《新潟DNA:佐渡市》益田孝(三井物産創業者の一人)名言集と益田孝のDNA
益田孝(三井物産創業者の一人)名言集
日本人は真似が上手だが発明力はないと云う。併(しか)しそんな馬鹿な事はない。真似する力があるものなら、発明する力もなければならぬ。
三井には人間が養成してある。これが三井の宝である。
今度の地震はずい分えらかったが、しかし精神的の打撃という点からいうと、私はもっと難儀な目にあっている。 地震のように突然パッとくるものよりは、だんだん形勢がせまってきて、これはいよいよ死ななければならぬわいと決心しなければならぬような事件の方が無論えらい。
これからの仕事はコミッションビジネスであるべきだ。売り買いどちらもできる貿易でなければならない。自分が危険を負担するようなものは行わない。思惑をしてはならない。
貿易というものは、自国の物を外国に売り、外国の物を自国に買うのではまだまだである。外国の物を買って外国に売るのでなければ、本当の外国貿易とは言えない。
老いの身に余る重荷をおろしては、また、若返る心地こそすれ。
三井物産会社を設立したのは、大いに貿易をやりたいというのが眼目であった。金が欲しいのではない、仕事がしたいと思ったのだ。
眼前の利に迷い、永遠の利を忘れるごときことなく、遠大な希望を抱かれることを望む
楽しんでこそ上手なれ。
利益よりも発展をみつめよ。
益田孝(三井物産創業者の一人)のDNAと歩み~益田孝の経歴・プロフィール・生い立ちなど~
益田孝。
1848年11月生まれ。
佐渡金山を管轄する佐渡奉行所の勘定方役人であった益田鷹之助の長男として佐渡に生まれる。
幼名は徳之進。
江戸に出て、日本語の英語式転写法(ローマ字)を開発したジェームス・カーティス・ヘボンによるヘボン塾で英語を学んだ。
14歳で幕府の外国方通弁御用として出仕した。
麻布善福寺に置かれていたアメリカ公使館に勤務、ハリスから英語を学ぶ。
文久3年(1863年)、フランスに派遣された父とともに遣欧使節団(第二回遣欧使節、または横浜鎖港談判使節団)に参加し、ヨーロッパを訪れている。
ヨーロッパから帰国後は幕府陸軍に入隊。
騎兵畑を歩み、慶応3年(1867年)6月15日には旗本となり、慶応4年(1868年)1月には騎兵頭並に昇進した。
明治維新後は明治2年(1869年)から横浜の貿易商館ウォルシュ・ホール商会に事務員として1年間勤務して多くの商取引を見聞したのち、自ら中屋徳兵衛と名乗って輸出商を手掛けた。
この時期仕事仲間から紹介された大蔵大輔(大蔵次官)の井上馨の勧めで明治5年(1872年)に大蔵省に入り、造幣権頭となり大阪へ赴任し、旧幕時代の通貨を新貨幣にきりかえる任にあたった。
翌明治6年(1873年)に尾去沢銅山汚職事件で井上が下野すると益田も続いて職を辞した。
翌明治7年(1874年)には、英語に堪能だったこともあって井上が設立した先収会社の東京本店頭取(副社長)に就任。
明治9年(1876年)には中外物価新報を創刊。
同年、先収会社を改組して三井物産設立と共に同社の初代総轄(社長)に就任する。
三井物産では綿糸、綿布、生糸、石炭、米など様々な物品を取扱い、明治後期には取扱高が日本の貿易総額の2割ほどをも占める大商社に育て上げた。
1914年に第一線から引退し、1918年に男爵を授けられた。
益田は現在の「日本経済新聞」の前身である「中外物価新報」を創刊した人物としても知られ、また鈍翁の号を持ち、「千利休以来の大茶人」と称されるなど、茶人・美術収集家としても名高い。
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