本人男子初のスキージャンプW杯総合優勝を達成した。
2019-20シーズンはサマーグランプリ白馬大会でポイントを得られず、夏のコンチネンタルカップに初めて参戦した。
W杯メンバーには開幕戦から選出されたが、5試合連続でポイント獲得がならず、ジャンプ週間への出場を逃しコンチネンタルカップに回った。
W杯札幌大会では1日目予選敗退、2日目36位で終わり、W杯本選は3試合出場にとどまり、ポイントを得ることができずシーズンを終了した。