普通や一般的ってなんなんだ?~鈴木みのる(プロレス)名言集と軌跡~


新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

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Contents

■鈴木みのる(プロレス)名言集

もうやめちゃおうかなって考えた事は、何回もありますよ。でも、15歳の頃に抱いた夢がまだまだ叶っちゃいなかったから、やめられなかった。

高校時代の一番の思い出は「悔しい」です。高校3年生の時の国民体育大会の決勝で負けたんです。直前の練習試合までは余裕で勝っていた相手に負けちゃったんですよ。日本一になることを目指して横浜高校に入ったのに。2位でもすごいじゃんって言われても悔しくて仕方がなかった。恥ずかしい。

俺は新日本の新人の頃、『1日でも早く強くなりたい!』と思っていた。だから、とにかく強くなるための練習がしたくて。そのためにはスクワットとか基礎体力運動も大事だけど、そんなことよりスパーリングやって、相手を参ったさせられるようになりたかったんだよね。でも、当時の先輩方に『スパーリングお願いします!』って言っても、みんな嫌がってやってくれなかったんだよ。あの頃、そういうスパーリングの強さを求める人は、みんなUWFに行っちゃってて、『そんなのはプロレスに関係ないから』っていう人が多かったんで。すごくガッカリしたんだけど、その中でライガーと船木(誠勝)は、逆に『来いよ!』ってスパーリングやってくれたから、俺にとっては大事な存在だったね。俺が当時思い描いていた“新日本”を体現していた先輩がライガーだったような気がする。それで毎日一緒にスパーリングしながら仲良くなっていったんだよ。

1988(昭和63)年の6月23日に横浜文化体育館でやらせてもらって。入場してリングに上がったら女の子4人が花束を持って並んでいたんです。パッて見たら全員同級生で、これは仕組まれたなと。しかも、中学1年生の時に俺が告白してフラれた子、あれは2年生の時・・・って、フラれた子が全員そろっていたんですよ(笑)。超びっくりした。彼女だったらまだいいですけど全員フラれた女じゃん、マジ勘弁してくれよ。俺の黒歴史をリングに上げるんじゃないよ! みたいな(笑)地元なので鈴木みのる応援団が300人も来てくれて、もう大騒ぎでしたよ。デビュー戦は負けましたけど悔しさはなかったですね。それよりもデビューできたことにほっとした感じです。やっとスタートできたって。

夜中に道場でフルフェイスのヘルメットを被らされて、俺がライガーと船木の人間サンドバッグになってたんだよ。要は掌底や浴びせ蹴りなど骨法で習った打撃技の実験台なんだけど、新弟子で俺一人、そういう強くなるための練習の相手をさせてもらうっていうことが、なんか特別なことのような気がしたんだよ。べつに実験台になったところで、自分が強くなるわけじゃないんだけど。スパーリングすら『そんなのプロレスに関係ない』って言うヤツが多かった中で、強くなるための練習に呼ばれるってことがうれしかったんだ。

国際軍団が新日本に来たことがあるんですよ。3人に対して、猪木さんは1人で闘った。そのときにドはまりしました。『勝てるわけねーじゃん』と思って、実際、勝てなかったんですけど、勝てなかった方にオレは惹かれたんです。カッコいいと思ったんですよね。それからは猪木一筋ですよ。

何かを教わった、という感じではないんですよ。これとこれを覚えなさい、というやり方ではないので。『ブリッジやってみて。ここから沈んでいくんだ。ああ、スズキはできない。OK、OK、次やろう』という感じですね。できないことを一切、咎めないんですよ。それが余計に悔しくて。その時に、全部、一発でできたのが、船木(誠勝)なんです。悔しくてしょうがなかったですけど、レスラー人生の前半は船木とともにいた時間なので、彼がいなかったら僕はここまで頑張れなかったかもしれないですね。

ライガーと試合をやってみて、それまで振り返ることのない生き方をしてきたのに、振り返ったんです。プロレスの最先端まで行ったつもりだったんですよね。けど、ふと振り返ったら、見たことのない世界だらけだったんです。そこに一歩でも戻ることは、仲間を捨てることになる。悩んで、悩んで、もう一度挑戦のつもりで戻りました。そこで初めてレスラーになれた気がしましたね。海外武者修行ってあるじゃないですか。オレは”格闘技武者修行”をしてたんじゃないかなと思います。

必死に現代の技をやろうとしていたんです、溶け込みたくて。他の選手がやる技をやってみたり、受け身の練習をしてみたり。でも髙山は、それがつまらないと言う。技を知らない、受け身が取れない。それが鈴木みのるでしょ、と。だれよりも強いパンチ、だれにも負けないグラウンドテクニック。つまり俺の人生こそが俺の武器だということを教えてくれたのが、髙山なんです。

弱い者は罪なんだよ。

勝ちたい者同士がぶつかって、どちらが勝つのかを見せていくものであって、勝ち負けが関係ないなら勝敗をつける必要もない。もしレスラーで『勝ち負けより、いかに盛り上げるかが大事』なんて言うヤツがいたら、『じゃあ、全部負けろよ』っていう話なんで。なんか価値観がおかしくなってる。『プロレスの面白さは、そういうところじゃないんだ』っていうロジックみたいなことを、格闘技との差別化として使ってるうちに、なぜか自己弁護のための言葉にすり替わってるんだよ。“勝ち負けを競っている”という大前提から逃げる詭弁になっている気がするんだよね。格闘技とプロレスは同じものではないけど、勝ち負けを競っているという大前提を抜かしたら、プロレスがプロレスじゃなくなる。レスラーが『プロレスは勝ち負けじゃない』なんて言ったら終わりだよ。勝つためにリングに上がってるんだから。

俺は自分のことをヒールだなんて思ってないからね。ヒールって悪役のことでしょ? 俺は悪の役なんてやってないから。もしヒールに見えるのであれば、それはオカダ・カズチカ、内藤哲也、棚橋弘至らを応援しているファンから観たら、俺がそう見えるだけ。俺があいつらを痛めつけて、憎らしいから、あいつらのファンが俺に罵声やブーイングを浴びせる。それは俺が生み出したものだから、罵声もブーイングも歓声と同じ意味があるんだよ。だから『黙ってみてろ!』って思いはあるんだけど。残念ながら、俺の試合は黙ったままじゃ見れない。すごい試合を見たら、いくら『声を出しての声援はご遠慮ください』なんて言われても、自然と口から声が出てしまう。俺はそれこそが本当の歓声だと思う。

一円でももらってたら、プロなんだよ。

命をかけて戦った、自分の親友です。普段、人をぶん殴ってるクソ野郎が何を言っても響かないと思いますが、俺なんてどうでもいいんで、高山善廣に勇気をたくさんもらったと思うので、ぜひ皆さん力を貸してください。それと、彼は言いませんがUWFの大先輩の前田日明さん、師匠である高田延彦さん、ぜひ、力を貸してください。よろしくお願いします。

スパーリングに限らず、練習開始のときは、みんなで正座して『よろしくお願いします』で始まり、練習の最後も正座して『ありがとうございました』で終わる。礼に始まり、礼に終わるということを必ずやっていたんだよね。俺たちのやってることって、礼儀を取ったらただの“暴力”になっちゃうだろ?プロのスパーリングっていうのはね、練習とはいえ、先輩後輩関係なく、『極めてやる!』ときには『ぶっ殺してやる!』と思いながら、本気でやるもんなんだよ。でも、そういう本気の練習、本気のスパーリングっていうのは、相手がいるからこそできること。だからこそ、練習が終わると『ありがとうございました!』と、座礼するわけだ。そして俺たちは毎日練習するわけだから、『明日もよろしくな』っていう意味合いもあったりもする。だからあの座礼っていうのは、欠かさなかったよね。

なぜ自分にとって都合の悪いコトや何かあると全部オレ達のせいにするんだ?まぁ…そうすれば自分は傷付かないもんな…全部他人に責任を押し付ければ…って考え方は仕方ないか…でも良く考えてみな?

オレ。オレのなかにいるオレ。『今日くらい、やらなくてもいいんじゃね?これだけ成果が出てるんだから』って、オレをそそのかす奴がいるんですよ。弱い部分の自分ですよね。これに打ち勝つのはすごい大変。でもオレはそれができる。こんなに強い奴、世界中探してもいないですよ。

みんな、”普通は違う”とか、”一般的に言って間違ってる”ってよく言いますけど、普通や一般的ってなんなんだ?って思うしね。”100点目指してやって、普通に一般的に考えて調整すべきところを調整して、70点にまとめました”。ツマンネぇ奴だとしか思わないですよね、小さくまとまっちゃって。何故できないと思うのか? 傷つきたくないからでしょう。そういう人とは話をしていてもつまらない。俺は最初から100点じゃなくて1兆点とか目指しちゃうしね(笑)。もちろん、誹謗中傷は今でもされますけど、無視です。くだらねぇなと思って終わり。そんなことより、俺は自分の夢を叶えたい思いが強い。評価が大きくなれば批判も比例して大きくなるんですよ。

被災者は水と食料で生きてるんじゃない、夢と希望で生きてるんだ。

この小汚ねえ横浜のゴミクズみたいな横浜文化体育館! なくなるなんて……、寂しいじゃねえか。ハハハハ。クソジジイほどの歴史があるこの体育館のわずか小さな1ページに俺の名前が入っている。だから今日、ここへ来た。もうこの文体で試合をすることはない。思い残すことも何一つない。古いものが壊され、なくなり、新しいものをその上にまた建てる。当然のことだ。どんどんどんどん新しくなるぞ。いつまで古いものにしがみついてるんだ!?なくなっちまえ、そんなもん!

俺が興味あるのは常に自分を更新すること。ベストバウトを聞かれたら「次の試合」ですよ。

『今、プロレスで元気を与えるとか言ってもそれは自己満足』ってお前言ったな?確かに水や食いもんは必要だよ。でもそれはな、みんなが一生懸命届けようとしてるんだよ。東北のプロレスファンが以前『立て!杉浦!』って何度も言ってくれたんじゃないのか!?今度はお前が『立て!』ってプロレスで示す番じゃないのか!?拍手なんていらねぇ!オレはお前の発言を聞いて無性に腹が立った。どうしてもこれだけは言わないといけないと思った。お前MVPなんだろ!?お前チャンピオンなんだろ!?どうしたんだよ杉浦!お前がプロレスの力を信じなくて誰がプロレスの力を信じるんだよ!東北にだってプロレスファンはいっぱいいるんだ。そいつらにお前が与えられるのは水じゃねぇんだ、食いもんじゃねぇんだ、プロレスだろ!

■鈴木みのる(プロレス)とは?

鈴木みのる。

本名・旧リングネーム:鈴木実。

1968年生まれ、神奈川県横浜市出身。

横浜高等学校時代はレスリング部に所属。

国体2位という実績を残して新日本プロレスに入門。

1988年6月23日、飯塚孝之戦でデビュー。同年10月22日の飯塚戦で初勝利。

1989年3月、アントニオ猪木と対戦。同月に新日本プロレスを退団し、4月3日にUWFと契約。

1989年5月に田村潔司のデビュー戦の相手を務め、UWFでの初白星。

1991年3月、UWFを退団して、船木らとプロフェッショナルレスリング藤原組へ参加。

1992年10月、東京ドーム大会で、ソウルオリンピックのレスリング金メダリスト:ゴベリシビリ・ダビッドと対戦、裸絞めで勝利。

1993年1月、船木らと共に藤原組を退団。

1993年8月、パンクラスを船木らと共に旗揚げ。

1993年9月21日、パンクラス旗揚げ戦の第1試合にて稲垣克臣にチョークスリーパーで勝利。

1994年5月、武道館大会でスミスと再戦し、3Rに腕ひしぎ十字固めで勝利。U-COSMOSから5年越しの雪辱を果たした。

1995年5月、NKホール大会ではケン・シャムロックを破り、第2代キング・オブ・パンクラシストとなる。

2002年11月、横浜大会で獣神サンダー・ライガーに勝利。

2003年4月にパンクラスのプロレス部門として「パンクラスMISSION」を立ち上げた。

2003年6月13日、日本武道館での成瀬昌由戦より古巣の新日本マットに参戦。

2004年8月17日、初代えべっさんと対戦。1秒で勝利。

2004年11月、IWGPヘビー級王座を懸けての場で念願の佐々木健介との対戦を実現させた。

一方で2004年7月10日、東京ドーム大会よりIWGPタッグ王座を持ちパートナーの高山善廣と共にプロレスリング・ノアに参戦。

2005年1月8日、武道館大会で小橋建太とGHCヘビー級タイトルマッチを行ったが敗戦。

2005年6月18日、丸藤正道と組んで、イギリスまで出向き、スコーピオ、ダグ・ウィリアムス組と戦い勝利、GHCタッグ王座を奪取した。

2006年、佐々木健介の20周年自主興行に参戦。

2006年3月、全日本プロレス大田区体育館大会のメインイベント三冠ヘビー級選手権試合終了後、勝利した小島聡を背後からスリーパーで絞め上げ、参戦を表明。

2006年4月のチャンピオン・カーニバルより全日本を主戦場とした。

2006年6月23日、ウルティモ・ドラゴン主催興行でメカマミーと対戦。9月3日、札幌メディアパーク・スピカ大会で太陽ケアを破り、三冠ヘビー級王座を奪取(第35代)。12月12日のリアルジャパンプロレス後楽園大会では、初代タイガーマスクとシングルで対戦し勝利。

2008年6月17日、後楽園ホールで、鈴木みのるデビュー20周年興行「風になれ」が開催。モーリス・スミスとのエキシビションマッチおよび高山との2度目のシングルマッチを行った。

2009年8月30日、両国大会で、プロレス復帰した船木とタッグマッチで対戦(パートナーは鈴木が蝶野正洋、船木が武藤敬司)。

2009年9月26日、横浜文体大会で、船木とシングルで対戦。感情むき出しで船木に突っかかり、鈴木のレフェリー暴行による反則負け。

2010年4月11日、チャンピオンカーニバル決勝で船木を破り、大会史上3人目の連覇を達成した(対船木戦初勝利)。

2010年5月2日、愛知県大会で浜亮太を破り第42代三冠ヘビー級王者となる。

2011年5月3日、新日本博多大会に来場し、真壁刀義対小島の試合後、敗れた小島を襲撃し、それまで小島と共闘していたTAKAみちのく、タイチと共に、「鈴木軍(仮)」を結成した。2011年6月18日、大阪府立体育会館大会より本格に参戦する。

2014年6月8日、直前の横浜アリーナ大会でCHAOSを裏切り鈴木軍入りした飯塚高史とタッグを組み、矢野・桜庭らとの抗争を開始。

2014年11月9日、中村あゆみとのコラボ興行「あゆみのるPresents”風になれ”フェスティバル」を開催、鈴木軍(鈴木、TAKAみちのく、タイチ組)のボスとして自身に縁のあるGURENTAI(高山、NOSAWA論外、MAZADA組)と闘った。

2015年1月4日、桜庭和志と3カウントと場外カウントなしの完全決着ルールで対戦し勝利し一連の抗争に決着を付けた。

2015年1月10日、プロレスリング・ノア後楽園ホール大会に乱入しノアに参戦開始。

2015年3月15日、丸藤正道を破り第23代GHCヘビー級王座となった。

2016年11月、グローバルリーグ戦優勝。

2017年1月5日、新日本プロレスに再上陸。

2017年4月27日、後藤洋央紀を破りNEVER無差別級王座戴冠。

2018年6月23日から6月24日にかけて、デビュー30周年記念野外フェスティバル『大海賊祭』を開催。初日のメインイベントでオカダ・カズチカと対戦し、30分時間切れにより引き分け。

2020年8月のSUMMER STRUGGLE IN JINGUにて鷹木信悟の持つNEVERに挑戦。ゴッチ式パイルドライバーを決め、NEVER戴冠。

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