《新潟DNA》平澤興(京都大学第16代総長)名言集と平澤興(京都大学第16代総長)のDNA
平澤興(京都大学第16代総長)名言集
本当に偉大だなと思う人にはみな平凡さがある。平凡を鍛えあげて 偉大にしてる。そう思うんです。
ほんとうの大物はよい意味で足らぬところがある。それがまた魅力であり風格がある。
その人全体からにじみ出る味わいでその人物がわかる。
独創とは言いつけられたことをやるだけではない。それはたんなる経験ではだめで寝ても覚めても考え、ひたすら仕事に対して一層よりよきことを考え出すことである。
今が楽しい。今がありがたい。今が喜びである。それが習慣となり天性となるような生き方こそ最高です。
幸福だけで限りなく成長することは至難なことである。困難はその時には ありがたくはないがこれを活用しうる人にとっては将来の大きな幸福への「チャンス」である。成長するためには、苦難が喜びであると思うようになることである。
今日一日の実行こそが人生のすべてである。
一生懸命働く人は素人である。楽しんでやるからこそ百パーセントの力が出るのだ。だから仕事は楽しんでやらなければならない。
人生に望ましいのは失敗や困難がないということではなく決してそれに敗けないということである。凸凹(でこぼこ)のある人生がかえって味があるとは、また面白いものである。
人間を苦しめるのは不幸そのものではなく、不幸だと思うその考え方自体である。
人物が出来れば出来る程大賢は愚に似たりで話すほどに、飲むほどにいわゆる癖のない型に嵌った人にないものが風格として出て来るものである。
真面目さはよいが常識的なものでは大物になれぬ。俗にいう真面目さ以上のより高い愚かさという程の真面目さがなければならぬ。
愚かさは深い知性と謙虚さである。人に窮屈さを与える真面目さでは、ほんものになれない。
顔は自分の顔であって、自分だけの顔ではない。人々から見る顔でもある。全体としていつでも明るい顔は、心に明るさをもっているからである。明るい顔は、明るい心。明るい心は、やすらぎの心、感謝の心である。それは人を明るくし、自分の健康を保つためにも一番大事なことである。習慣的に、明るさを身につけることである。常に明るくあるためには、良い修練が必要である。
人間は皆さんすべて例外なく素晴らしいものであります。やればできるという百四十億の神経細胞が待っておるのであります。
いかなる人が、いかなることを言おうとも、言葉は言葉として、落ち着いて批判をしながら聞く、同時に言葉と人とをすぐ結びつけて、いい人が言ったからといって、ただ感心する。つまらない人が言ったからといって、もうつまらないことだと決めつける。そうではなくて、言葉は言葉として批判しながら落ち着いて物を聞く。誰が言ったとしても、自主性を持ち、しっかりした自己というものを持っていて、その言葉によっては動かされない。「いいことはいいこと」として味わっていくということであります。
当たり前のことを日々の生活の中で生かすことができればそれは平凡であるが非凡でもあります。
ハチマキをして目をつり上げてというような努力は格好はよいのでありますがそんな努力で本当に素晴らしい業績とか世界的な成功を挙げるというのはおそらくできないと思います。命を懸けた努力というものは皆ある意味では非常にゆとりを持ったしかし、いかなる場合にも決して揺るぎのない努力であります。
教育の基本は、第一はあくまで誉めること。第二はできるまでやらせること。第三は、自分もそれを実行すること。
一番大事なのはやっぱり自分を大切にすること決して自分を欺かんことであります。そしてどんな場合でもやるだけのことはやることであります。きわめてシンプルで簡単でありますが人生はそういうものを貫き通すかどうかということではないかといまも私は思っております。
一番人間にとって危険なことは自分の経験とか自分の学問とかあるいは自分の考え方とかそういうものだけを頼りにして人との話し合い対話をしないということだと思うのであります。
おおよそことに対しものに対し誠実である限りにおいて人生に失敗はないと思います。いや、失敗がないという言葉が悪ければいろいろと失敗はあるだろうがその失敗の中から本当のものを学び取られるだろうと思います。
個人でも、民族でも相手の長所を尊敬出来ぬようなものは問題にならぬのである。何よりも危険なのは反省なき独断的見解である。
仕事は人のためにするのではありません。普通はそんなふうに思いますがそれは誠に平面的な考えです。仕事は自らの魂を生かすためにするものだと私も固く信じております。
ちょっと見たところつまらんような仕事をしておってもその仕事に本気になってやっておることそれが立派な人生ではないか。
善とは生命を維持発展させるものであり、悪とは生命を否定し、阻害するものであるという原理。全ての生命は神聖なものであり、その神秘的な価値をあるがままに認めること、すなわち、生命への畏敬こそ、倫理のみならず、文化の根底になければならない。
生きるには自力と同時に他力がいるのであります。生きるということは、実は、生かされておることなんだと考えたいと思います。
一人の人間の価値は優しい心を持って馬鹿正直で親切でやるべきことはとにかく生命を捨ててでもやる損か得か知らんけれどもやる。そういうところに人間の価値はある。
何もかも立派な人間なんてものは私はないと思います。それは描かれた人間である。本物は何か必ず欠点を持っておるがそういう欠点を持ちながらも大きく伸びる素晴らしい人間になる。そういうところに本当の人間としての偉さがある。
本物は、本当に伸びた人は学者であろうが芸術家であろうが事業家であろうが私はみんな困難に打ち勝って伸びてきた人だと思います。
どこまで笑って暮らせるかということでその人の人間としての成長度が分かる。ある人は八十のところでもう怒ってしまう。ある人は九十五くらいのところまで我慢できる等々。どこまで我慢できるか、どこまで心の平和を保つことができるかがその人間の成長度を示す。
仕事は人であり、心であり、その燃焼である。人生に絶対に重要なことは、いわゆる、よい頭ではなく、「誠」に徹した火の如き「ど根性」であります。
年とともに何を見ても面白く、何をしても楽しくなるのがほんとうである。人生を楽しいものにすることが大事である。
私は人生というものは一にも努力、ニにも努力、三にも努力だと思います。
人生は、にこにこ顔の命がけ。
進むべき 道は一筋、世のために いそぐべからず 誤魔かすべからず
平澤興(京都大学第16代総長)のDNAと歩み~平澤興(京都大学第16代総長)の経歴・プロフィール・生い立ちなど~
平澤興。
1900年(明治33年)新潟県西蒲原郡七穂村(のち味方村、現新潟市南区)に生まれる。
幼時より医師になることを志し、地元の小学校を卒業した後父の居た京都に出て中学時代を過ごす。
金沢の第四高等学校(金沢大学の前身)、京都帝国大学医学部に入る。
京都帝国大学の医学部に入った時、いままではやらされる勉強だったけれども、命懸けの勉強をしようと決意します。
そして、授業は全部出て、教授が示す原書は全部読もうと決意してやり始めたら、とてもじゃないけど続かない。
1か月でノイローゼになってしまいました。
そして、新潟の田舎に帰る。
12月、雪の降る日に、悶々として歩いていたら、ベートーベンの言葉が聞こえてきたといいます。
ベートーベンが耳の聞こえなくなっていく過程で自分自身を鼓舞。
ベートーベンみたいな天才がこれほどの艱難辛苦を乗り越えたんだから、自分のような凡才がこんなことでノイローゼになっていられるかと思い、一念発起して医学部に戻ります。
1924年(大正13年)京都帝国大学医学部解剖学教室の助手となる。
翌年同学部助教授。
1926年(大正15年)新潟医科大学(新潟大学医学部の前身)助教授。
1928年(昭和3年)より文部省の海外留学生としてスイス・ドイツ等に留学の後、1930年(昭和5年)同大学教授となる。
翌年、日本人腕神経叢の研究により医学博士号を得る。
1945年、勲一等瑞宝章受章。
1946年(昭和21年)京都帝国大学教授。
京大において、1948年(昭和23年)から附属医学専門部長、1949年(昭和24年)から教養部長、1956年(昭和31年)より医学部長など役職を歴任。
1957年(昭和32年)からは京都大学総長を2期6年間務める。
1963年(昭和38年)京都大学総長を退官し同大学名誉教授。
その後も京都市民病院院長、京都芸術短期大学学長など数多くの公職を歴任。
1989年6月17日、心不全のため京都市内で死去。
出身地である旧味方村から名誉村民の称号が贈られている。
現在新潟市南区味方には同じく名誉村民の曽我量深と平澤興を顕彰する「曽我・平澤記念館」が建てられている。
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