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「大成建設株式会社」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『大倉喜八郎』/沿革・歴史など~

「大成建設株式会社」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)

 

 

 

「大成建設株式会社」のグループ理念

 

 

 

人がいきいきとする環境を創造する

 

わたしたちは、自然との調和の中で、安全・安心で魅力ある空間と豊かな価値を生み出し、次世代のための夢と希望に溢れた地球社会づくりに取り組んでいきます。

 

 

 

 

 

「大成建設株式会社」の大成スピリット

 

 

自由闊達

多様性を尊重し、組織内外の活発なコミュニケーションやネットワーク形成を通じて、役職員全員の能力が活かせる風通しが良く活力ある企業風土を醸成します。

 

 

価値創造

広く社会を知った上で、お客様の立場に立ち、技術・ノウハウを結集するとともに、更なる技術革新と創意工夫にチャレンジし続け、お客様に感動していただけるような価値の創出を追求します。

 

 

伝統進化

ものづくりの伝統を継承しつつ、先進的な課題に挑戦することにより付加価値を生み出しながら、健全な企業グループとして永続的に進化・発展します。
わたしたちは、明るく、熱意と誠意、そして企業人としての規律を持ったプロフェッショナルの集団として、企業活動に取り組みます。

 

 

 

 

 

 

 

「大成建設株式会社」の創業者・創立者『大倉喜八郎』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~

 

 

 

 

大倉喜八郎(大成建設創業者)

 

 

大倉喜八郎。

天保8年(1837年)9月24日、越後国蒲原郡新発田町(現新潟県新発田市)の下町に父・千之助、母・千勢子の三男として生まれる。

 

幼名は鶴吉。23歳の時に尊敬していた祖父の通称・喜八郎から名を取り、喜八郎と改名。

大倉家は喜八郎の高祖父の代より新発田の聖籠山麓の別業村で農業を営むが、曽祖父・宇一郎(初代定七)の時、兄に田地を返し、商いで生計を立てる。

 

祖父・卯一郎(2代目定七)の時に、薬種・砂糖・錦・塩などで大きな利益を得、質店を営み始める。

この頃より藩侯への拝謁を許されるようになる。

 

父・千之助(4代目定七)は天保の大飢饉で米倉を開き窮民に施すなどの経緯から藩主から検断役を命じられた家柄であったとされる。

喜八郎は家業を手伝う傍ら、8歳で四書五経を学び、12歳の時から丹羽伯弘の私塾積善堂で漢籍・習字などを学ぶ。

 

この時に陽明学の「知行合一」という行動主義的な規範の影響を受けたといわれる。

嘉永4年(1851年)、丹羽塾同学の白勢三之助の父の行動により、酒屋の営業差止めに追い込まれた事に大変憤慨し、江戸に出ることを決意。

 

同年中に江戸日本橋長谷川町(現日本橋堀留町)の狂歌の師・檜園梅明(ひのきえん・うめあき)を訪ね、檜垣(ひがき)の社中に入る。

江戸到着後、狂歌仲間の和風亭国吉のもとで塩物商いの手伝いを経たのち、中川鰹節店で丁稚見習いとして奉公した。

 

丁稚時代に安田善次郎と親交を持つようになる。

安政4年(1857年)には奉公中に貯めた100両を元手に独立し、乾物店大倉屋を開業。

 

横浜で黒船を見たことを契機に乾物店を慶応2年(1866年)に廃業し、同年10月に小泉屋鉄砲店に見習いに入る。

約4ヶ月間、小泉屋のもとで鉄砲商いを見習い、慶応3年(1867年)に独立し、鉄砲店大倉屋を開業。

 

神田和泉橋通りに開業した大倉屋は「和泉橋通藤堂門前自身番向大倉屋」と名乗り、小泉屋鉄砲店が出入りする屋敷先とは一切の商売をしないと証文を出した。

店頭には現物を置く資金がなかったため、注文を受けては横浜居留地に出向き百数十度に渡り外商から鉄砲などを購入した。

 

不良銃を高値で売りつける鉄砲商が多かったため、良品を得意先へ早いかつ安い納品を心がけていた大倉屋は厚い信用を博した。

そののち官軍御用達となり、明治元年(1868年)には新政府軍の兵器糧食の用達を命じられるまでになった。

 

明治4年(1871年)7月以降は、鉄砲火薬免許商として、諸藩から不要武器の払い下げを受ける。

大倉は明治元年(1868年)に有栖川宮熾仁親王御用達となり、奥州征討軍の輜重にあたる。

 

これ以後、明治7年(1874年)の台湾出兵の征討都督府陸軍用達、明治10年(1877年)の西南戦争で征討軍御用達、明治27年(1894年)の日清戦争では陸軍御用達として活躍。日露戦争の際は軍用達となり、朝鮮龍巌浦に大倉組製材所を設立した。

実業に関しては、明治4年(1871年)3月に新橋駅建設工事の一部を請け負う。

同じ頃、高島嘉右衛門らとともに横浜水道会社を設立し、建設工事に着工。

 

同年頃、貿易商社を横浜弁天通に開設し、海外貿易にも携わるようになる。

欧米の文物の輸入から服装の一変を予見し、洋服裁縫店を日本橋本町に開設した。

 

明治5年(1872年)3月には銀座復興建設工事の一部を請け負い、同8年(1875年)に東京会議所の肝煎となる。

この時、東京府知事・楠本正隆の要請で渋沢栄一も肝煎となり、以後50年に及ぶ親交を持つ。

 

明治9年(1876年)には大久保利通とロンドンで会見した折に要請・協議した、被服の製造所である内務省所管羅紗製造所(千住製絨所と改称)を設立(払い下げは遅れた)。

明治10年(1877年)の東京商法会議所(現、東京商工会議所)、横浜洋銀取引所(横浜株式取引所)を皮切りに、様々な方面で新規事業の設立に関与した。

 

明治14年(1881年)に鹿鳴館建設工事に着工、藤田伝三郎らとともに発起人となった大阪紡績会社も設立した。

明治15年(1882年)3月には日本初の電力会社・東京電燈を矢島作郎、蜂須賀茂韶とともに設立し、宣伝の一環として銀座大倉組商会事務所前で日本初のアーク灯を点火し、驚嘆した市民が毎夜見学に押しかけた。

 

明治20年(1887年)には藤田らと共同して日本土木会社、内外用達会社を設立し、大倉組商会の事業を継承した。

同年に帝国ホテルも設立した。

 

この他に東京瓦斯、京都織物会社、日本製茶、東京水道会社などの株主や委員などにも名を連ねるなど、日本の近代化に尽力した。

明治26年(1893年)に大倉土木組(現・大成建設)を設立し、日本土木会社の事業を継承、大倉組商会と内外用達会社を合併するなど、この頃から大倉財閥の片鱗を窺わせ始める。

 

日本初の私鉄である東京馬車鉄道をはじめ、九州鉄道、山形鉄道、北陸鉄道、成田鉄道、日本国外では台湾鉄道、京釜鉄道、金城鉄道、京仁鉄道など日本国内外で数多くの鉄道企業への参加、出資などを行なった。

大倉は教育機関の創設にも熱を入れ、明治32年(1899年)、韓国に善隣商業学校(韓国・現善隣インターネット高等学校)、明治40年(1907年)9月に大阪大倉商業学校(現・関西大倉中学校・高等学校)を創設した。

 

特に明治33年(1900年)、還暦銀婚祝賀式の記念事業として私財50万円を投じて大倉商業学校(現・東京経済大学)を創設したことは米国の雑誌『THE NATION』で美挙と報じられた。

明治39年(1906年)に麦酒三社合同による大日本麦酒株式会社設立に関係し、翌40年(1907年)には日清豆粕製造(現・日清オイリオグループ)、日本皮革(現・ニッピ)、日本化学工業、帝国製麻(現・帝国繊維)、東海紙料(現・東海パルプ)を設立。

 

明治42年(1909年)日本ホテル協会会長。

明治44年(1911年)に商事・工業・土木部門を営む株式会社大倉組を設立するも17年に大倉工業株式会社、大倉土木組と分離し、大正7年(1918年)には大倉商事株式会社と改称し、大倉組のコンツェルン化を行った。

 

昭和2年(1927年)に日清火災海上保険を買収し、大倉火災海上保険(現・あいおいニッセイ同和損害保険)とするなど晩年まで精力的に活動した。

同年1月5日に隠居し、嗣子・喜七郎が家督を継承した。

 

昭和3年(1928年)4月22日大腸癌のため死去、没年92歳。

墓所は護国寺。

 

政界からは首相・田中義一を始め若槻禮次郎、浜口雄幸、床次竹二郎、清浦奎吾、関屋貞三郎など、実業界からは三井高棟(三井財閥)、岩崎小弥太(三菱財閥)、安田善三郎(安田財閥)、馬越恭平、浅野総一郎(浅野財閥)ら、国外からは張作霖、陳宝琛、段祺瑞、蒋介石など葬儀に訪れた。

 

独自での企業起業創立だけでなく、親しくしていた「資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一の呼びかけに協力し、鹿鳴館、帝国ホテルなども創立し運営。二人が発起人となり東京商法会議所(現東京商工会議所)を設立しています。

大成建設が芙蓉グループの中核会社の一つになったのは、実に大倉喜八郎と安田善次郎の深い関係が背景にあったと言われています。

 

 

 

 

 

 

大倉喜八郎(大成建設創業者)の名言・考え方

 

 

 

進一歩という金言がある。だが、私は事を行なうに際して、つねに5歩も10歩も突き進んでから改めて考えるようにしてきた。私はこの生き方で、今まで後悔したことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

私は普段から、この商機ということに苦心しているが、私の今日あるに至らしめたのも主として商機をうまくとらえたからである。私の商機を得た数は、二度や三度ではない。

 

 

 

 

 

 

 

自分で働らいて儲けて、一寸儲ければ一寸だけ、一尺儲ければ一尺だけ、次第次第に大きくなるのがよいのです。

 

 

 

 

 

今日の経験を明日もちいない者は、大成功はのぞまれぬ。

 

 

 

 

 

予定より十パーセント安く仕上げて、その半分をお得意様に返し、残りを当社の利益にせよ。そうすればますますうまくいく。

 

 

 

 

 

 

 

世間から何といわれても自分の思うところは一歩も枉げない、知己は百年の後に一人得ればよい。

 

 

 

 

 

この大倉は事業をやるために生まれてきたのだ。失敗したとて元の大倉に戻るだけだ。

 

 

 

 

 

 

誰も引き受けないところに商機はある。人が捨てる時、我はこれを拾う。

 

 

 

 

 

昔から英雄豪傑とうたわれた人は、もちろん勇気や胆力のあることは分かりきった話であるが、みな奥床しい愛嬌を持っていたことは隠れもない事実である。 武将とか政治家でさえ愛嬌を持っているいる方が偉人といわれるのだから、実業家などはなおさら愛嬌が必要ではないか。実業界に立つ人のみでなく、いやしくも社交的動物として社会で人並み以上に活躍せんとするものは同じである。心の内から自然とわいてくるところの情愛がこもっておらねばダメである。人を使うにも、また使われるにしても、人情の至誠によりあくまでも博愛、慈善の心根がなくてはいけない。その博愛というものが、自然と人に対して愛嬌となり、人を喜ばせ、自分自身も何となく心うれしく感じられるものである。愛嬌たっぷりで、いつもニコニコしていればよいが、時と場合によって威厳もなければならないが、それは非常な場合で、百のうちわずかに一、二しかないものだ。

 

 

 

 

 

 

一、時は金なり
二、油断するな
三、無駄をするな
四、天物を*暴殄(ボウテン)するな
五、信用を重んずべし、信用なき人は首なき人と同様なりと知るべし
六、何事も魂を籠めて誠意を以て働け
七、遊ぶも働くも月日は流れる、奮闘に興味を持つべし
八、楽隠居の考えを止め、勇気を鼓し、家の為に、国の為努力するこそ人間の本分なり
九、他人が十時間働くなり、自分は十二時間働け、精神一到何事不成の心持を持てすれば、成功必ず疑なし

 

 

 

 

 

 

紛々たる世の毀誉褒貶を気にしていて何ができる。区々たる世評などに頓着せず、自ら信ずるところに邁進し、自ら好むところに直進し、思う存分の働きをなし、倒れてのちやむのがすなわち男子の本懐ではないか。

 

 

 

 

 

 

知恵比べ 努力比べの 今の世に 欲しきは人の 勇気なりけり。

 

 

 

 

 

自分は虚業家ではなく、実業家でありたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

「大成建設株式会社」の沿革・歴史(年表・社歴など)

 

 

 

1873(明治6)年 大倉喜八郎、大倉組商会を設立 創業
銀座煉瓦街復興工事

 

1882(明治15)年 銀座大倉組商会前にアーク灯点火

 

1883(明治16)年 鹿鳴館

 

1887(明治20)年 有限責任日本土木会社を設立(初の建設業法人)
大阪出張所(後に大阪支店、現関西支店)を開設

 

1890(明治23)年 琵琶湖疏水閘門トンネル(京都府・滋賀県)

 

1893(明治26)年 大倉喜八郎、大倉土木組を設立

 

 

1911(明治44)年 株式会社大倉組土木部 発足

 

 

1915(大正4)年 大倉組本館

 

1917(大正6)年 株式会社大倉土木組を設立(初の建設業株式会社)

 

1920(大正9)年 日本土木株式会社と改称

 

1923(大正12)年 帝国ホテル新館(F.Lライト設計)

 

 

1924(大正13)年 大倉土木株式会社に社名変更
横浜出張所(現横浜支店)を開設

 

1927(昭和2)年 東京地下鉄道(東洋初の地下鉄 上野~浅草間)

 

1928(昭和3)年 創業者大倉喜八郎逝去(享年90才)

 

1929(昭和4)年 札幌出張所(現札幌支店)を開設

 

1931(昭和6)年 名古屋出張所(現名古屋支店)を開設

1933(昭和8)年 九州出張所(後に福岡支店、現九州支店)を開設

 

1946(昭和21)年 大成建設株式会社と改称
仙台(現東北支店)、広島(現中国支店)、新潟(現北信越支店)、高松(現四国支店)の出張所を支店に改称

 

1947(昭和22年) 社員投票により藤田武雄社長と役員を選出

 

1949(昭和24)年 社員株主制度が実現、非同族会社となる

 

1956(昭和31)年 株式を東京店頭市場に公開

 

1957(昭和32)年 加藤一衛が社長に就任
株式を東京証券取引所に上場(建設業界初)

 

1958(昭和33)年 銀座大成ビル竣工、本社を移転

 

1960(昭和35)年 技術研究所を豊洲に開設

 

1963(昭和38)年 東京支店開設

 

1973(昭和48)年 創業100周年(記念式典を開催)

 

 

1979(昭和54)年 新宿センタービル竣工、本社を移転
技術研究所、横浜市戸塚に移転

 

 

1985(昭和60)年 里見泰男が社長に就任

 

1987(昭和62)年 青函トンネル(北海道・青森県)

 

 

1991(平成3)年 東京都第一本庁舎

 

 

1993(平成5)年 千葉支店、関東支店、神戸支店を開設

 

 

2000(平成12)年 京都支店を開設

 

 

2013(平成25)年 創業140周年(記念展「未来へのバトン」を開催)

 

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