「株式会社大林組」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『大林芳五郎』/沿革・歴史など~

「株式会社大林組」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『大林芳五郎』/沿革・歴史など~

 

「株式会社大林組」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)

 

 

「株式会社大林組」の企業理念

 

 

大林組がめざす姿、社会において果たすべき使命

 

 

「地球に優しい」リーディングカンパニー

 

 

1 優れた技術による誠実なものづくりを通じて、空間に新たな価値を創造します。

 

2 地球環境に配慮し、良き企業市民として社会の課題解決に取り組みます。

 

3 事業に関わるすべての人々を大切にします。

 

 

これらによって、大林組は、持続可能な社会の実現に貢献します。

 

 

 

 

 

 

「株式会社大林組」の三箴(さんしん)

 

 

創業以来、受け継がれてきた精神です

 

良く、廉く、速い

 

創業以来100年以上にわたる歴史の中で、ものづくりにおいて大切に受け継いできた精神。

 

そして、大林組が、新しい価値の創造に向けて挑戦し続けるうえで、これからも変わることなく大切にしていく精神です。

 

 

 

 

 

「株式会社大林組」の創業者・創立者『大林芳五郎』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~

 

 

大林芳五郎(大林組創業者)

 

 

大林芳五郎。

元治元年(1864)9月14日海産問屋林徳七の次男として大阪市靫永代浜に生まれた。

 

林家の祖はもと淀川過書船の元締で帯刀御免の士分の待遇を受け、徳七の時に分家して大林を名のった。

林家はもと河内国志紀郡の名族、林臣海主の出で、元禄時代より淀川過書船の元締となった大町人であり、後に海運業、肥物(肥料用干鰯)商も兼ねていた。

 

徳七の兄徳助の代に塩、肥物専業問屋となり、徳七は分家して同様の商いをしていた。

徳七は明治6年10月64歳で没し、あとには夫人美喜と芳五郎を含む2男3女が残された。

 

このとき芳五郎は9歳であった。

翌7年、芳五郎は西区問屋橋北詰、呉服商麴屋又兵衛氏の店に丁稚見習となった。

 

9年に兄が僧籍に入ったため、芳五郎は家督を継いだが、麴屋での奉公を続け、父譲りの周到綿密さと母譲りの果断機敏によって主人に認められ、13年16歳で三番番頭に抜擢されて徳助の名を与えられた。

その後、芳五郎は独立して呉服の小売業を始めたが、不景気のあおりで半年もたたないうちに資金的に行き詰まり、これは失敗に終わった。

 

呉服小売りに失敗した芳五郎は一転して請負師を志した。

しかし当時、堅気の家庭では請負業を蔑視する傾向があったため、ひとまず大阪を避け、いまや文化の中心地として栄えつつある東京で修業することにした。

 

そして伝手を求めて、宮内省出入りの請負業者、砂崎庄次郎氏のもとに身を寄せることになった。明治16年(1883)7月、芳五郎19歳のときである。

この人は当時のいわゆる請負人とは選を異にした紳士で多芸多趣味、詩歌、俳諧に長じ、茶も師匠格、画も齢玉と号して一家をなす程だった。

 

居ること4年、その関係する赤羽-品川間の鉄道工事や宮城御造営の本工事に従事して明敏よく人間統制の上の情けを悟りその他請負業の基礎知識を習得した。

明治25年29歳の時、郷里大阪に大林芳五郎店を創立、工事の談合や談合取、縄張り等、業界の悪弊打破にのり出すなど、堂々の初陣ぶりであった。

 

芳五郎は創業に際し、棟梁、親方の経験もなく、大資本や権力の背景もなかった。

ただ、なにがしかの経験による請負業の管理能力と先見性のみが力であった。

 

しかし事業には資金が必要である。

これを助けたのが片山氏で、創業に際し5,000円の資金を提供し、母美喜の蓄えと自己資金1,000円を合わせたものが、由五郎の旗上げの資金となった。

 

芳五郎を助けた人材は多く、当社の基礎を固めるうえに大きな力となった。

創業当初には四天王と呼ばれた下里熊太郎、菱谷宗太郎、小原伊三郎、福本源太郎がおり、間もなく伊藤哲郎、白杉亀造の両人材を得た。

 

日露戦争中から戦後にかけ、軍工事を大量に受注したころには、さらに人材が集中した。

 

34年には第五回内国勧業博覧会工事を見事完成してその存在を大きくし、37年には旅順口閉塞船石材積込作業に従事したほか朝鮮軍用鉄道、捕虜収容所、駐屯軍兵営、陸軍予備病院等日露戦争を中心とした請工事を逐次完成、44年には東京ステーション工事の入札かおり大阪方では大林組だけ指命を受けて東京方大倉組、清水組、安藤組等と競争し、最後に清水組を破って落札。

 

これと前後して大阪においては大阪電軌の大阪・奈良間の伊駒山大トンネル工事を手がけた。

明治42年(1909)7月1日、合資会社大林組が設立された。

 

明治44年(1911)9月、当時としては珍しい一大レジャー施設「新世界」の建設に着手し、翌45年5月に竣工した。

大正4年頃から病に臥し5年1月24日西宮市夙川の別荘で逝去。 53歳。

 

 

 

 

 

大林芳五郎(大林組創業者)の名言・考え方

 

 

この下町のこのたくさんの家が五十年あるいは百年の将来には大廈高楼(たいかこうろう)に建て替わる時期が必ず来る日本の国が発展するにつけ必ずそうなる

 

 

「店員服務規程」

 

店員は本店諸規則および店主、上役の命令を遵守し、忠実勤勉を旨とし職務に従事あるべし

 

店員は品行方正にして、貧汚の所為あるべからず

 

店員は職務の内外を問わず、謹慎懇切を主とし、粗暴の言行あるべからず

 

店員は機密に属する事項を漏洩せざるはもちろん、店主、上役の承諾を得ずして、文書、帳簿等を他人に開示すべからず、ただし退職後といえどもまた同じ

 

左の三項はあらかじめ店主の承諾を得べし

 

名誉職もしくは会社の役員となり、また商工業をいとなむこと

 

職務に関し慰労、謝儀その他の名儀をもって、他人の贈遺を受くること

 

下請、出入り商工者もしくは本店関係の諸職工と宴席をともにし、またはその饗応を受くること

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「株式会社大林組」の沿革・歴史(年表・社歴など)

 

 

 

1892年(明治25年)
大林芳五郎が大阪市西区靱南通(現西区西本町2丁目)において土木建築請負業「大林店」創業(1月25日)

1898年(明治31年)
大阪築港工事に参画

 

1901年(明治34年)
第五回内国勧業博覧会諸施設工事受注(明治36年竣工)

 

1904年(明治37年)
店名を「大林組」と定める。東京事務所開設

 

1905年(明治38年)
本店を大阪市東区北浜(現中央区北浜2丁目)に移転

 

1906年(明治39年)
東京事務所を支店に昇格

 

1909年(明治42年)
合資会社大林組設立

 

1911年(明治44年)
鉄道院東京中央停車場(現東京駅)受注(大正3年竣工)
大阪電気軌道生駒隧道及び付近線路受注(大正3年竣工)

 

1916年(大正5年)
店主大林芳五郎死去。大林義雄社務継承

 

1918年(大正7年)
株式会社大林組創立

 

1919年(大正8年)
株式会社大林組に合資会社大林組を合併
小倉支店開設(出張所から昇格、昭和5年に福岡市に移転し福岡支店と改称、昭和62年九州支店に改称)
本店を大阪市東区京橋(現中央区北浜東6丁目)に新築移転

 

1922年(大正11年)
大阪毎日新聞本社、大阪商船神戸支店竣工

 

1923年(大正12年)
関東大震災。丸ビル改修工事他復旧・復興工事に従事

 

1924年(大正13年)
甲子園球場、明治神宮外苑競技場竣工

 

1925年(大正14年)
横浜支店(出張所から昇格)設置
名古屋支店(出張所から昇格)を設置

 

1926年(大正15年、昭和元年)
本店新社屋竣工

 

1930年(昭和5年)
大阪地下鉄淀屋橋~北久太郎間受注(昭和7年竣工)
大阪城天守閣受注(昭和6年竣工)

 

1936年(昭和11年)
株式会社第二大林組設立

 

1937年(昭和12年)
株式会社第二大林組、株式会社大林組を吸収合併し、商号を株式会社大林組に変更

 

1942年(昭和17年)
広島支店を設置(営業所から昇格)

 

1943年(昭和18年)
大林義雄社長死去。会長に白杉嘉明三、社長に大林芳郎、副社長に中村寅之助就任

 

1946年(昭和21年)
仙台支店設置(出張所から昇格、昭和62年東北支店に改称)
札幌支店設置(出張所から昇格)

 

1948年(昭和23年)
本店に研究部設置

 

1949年(昭和24年)
建設業法による第一回登録(建設大臣)完了

 

1953年(昭和28年)
戦後の電力需要を賄う電源開発糠平ダム着工

 

1958年(昭和33年)
高松支店設置(出張所から昇格、昭和54年四国支店に改称)
大阪証券取引所に株式上場

 

1960年(昭和35年)
東京証券取引所に株式上場

 

1965年(昭和40年)
神戸支店設置(出張所から昇格)
東京都清瀬市に技術研究所を新築開設
日本の超高層建築第一号横浜ドリームランド・ホテルエンパイア竣工
本格的な海外進出工事インドネシア・ムシ大橋竣工

 

1970年(昭和45年)
東京支店を廃止し、東京本社を設置
日本万国博覧会開催、お祭り広場等主要施設を手がける

 

1973年(昭和48年)
西日本最初の超高層ビル 大阪大林ビル竣工

 

1975年(昭和50年)
金沢支店を設置(昭和54年北陸支店に改称、平成3年新潟市へ移転)

 

1979年(昭和54年)
日本の建設会社として初めて米国公共工事(サンフランシスコ市下水道工事)を受注

 

1986年(昭和61年)
東京本社にエンジニアリング本部を新設

 

1989年(昭和64年、平成元年)
会長に大林芳郎、社長に津室隆夫就任

 

1990年(平成2年)
企業理念・経営姿勢・行動規範を制定。新社章制定
地球環境部設置

 

1991年(平成3年)
創業100年
長期経営ビジョン「大林ルネッサンス111」策定

 

1994年(平成6年)
関西国際空港開港

 

1995年(平成7年)
阪神・淡路大震災。復旧・復興工事に従事
東京本社、本店建築部門が品質保証に関する国際規格ISO9001の認証を取得(平成10年までに全店の建築、土木、エンジニアリング、原子力部門で認証取得達成)

 

1997年(平成9年)
向笠愼二が社長に就任
東京国際フォーラム、大阪ドーム、京都駅ビル竣工
東京湾アクアライン開通

 

1998年(平成10年)
明石海峡大橋開通。品川インターシティ竣工

 

1999年(平成11年)
東京本社を品川インターシティに移転
スタジアム・オーストラリア(オリンピックメインスタジアム)竣工
全店、全組織でISO14001認証取得達成

 

2000年(平成12年)
PFI事業で神奈川県立保健福祉大学受注

 

2001年(平成13年)
神戸ウイングスタジアム竣工
創業110年を記念し大林組歴史館を開設

 

2002年(平成14年)
電通本社ビル、丸の内ビルディング竣工
建設現場でのゼロエミッション達成

 

2003年(平成15年)
六本木ヒルズ 森タワー竣工
「優良企業構想」策定
大林剛郎が会長に就任
大林芳郎名誉会長死去
東海道新幹線品川駅開業

 

2004年(平成16年)
新潟県中越地震。復旧・復興工事に従事

 

2005年(平成17年)
愛・地球博(愛知万博)開催、主要パビリオンを手がける
京都迎賓館竣工
脇村典夫が社長に就任

 

2006年(平成18年)
表参道ヒルズ竣工

 

2007年(平成19年)
台湾新幹線開業
白石達が社長に就任

 

2008年(平成20年)
「中期経営計画’08」への取り組みを開始
海外支店を設置
東京スカイツリー着工

 

2009年(平成21年)
技術研究所新本館着工

 

2010年(平成22年)
東京本社を本社及び東京本店に組織改正
本店を大阪本店に改称
技術研究所新本館テクノステーション完成

 

2011年(平成23年)
創業120年
大林組基本理念とコーポレートメッセージを制定
東日本大震災。復旧・復興工事に従事

 

2012年(平成24年)
東京スカイツリー竣工
「中期経営計画’12」を策定
再生可能エネルギー事業開始

 

2013年(平成25年)
グランフロント大阪竣工
大阪本店をダイビル本館に移転

 

2014年(平成26年)
虎ノ門ヒルズ竣工
技術研究所オープンラボ 2完成
テクノ事業創成本部を新設

 

2015年(平成27年)
「大林組グループ中期経営計画2015」を策定
リニア中央新幹線品川駅(南工区)着工

 

2016年(平成28年)
熊本地震。復旧・復興工事に従事
JR新宿ミライナタワー竣工
創業125年、技研50年を記念してテクノフェアを開催

 

2017年(平成29年)
「大林組グループ中期経営計画2017」を策定
赤坂インターシティAIR竣工

 

2018年(平成30年)
蓮輪賢治が社長に就任
ニュージーランド・ウォータービューコネクショントンネル竣工

 

2019年(平成31年、令和元年)
海外支店を廃止しアジア支店および北米支店を設置
機械工場をロボティクスセンターに改称

 

2020年(令和2年)
営業総本部、関東支店を新設

 

 

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