僕はビビリです。~村田諒太名言集と軌跡~




新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

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Contents

■村田諒太名言集

金メダルを獲る前は、大学の職員をしていました。当時は仕事とボクシングのかけもちで時間のやりくりが大変でしたね。残業もしてましたし、学生部の職員だから入学式など催しがあるシーズンは、ボクシングより仕事が優先でした。だから、限られた時間を有効に使うため、練習の質を高めようと必死でした。そんな環境だからこそ、ボクシングの練習だけに専念できる選手には、「負けてたまるか」って気持ちがありました。

いまロンドン五輪の金メダリストって何人くらい覚えていますか?絶対に、風化するんですよ。好きなことをやらないで、数年後に「あの人はメダリストだったんだよ」と言われる人生は恥ずかしい。それなら好きなことにチャレンジしようと、プロ転向を選んだんです。

アマとプロがどちらが上で下かという考えはありません。あえて違いを挙げるなら、お客さんが自分を必要としてくれるかどうかがプロの世界だと思います。

自分でコントロールできないことは、考えても何も変わらない。

哲学や心理学、神学などの本は、ニーチェなどの哲学書を愛読していた父に勧められて読むようになりました。「ネガティブなことをポジティブに考えよう」などと考え方を変えるようなメンタルトレーニングも勉強しましたが、良い結果が出た時はいいですが、結果が出ないとネガティブなままなんです。だったら無理にポジティブに考える必要はない。こうした数々の本から学んだ言葉の方が腑に落ちるし、どんな結果にも、心揺さぶられることなく、受け入れられるようになりました。

ルンルンで仕事に行く人はいないでしょ(笑)。僕も気が乗らない日も練習に行きます。ジムに行けば、何か刺激があるから気分が高まりますね。

成長のためには考え続けることが大事で、必死に考えてもがくスランプの時期は絶対に必要です。僕もプロ8戦目で判定勝ちに終わったあたりから、成長が止まった気がしました。フォームを見直し、下がってきたガードを上げようと意識しましたが、しっくりこない。そこで視点を変えて間接的な部分に着目し、体全体のバランスを見直して、いつも踏ん張ろうと意識していた右脚の力を抜いたんです。すると右膝が上がりバランスが良くなって、ガードも自然に上がった。「右脚を踏ん張らなければ」という意識が強すぎて全体のバランスが崩れていたことに気づいたおかげで、スランプを脱出できました。問題そのものではなく、間接的な部分に焦点を当てることで解決することも学びました。あのスランプがなかったら今も悩んでいたかもしれません。

最後に逆転すればいい。そのために残り時間で何をすべきか考えた。

成長し続けるために必要なのは自信でしょうね。自信を持つためには、ある程度の結果が必要。結果を出すためには、日々の地道な練習にどう向き合うかということが大事。

僕は2011年の五輪予選前から、日々の練習の反省点などをノートに記録していましたが、五輪直前に手法を変えました。未来日記形式で、まず目標やテーマを「できました」と過去形で書いてしまう。それから、練習に出かけるようにしたんです。顔面に相手のパンチを受けないためには、常に頭を左右に振って的を絞らせないことが大事です。この日も前もって「頭を振れた」と書いたことで、スパーリングではパンチをもらいませんでした。

以前は、メンタルを支えるために日々の練習内容や気づきをノートに記録していましたが、今は書いていません。感覚や気づきを明確な言葉で書き残した途端、それにとらわれてしまうことがあります。今を生きるではなく、過去を生きることにもなる。気づきを抽象的にメモすることはありますが、読み返さないですね。記録することを否定するのではなく、今は書かない方が僕にとっていい状態なんです。

家族やいろんな人と会って話すのもいいと思います。「そんな狭い世界の小さなことで悩んでいたんだ」と気づかせてくれます。第三者の視点が持てると、景色がぱっと変わって冷静になりますよね。

心理学者アルフレッド・アドラーが「共同体感覚」という言葉を使いましたが、人間は共同体なしでは生きられず、自分の利益を第一に考えるよりも、周囲に貢献するという感覚の方が幸福感を得られます。トップアスリートが「国民のため、応援してくれる人のために戦う」「お世話になった人に恩返しがしたい」などと言いますが、実際に「応援してくれる人、支えてくれる人」を一番に考える方が、「自分を一番」に考えるよりも力が発揮でき、頑張れる気がします。

半年以内に達成したい目標には、五輪でのメダル獲得を書いた。そこから逆算して節目ごとの目標を書くことで、今、自分が何をすべきか見えてきた。これは大きな収穫でした。

ビビりでいいと思います、僕は。それを認めたほうが練習もするし。緊張することを否定することはないと思います。

どんな動きができればいいのかを書くと、「そのためには何を意識して練習すればいいのか」が見えてきますよね。これを作ったことで僕は、「今、すべきことを先回りして書けばいいんだ」と気づきました。それで、練習日誌の書き方を変えたんです。

本当の紳士って、スーツ着てハット帽かぶっている人じゃない。追い詰められたときこそ、一発ギャグをかませるような人が本当の紳士(笑)。

1人でも多くのお客さんが僕の試合を観たいと思ってくださるなら、与えられた試合は何でもやりたい。昔は「自分のためにやる」という考えが強かった。でもプロなので、お客さんが観たいと思ってくださらない限り、試合は行われません。

ある雨の日に、都内の交差点でタクシーを拾ったんです。すると、女性が突然走ってきて僕が拾ったタクシーに飛び乗ったんですよ。雨の中、タクシーを取られた僕は、驚いたと同時にイラッとした。すると、そばでその一部始終を見ていたおばさんが、「ひどいわね」と言わんばかりの笑顔で僕を見ていたんです。目が合った瞬間、僕の怒りはさーっと収まり、「ひどいですよね」と笑いながら話しかけていました。一瞬にして怒りが笑いに変わったことが、僕は不思議でしょうがなかった。その後に向かったトレーニングジムで、心理学者のアルフレッド・アドラーの学問を用いたスポーツ心理学を教えているという方と出会い、「タクシー事件」について話しました。すると「ああ、それは視点が変わったんですよ」と言われて腑に落ちたんです。怒りを覚えた瞬間は、2人の間で起きた出来事の当事者でしたが、おばさんという第三者が現れたことで、僕は当事者から第三者の視点に切り替わった。だからムカつく出来事が一瞬にして面白い出来事に変わったんだと。第三者の視点を持つことで、生きていくのがラクになると実感しました。

応援してくださる方がたくさんいることは力になる反面、プレッシャーに感じることもある。そこで、「僕が負けたら手を叩いて喜ぶやつはいっぱいいる。だから、自分の地位やプライド、存在価値を失うとか失わないとか考える必要はない」という視点を持つと、気持ちがラクになりました。

敗者は先に結果を求めすぎる。

人間は自分の行動や意思決定について、何かと理由をつけたがる。でも本当は逆で、「こうしたい」という感情や意思が先にあって、その後に自分を肯定するような材料をいろんなところから探してきて、もっともらしい理由をつけようとする。

アマとプロがどちらが上で下かという考えはありません。あえて違いを挙げるなら、お客さんが自分を必要としてくれるかどうかがプロの世界だと思います。

プロになったいま、世界チャンピオンになることは「義務」だと思ってます。五輪の金メダリストは強いということを証明したい。そもそもボクシングを始めた理由は、誰よりも強いと認められたい自己顕示欲からですしね。満足のいくまで、日々、最善を尽くしていくつもりです。

勝っても負けても自分の責任。

(判定で敗れた)試合が終わって1か月半ほどは、お世話になった方の挨拶回りや会食が忙しくて、落ち込むとか燃え尽き症候群になるとか、そんなことになる暇すらありませんでした。そもそも判定の結果は、自分の力ではどうすることもできません。自分で変えられないことに悩み、不安を覚え、翻弄されるほどムダな時間はないと思っています。

人間は弱い動物だから、どこかで力を抜いてしまう。それに打ち勝つことこそが、僕の語る101%の努力。

プレッシャーに押しつぶされそうな人は、プレッシャーを感じている理由がぼんやりしていることが多く、悪い結果になった時のことばかり考える。「なぜ自分はプレッシャーを感じているのか」と自問自答し、その正体を理解するだけでも少し安心するし、どんな考え方をすれば、ある程度対応できるかが見えてきます。マインドをリセットできれば、何とか押しつぶされずにいられます。

皆「こうしたらこうなる」というハウツーのような方程式を欲しがりますが、結果が出て初めて、それを方程式として語ることができる。他人の方程式は事実として受け入れつつ、結局は「そんな事実がある中で、自分は今、何ができるのか」を考えて実践するしかない。結果が出るか出ないかは、神のみぞ知る、ですから。

プレッシャーの正体は、自分が作り上げた偶像や幻影です。多くの人は、「自分はこういう人間だ」「世間や会社の人たちからこう見られている」と考え、「失敗したくない」「信用を失いたくない」などと思ってしまう。僕も、不特定多数の人からこんなふうに見られていると思うわけですが、それは自分が勝手に思っているだけで、確定的なものではない。

勝てるコツなんて、ないですよ。ないけど、自分を信じることですね。無理だと思ったら無理だし、その舞台に立てるかどうか、勝てるかどうかは自分自身にかかっているのであって、舞台に立つこと、勝つことを想像して生きていかないと夢もかなわないわけですから。それを想像して一生懸命やること、それ以外に勝てる方法はないですね。

冷蔵庫の扉に「オリンピックで金メダルを取りました。ありがとうございました」と書いた紙を貼っていました。僕の弱気な性格を何とかしようと思った妻が、発破をかけるために貼ったものです。最初は「何を根拠に……」と思いました。でも、毎日見ているうちに「金メダルが欲しい」と思うようになった。

いい試合を見せます。負けることは許されないと思っているので。もらいたくてももらえない貴重なチャンスを結果につなげないと、自分のボクシング人生はないという覚悟でしっかりと挑みます。

常識を打ち破る目覚ましい活躍をしているのは、限界値を決めない人が多い。年齢による限界を決めずにメジャーリーグのバッターボックスに立ち続けるイチロー選手や、ピッチャーと打者の二刀流で挑戦する大谷翔平選手などがその代表例。「やってみなければ分からない」という限界値を決めない意識や、「こうでなければいけない」という教えを守らない精神は、トップを目指すアスリートはもちろん、ビジネスパーソンも大切だと思います。

ポジティブだから勝てるわけでも、ネガティブだから負けるわけでもない。大事なのは、結果を出すこと。結果が自信を生んで、いい流れをもたらすんじゃないでしょうか。

僕はビビリです。試合に臨む前にネガティブになってしまう。じつはデビュー戦前も、オヤジに電話して泣いてしまいました(笑)。でも、「ポジティブにならなあかん!」とは思っていません。試合前にネガティブでも、ポジティブでも、メンタルだけで結果が左右されることはないんですよ。

自分の限界を決めるのは自分だ。「体が大きい外国人には勝てない」「そんなやり方で結果を出した人はいない」「それは無理だろう」といった「先入観」や「固定観念」「否定」から入ると、限界値を自分で決めてしまい、本当の実力以上の結果が出せなくなるかもしれない。越えられない壁を作り突破口を塞いでいるのは、対戦相手ではなく自分なんですよね。

日本人にできないと言われていたが、僕にできないとは聞いたことがなかったので、自分はできると信じていた。

■村田諒太とは?

村田諒太。

ロンドンオリンピックミドル級金メダリスト。

奈良県奈良市出身。

帝拳ボクシングジム所属。

WBA世界ミドル級王者。

日本人ボクサーとして竹原慎二以来2人目のミドル級世界王者であり、オリンピックメダリストとしては日本人初の世界王者。

両親が共に公務員の家庭に3人兄弟の末っ子として生まれた。

小学校6年生の時に両親が離婚、村田は当時のことを「崩壊した家庭環境が辛くて嫌でたまらなかった」と振り返っている。

5歳から水泳に親しみ、奈良市立伏見中学校では陸上部に所属。

1500メートル走で奈良市大会4位の成績を残すが長続きしなかった。

家庭の事情もあり、喧嘩をするなどすさんでいた村田に、当時の担任であった北出忠徳教諭の手配で、その週末から奈良県立奈良朱雀高等学校のボクシング部が主催する週末ボクシング教室に通いはじめる。

しかし練習が辛く、わずか2週間ほどで行くのをやめてしまう。

その後、再び奈良工業高等学校のボクシング練習に顔を出すようになるものの2ヶ月ほどで足首を負傷し、以降二度と練習に顔を出さなくなる。

中学校3年生から大阪の進光ボクシングジムでトレーニングを始める。

授業にほとんど出ていなかったこともあって勉強は不得意で中学3年生時の通信簿は「1」と「2」だけであった。

南京都高等学校に進学、高校初戦は黒星スタートであったが徐々に頭角を現し、高校2年時で選抜・総体・国体の高校3冠を達成。

また3年時でも選抜と総体を制して高校5冠を達成し、最後の国体で粟生隆寛に次ぐ史上2人目の高校6冠の達成がかかっていたが、2府4県が団体戦により3枠を争う国体近畿予選で村田自身はミドル級で優勝するも京都チームが団体戦4位に留まり、国体出場を逃す。

国体に出られなくなった代わりに全日本選手権に参戦するも、決勝で佐藤幸治に1回RSC負けに終わる。

卒業後は東洋大学経営学部経営学科へ進学しボクシング部に所属。

2004年に全日本選手権初優勝。

2005年にはキングスカップに出場、前年のアテネオリンピックミドル級銅メダリストスリヤー・ソー・プルンチットに判定で敗れ、銀メダルを獲得。

同年、ホーチミン市で開催されたアジア選手権にミドル級(75kg)で出場し銅メダルを獲得。

同年、中華人民共和国の綿陽市で開催された2005年世界ボクシング選手権大会にミドル級(75kg)で出場するが1回戦で敗退。

2006年にはドーハアジア大会代表に選ばれるが1回戦でアテネオリンピック、ウェルター級金メダリストのバクシャー・アルタエルに5-24で敗退する。

2007年には世界選手権にミドル級(75kg)で出場するも2回戦でショーン・エストラーダに敗退。

同年の全日本選手権では2度目の優勝を収めたが、2008年1月のオリンピック・アジア1次予選で準決勝敗退、3月のオリンピック・アジア2次予選でも初戦敗退して北京オリンピックの出場権を獲得できなかったことで現役生活からの引退を決めた。

2008年3月に東洋大学を卒業。学校法人東洋大学に就職し大学職員 兼 ボクシング部コーチとして勤務。

2009年、2月に起きた東洋大学ボクシング部元部員の不祥事をきっかけに1年半ぶりの現役復帰を決意。

2009年から2011年にかけて全日本選手権で3連覇を果たす。

2010年、カザフスタン大統領杯にミドル級(75kg)で出場するが2回戦敗退。

2011年7月のインドネシア大統領杯にミドル級(75kg)で出場し初の国際大会優勝。

2011年8月、アジア選手権で2回戦敗退。

同年10月の世界選手権にミドル級(75kg)で出場、銀メダル獲得。

しかし、同選手権での銀メダル獲得は日本人最高成績であり、メダリストは石井幸喜、川内将嗣に次いで3人目であった。

2012年のロンドンオリンピックで村田は第2シードとなり、8月2日に行われた2回戦から出場。

アブデルマレク・ラフーを21-12の判定で下し、準々決勝に進出。

8月10日、準決勝で前年の世界選手権で勝利したウズベキスタンのアボス・アトエフと対戦、1回に3ポイントをリードされたものの、後半に入り猛攻を見せ、ポイントで逆転、最終的に13-12で判定勝ちを収めて決勝に進出。

8月11日の決勝戦ではブラジルのエスキバ・ファルカオを14-13で破り金メダルを獲得。

日本人選手によるボクシング金メダル獲得は1964年東京オリンピックのバンタム級、桜井孝雄以来48年ぶりであった。

東洋大職員の業務に専念する意向を示し、長期的な展望としては日本オリンピック委員会 (JOC) のスポーツ指導者海外研修員としてスポーツ科学やスポーツマネジメント(英語版)を学びに英国など英語圏の国へ留学する構想もあることを明かし、2020年東京オリンピックの招致活動を応援していた。

ロンドン五輪終了後、プロ転向を宣言し、三迫ボクシングジムに所属することとなった。

2013年8月25日、有明コロシアムで柴田明雄と対戦し、2回2分24秒TKOで下し、圧勝でプロデビュー戦を飾った。

2013年12月6日、両国国技館でデイブ・ピーターソンと73kg契約8回戦を行い、8回1分20秒TKO勝ちを収めた。

2014年2月22日、中華人民共和国のマカオにあるザ・ベネチアン・マカオ内コタイ・アリーナでカルロス・ナシメンと73.4kg契約8回戦を行い、4回43秒TKO勝ちを収めた。

2014年5月22日、島津アリーナ京都でヘスス・アンヘル・ネリオと73.4kg契約10回戦を行い、6回2分35秒KO勝ちを収めた。この勝利でWBC世界ミドル級13位にランクされた。

2014年7月10日、アメリカ合衆国のカリフォルニア州でWBA世界ミドル級スーパー王者ゲンナジー・ゴロフキンとスパーリングを行い、15日にWBC世界ミドル級11位にランクされた。

2014年9月5日、国立代々木第二体育館でWBC世界ミドル級22位でメキシコミドル級王者でもあるアドリアン・ルナと73.4kg契約10回戦を行い、10回3-0(98-92、99-91、100-90)の判定勝ちを収めた。この試合から村田は帝拳ボクシングジムの所属選手になることが発表された。この勝利でWBC世界ミドル級8位にランクされた。

2014年12月30日、東京体育館でジェシー・ニックロウと73.4kg契約10回戦を行い、10回3-0(100-91、2者が100-90)の判定勝ちを収めた。この勝利でIBF世界ミドル級15位にランクされた。

2015年5月1日、大田区総合体育館でWBO世界ミドル級14位でWBOラテンアメリカミドル級王者でもあるダグラス・ダミアオ・アタイデと73.4kg契約10回戦を行い、5回38秒TKO勝ちを収めた。この勝利でIBF世界ミドル級9位、WBO世界ミドル級11位にランクされた。

2015年11月7日、ラスベガスのトーマス&マック・センターでアメリカデビュー戦。ティモシー・ブラッドリーvsブランドン・リオスの前座で元WBOオリエンタルミドル級王者のガナー・ジャクソンと73.4kg契約10回戦を行い、10回3-0(97-93、98-92、99-91)の判定勝ちを収めた。

2016年1月30日、上海の上海東方体育中心でWBCムンドヒスパノミドル級王者のガストン・アレハンドロ・ベガと73.4kg契約10回戦を行い、2回2分23秒KO勝ちを収めた。

2016年5月14日、香港の香港コンベンション・アンド・エキシビション・センターでフェリペ・サントス・ペドロソと73.4kg契約10回戦を行い、4回2分50秒TKO勝ちを収めた。

2016年7月23日、MGMグランド・ガーデン・アリーナに念願の初登場。テレンス・クロフォードvsビクトル・ポストルの前座で元NABA北米並びにWBCアメリカ大陸ミドル級王者のジョージ・タドーアーニッパーとスーパーミドル級契約10回戦を行った。元世界ランカーを相手に臆することなく強打を当て、ボディアッパーでダウンを奪い最後は連打でレフェリーがストップ。初回1分52秒TKO勝ちを収めた。

2016年12月30日、有明コロシアムでブルーノ・サンドバルと162ポンド契約10回戦を行い、3回2分53秒KO勝ちを収めた。この勝利でWBA世界ミドル級2位にランクされた。

2017年5月20日、有明コロシアムでWBA世界ミドル級暫定王者でWBA世界ミドル級1位のハッサン・ヌダム・ヌジカムとWBA世界ミドル級王座決定戦を行い、プロ初黒星となる12回1-2(117-110、111-116、112-115)の判定負けを喫し王座獲得に失敗。

2017年10月22日、両国国技館でWBA世界ミドル級正規王者のハッサン・ヌダム・ヌジカムと再戦し、7回終了TKO勝ちを収め前戦の借りを返し、日本人として竹原慎二以来22年ぶり2人目のミドル級世界王者となった。

2018年2月9日、東京・関西運動記者クラブ・ボクシング分科会による、2017年プロボクシング年間最優秀選手賞を受賞。

2018年4月15日、横浜アリーナでWBA世界ミドル級6位でEBU欧州ミドル級王者のエマヌエーレ・ブランダムラと対戦し、8回2分56秒TKO勝ちを収め、初防衛に成功。

2018年10月20日、ラスベガスのパークMGM内パークシアターでWBA世界ミドル級3位のロブ・ブラントと対戦し、軽快なブラントに対して手も足も遅い村田は終始主導権を握られ、12回0-3(110-118、109-119、109-119)での判定負けで2度目の防衛に失敗し、王座から陥落した。

2019年7月12日、エディオンアリーナ大阪にてWBA世界ミドル級王者のロブ・ブラントと再戦を行い、2回2分34秒TKO勝ちを収め、WBA世界王者に返り咲いた。

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