新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
■井上康生(柔道)名言集
父には、「弱い者いじめはするな。大きな者、強いやつにはどんどん立ち向かえ!」と言われていました。
全選手が「心・技・体」とも揃って戦えるようにすることも非常に重要です。
道場や中学、高校、大学、それに家族。いろんな人たちの支えもありましたけど、基本的にはこの柔道があったから、僕はこれだけの人間になれたと思うんです。
柔道界のために生きていこうと決めたのは、まずは柔道が好きだから、それは間違いないです。
同じような練習内容で、海外の選手と同じだけの練習をやっていたら、日本人は絶対に勝てない。もともと持っている能力というのが違うんです。
日本人がこの柔道家としての謙虚さや振る舞いをなくしてしまったときには、僕は競技にも影響してくるのではないかと思うんです。
もともと子供は好きなんですが、わが子となると格別の感情が湧きますし、生まれてきたときの、あの感動というのは一生忘れられないと思います。
「開き直り」と「やけくそ」は違います。開き直りには根拠があります。やるべきことをやってきた者がたどり着く境地です。勝っても負けてもいいやという、やけくそとは違います。
国際ルールの変更などに伴い、各国が目指す柔道も変わっています。世界標準の柔道である「JUDO」の根底には、各国の格闘技があります。ロシアのサンボ、ジョージアのチタオバ、モンゴルのモンゴル相撲、ブラジルのブラジリアン柔術……。各国はこうした格闘技をルーツに独自の柔道を作り上げている。その複合体が今のJUDOになっているんですね。武道として始まった柔道と、スポーツ化されたJUDOは別物です。我々は柔道の本質、心を見失わずに、JUDOとの戦いに挑んでいかないといけません。
世界と戦って勝つためにはJUDOを研究し、知ることが必要になります。ですので、良いところは認めようよという意識の改革を進めました。
「柔よく剛を制す」という言葉に代表されるように、昔は技術力で相手を制することができましたが、ルール変更や体格の違いなどがあって、今はなかなかそうはいかない。「柔剛一体」。つまり技術を使うのにも、体力がまず必要なのです。日本柔道の一番のストロングポイントは間違いなく技術力にあります。絶対に負けない技術を持ちつつ、その技術を最大限生かすことができる体力をいかにつけていくか。ここを目標に1つずつ取り組んできました。
監督として、選手自身が自ら学び、考えるきっかけをできるだけ作るようにしました。人は自発的に学ばなければ真の成長を得ることはできません。
形をやることで、形の重要さ、柔道の奥の深さを知ることができました。改めて形を学び、広めていきたいナ、という思いが生まれました。
私は勝てば何でも許されるというふうに思っていませんから、選手たちが選手観、人生観をしっかりと持つことに関して非常に厳しく指導しました。
子供の頃、英語は大嫌いでしたので、それを今、後悔しています。そういう勉強、学習という部分の大切さというのを、今改めて感じているところです。
柔道のスタイルで言えば、日本人と外国人選手とでは、皆さんも見ての通り、違います。ですけど、「違う」というだけでは済まされない、彼らは彼らなりに、自分の身体の特徴を生かし、いろんなものを生かして理にかなった技というのを身に付けている。
私は一撃必殺の内股を持っていた。でもそれだけでは勝てない。武器というのはいっぱい持っていた方がいいし、一つの技だけに満足していたら勝ち続ける選手にはなれない。
準備の段階では常に最悪の状況を想定したネガティビストになれ。
勝負の世界は非情。腹を決め、覚悟を持たなければ苦しい日々の連続に打ち勝てない。
世界選手権のメダルは母が取らせてくれました。だから、シドニーのメダルは母のために捧げます。
相手に対して、きちんと敬意を示すことはとても大事。
最強だけの柔道家にはなるなよ。最高の柔道家も目指さなければいけない。それが理想なんです。
もちろん勝ちにはこだわるけれど、自分らしい柔道ができなければ意味がない。
スポーツは相手を倒し、勝利を求めるもの。武道は礼を重んじ、精神を鍛えるもの。
継承すべきものは継承し、取り入れるべきものは新しいものを取り入れる。
自ら成長を止めた途端、勝利は遠のくもの。だから勝つためには、変化を恐れず、挑み続けていきたい。
■井上康生(柔道)とは?
井上康生。
宮崎県都城市生まれで幼児期まで過ごす。
5歳から柔道を始める。
宮崎市立大宮小学校、宮崎市立大宮中学校、東海大学付属相模高等学校、東海大学体育学部武道学科卒業。
2000年(平成12年)のシドニーオリンピックで金メダルを獲得。
前年にクモ膜下出血で急死した母の遺影を持って表彰台に立ち、大きな感動を呼んだ。
2001年の全日本選手権では全日本の絶対的エースであった篠原信一を決勝で破り初優勝。
その後、大会3連覇を果たす。
2004年(平成16年)のアテネオリンピックでは日本選手団の主将に選ばれた。
周囲からはシドニー大会に次ぐ五輪二連覇を期待されたが、準々決勝でオランダのエルコ・ファンデルヘーストに背負い投げで一本負けを喫した。
敗者復活戦に回るも、三回戦でアゼルバイジャンのミラリエフに大内刈りを返され一本負け。
五輪二連覇の夢には届かなかった。
2008年(平成20年)4月29日の全日本柔道選手権で高井洋平に敗れ、北京オリンピック100kg超級の代表権を失う。
この大会は石井慧が優勝し、北京オリンピック100kg超級日本代表の座には石井が就いた。
同年5月2日、かねてよりその圧倒的なポテンシャルから総合格闘技への転向が期待されていたが、柔道指導者の道を選び現役生活からの引退を表明した。
同月、日本オリンピック委員会(JOC)の2008年度スポーツ指導者海外研修員(長期派遣)に選定され、同年12月から2年間、スコットランドのエディンバラに派遣された。
留学先では英語研修と欧州の柔道指導法・柔道事情を研究する。
2003年(平成15年)ごろからフジテレビ系SRSの取材で知り合った東原亜希と交際。
2008年1月に東原と結婚。2009年(平成21年)5月8日に第1子(長女)、2010年(平成22年)11月26日に第2子(長男)が誕生した。
2011年(平成23年)1月、スコットランドでの留学を終え帰国。
同年3月に綜合警備保障を退職。
同年4月より東海大学体育学部武道学科専任講師 兼 東海大学柔道部男子副監督に就任。
全日本のコーチとして世界選手権に帯同した。
ロンドン五輪後に篠原信一が惨敗の責任を取って全日本男子監督を辞任した後を受けて、新たに代表監督に就任することになった。
2013年8月には国際柔道連盟の殿堂入りを果たすことになった。
2015年4月に東海大学体育学部准教授に昇格。
監督就任後はそれまでの指導方法を見直し、科学的なトレーニングや他国選手の映像分析、他国の格闘技を学ばせるなど様々な改革に着手。
2016年8月、監督として初めて挑んだリオデジャネイロオリンピックでは、男子は金メダル2個を含む7階級全てでメダルを獲得し、低迷が続いていた男子柔道を復活に導いた。
日本代表男子が全階級でメダルを獲得したのは1964年東京オリンピック以来52年ぶりのことであった。