国家財政や地方行政の財政。
不況が長引いたり、怠惰な運営を行うことで、収入を上回る支出を継続することがあります。
最悪の場合、破綻というシナリオもあり得ます。
企業運営もそうではないでしょうか。
赤字が積み重なることで倒産という憂き目にあうことも。
行政の財政改革。
企業運営においても見習うべき点は多くあるのではないでしょうか。
今回は行政の財政改革の成功事例を3事例取り上げてみたいと思います!
Contents
東京都杉並区の財政改革
以前、当時杉並区長の山田宏氏の講演を聞く機会がありました。
現在、山田宏氏は参議院議員として奮闘しています。
山田宏氏と言えば、杉並区の財政再建が有名ではないでしょうか。
山田宏氏が杉並区長に当選したとき、当時、杉並区の借金は942億円!(2000年)
すごいですね。
山田区長(当時)が無駄な支出の削減を強化し、杉並区は健全な体制に変わりました。
・杉並区の借金(区債)は165億円にまで削減(約700億円の削減!)
・約500億円の貯金(基金)ができるまでに財政は回復
※参照:左図は杉並区債残高推移、右図は杉並区基金残高の推移
部の数を半減するなどの組織大改革をも実施、17の出張所を廃止し、7つの区民事務所に統合しました。
なかでも、劇的なのが職員数。
10年間で約1,000人の職員を削減することに成功しています。
ただ人員カットだけではなく、民間でできる部分は民間に移行し、逆にサービスの質を高めたともいわれています。
驚きなのは、それまでの区の職域と給与。
実はそれまでは、各小中学校の給食の調理員は区役所の職員が作っていたようですが、その年収は、なんと700万円!
財政悪化には、このような事例が積み重なっていたのかもしれません。
アメリカでの財政改革
財政再建として有名なのが、アメリカでも成功事例があります。
それが、米国クリントン(旦那さんのほうです)時代の財政改善策。
巨額の貿易赤字・財政赤字のいわゆる“双子の赤字”を抱え、1991年のブッシュ政権(お父さんのほうです)による湾岸戦争による短期的不況がアメリカ経済を苦しめていました。
ブッシュ政権を引き継いだ、クリントン政権。
財政再建を進めます。
クリントン政権は政府のコスト削減、効率化を推進します。
特に利用強化したのが、Federal Quality Institute(FQI)という機関。
もともと、政府職員に業務改善と生産性の向上の「訓練」を与える事を目的として設立された機関で、すでに1988年にレーガン政権の時、誕生していました。
政府職員とは、連邦政府に勤務する、あらゆるレベルの国家公務員のことで、連邦政府の運営をより経済的に、より効果的にする事を目的として、業務の「質の向上」の原理を教えるという役割の機関。
この機関を積極的に推進したのが、クリントン政権です。
クリントン大統領はゴア副大統領を責任者として任命し、政府大改善委員会とでもいう委員会名に変更、名実ともに推進強化していきました。
ゴア副大統領等はこの活動を組織化し、最前線の現場で働く連邦政府の国家公務員のうち、6万8000人が1378チームを形成し、具体的な改善活動を行い、530億ドル(6兆3000億円)以上の経費削減や経済性の改善をもたらしました。
いわゆる小さな政府の推進ですね。
クリントン政権は、この他、税収増加策も推進します。
所得税の累進性を強化し、最高税率を引き上げ、さらに一定水準以上の高額所得者に対しては10%の付加税を導入し、法人税の最高税率を引き上げ、投資を促進する政策も積極的に活用し、税収を引き上げます。
90年代のIT革命も功を奏し、民間企業活性化と、前述のコスト削減が見事寄与し、財政は黒字化、2000年には約2362億ドル(約24兆円)の単年度黒字を達成、わずか5年で財政を黒字にしました。
※参照:米国の成長率と財政バランス
江戸時代の財政改革
そして最後、日本の江戸時代の財政改革です。
上杉鷹山はご存知でしょうか。
少しご説明いたします。
上杉鷹山は江戸時代中期の大名で、出羽国米沢藩9代藩主。
宮崎の高鍋藩6代藩主・秋月種美の次男で、母は福岡の秋月藩4代藩主・黒田長貞の娘・春姫。
両親が九州ですが、早くに実母を亡くしており、米沢藩先代当主・上杉重定の従兄弟でもある祖母の瑞耀院に引き取られ養育された縁があって、米沢藩の家督を継ぎます。
上杉家と言えば、上杉謙信。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、武田信玄などを震え上がらせた、戦国武将最強の一人で「軍神」とも呼ばれていますね。
上杉謙信の時代、その石高は、越後、越中、能登、信濃(一部)、上野(一部)など200万石はあったと言われています。
しかし、2代景勝の頃に豊臣秀吉により会津に移されて120万石へ、徳川家康の頃に米沢に移されて30万石に、さらに15万石に減封されます。
200万石→15万石!?
すごいですね。
上杉家は米沢に移り、かつ大幅に領地を減らされてしまいます。
その後も家臣6000人を召し抱えたままの状態で、藩主の放漫な運営もあり、債務が膨れ上がり、借財が20~30万両(現在の約300億~400億円ほど)に累積する状態でした。
明和4年(1767年)、新たに家督を相続したのが、上杉鷹山でした。
当時16歳!
元服を終えたばかりでした。
財政改革、その一「倹約」
財政再建の第一歩はコスト削減「倹約」。
それまでの藩主では1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を、鷹山は209両余りに七分の一にまで減額。
それだけではなく、鷹山の米沢での日常の食事は一汁一菜、衣服は上等な絹ではなく綿で作られたものだけ、さらに奥女中を50人から、9人に減らすなどの倹約も実行しました。
鷹山はリーダー自ら「まず隗より始めよ」を体現し、組織に浸透させます。
次に鷹山は、米沢藩の収入・支出・借財をその都度記帳した「御領地高並御続道一円御元払帳」を作成し、年間2万8000両の赤字となる藩の財政状況を藩士一同に公開し、透明性を高め、危機意識を共有します。
財政改革、その二「増収策」
次に増収策。
鷹山が力を入れたのが「新田開発」と「産業振興」です。
それぞれみてみましょう。
「新田開発」
鷹山は「新田開発」を推進します。
現代企業経営でいえば、新規顧客開拓でしょうか。
鷹山自ら鍬を振るって土を耕し豊作を願う儀式「籍田の礼」を実施、荒れ果てた農地の開墾に下級藩士たちを動員します。
また、そのための治水・灌漑工事を実施、新田開発するための環境も整えます。
さらには、減少した生産戸数を回復するために、家督を継げない藩士の次男・三男に家屋と土地を提供して、農村への土着を勧めます。
結果、延べ1万3千人もの武士たちが新田開発に従事したと言われています。
「産業振興」
そして、「産業振興」。
現代企業経営でいえば、新規事業開発、新商品開発でしょうか。
鷹山が作り上げた名産と言えば“米沢織”。
鷹山は養蚕から絹製品の作成まで一気通貫で領内で行うことを目標に、カイコの飼育方法などマニュアル化(『養蚕手引』)させ、さらには織物職人を他藩からスカウトします。
凄いのが“米沢織”の販売体制の確立方法。
藩外の酒田や江戸の豪商から融資を受ける見返りに、米沢藩の俸禄を与え、独占販売権を付与します。
現代経営で表現するならば、取引先との資本提携及び販路拡大を実現しています。
これらの構造改革で、新たな特産品“米沢織”は江戸でも人気を博し、財政は潤います。
また、鷹山は新たな労働力の創出も実現させます。
それが武家の婦女子。
この“米沢織”におけるメイン労働力として武家の婦女子を活用しました。
広告塔として、鷹山の側室・お豊の方も率先して働いたようです。
“米沢織”の他、産業振興策として進めたのが「鯉料理」。
現代でも有名な“米沢鯉”の始まりです。
さらに“お鷹ぽっぽ”という木製の工芸品も生み出します。
米沢名物の工芸品としても知名度を高めました。
なんといってもこの“お鷹ぽっぽ”、画期的な生産体制を作り出します。
それが冬季の生産。
つまり、農民たちの冬季の労働を、副業として創出させたのです。
凄いですね。
武家次男三男の“農民化”、武家の婦女子で“米沢織”、閑散期の活用など、見事、「遊休資産」を活用し、資金ゼロから収入増加のアイディアを創出させています。
以上のような、「倹約」と「増収策」を講じ、文政6年には、借金が完済されています。
上杉鷹山藩主就任56年後、それは上杉鷹山逝去の翌年のことでした。
まだまだある、怒涛の改革?!
鷹山のすごいところは、単なる財政数字の改善だけではない部分かもしれません。
米沢藩のあらゆる分野においても改革を実行しています。
特に現代経営において学べる部分をピックアップしてみます。
リスクマネジメント
鷹山はリスクマネジメントにも大きな改革を見せています。
その一つが「備籾蔵」(そなえもみせい)。
籾(もみ)とは脱穀する前のお米のことです。
身分ごと・地域ごとの「非常食米の備え」を実施、20年間で15万俵もの計画を立てています。
鷹山が自ら飢饉を背景に、一度政権から姿を消した時期もあり、リスクに対する意識は高かったようです。実際大飢饉時には災害を最小限にとどめました。
そしてもう一つ、「かてもの」。
非常食レシピ集とも言えるものです。
「かてもの」には野山で入手できる野草(ドングリやタンポポなど)など82種類もの素材が代用食として紹介されているほか、味噌・醤油の作り 方や魚鳥獣肉の貯蔵法なども紹介されています。
1,575冊が藩内で配布され、天保の大飢饉で活躍、太平洋戦争時の食糧難にも役立ったと言われています。
福利厚生
福利厚生改革も進めます。
200年以上も前の米沢には「介護休暇制度」や「高齢者手当」「育児手当」などの社会福祉制度が既にあったと言われています。
有名なのは「看病断(かんびょうことわり)」制度。
まさに、「介護休暇制度」の先駆けで、父母や妻子が病気の際の休暇を許可していました。
その他、長寿の老人を集めた「敬老の会」を催したり、ある年齢以上のものには手当がつくなどさまざまな敬老政策を実施し、育児手当も創出しています。
上書箱
そして、改革を支えた「上書箱」。
身分を問わず、広く意見を聞くために「上書箱」という目安箱を設置します。
農民や町人からの意見を募って、藩経済の実態把握、改革に努め、改善できる部分は積極的に意見を取り入れ、身分に関係なく意見を求めました。
上書箱は、様々な改革を進める貴重な意見やデータにもなり得ますし、意欲のある下級武士の再発見にもつながったのではないでしょうか。
そして何より、広い意見をくみ取るその姿勢自体、多くの家臣たちの信頼を得たのかもしれません。
老婆の手紙と足袋
上杉鷹山に関するこんな逸話があります。
ある日、老婆が干した稲束の取り入れ作業中に夕立が降りそうで、手が足りず困っていたが、通りかかった武士2人が手伝ってくれました。
そのお礼にお餅を持って伺いたい(当時は取り入れのお礼にお餅を配る習慣があった)と武士達に伝えたところ、米沢城の兵士に伝えておくという返事でした。
老婆がお餅33個を持って米沢城に行き、門番にその事を告げ、通された先にいたのは上杉鷹山本人だったそうです。
なんと、鷹山は自分の身分を明かさずに稲束の取り入れを手伝っていたのです。
鷹山はこの老婆の勤勉さを褒め、銀五枚を与えました。
この老婆は鷹山からの恩を忘れないために、鷹山から頂いた銀貨から足袋を購入、家族や孫たちに足袋を贈ったそうです。
(この出来事を伝える手紙と足袋が、米沢市宮坂考古館にて現存しています)
構造的改革を支える、その最大の要因とは?!
鷹山の改革は、コストカット、収入増加策に始まり、あらゆる組織改革を進めました。
しかし、改革前の上杉の家臣には不要なプライドが強かったようです。
鷹山は自らが手本として、あらゆる「しきたり」を変えてきました。
「乗馬する位置」、「祝いの席の料理」、「下級家臣への対応」、「農民への対応」など、それまでしきたりとして「変えてはならない」とされてきたことばかり。
上杉鷹山は九州地方由来の東京生まれ、いわゆる「そと者」だったのかもしれません。
当然、旧来からの上杉家家臣からは冷たい目で見られていたのではないでしょうか。
実際、古参重臣7人に取り囲まれ、クーデターも発生しています。
でも、鷹山の改革には支える沢山の人々がいました。
多くの人が、なぜ「そと者」の鷹山に惹かれたのでしょうか。
自ら田に入り、商人に学び、質素倹約も自ら率先して実践してきた鷹山。
一番の成功要因は、上杉鷹山の「人柄」、その揺るぎない「誠意」だったのかもしれません。
最後に
財政改革を実施するうえで、コストカットと増収策をセットで実施することが多くの事例で見受けられます。
優れた「政策」や画期的案アイディアも重要です。
しかし、単なるコストカットやアイディアは「絵に描いた餅」に過ぎません。
本当の改革は、改革者の心構え、その姿勢が重要ではないでしょうか。
その姿をみて、多くの人が、新しい行動をとるのかもしれません。
最後に、上杉鷹山が藩主になってすぐ行った財政政策が『大検令』(倹約令)、そして、わずか35歳で家督を譲った際の藩主の心得「伝国の辞」をお伝えします。
『大検令』(倹約令)
(原文)
我等小家より大家の譲を受奉り此儘家の亡るをまち国中の人民を苦しむる事不孝是に過べからず斯まで衰候家立べき見切無之故其段筋へも深く相尋候処相立難き旨何茂同様に申聞候乍去居ながら亡るを待つよりは君臣心力尽るまで成べき程の大倹約を執行候はば若も立行候事もやと此事此と思立候何程今日の上心安く暮し候共明日家相立ざるには取替難く候へば今日の難儀と当家の永く続くことを取替候心得を以て各心を一つにして心力を尽くすべく候尤我等身廻りより始め諸事省略可致候間心付の儀無遠慮可申聞候申迄はなく候へ共下々不相立候へば我等一人可相立事に無之候思へば諸士も百姓も大倹約を用ひ候はば今はさぞや難儀不自由共可存候へ共面々永く家を保ち身を安し候事に致度者と重く倹約申出し候爰を考申さば今の難儀は難儀とも不自由とも思ふ間舗事に候必々此心得を以て面々家々にても倹約取行ひ子孫を保ち親類睦舗長く当家を相立候心得肝要候此段頼入候以上
(現代文訳)
私などは高鍋藩三万石の小家である秋月家から養子に来て米沢藩一五万石の大家である上杉家の家督を譲り受けておきながら、このまま上杉家の滅亡するのをただじっと待ち、国(藩)中の人民を苦しめるということ、義父・上杉家ご先祖への不孝と言えばこれ以上のものはない。これほどまで衰微した上杉家を立て直すのは困難との考えは誰もが同様の答えでした。しかし、だからといってただ何もせず居ながらにして滅びるのを待つよりは、藩主も家臣も心力が尽き果てた状態になるぐらいの大倹約を実行すれば、もしかしたら立ち行く事もあるのではと、この事しかないと思い立った。いくら今日一日を心安く暮らすことができるとしても、明日に家が立ち行かなくなることとは引き替えられないことであるので、今日の苦労と当家が永く存続することとを引き替える心得をもって各人の心を一つにしていきたい。まずは私の身のまわりから始め、あらゆる事を倹約していかなければならないので、気づいたことを遠慮なく教えてほしい。みなが立ち行かなければ私一人が立ち行くなどということはありえない。おそらくは藩士も領民も大倹約を実行したら、今はさぞや苦労や不自由などもあるであろうと思う。しかし、ひとりひとりが永く家を存続させ、身を安んずることができるようにしたいと考え、厳重に倹約令を発令した。今の苦労は苦労とも不自由とも思うようなことはないであろう。この心得をもって、各人それぞれの家々にても倹約を実行し、子孫を保ち、親類も仲睦まじく、末長く当家(米沢藩)を存続させるよう頼み入ります。 以上
藩主の心得「伝国の辞」
(原文)
国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべきものにはこれなく候。人民は国家に属したる人民にて、我私すべきもににはこれなく候。国家人民のために立てる君にて、君のために立てる国家人民にはこれなく候。右三条、御遺念あるまじく候事。
(現代文訳)
国家は先祖から子孫に伝えるところの国家であって、自分で身勝手にしてはならないものです。人民は国家に属している人民であって、自分で勝手にしてはならないものです。国家と人民のために立てられている君主であって、君主のために立てられている国家や人民ではありません。
為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり
上杉鷹山