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「明治ホールディングス株式会社」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『相馬半治』/沿革・歴史など~

「明治ホールディングス株式会社」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)

「明治ホールディングス株式会社」のグループ理念

 

 

私たちの使命は、 「おいしさ・楽しさ」の世界を拡げ、「健康・安心」への期待に応えてゆくこと。
私たちの願いは、 「お客さまの気持ち」に寄り添い、日々の「生活充実」に貢献すること。
私たち明治グループは、「食と健康」のプロフェッショナルとして、常に一歩先を行く価値を創り続けます。

 

 

 

「明治ホールディングス株式会社」の経営姿勢

 

 

5つの基本

 

「お客さま起点」の発想と行動に徹する。

「高品質で、安全・安心な商品」を提供する。

「新たな価値創造」に挑戦し続ける。

「組織・個人の活力と能力」を高め、伸ばす。

「透明・健全で、社会から信頼される企業」になる。

 

 

 

 

 

 

「明治ホールディングス株式会社」の行動指針

 

meiji way

お客さまの、パートナーの、仲間たちの、「そばになくてはならない存在」であるために

 

お客さまと向き合って、お客さまから学ぶ。

先を見る勘を鍛え、先駆ける技を磨く。

仕事をおもしろくする、おもしろい仕事を創る。

課題から逃げない、やりぬく気概と勇気を持つ。

チームの可能性を信じ、チームの力を活かす。

 

 

 

 

 

 

「明治ホールディングス株式会社」の創業者・創立者『相馬半治』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~

 

 

 

相馬半治(明治創業者)

相馬半治。

 

相馬半治の元の姓は田中であった。

田中家は代々犬山藩(現・愛知県)の家臣であり、半治の父、庵は田中家7代目で家禄59俵。

 

母は尾張藩士加藤平八郎の長女八重子だった。

田中半治は3男として1869年(明治2年)、尾張国丹羽郡犬山町に生まれた。

 

父は明治維新を機会に士族の商法を始めるが失敗、家は困窮を極めた。

半治4歳の時に名古屋市に移り、その後も市内を転々とする。

 

母は半治5歳の時に死んだため、祖母を母代わりに育った。

1876年(明治9年)、半治は家業を手伝いながら地元の新道小学校に入学するが、家計補助のため1883年(明治16年)4月には退学し、15歳で幅下榎小学校の助教となる。

 

1884年(明治17年)に小学教員学術検定試験を受け合格、間々原小学校にて月給6円となる。

1885年(明治18年)陸軍教導団(下士官養成学校)に合格、上京して教導団の歩兵科第3中隊に属する。

 

1886年(明治19年)、陸軍教導団卒業。歩兵2等軍曹として東京鎮台歩兵第1連隊(麻布歩兵第1連隊)付となる。

1888年(明治21年)に1等軍曹。

 

この間にも、東京盛門学校で商業簿記を学び、1889年(明治22年)卒業。

1891年(明治24年)に陸軍を満期除隊となる。

 

1891年(明治24年)、神田区今川小路の敬勝館に入学。

1892年(明治25年)、東京工業学校(後の東京工業大学)を年齢上限ぎりぎりで受験して合格、応用化学科に入学して手島精一に学ぶ。

 

ところが1894年(明治27年)、日清戦争のため第3師団に応召され休学、伊勢山田で伊勢神宮の守備にあたっている。

1895年(明治28年)に復学、1896年(明治29年)に最優等で卒業して東京工業学校の助教授、応用化学科工場長となった。数え27歳。

 

1898年(明治31年)、下斗米(しもとめ)清子と結婚、下斗米半治となる。

1899年(明治32年)手島精一の推薦で、文部省より石油業及び糖業研究のため3年間の海外留学を命じられ、海路で東南アジア、ヨーロッパ、アメリカを回った。

 

主にドイツで各種工場を視察、ノイハルデンスレーベン(ドイツ語版)で住み込みで研修を受ける。

1900年(明治33年)1月にはドイツのブラウンシュヴァイク高等工業学校の化学部に入学、砂糖とその原料について講義を受け、実験室で糖蜜の研究を行った。

 

半治はさらにアメリカに渡り、1901年(明治34年)10月からミシガン大学化学部で砂糖を専攻した。

当初から修士号取得を目指し、1903年(明治36年)4月に終末試験を受験、有機化学、製造化学、分析、冶金について口頭試問をうけ、合格。

 

1903年(明治36年)、東京高等工業学校教授、応用化学科工場長となる。

1906年(明治39年)に姓を下斗米家の本姓相馬と改めて相馬半治となった。

 

1904年(明治37年)、台湾総督府臨時台湾糖務局技師を兼務することになり、冬の製糖期間のみ台湾で技術指導を行うことになった。

1906年(明治39年)、渋沢栄一を相談役、同郷の小川?吉を取締役社長、相馬は専務として明治製糖が設立された。

 

株主は1300株の相馬が筆頭で、500株の渋沢、小川がこれに続いた。

相馬はこれに合わせて東京高等工業学校教授などの官職を辞している。

 

1915年(大正4年)、会長の小川が老齢のため退職し、相馬は47歳で専務取締役社長となった。

相馬は明治製糖の社長に就任すると、経営の多角化に乗り出した。

 

1916年(大正5年)に日本グリスリン工業株式会社(ダイナマイトの主要原料グリセリン、ステアリン酸、オレイン酸の製造)、日本原毛株式会社、大正製菓株式会社を次々と設立する。

東京菓子に合併話を持ち掛け、東京菓子を存続会社として合併を成立させる(資本金250万円、払込資本金62万5千円)。

 

東京菓子は大久保町に本社兼大久保工場を作り、キャラメルやビスケットなどの製造を始めた。東京菓子の設立により、森永製菓は資本金で業界2位となった。

相馬はさらに1918年(大正7年)、ゴム栽培にも手を付け、本社を東京、ゴム園をスマトラ島とするスマトラ興業を設立している。

 

1920年(大正9年)には商社部門である明治商店創立、相馬は相談役となる。

明治製糖は製糖業に留まらない大企業へと発展し、グループ企業全体を称して「大明治」と自称するようになった。

 

1923年12月27日の定期株主総会を機に会長としてトップに立ち、自ら先頭となって菓子部門の改革を決意、翌1924年明治製菓と改めた。

1921年(大正10年)に電車の吊り広告を実施、1923年(大正12年)には宣伝誌『スヰート』を発刊、1924年(大正13年)には福岡日日新聞で懸賞標語を募集している。

 

1929年(昭和4年)、練乳製造に着手するため明治乳業を設立した。

1932年10月明糖事件(脱税事件)に責任を感じ、に明治製糖社長を一時辞任。

 

社長辞任後も明治製糖に残り、後任社長の原邦造を助けた。

1936年(昭和11年)、ようやく明治製糖OBや監査役が相馬の復帰に動き出し、翌年2月8日、原が取締役会長、相馬が社長、有嶋が副社長という体制になった。

 

同年、明治製糖研究所を独立させ、相馬は顧問として鈴木梅太郎、真島利行、加藤与五郎といった一流の学者を招くのに尽力している。

1937年(昭和12年)には母校ミシガン大学百年記念式に参列し、ミシガン大学に研究資金1万円を提供して自身の名を冠した「相馬精密実験室」を設置させている。

 

1942年(昭和17年)4月27日、明治製菓会長を辞し、相談役。

1943年(昭和18年)、明治製糖相談役。

 

相談役になってからも実権を握り、重役の辞令やボーナスは相馬が渡していた[11]:269。

1945年(昭和20年)5月25日、伊皿子の本邸が東京大空襲で焼失、鎌倉市大町の別邸に移る。

 

翌1946年(昭和21年)1月7日、脾臓癌のため死去。

 

 

 

 

 

相馬半治(明治創業者)の名言・考え方

 

 

買う気でつくれ明治

 

 

 

 

 

「明治ホールディングス株式会社」の沿革・歴史(年表・社歴など)

 

 

 

1916
明治製菓の前身、『東京菓子株式会社』設立

 

 

1917
東京菓子、『大正製菓株式会社』と合併
東京菓子 大久保工場でキャラメル・ビスケットなどを製造
明治乳業の前身、『極東煉乳株式会社』設立

 

 

1920
『株式会社明治商店』(のちの明治商事株式会社)設立

 

 

1921
練乳「明治メリーミルク」発売

 

 

1923
育児用粉乳「パトローゲン」誕生

 

 

1924
アイスクリームの製造開始
東京菓子、商号を『明治製菓株式会社』と変更

 

 

1926
「ミルクチョコレート」発売

 

 

1928
「明治牛乳」発売

 

 

1932
「明治バター」「明治チーズ」を本格生産

 

 

1940
極東煉乳、商号を『明治乳業株式会社』と変更

 

 

1946
ペニシリンの製造開始、薬品事業を始める

 

 

1950
抗生物質「ストレプトマイシン明治」発売

 

 

1955
動物用ペニシリン飼料添加剤「メイリッチP」発売、動物薬事業参入

 

 

1958
抗生物質「カナマイシン明治」発売

 

 

1961
「マーブルチョコレート」発売
植物成長調整剤「ジベレリン」発売、農薬事業参入

 

 

1962
「アーモンドチョコレート」発売

 

 

1968
日本ではじめてのスナック菓子「カール」発売

 

 

1969
チョコレート「アポロ」発売

 

 

1971
日本初のプレーンヨーグルト「明治プレーンヨーグルト」発売

 

 

1972
明治商事が乳製品部門を明治乳業に移譲。明治製菓、明治商事と合併

 

 

1973
「明治ブルガリアヨーグルト」発売

 

 

1975
イネいもち病防除粒剤「オリゼメート」発売
チョコスナック「きのこの山」発売

 

 

1976
冷凍食品「ピッツア&ピッツア」発売

 

 

1980
スポーツ用プロテイン「ザバス」シリーズ発売

 

 

1988
「果汁グミ」発売

 

 

1989
抗不安薬「メイラックス」発売

 

 

1992
「明治北海道十勝チーズ」発売

 

 

1993
冬期限定チョコレート「メルティーキッス」全国発売

 

 

 

1994
「銀座カリー」発売
抗生物質「メイアクト」発売
アイスクリーム「明治エッセル スーパーカップ超バニラ」発売

 

 

1995
スポーツ栄養飲料「ヴァーム」発売
流動食「メイバランス」発売

 

 

1998
ジェネリック医薬品事業に本格参入
「チョコレート効果」発売

 

 

1999
抗うつ薬「デプロメール」発売

 

 

2000
「明治プロビオヨーグルトLG21」発売

 

 

2002
「アミノコラーゲン」発売
「明治おいしい牛乳」全国発売

 

 

2007
世界初 キューブタイプの粉ミルク「明治ほほえみ らくらくキューブ」発売

 

 

2008
業務用クリーム「明治フレッシュクリームあじわい」発売

 

 

2009
共同持株会社『明治ホールディングス株式会社』を設立し、明治製菓・明治乳業が経営統合
抗生物質「オラペネム」、抗うつ薬「リフレックス」発売
「明治ヨーグルトR-1」発売

 

 

2011
明治グループ内事業再編により、食品事業会社『株式会社 明治』、薬品事業会社『Meiji Seika ファルマ株式会社』発足

 

 

2014
「明治ザ・チョコレート」発売

 

 

2015
ジェネリック医薬品 抗生物質「タゾピペ明治」発売

 

 

2016
統合失調症治療薬「シクレスト」発売
明治グループ創業100周年
アレルギー性疾患治療剤「ビラノア」発売

 

 

2018
生物学的製剤(ワクチン等)の研究・開発・製造・販売会社『KMバイオロジクス株式会社』連結子会社化
季節性インフルエンザワクチン「インフルエンザHAワクチン『KMB』」発売

 

 

2019
新研究所『価値共創センター』設立

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